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『東京物語』の現在
─ その以前と以後のあいだの神話性をめぐって ─

堀家敬嗣 =文


I

フランスで誕生したばかりの“シネマトグラフ”と呼ばれる最新の科学的な装置、及びそれが実現してみせる動く映像は、間もなくその輸出先のひとつとなった日本において、ひとまず便宜的にあつらえられた“自動写真”や“自動幻画”という名称による流通を試みられたのち、ほどなくこれを“活動大写真”と定着させることになる。大阪での初上映を皮切りに、京都から横浜、さらには東京でと、相次いで催された興行に馳せ参じた明治期の中葉の観客たちを、「日本が自らを閉ざしていた間に進行していた欧米の文明による成果(…)、これからの日本人が学ぶべき新たな文化の規範」※1によって嘆息させる一方で、この科学的な装置は、しかし日本を単なる消費国の位置にのみ留めてはおかない。遥か遠く隔たったフランスにおいて撮影された当の文明の驚愕すべき光景を日本の観客たちに目撃させたその見返りに、動く映像のもたらした衝撃を早くも忘却しつつあった西欧の観客たちの視線がなおも期待して止まない異国情緒を提供すべく、今度は逆に日本の風土がフィルムの表面上に焼きつけられ、その新奇さゆえに文明の民の異国趣味を満足させるような光景を彼方の銀幕に映し出していただろう。

東京物語のワンシーン ところで、そうした黎明期からすでに一世紀が経過し、かつての“活動大写真”がいつしか映画と呼び慣わされるに及んで久しい今日までに、世界の観客たちは数多の映画作品を通して日本を見つめてきたに違いない。なるほど、あの1951年の、黒沢明による『羅生門』のベネチア映画祭でのグランプリ獲得を端緒として、稲垣浩による『無法松の一生』が1958年のベネチア映画祭でやはりグランプリに輝くまで、当時の日本の映画産業が謳歌していた二度目の黄金期に製作された映画作品が欧米の各国際映画祭で主要な賞を立て続けに授与されるなど、とりわけ敗戦後の荒野から始まったこの半世紀のあいだに、日本映画の存在は世界の映画史にとって無視しがたい重要さを担うものとして認知されるに至った※2。にもかかわらず、これらの映画作品群を鳥瞰するとき、欧米の観客がそこに投げかけていた視線のうちには、動く映像のもたらした衝撃を忘却した初期の観客たちのものであるあの異国趣味がいささかも反映されていないとは断言しがたい。そしてこのことは、世界の映画史のうちにようやく固有の居住地をあてがわれつつあった日本映画にあって、けれど映画産業の勢いがにわかに衰退の兆しを示し、ついには映画製作のシステムがあえなく崩壊してしまうまで、一人の不遇な映画監督の世界の映画史への記名をなおも先送りする鎖国状態が密かに続けられてきたひとつの要因であったかも知れない。

もちろん、映画監督としての自らの経歴を開始して間もない1930年代には、むしろハリウッド製のアメリカ映画への純粋な憧憬を隠そうともしないサイレント映画の傑作群によって日本映画の第一の黄金期を支えていた小津安二郎のことだから、「俺の映画がね、まあ、外国人にも、いつか判るよ(…)日本の生活の中から俺はやってる。だから、日本の生活があんなものだなっていうことが、なんかね、毛唐もそのうち判るよ」※3と呟く晩年の言葉のうちにどれほどの真実を吐露していようがいまいが、溝口健二の『西鶴一代女』や『雨月物語』に賞を授けた視線からさえ未だ完全には払拭されていなかっただろう異国趣味を彼がなんら期待してなどいなかったことは、われわれにも容易に推し量れる。

したがって、その死から十余年を隔ててついに小津安二郎を発見する機会に遭遇した世界の観客たちが、彼の監督による映画作品群に対してようやく語るべき言葉を手向け得たとしても、もはやそれは、かつてのようなあの異国趣味に彩られたものであってはならなかったのである※4

それゆえに、「外国人である私に芸術上の一種の「人種偏見」があるのはやむをえないので、(…)私は、日本映画というだけで、そこに描かれた自然や人物に限りない神秘性やエキゾチスムを感じ、それに魅了されてしまう」※5という『華氏451』の頃のフランソワ・トリュフォーから、「小津安二郎の作品は(…)私にはどこがいいのかわからない。いつもテーブルを囲んで無気力な人間たちがすわりこんでいるのを、これも無気力なカメラが、無気力にとらえている。映画的な生命の躍動感が全く感じられない」※6と率直に打ち明けられたところで、はじめて小津作品を目の当たりにした彼のこの戸惑いはわれわれをいささかも落胆させはしない。むしろ逆に、そのトリュフォーが、すでに異国趣味と呼ぶにも滑稽なほどに戯画化された日本女性を登場させる彼自身の映画作品の最初のショットとして、とりわけ後期の小津作品の商標となったあの生成りの南京袋の肌理をタイトル・バックに採用してみせた『家庭』を経て、小津体験を重ねるうちに次第にそこに囚われ、やがて『緑色の部屋』を撮り終える頃には積極的に小津作品の虜となってしまうとき、われわれは、一人の映画作家としての小津安二郎の、世界の映画史におけるその独自性をあらためて確信することになる。小津の監督による映画作品群もやはり、トリュフォーの瞳を彩る異国趣味を完全に払拭し得るものではなかっただろう。にもかかわらず、単なる異国情緒にはけっして還元されないような奇妙な感覚が、小津作品に投じられた彼の視線を支配していったのである。

図1
トリュフォーは告白する。「わたしは昔、(…)オズの映画を一本だけシネマテークで見て、なにがなんだかさっぱりわかりませんでした。(…)ところが、最近、パリでオズの映画が何本か公開され、『秋日和』とか『東京物語』とか『お茶漬の味』といった作品を連続して見て、たちまちそのえも言われぬ魅力のとりこになってしまいました。日本映画はわたしたちにとっては、単なるエキゾチスム以上に、非常に神秘的な感じがするのですが、オズの作品ほど不思議な魅力にみちた日本映画は見たことがありません」※7。では、小津作品に対するかつての自分の無理解を懺悔させるまでにトリュフォーの興味を惹きつけた小津作品の、その不思議な魅力とはなにか。彼は告白を続ける。「日本的といえば、これほど日本的な映画もないのでしょうが、それ以上に、わたしにとって最も不思議なのは、その空間の感覚です。空間と人物の関係、と言ったほうがいいかもしれない。ふたりの人物がむかいあって話しているようなシーンがしょっちゅうあり、キャメラは人物АからВへ、またВからАへとさかんに切り返すわけですが、どうもこれがにせの切り返しというか、切り返しまちがいのような印象をあたえるのです。(…)ふつう、むかいあって話をするふたりをキャメラが切り返しによってとらえる場合には、原則として同じ目線の軸で交互にとらえる。ところが、オズの映画では目線の軸が一定ではない。つまり、観客は人物のひとりの視線を追っていくと、じつはそこに相手がいないのではないかという不安にかられる。これは単に印象ではなく、そうとしか思えない意図的な演出のはずで、実際、キャメラが切り返すと、もうそこには対話の相手がいないのではないかという……つまり、そう、目線が交わることがない。だから、人物たちの位置関係がとても不安定な感じで……」※8

対話場面における人物Аと人物Вとを結ぶ直線、いわゆるイマジナリー・ラインを無視したこの切り返しが、トリュフォーの指摘するように意図的な演出であることは、小津自身も公言してはばからなかった。「私は一向に構わずАВを結ぶ線をまたいでクローズ・アップを撮る。すると、Аも左を向くし、Вも左を向く。だから、客席の上で視線が交るようなことにはならない。しかしそれでも対話の感じは出るのである。おそらく、こんな撮り方をしているのは、日本では私だけであろうが、世界でも、おそらく私一人であろう。私は、こんなことをやり出して、もう三十年になる」※9。映画作家としての小津安二郎の、世界の映画史におけるその独自性とは、ただイマジナリー・ラインを無視したこの切り返しの使用のみをもって汲み尽くされるものでないことはいうまでもない。しかしながら、たとえばかつてのトリュフォーが、小津作品がその登場人物たちの視線を介して表象する映画空間の奇妙な不安定さに一人の観客として魅了されていったように、世界の観客たちは、そこで執拗に反復される技法上または物語上の一定の様式性、すなわち、すでに日本的でもハリウッド的でもなく、「まったくもって小津的というほかはない状況」※10に対する新鮮な驚きをもって、彼らの映画史への小津安二郎の登場を迎えたはずである。「小津映画一般の、そしてとりわけ『東京物語』の独自性を把握するためには、「普通の」アメリカ製の映画作品の特徴が持ち出されることになるかも知れない」※11

ところで、松竹大船監督会における小津の後輩として、知己のみに許された特権である慎ましい親しみを込めて、小津のものであるそうした様式性をまさしく「小津さんらしいとしか言いようのない表現」※12と換言してみせる吉田喜重は、にもかかわらず、小津作品をめぐって繰り返される小津らしい表現、小津的な状況への同語反復的な言及に自ら覚える虚無感に苛まれずにはいられない。「小津さんの映画を支えている独自な手法といったものを語ることは、さほど難しいことではなかっただろう。おびただしい反復とずれに徹した描写、あえて凡庸さを示すかのような並列的に接続された筋立て、ロー・ポジションに位置づけられたカメラ、正面を向きながら不自然なまでに視線を宙に漂わす俳優、感情のリズムを封じられてモノローグ風に語られる科白。だがこうした指摘がその作品について、どれほどのことを語ったことになるというのだろうか」※13。それでもなお、苛立ちまじりのこの虚無感にあえて吉田はその身を委ねようとしている。「小津さんの映画もまた、ついには小津さんらしいと語るしかない、意味が不確定なままに果てしなく浮遊する世界であった。だがこうした同語反復的な、ナンセンスとも思われる表現で小津さんの映画を語ることは、決して人びとに不快感を与えるものではなかっただろう。むしろ親しみをこめて小津さんらしい、あるいは小津作品らしいと口ずさむことによって、その映像が漂わせる限りない曖昧さを楽しみ、ともに戯れることが、小津さんの映画を見ることの歓びにほかならなかったからである」※14

II

新鮮な驚きをもってようやく世界に発見された小津安二郎の映画作品群にあっても、ことに『東京物語』は、もはや単に「小津作品の真髄と見なされてきたうえに、しばしば彼の最高傑作と考えられることもある」※15ばかりでなく、「これまでに作られた映画作品のうちもっとも偉大なもののひとつとして広く認められている」※16。さらには、固有の映像分類学に適うところの現代性を備えたもっとも先駆的な映画作家として、ジル・ドゥルーズが他の誰のものでもなく小津安二郎その人の名を召喚してみせたその限りにおいて、まさに『東京物語』は、相応の確固たる座席を世界の映画史のうちに獲得したとさえいえる※17。とにかく、こうした類の評価がわれわれにとって共有可能なものであろうがなかろうが、溝口健二の『雨月物語』や黒澤明の『羅生門』と並び、少なくとも『東京物語』が世界の観客にもっとも知られた日本製の映画作品のひとつであることに議論の余地はないだろう※18。したがって、それが世界の観客の誰であれ、「小津さんの映画を語ろうとするには、いささかもためらうことなく『東京物語』を手がかりに始めるのが、もっとも自然な成り行きのように思われる」※19のであり、同時にこのことは、『東京物語』がもっとも小津らしい表現、小津的な状況に満たされた映画作品にほかならないことをも意味している。あるいはむしろ、件の映画作品の側から、小津らしい表現とはなにか、小津的な状況とはなにか、そうわれわれに問いかけてくるのである。

フィルム
図2
けれどまた、第二の黄金期を過ごした日本の映画界においては、小津安二郎は、まさしくその小津らしい表現、小津的な状況のゆえに、融通のきかない反動的な保守主義者と見做され、当時の封建的な映画製作システムの象徴として後進たちから厳しく糾弾される立場にあったことも確かである。「小津の映画ではキャメラが動かないと誰もが涼しい顔で口にする。低い位置に据えられたキャメラの位置も変わらない、移動撮影がほとんどない、俯瞰は例外的にしか用いられない。(…)小津にあっては、愛情の激しい葛藤が描かれない。物語の展開は起伏にとぼしい。舞台が一定の家庭に限定されたまま、社会的な拡がりを示さない。このあといくらも列挙しうるだろうこうした否定的な言辞が、ながらく小津的な単調さという神話をかたちづくっていたことは記憶にあたらしい」※20。すでに日本では映画監督として揺るぎない位置を占めていた小津を若い映画人たちが糾弾する根拠となっていた、特定の技法と物語とに拘泥された彼の映画上の表現または状況の単調さというこの負の神話の裏返しに、その一貫した様式性をもって彼の統一的な作家性を顕揚する、世界の映画史における正の神話があることはいうまでもない。とするなら、小津らしい表現、小津的な状況を期待する視線をけっして裏切ることのない『東京物語』は、小津安二郎に対する評価をめぐって表裏一体の関係にあるこれらの神話にもっとも忠実な映画作品であるだろう。

なるほど、「深い感銘を西欧に残した最初の小津作品である『東京物語』は、小津の映画づくりにおいて特徴的な奥義をいくつか啓蒙的に紹介してみせる」※21には違いない。しかしながら、このような規定、いわばもっとも典型的な小津作品としての『東京物語』の評価を翻せば、いかにも小津らしい表現、いかにも小津的な状況から溢れ出る過剰ななにごとかがそこには稀薄であることが逆に帰納されるはずである。つまり「この『東京物語』はそれ以外の作品と比べて満遍なくよく出来ている。ただし、それに見合ったかたちで、ほかの作品には存在しているような突出した部分というものが、ことによるといくぶん欠けている」※22かも知れないのだ。確かにこの限りにおいては、あらかじめ小津らしい表現、小津的な状況を前提とした評価をめぐる神話を正負の両面からそれぞれ有効に機能させるのに『東京物語』ほど相応しい映画作品はない。そしてこの前提に固執した視点から『東京物語』に対して施される言説のいずれもが、正負それぞれの側面から各々の神話を強固なものとし、その表裏の一体性をいよいよ高めていく。

神話化された小津らしい表現、小津的な状況。だが、すでにそこには映画それ自体はない。だからこそ、たとえ小津安二郎が特定の技法と物語とに拘泥された反動的な保守主義者として非難されるべき頑迷な映画監督であろうと、もしくはその一貫した様式性をもって世界の映画史における独自の才能として賞賛されるべき偉大な映画作家であろうと、もはやそうした評価は重要ではない、そう蓮實重彦は宣言する。「問題は、小津の相対的な偉大さを映画史的な視点から確信しあうことではない。そのフィルムの表層に推移する光と影とに視線を送りながら、映画が何でありえ、また同時に何でありえないかを、「フィルム体験」の場で生なましく触知することが重要なのである」※23。フィルムの表層に推移する光と影に送った視線をもって映画それ自体を触知すること。そのためには、おそらく、われわれの瞳を濁らせている神話をまずは払拭することから始めなければならない。その評価の正負にかかわらず、小津らしい表現、小津的な状況を小津作品のうちに認めて安堵し、この神話から逸脱する生々しい細部の露呈に眼を背けるわれわれの視線もまた、動く映像のもたらした衝撃を忘却した映画の初期の観客たちのものであるあの異国趣味にあらかじめ彩られていたのである。

では、この神話はいかに払拭され得るのか。蓮實によれば、小津らしい表現、小津的な状況、すなわち小津作品をめぐる神話は、キャメラの不動性に代表されるように常に否定形の言説を通して機能してきた。どこまでも躍動感を欠き、刺激的な変化を拒絶する退屈な単調さとして、小津らしい表現、小津的な状況を負の側面から評価したかつての日本の若き映画人たちと同様に、実のところ昨今の世界の映画史もやはり、否定形によって綴られたこの唯一の神話の図式性を裏側から律儀になぞってみせたに過ぎない。こうして「否定的な言辞をつらねながら不在と欠如とによって小津安二郎を定義することは、その作品から動く画としての生なましい生命を奪うことになるだろう。われわれの存在を動かすことができるものは、不断の現在を生きる生産的な「記号」である。そしてそれは、欠如によっては定義しえない過剰ななにものかである」※24。その視線があの異国趣味に彩られる以前の、動く映像のもたらした衝撃に打ち震える映画の最初の観客となること。小津作品に対峙したわれわれの瞳を濁らせている神話を払拭することとは、神話のものである抽象的な図式性から小津作品を解き放ち、まさしく肯定的な言説をもってその具体性を肯定することにほかならない。要するに、「その肯定的な肯定は、欠如によってその作品を定義する否定的な言辞が特権的な作家として賞揚することになる小津安二郎からその神話的な例外性を奪い、むしろ映画そのものを、その非=人称的な環境の構造と限界とをきわだたせつつ、肯定する身振りとならなければなるまい」※25

不断の現在を生きる生産的な記号としての映画、銀幕上に固有の空間と時間とを創出し続けて止まないその光と影の滑走に剥き出しの瞳を晒すこと。なるほど、とりわけ『朗かに歩め』や『その夜の妻』、さらには『非常線の女』など、1930年代に製作されたサイレント映画の傑作群はもとより、たとえそれが『晩春』であろうと『麦秋』であろうと、小津安二郎の映画作品が銀幕上で更新しつつある出来事すべてをひとたび肯定するならば、否定形によって綴られた神話のものである抽象的な図式性にはもはや収まりのつかない出来事がわれわれの視線に露呈するだろう。しかしながら、『東京物語』の場合、事態はいささか悲観的な様相を帯びてくる。小津作品をめぐる神話からのその解放を試みるとき、われわれは、ある困難に避けがたく直面しないではいないのだ。いうまでもなく、この困難とは、小津の映画づくりにおいて特徴的な奥義を啓蒙的に紹介してみせる典型的な小津作品としての『東京物語』が、それゆえいかにも小津らしい表現、いかにも小津的な状況から突出するような過剰さを他の作品に比して相対的に欠くとする評価に負うものではない。むしろそれは、小津の監督作品群にあって唯一の時代劇として知られる『懺悔の刃』に対して、今日の観客であるわれわれが剥き出しの瞳を晒してみせることの不可能性に限りなく近い。

小津安二郎の監督による全54作品のうち、彼の処女作となる『懺悔の刃』を含む初期の18本は、そのオリジナル・ネガも上映用プリントも今や現存していない。つまりわれわれは、これらの小津作品について、たとえそれが肯定形であれ否定形であれ、なんらかの言説を投じることはおろか、動く映像となって滑走する光と影の銀幕上への生起に立ち会うことそれ自体があらかじめ禁じられてしまっている。確かに、すでに失われたこれら初期の作品群とは異なり、未だわれわれには『東京物語』の上映に駆けつけることが許されてもいる。そしてそれだからこそ、神話のものである抽象的な図式性に基づいてこれを小津映画の典型と見做すこともできた。それでもなお、われわれの瞳が『東京物語』の生々しい生命に触知することはいかにも困難であるに違いない。というのも、ようやく周知となりつつあるように、それまで現存するとされてきた『東京物語』のオリジナル・ネガは、実際には映写用プリント作成の段階で外注に出した現像所での火災のために封切り以前に不幸にも焼失しており、現存する映写用プリントは、このとき辛くも焼失を免れたおそらくはポルトガル輸出用のポジ・プリントから起こされたデュープ・ネガをもとに、あらためて焼き直した複製であるからだ※26。要するに、かつて小津が所属していた当時の松竹がその映画作品を日本全国で一斉に封切る場合には30本ほど焼いたという映写用プリントは、通常は第二ジェネレーションに相当するが、こと『東京物語』の場合には、画質の劣化を伴いつつ第四ジェネレーションまでその世代が下るのである。

III

松竹が製作した『戸田家の兄妹』以降の小津作品すべてのキャメラを担当した厚田雄春の助手として、『東京物語』でもその撮影現場に立ち会っていた川又によれば、辛くも焼失を免れた第二ジェネレーションのポジ・プリントさえが、もはや松竹には現存していないという※27。複数あったとされるこれらのプリントが、『東京物語』の封切りにあたって直接どこかの上映館に配給されたか否かは知る由もない。だが、仮にそうした事実のもとにかつてこの映画作品の生々しい生命に触れ得た特権的な観客が存在したところで、興行から戻ってきた映写用プリントの表面が夥しい傷に覆われていたことは疑いなく、また『東京物語』が可燃性のフィルムで撮影されたことからも容易に推量できるように、映画の製作会社が文化資産としての映画作品の保存という観点を充分には持ち合わせていなかった時代のことでもあり、ただデュープ・ネガのみを残して、ジェネレーションの如何を問わず傷ついた映写用プリントはことごとく破棄されてしまったらしい。いずれにせよ、「いま『東京物語』として見ているものは全部ポジから引き伸ばした映画であって、いつもの小津作品とは違う」※28のである。こうして不可避的に欠如をもって語られないではいない『東京物語』は、その限りにおいてまぎれもなく神話的な映画作品となり、小津らしい表現、小津的な状況の参照からこれを解き放つことを、さらには動く映像としてのその生命の生々しさを手放しで肯定することをより困難なものとするのである。

デュープ・ネガをもとに焼かれる第四ジェネレーションの映写用プリントでは、たとえば白黒フィルムの場合、粒子がつぶれ、第二ジェネレーションのポジ・プリントにおける本来の白黒のコントラストが強められる結果、白と黒のあいだの微妙な階調がそこから失われてしまうはずである。撮影を担当した厚田雄春が 「あのころ、もうそろそろカラーをやろうじゃないかという話が持ち上がっていて、小津さんの黒白映画としては最後のものになるかもしれない。だから、ぼくはね、精魂こめてやったわけです。それが、いま出まわっているデュープのプリントだと、まるっきりだめなんです」※29と述懐してみせる『東京物語』もまた、まさに画質の劣化にほかならないほどの変化をその画調に被ったすえに、当のキャメラマンをはじめとする小津組の人々のそうした尽力は水泡に帰したのだろう。確かに、長らく厚田雄春に師事していた川又が、小津作品における厚田のキャメラの白眉として真っ先にそれを挙げるように、スタンダード・サイズの画面上に見事に配分された白黒の艶やかなコントラストは、小津の観客の誰もが見知ったものであるに違いない※30。しかしながら、むしろこのことは、そのコントラストを艶やかに際立たせる灰色の無限の階梯が白と黒のあいだに潜在していることを意味する。おそらくは第二ジェネレーションのポジ・プリントにおける仕上がりをあらかじめ見込んだ照明設計など、撮影時の繊細な配慮をもってのみ可能なそうした微妙な階調の顕在は、第四ジェネレーションにまで世代の下った複製にはもはや期待すべくもない※31

もちろん、こうしてオリジナル・ネガから幾世代も隔たった複製を重ねることが映画作品から動く映像としての生命の生々しさを剥奪してしまうわけでは必ずしもない。事実、それがどれほど複製を重ねられたプリントであれ、あるいはどれほど傷みの激しいプリントであれ、不断の現在を滑走する生産的な記号としての生々しさをわれわれの瞳に晒して止まない数多の映画作品が、開闢以後すでに一世紀を経た世界の映画史には存在している。そして不幸なオリジナル・ネガの焼失のみを理由に、ただ『東京物語』ばかりがそのような映画作品群から除外されるはずもない。それでもなお、「小津おやじはもちろん、スタッフ全員ものっていたし、ぼくも少しは経験をつんでいたんで、一つのカットにも全霊をこめて撮りました。ぼくらはTPって呼んでいますが、テスト・ピースといって、撮ったネガを現像場ですぐ現像してもらって、それをすぐとりよせて調子を見る。それを見て露出の計算をするんです。ネガのままだから、これはキャメラマンしかこまかいところはわからないんですが、『東京物語』ではそういうことをやれる余裕もあったんです」※32と証言する厚田雄春の言葉を聞くとき、われわれは、神話的な映画作品たる『東京物語』をめぐって、動く映像としてのその生命の生々しさを手放しで肯定することに躊躇わずにはいないのである。

まるでそうした現状を憂えたかのように、先年、キャメラマンのこの腐心を銀幕上で垣間見させる貴重な資料が発見された。松竹の倉庫に眠っていたという『東京物語』の予告篇がそれである。川又によれば、新たに発見されたこの予告篇は、まぎれもなく第二ジェネレーションに相当するポジ・プリントであるという※33。ただし、小津安二郎の来たるべき新作の撮影の順調な進捗を告知するこの映写用プリントが、のちに『東京物語』の本篇に採用されることになるショットのオリジナル・ネガから直接的に焼かれたものとは考えにくい。たとえ予告篇であれ、その製作過程にもネガ編集作業が介在する以上、任意の箇所で鋏を入れることが許されるネガ・プリントがそこでは必要であり、単なる予告篇を作成するためにあえて本篇のオリジナル・ネガが切り刻まれようはずもなく、したがってそれは、本篇には採用されなかったショット、いわゆるNGテイクのオリジナル・ネガか、もしくは本篇に採用されたOKテイクから起こされたデュープ・ネガか、そのいずれかから作成されたことになる※34。そして松竹の倉庫に人知れず保管されていたこの予告篇の映写用プリントは、それが第二ジェネレーションに相当するその限りにおいて、本篇には不採用となったNGテイクのオリジナル・ネガを予告篇用に編集し、そこから焼かれたポジ・プリントであるに違いない。

この予告篇は、まぎれもなく、『東京物語』の撮影におけるキャメラの厚田雄春ら小津組の尽力を銀幕上で垣間見させる貴重な資料となるだろう。現存する『東京物語』の本篇からはすでに剥奪されてしまった過剰な細部をわずかながらも窺い知るに足るだけの鮮度を保ったそれは、しかしながら、『東京物語』が被ったこの欠如を一瞬たりとも補完するものではあり得ず、ただ失われたものと残されたものとのあいだの隔たりを露呈させることによって、むしろ不在の中心たる『東京物語』の神話性をその周辺からより強固なものとすべく機能するかも知れない。予告篇はあくまでも予告篇に過ぎない。ましてそこには、本篇に採用されたショットとオリジナル・ネガを共有するショットが含まれているわけでもない。小津安二郎の来たるべき新作の撮影の順調な進捗を告知するこの短いフィルムは、デュープ・ポジによるとりあえずの公開からおよそ半世紀を経て未だ到着することのない『東京物語』のまったき生命への、なんら躊躇のない手放しの肯定の機会を待ち侘びるわれわれの瞳に対して、まさに予告篇にこそ似つかわしい動く映像の鮮度をもってその実現を期待させながら、もはやけっして訪れ得ない真正の『東京物語』の上映を永遠に先送りし続けるだろう。

ネガシートに余分に存在するショット ネガシートに余分に存在するショット
ネガシートに余分に存在するショット ネガシートに余分に存在するショット
ネガシートに余分に存在するショット ネガシートに余分に存在するショット

(1)映写用プリントに対照して" ネガシート"に余分に存在するショット(計43片)

ショット#画面シート#カット尻#
×船着き場11-2
×診察室89-1
×診察室から台所89-2
×工場の煙突25
×バス車内の笠(43)60-5
×バス車内の笠(43)60-5
×バス外観後部(44)64
×ビルの展望台(45)65-頭
×美容院(54)74-1
×旅館の窓からの海と岬(56)
×旅館の窓からの海と岬(57)(・?)
×海と岬と島(58)77#
×部屋からの海の眺望(59)
×(61)82-6
×廊下のスリッパ(62)85の頭
×寝ている笠と東山(62)85-1
×起き上がった笠(63)85-6
×旅館の窓からの山(64)86#・
×旅館の窓からの山(64)
×掃除途中の旅館の縁側(65)
×旅館の空きの一部屋(67)91#
×欄干越しの海の眺望(67)91の尻
×旅館の窓からの岬(68)91-尻
×パーマの釜をかぶった女(68)92-1
×呑み屋の提灯(77)
×呑み屋の提灯(77)
×呑み屋の提灯(77)97#
×笠と東野(82)
×(83)
×待ち合い室の笠ら(100)112-18
×待ち合い室を発つ人々(100)112-19
×広島行き列車看板(100)112-21
×建設現場鉄骨(100)111
×(616)船着き場(122)144-1
×(616)船着き場(123)144-1
×(616)船着き場(123)144-1
×(616)船着き場(123)144-1
×(616)船着き場(123)144-1
×(616)船着き場(123)144-1
×波止場の電柱(124)144-2
×石垣と松 遠景(129)#148
×石垣と松 遠景(129)#148
×墓地と空(135)153#
×墓地(135)153b 23A

(2)“ネガ・シート”には存在せず、映写用プリントに存在するショット(計15片)

ショット#画面シート#カット尻#
51二階の三宅と子供(兄)××
77三宅と杉村××
123うらら美容院看板××
177子供(弟)××
179子供(弟)××
215バス正面窓からの眺望××
229展望台からの眺望××
294海と島××
331旅館の縁側××
416並んだ三人の背中××
503列車時刻表示板××
534玄関で掃除中の三宅××
643東山をみつめる大坂××
644土塀の奥の墓地××
759線路と家並み越しの海××

(3)対話場面における中抜き撮影によってカット尻が兼用されているショット

62・64東山1419-5・7
74・76山村1625-2・4
89・91東山1928-9・11
90・921928-10・12
169・171三宅(34)49-3・5
193・195・197中村(38)55-2・4・6
194・196東山(38)55-3・5
273・275杉村(54)74-3・5
277・279杉村(55)74-7・9
278・280山村(55)(74-8・10)
337・339杉村(69)92-5・7
347・349(71)93-5・7
356・358(72)93-14・16
374・376代書屋主人(76)96-7・9
378・380代書屋主人(76)96-11・13
385・387東野(78)98-3・5
386・388代書屋主人(78)98-4・6
403・405(81)101-4・6
407・409(82)101-8・10
408・410東野(82)101-9・11
418・420女将(84)101-19・21
419・421笠と東野の背中(84)101-20・22・24
428・430(86)103-6・8
432・434(86)103-10・12
458・460杉村(91)104-14・16
471・473(94)111-6・8
570・572杉村(114)128-11・13
682・684杉村(138)157-10・12

(4)カット頭とカット尻とで2種のネガ片が保存されているショット

641寺境内の笠と原(130)149-3頭
(130)149-3尻

(5)“ネガ・シート”からネガ片が紛失しているカット尻

312起き上がる笠(63)

ところで、この予告篇が発見される以前から、不在の中心たる『東京物語』の神話性をめぐる別の資料の存在が、「『東京物語』の最初の部分を撮った一つ一つのショットを私が全部持ってる」と示唆する厚田雄春の言葉を通して仄めかされてきた。実際に、キャメラマンの証言によって小津組の撮影現場での製作の実践を検証すべくあつらえられた対話の場において、直接この資料の存在を示唆された蓮實重彦は、のちに彼から「そのネガを貸して」※36もらうことになる。『東京物語』の冒頭のシークェンスで、波止場の桟橋を覆った丸屋根を石燈籠越しに望む最初のショットに連なる二番目のショットとして蓮實が記憶していた、丸屋根が生む日陰に隠れて船の入港を待つ人々の佇む真夏の昼下がりの桟橋を縦の構図で捉えたショット(1-2)が、現存している映写用プリントには見当たらず、そうした事実を訝った彼の記憶を証し立てるために、この資料が厚田から貸し出されたのである。つまり当時の厚田本人の認識にしたがえば、この資料は監督たる小津安二郎によって最終的に決定された本篇のシークェンスに準じて作成されたものであり、もし仮にそれと現存する映写用プリントとのあいだになんらかの相違が確認されるとすれば、このことは、『東京物語』の名を騙って現存する映写用プリントが、すでに焼失してしまった真正の『東京物語』に鋏を入れた偽の『東京物語』であることを意味する。

要するに、小津作品の撮影を担当した厚田雄春が所有していたこの資料とは、『東京物語』を構成するすべてのショットについて、それぞれ過不足なくこれらに対応しているはずのOKテイクのオリジナル・ネガから切り捨てられたカット尻が、その各々の撮影データを記録すべく併記した厚紙に貼付された、“ネガ・シート”と呼ばれるものであった。けれどまた、蓮實が小津のキャメラマンから借り出したこの資料のうち、その記憶に忠実なカット尻の一齣が図版として彼の著作物を通してついに公表され、これに対応するショットが現存の映写用プリントからは消滅しているにもかかわらず、その記憶のままの構図が確かに『東京物語』の冒頭を飾るシークェンスの二番目のショットとして撮影されていたことを証明して以降も、その資料の実態は、どうやらこれが『東京物語』を構成する全ショットのオリジナル・ネガから切り取られたカット尻からなる“ネガ・シート”であること以上には、依然として詳らかとされなかった。いずれにせよ、現存の映写用プリントが欠落させたショットのカット尻がこうして存在し、さらに「フランスで出ている小津の『東京物語』のショットごとのシナリオには、その二番めの場面というのは明らかに入っている」※37ことからも、1953年の封切りの時点で「小津が『東京物語』に関して二つの版を作った」※38というよりはむしろ、それ以後に件のショットを「松竹が短くするためにホイホイ切ってしまった」※39だろうことを誰もが結論したところで無理はない。

IV

日本の映画産業が衰退の一途をたどりつつあったある冬の日、抜けるように晴れわたった寒空のもとで還暦を迎えるやいなや、病いに疲れて小津安二郎は逝去した。彼に置き去りにされたあの冬の日からさらに四半世紀以上も生き長らえてしまったことが、厚田雄春にとって幸福であったかどうかは、われわれには知る由もない。だが、小津の死後しばらくは他の若い監督たちに頼られてキャメラを回していたものの、いつしか自然と撮影現場から遠ざかり、もはやファインダーを覗くこともなくなったその晩年が、少なくともキャメラマンとしては不遇なものであったことは想像にかたくない。小津組の撮影現場での製作の実践を尋ねる蓮實重彦に、「小津さんが亡くなられてからは、もう生ける屍ですね。もう、ポカンとしちまって、決して手を抜いたわけじゃあないけど、張りがなくなっちまって……」※40と呟いたこの老キャメラマンもまた、やはり冬の日に、ついに不帰の人となる。幾度となく蓮實との対話を重ねるうちに「いろいろ思い出して、もう使わないだろうと思って戸棚の奧にしまいこんでいた写真なんか引っぱり出して、つい徹夜しちゃったことなんかも」※41あった厚田は、彼自身がキャメラマンとして携わってきた多くの映画作品に関わる資料体を遺していったが、戸棚の奧の写真や、キャメラマンとなることを彼に命じた辞令、さらには『東京物語』の“ネガ・シート”をも含むこの資料体は、のちに、当の対話の相手が総長を務める東京大学にその分析を委ねられることになった。

蓮實研究室での分析作業が着手された当初、『東京物語』の“ネガ・シート”は、この映画作品を構成するすべてのショットについて、それぞれ過不足なくこれらに対応しているはずのOKテイクのオリジナル・ネガから切り捨てられたカット尻が、その各々の撮影データを記録すべく併記した厚紙に貼付されたものと見込まれていた。ところが、すべてのカット尻を現存する映写用プリントのシークェンスと照合していくうちに、両者のあいだには、単に丸屋根が生む日陰に隠れて船の入港を待つ人々の佇む真夏の昼下がりの桟橋を縦の構図で捉えた既述のショットについてのみならず、複数の異同があることが確認されたのである。要するに、カット尻とその撮影データとによって“ネガ・シート”に整理されている一定のショットについては、本篇として現存する映写用プリントにはそれに対応するべきショットが実際には採用されておらず、また逆に、この本篇に採用されている幾つかのショットについては、これに対応するべきカット尻やその撮影データが“ネガ・シート”のどこにも見い出されなかったのである。こうした異同の詳細な分析は、おそらくはこの“ネガ・シート”が、所有者であったキャメラマン厚田雄春の認識を裏切って、監督たる小津自身による最終的な判断を経たオリジナル・ネガの編集作業の完了、すなわち本篇の完成それ以前の段階で作成されていたことを、蓋然性の収斂としてわれわれに帰納させるものとなるかも知れない。

それら異同の詳細を提示するに先立って、ここではまず、“ネガ・シート”について説明しておく必要があるだろう。全国各地の映画館に配給することを前提に日本で製作される映画作品は、一般的には35mmネガ・フィルムによって撮影される。とはいえ、撮影されたこれらのネガ・フィルムは、そのすべてのショットが一齣たりとも余すところなく本篇に採用されるわけでは必ずしもない。それどころか、通常の映画製作においては、その最初の齣から最後の齣に至るまでついに一カ所さえも採用されなかったショット、すなわちNGテイクの総延長が、そこに採用されて本篇を構成することになったOKテイクの総延長を超過しないことはきわめて稀である。いうまでもなく、このNGテイクとOKテイクの比率は、各々の監督ごとに、より厳密には同じ監督のものであっても各々の作品ごとに変動するが、たとえば小津安二郎の場合には、一本の映画作品を完成させるまでにOKテイクのおよそ4~5倍に相当するフィルムが回され、こと『東京物語』にあっては、本篇を構成している全ショットの総延長がタイトル部分を除いて12,220フィートであるのに対して、実際に撮影に使用されたフィルムの総延長は、その6倍に相当する67,343フィートにもなったという※42。つまりそこでは、概ねOKテイクの5倍にものぼる量の撮影済みネガ・フィルムがNGテイクとして破棄されたことになる。

ところで、撮影されたすべてのネガ・フィルムは、一本の映画作品を構成するための素材として現像されたのち、ラッシュ試写を経てひとまずOKテイクとNGテイクとに区分される。この段階でNGテイクとされたショットはあらかじめ編集作業から排斥されるが、OKテイクとされたショットについてもまた、本篇のうちに採用されるべき部分と、これに前後する余分な齣とが、編集の過程で切り分けられる。OKテイクからこうした不要な齣を削除していく行為がカッティングである。OKテイクとして最終的に本篇に採用されたそれぞれのショットにおいては、その頭と尻にたとえられる先端と末端の数齣がカットされていることがもっぱらである。このとき、本篇に組み込まれるはずのショット以外に、それまでこのショットを挟むようにその前後に連続していた頭と尻、それら二片のネガ・フィルムの切れ端が必然的に生じる。こうしてOKテイクの両端からカットされたネガ・フィルムの切れ端、いわば本篇にとってはNGテイクと同様に無用と見做されたこれらの齣の連なりのうち、本篇に採用された部分に後続していた末端の数齣がカット尻である。“ネガ・シート”とは、本来はNGテイクとともに破棄される運命にあったこのカット尻を流用して、本篇を構成するショットごとのさまざまな撮影データに併せてこれを専用の厚紙上に整理したものである。こうした撮影データの記録を目的とする限りにおいて、原理的には“ネガ・シート”はOKテイクとなったショットのカット尻から作成されるものに違いなく、だからこそそこに貼付されたすべてのカット尻は、本篇を構成する全ショットについて過不足なくこれに対応しているはずなのである。したがって、『東京物語』の“ネガ・シート”が、監督たる小津自身による最終的な判断を経たオリジナル・ネガの編集作業の完了を待って作成されたものと見做した厚田雄春の認識は、きわめて正当なものであった。

しかしながら、全国各地の映画館に配給することを前提にかつて日本の撮影所の名において製作されたすべての映画について、漏れなく“ネガ・シート”が作成されていたわけではなかった。なぜなら、それに費される時間や金銭といった諸コストにもかかわらず、その作成作業は当の映画作品の興行収入に直接的にはなんら貢献しないからである。それゆえに、“ネガ・シート”の作成は、一定の映画作品の製作現場にのみ許された特権な作業であったといえる。これを換言すれば、映画監督としての小津安二郎、及びその『東京物語』は、当時の松竹撮影所にあってもやはり特権的な扱いをもって遇されていたことが理解できよう。“ネガ・シート”を作成する手間は、概ねセカンド以下の撮影助手が引き受けていた。撮影所が彼らに“ネガ・シート”の作成を託したその意図のうちには、単にキャメラにまつわる詳細な撮影データを記録しておくことのほかに、その整理を通して後進のキャメラマンを育成すること、さらには薄給な彼らに時間外労働の場を提供して臨時収入を配分すること、などが含まれていたのである。実際、『東京物語』の“ネガ・シート”の各データ項目に記入された文字の筆跡は、その所有者であった撮影監督の厚田雄春のものとは明らかに異なる。そしておそらく、それが当の作品におけるファーストの撮影助手の負担によるものであることを自ら否定した川又の示唆するところでは、この“ネガ・シート”の作成者は、当時の小津組ではセカンドの撮影助手を務め、カラー化されたのちの松竹製作による小津作品においては色彩技術を任されることになる老川元薫であったという。

撮影監督ならいざ知らず、セカンドの撮影助手などは、一本の映画作品が仕上がるまでその製作の全過程に専従できるわけではなく、ひとたび撮影作業が終了してしまえば、もはや編集の完了もしくは映画作品の完成を見ずに、別の映画作品の製作現場に就くことを撮影所側から要請される。それゆえに、彼らが“ネガ・シート”の作成のために割くことの可能な時間は、もっぱら撮影作業の手が空いた暇のみに限られており、撮影済みのフィルムが随時現像に出され、ラッシュ試写を経てとりあえずOKテイクが決定されるその都度、該当するカット尻とその撮影データとを順送りに“ネガ・シート”に整理していかなければならなかったはずである。「もう戦後は、小津組は午後五時で終りってきまってました。本当は、若いスタッフなんかは、残業のあった方が手当が出て助かるんですが、夜や夕方のロケでもない限り、終りの時間はきっちり守られました」※43。『東京物語』の若きスタッフだった老川は、毎日の撮影が終了する午後5時を待って“ネガ・シート”の作成作業にとりかかったのだろう。とすれば、『東京物語』の“ネガ・シート”は小津が指示する粗編集と並行して作成されていったに違いなく、そこでは映画作品におけるシークェンスの全容が大幅に揺らぐことはすでにあり得ないが、けれど監督の感覚が最終的にそこに施すかも知れない僅少のショットの追加や削除、あるいは入れ替えといった類の微妙な変更には、ついに呼応する機会を持たないことになる。

V

わけても『東京物語』は、これが小津監督最後の白黒作品と意気込んだキャメラマンの厚田雄春をはじめ、小津安二郎を支える撮影所のスタッフたちが遺憾なく各々の能力を発揮した記念碑的な映画作品である。彼らの尽力によって実現された数多の素材を前に逡巡を重ねてきた監督が映画作品の一応の姿を見通したのちに、さらなる入念な推敲のもとに封切りの直前に至ってなおその編集作業を滞らせていようとも無理はない。はたして、曇天のために一日延期された熱海の防波堤での最終のロケーション撮影をどうにか過ごし、その翌日に総ラッシュが仕上がってから各地の映画館で一斉に封切りされるまでのおよそ一旬間のあいだに、『東京物語』の編集作業は完了する。だが、すでにそのときには、完成したばかりのオリジナル・ネガから30本の映写用プリントを焼く工程がもはや撮影所内では処理しきれず、外部の現像所に依頼しなければならないほどに封切り日は切迫していた※44。かくして『東京物語』のオリジナル・ネガは、外注に出された先の小さな現像所で不幸な火災に遭遇することになる。いずれにせよ、セカンドの撮影助手の空いた手を煩わせていたに過ぎない“ネガ・シート”の作成作業が、こうした急迫の事態の一部始終を反映させる余地などなかったはずであり、最終的に本篇に施されたかも知れない僅少のショットの追加や削除、あるいは入れ替えといった類の微妙な変更に呼応する機会をついにそれが持たなかっただろうことを、われわれはここで再び結論せざるを得ない。

事実、『東京物語』の“ネガ・シート”のところどころに、数多の素材を前に一本の映画作品を構成するために一人の監督が重ねた逡巡の痕跡が窺える。とりわけそれは、現存する『東京物語』の映写用プリントのショット#616に対応する箇所においてもっとも顕著である。既述の、真夏の昼下がりに日陰を生んでいる丸屋根の桟橋を縦の構図で捉えたあの幻のショットと同じ場所をほとんど同じ構図に収めながら、けれどここでは岬の稜線から昇って間もない夏の陽射しをもって無人の桟橋を逆光のうちに眩く透かしたこのショットは、母親の危篤の報を聞いて尾道の実家に馳せ参じた東京の子供たちが死に瀕している老母の褥に集った昨晩の場面と、すでにその最期を看取った彼らが老母の亡骸の傍らで首を垂れる明朝の場面とのあいだに、あたかもこれが来たるべき老母の死の瞬間を直接的に画面上に提示することを忌み、観客の視線に対してそれを覆い隠すかのように、その生前と死後とを隔てて挿入され、いわばこの老母の死を象徴することになる情景ショット群のシークェンスの冒頭に置かれたものである。ところで、『東京物語』の“ネガ・シート”には、このショットに対応する6片のカット尻が残されている(144-1①~⑥)。そこに併記された撮影データによれば、おそらくこれらのショットは、キャメラを一カ所に据えたまま一定の時間ごとに作動させ、撮影されたものであり、それらの現像の結果を待って、そこに定着された夏の早朝の陽射しの次第からそのいずれかが最終的にOKテイクとされたのだろう。

要するに、現存する『東京物語』の映写用プリントのショット#616をめぐっては少なくとも6つのテイクが実際に撮影され、それらのうち監督によってもっとも適当と判断されたものがOKテイクとして本篇に採用されたのである。ただし、144-1①から⑥までの6つのテイクのうち、そのいずれが本篇に採用された当のものであるのか、粒子のつぶれたデュープ・プリントにほかならない映写用プリントのみを唯一の指標とする以上、もはやわれわれにはこれを確言する術はない。そしてこのように、あるショットをめぐって構図をまったく同じくする6つのカット尻が貼付されていることは、この“ネガ・シート”が作成された時点では、それらのテイクのいずれをOKテイクとするべきか依然として決定されていなかったことを意味しているに違いない。『東京物語』の“ネガ・シート”には、映画作品の完成を待たずして“ネガ・シート”の作成作業が進捗していたことを示唆する例がほかにもある。老母の死に目に会えなかったことを悔いてか葬儀を中座し、寺院の縁側に腰を降ろして虚ろに佇む末弟に、喪服姿の義理の姉が彼の背後から声をかけ、焼香のために座に戻ることを促すシークェンスに続いて、傾斜のある墓地に立ち並んだ墓石群が銀幕上に映し出される。この、現存する映写用プリントのショット#670にまさしく対応するカット尻(153#23A)それ以外にも、おそらくは同じ墓地を異なる構図で捉えた別テイクのカット尻が、“ネガ・シート”の該当箇所には残されている(153#①, 153b23A)。

本篇の完成を待たずして『東京物語』の“ネガ・シート”の作成作業が進捗していたことは、このような事実からしてほぼ疑いない。その限りにおいて、この“ネガ・シート”は、ひとたびこれを『東京物語』をめぐる他の資料体と対照するならば、生成論的な観点から一本の映画作品を分析するための貴重な契機たり得るかも知れない。とりわけ、『東京物語』に関しては、小津安二郎その人が実際に製作現場で使用した撮影台本が今なお遺されている※45。すでに撮影済みのシーンやショットが次第に朱線で消されていき、台詞の追加や削除は随時鉛筆で書き込まれ、必要に応じてシークェンスの変更を箇条書きで確認し……。そこには『東京物語』を監督する小津自身の手によってその製作の過程そのものが刻印されているといえる。ところで、この撮影台本の1ページ目には冒頭のシークェンスがそのまま絵コンテとして描かれているが(図1)、この絵コンテを構成する都合6つの線画のうち、②という番号を割り振られた線画が図示している構図は、まぎれもなくあの幻のショットのものである。現存する映写用プリントからは消滅しているにもかかわらず、波止場の桟橋を覆った丸屋根を石燈籠越しに望む最初のショットに連なる二番目のショットとして蓮實重彦が記憶していた、丸屋根が生む日陰に隠れて船の入港を待つ人々の佇む真夏の昼下がりの桟橋を縦の構図で捉えたそのショットは、小津自身が彼の撮影台本にこの絵コンテを描いた時点では、明らかに『東京物語』の冒頭のシークェンスを構成するものとして想定されており、この線画に撮影済みの朱線が引かれ、またそのネガ・フィルムがカット尻として残っている以上、実際に撮影もされていたのであるが、しかしもはや問題はこのことにはない。

ここで注目すべきは、撮影済みを表す朱線が引かれたこの線画のうえからインク文字で「オミット」と記されていることである。映画の製作現場では省略ないし割愛の意味で用いられるというその言葉は、この撮影台本を通して幾度となく見受けられるが、そのすべてが朱線を引かれた線画のうえからインク文字で記されたものでは必ずしもなく、撮影されるべきショットの内容を説明する卜書きの傍らに鉛筆で書き込まれている箇所などもある※46。尾道の実家で旅支度をする老父母の姿を見守った場面に続いて、工場の煙突や駅のホームなどの情景ショットのシークェンスが挿入され、やがて東京の下町で長兄が開業している小さな医院へと場面を移行させることによって、『東京物語』の最初の舞台転換がなされる。撮影台本にしたがえば、空き地に立つ医院の看板のショットに継起して、医院の診察室が、さらには二階への階段が映し出されるはずであった。現存する映写用プリントからは消滅しているこれらのショットのうち、シーン#9となる医院の診察室の様子は実際に撮影され、そのカット尻が残されている(9-1, 9-2)。けれどその一方で、二階への階段のショットに対応するカット尻は少なくとも“ネガ・シート”のうちには見当たらず、またこれをシーン#10と規定している撮影台本では、該当する卜書きの右肩に「オミット」と書かれている。要するに、とりあえずの本篇とされる現存の映写用プリントに存在しないこれらのショットのうち、二階への階段のショットは、実際に撮影されたにせよ撮影されなかったにせよ、“ネガ・シート”作成の時点であらかじめ割愛されており、他方、確かに撮影された医院の診察室のショットは、本篇への採用を前提に“ネガ・シート”に保存されたものの、その作成の以後に割愛されたことになる。

撮影台本に「オミット」と記され、すでに“ネガ・シート”にも撮影記録のないショット、すなわち、実際に撮影されたにせよ撮影されなかったにせよ、“ネガ・シート”作成の時点ですでに割愛されてしまったショットはほかにもある。たとえば、義理の娘と連れだって東京見物に出かけた老父母が、その帰りがけに未亡人の彼女がひとり住まうアパートに立ち寄る場面で、彼らが見入る戦死した次男の写真がわれわれに明示されるはずだったことを撮影台本は示唆してくれるが、カット尻として残されていないこのショットに該当する卜書きは縦線で抹消され、その下部にはやはり「オミット」と書かれている。そしてさらに、撮影台本には「オミット」と記されているにもかかわらず、カット尻としては存在しているショット、すなわち、当初の想定に基づいて疑いなく撮影され、本篇への採用を前提に撮影データとともに“ネガ・シート”に保存されたものの、その作成の以後に監督の判断のもと最終的に割愛されたらしいショットとして、丸屋根が生む日陰に隠れて船の入港を待つ人々の佇む真夏の昼下がりの桟橋を縦の構図で捉えた、あの幻のショットがあるのだ。

この限りにおいて、『東京物語』の“ネガ・シート”は、かつて件のショットを本篇の冒頭のシークェンスのうちに目撃したとする蓮實重彦の記憶を証し立てる絶対的な根拠とはなりがたい。それでもなお、それが小津安二郎自身によってこの映画作品の冒頭のシークェンスに組み込まれるものとしてあらかじめ想定され、実際に撮影されていたことにはもはやいささかも疑う余地がない。そしてここで仮に、現存する『東京物語』の上映用プリントが、オリジナル・ネガからジェネレーションを重ねたことによる画質の劣化それ以外のいかなる変化も被ってはいない単なる複製に過ぎず、したがって編集作業を完了させた監督の最終的な判断をなんら過不足なくそのままそこに反映しているとすれば、そこから割愛されたはずのショットを目撃してしまった蓮實重彦の記憶は、ある瞬間に小津安二郎の思考へと、さらにはその視線へと生成しながら、まさに『東京物語』の製作現場に立ち会っていたことになる。あるいはむしろ、不断の現在を生きる生産的な記号としての映画、動く映像としてのその生命の生々しさを肯定することを主張した蓮實さえが、ここでは小津的な状況をめぐる否定形の言説を弄せしめる神話的な磁場に図らずも拘泥されてしまったのだろうか。

VI

小津安二郎その人への生成を通して、蓮實重彦は、いかにも小津らしい表現、いかにも小津的な状況に相応しい魅惑的なあの幻をついに映画館の闇のなかで夢想したのだろうか。ところが、たとえば『東京物語』でファーストの撮影助手を務めた川又は、尾道でのこのショットの撮影に実際に立ち会っていた歴史的な事実がことによると自らの記憶を歪曲しているのかも知れないが、と一応の留保をしたうえで、スタッフ試写で上映されたプリントの冒頭のシークェンスにこのショットを目撃したことを覚えている、そう証言する。熱海での最終のロケーション撮影から6日後となると同時に、全国一斉の封切りの6日前でもあったこの日、要するに、編集を詰めるために残された期間のちょうど中日に行われたスタッフ試写において、監督の判断による若干の変更が施され、ここで件のショットの割愛が決定されたとすれば、のちに割愛されるだろうこのショットが依然としてスタッフ試写用のプリントに残っていても不思議はない。わけても封切り日が切迫するなかで、不幸にも見舞われた現像所の火災によってオリジナル・ネガが焼失するという混乱のもとでは、スタッフ試写に用いられたポジ・プリントまでがそれと知ってか知らずか本篇として各地の配給に回され、もしくはフランスへと輸出されるような事態が発生したと考えられなくもない。

だが、いずれにせよ、このオリジナル・ネガの焼失それ以降、もはや『東京物語』それ自体が、再々の上映にあたって映画館の暗闇で目を凝らす誰もがいつまでも本質に到達することのないまま永遠にその荒んだ表層を徘徊せざるを得ず、さらにはこの永遠の徘徊を介してその神話性の磁力を次第に強固なものとしていくような、中心を欠いた周縁ではなかったか。銀幕上に固有の空間と時間とを創出し続けて止まないその光と影の滑走に剥き出しの瞳を晒し、この特異な体験から発話への欲動に衝き動かされたはずの誰もが、しかしひとたび口を開けば、たとえそれがいかなる言葉であろうとも、そこで弄された言葉のことごとくは、小津らしい表現、小津的な状況をめぐる言説へと不可避的に回収されずにはいられないような、まぎれもない神話そのものではなかったか。あらかじめ失われた『東京物語』のオリジナル・ネガ、今やただ否定形を孕んだ言説においてのみ存在することの可能なこの中心をとうに参照し得ない以上、映画館の闇のなかで魅惑的なあの幻の生起を目撃したという蓮實の映画的な記憶の不確実さを非難することも、あるいは逆にその確実さを擁護することも、もっぱら蓋然性の名において許される抽象的な行為に過ぎない。今日、なんら蓋然性におもねるまでもなくここでわれわれに断言できることとは、その幻のショットが『東京物語』の冒頭のシークェンスを飾るものとして小津自身によって想定され、実際に撮影されてもいた事実を“ネガ・シート”が証し立てていること、そして、ポジ・プリントから焼かれた複製としてかろうじて現存する映写用プリントにはこのショットが存在していないこと、それだけだ。 世界の映画史における神話的な小津作品、『東京物語』の唯一の真実は、おそらく、キャメラマン厚田雄春が遺した“ネガ・シート”と、デュープ・ポジとして現存する映写用プリントとの隔たりにある。“ネガ・シート”と現存する映写用プリントとのあいだに絶えず間隙を穿つ『東京物語』は、けれどなお、その神話性の磁力によってそれらを己の直前と直後に配置しながら、いかにも小津らしい表現、いかにも小津的な状況を纏った不可視の名作たり続けるのである。もはやそこではわれわれは、あえてこの神話性と即かず離れず戯れつつ、まさしく決定的な一瞬を捉え損ねたその以前と以後とを視線でなぞってみるよりほかはない。


※1 小松弘, 「シネマトグラフと日本における初期映画製作」, 『光の生誕 リュミエール!』所収, 朝日新聞社, 1995, p. 32. なお、この段落における史的事実に関する記述は、全面的にこの論考に負っている。
※2 1950年代の欧米の国際映画祭において主要な賞を獲得した日本映画は以下のとおり。
黒沢明, 『羅生門』, 1951年 ベネチア映画祭 グランプリ
溝口健二, 『西鶴一代女』, 1952年 ベネチア映画祭 監督賞
溝口健二, 『雨月物語』, 1953年 ベネチア映画祭 銀獅子賞
衣笠貞之助, 『地獄門』, 1954年 カンヌ映画祭 グランプリ
黒沢明, 『七人の侍』, 1954年 ベネチア映画祭 銀獅子賞
溝口健二, 『山椒太夫』, 1954年 ベネチア映画祭 銀獅子賞
稲垣浩, 『宮本武蔵』, 1956年 アメリカ・アカデミー賞 外国映画賞
稲垣浩, 『無法松の一生』, 1958年 ベネチア映画祭 グランプリ
※3 厚田雄春・蓮實重彦, 『小津安二郎物語』, 筑摩書房, 1989, p. 236.
※4 西洋での小津安二郎の発見が溝口健二や黒沢明らのそれに比べて相対的に遅れた理由を、「日本人が小津をあらゆる映画監督のなかでももっとも日本的な映画監督と見做して」おり、「彼の作品の素晴らしさが海外では認識されないだろうことを危惧したすえに、いかにも日本的な振る舞いではあるが、海外で失敗することよりはむしろあらかじめそれに挑戦しないことを日本人自身が選んだ結果だ」とするアンダーソン/リチーの論旨を受け継ぐように、(Joseph L. ANDERSON and Donald RICHIE,“The Japanese Film: art and industory (expanded edition)”, Princeton University Press, 1982, p. 359.)、デッサーもまた、1950年代から1960年代の初期にかけて、当時の西洋で盛んとなりつつあった映画祭やアート・シアターで上映するために、サムライやゲイシャの世界を描いた時代物など、海外に輸出するに相応しく異国趣味を存分に刺激する題材を、日本のプロデューサーや配給業者などの映画関係者があえて選択していた状況にあっては、彼ら日本映画の輸出業者にとってまさに小津の映画は「あまりに日本的であった」ことを指摘している(David DESSER,‘Introduction──a film maker for all seasons’, in “Ozu’s Tokyo Story”, Edited by David DESSER, Cambridge University Press, 1997, pp. 2-3.)。とはいえ、「今日、にわかに高まりつつある国際的な小津安二郎再評価の動きの中には、明らかに、伝統への回帰という保守的な姿勢がいくばくか反映しているのもたしかである。改めて東洋的なものに視線を注ぐといった文化の世界的な傾向に同調しつつ、小津への興味を示すといった姿勢がまったくみられないでもない」(蓮實重彦, 『監督 小津安二郎』, 筑摩書房, 1983, p. 12. )。
※5 山田宏一, 『友よ映画よ わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』, 筑摩書房(ちくま文庫版), 1992, p. 194.
※6 同上, p. 195.
※7 同上, p. 201.
※8 同上, pp. 201-202.
※9 小津安二郎, 「映画に“文法”はない」, 『小津安二郎戦後語録集成』所収, 田中真澄/編, フィルムアート社, 1989, pp. 334-335.
※10 蓮實重彦, 前掲書, p. 3.
※11 David DESSER, op. cit., p. 5.
※12 吉田喜重, 『小津安二郎の反映画』, 岩波書店, 1998, p. 293.
※13 同上, p. 293.
※14 同上, p. 6.
※15 David BORDWELL, “OZU and the Poetics of Cinema”, British Film Institute, 1988, p. 328.(デヴィッド・ボードウェル, 『小津安二郎 映画の詩学』, 杉山昭夫/訳, 青土社, 1992, p. 529.) ※16 David DESSER, op. cit., p. 2.
※17 Gilles DELEUZE, “Cin士a 2 L'image-temps”, Les Editions de Minuit, 1985, pp. 22-29.(ジル・ドゥルーズ, 「不変のフォルムとしての時間」, 『季刊リュミエール/第4号』所収, 松浦壽輝/訳, 筑摩書房, 1986, pp. 12-16.) を参照のこと。
※18 映画生誕100年にちなみ、イギリス国営放送(BBC)がトーキー以降の映画作品から選んだ「世界の映画ベスト100」に、日本映画からは溝口健二の『西鶴一代女』、黒沢明の『椿三十郎』及び『乱』、北野武の『ソナチネ』とともに、ここでもやはり小津作品としては『東京物語』が選出されている。『キネマ旬報/2月上旬号』, キネマ旬報社, 1995, p. 115. を参照のこと。
※19 吉田喜重, 前掲書, p. 9.
※20 蓮實重彦, 『監督 小津安二郎』, pp. 11-12.
※21 David BORDWELL/Kristin THOMPSON,“Film Art ; an introduction (4th ed.)”, McGraw-Hill,Inc., 1993, p. 397.
※22 蓮實重彦, 『映画はいかにして死ぬか』, フィルムアート社, 1985, p. 173.
※23 蓮實重彦, 『監督 小津安二郎』, p. 13.
※24 同上, p. 17.
※25 同上, pp. 12-13.
※26 はじめて『東京物語』のオリジナル・ネガ焼失の件を公表した出版物は、おそらく、蓮實重彦の『監督 小津安二郎』である。その p. 202. 及び、蓮實重彦, 『映画はいかにして死ぬか』, p. 146. 、あるいは、厚田雄春・蓮實重彦, 『小津安二郎物語』, p. 213. 、さらにはこの映画作品の現行プリントの全ショットをスチール写真で採録し、デクパージュ化した 『リブロ・シネマテーク 小津安二郎 東京物語』, リブロポート, 1984, p.248. などを参照のこと。それ以前に刊行された小津関連の著作物(たとえば『小津安二郎を読む』, フィルムアート社, 1982, p.215. 等)では、ネガは現存するとされている。
※27 この論考において言及される川又氏の証言は、1998年3月2日及び5月22日に行われた川又氏とのインタヴューに基づいている。なお、文章の性格上、本文中では敬称をすべて省略させていただいた。
※28 蓮實重彦, 『映画はいかにして死ぬか』, p. 146.
※29 厚田雄春・蓮實重彦, 『小津安二郎物語』, p. 213.
※30 厚田キャメラマンの特性を規定する川又氏の言葉。「厚田さんっていうのは、大きいライト使って絵に力を、艶をつけようという」(川又 , 「いちばんの思い出は「キャメラマンになれた」っていう喜びだった」, 『人は大切なことも忘れてしまうから──松竹大船撮影所物語』所収, 山田太一・他/編, マガジンハウス, 1995, p. 118. )。
※31 前述の川又氏とのインタヴューに際して、日本の映画撮影の現場における撮影監督と照明技術者との余りにも分業化した現状を嘆く文章を氏から預かった。以下に「撮影と照明の関係について」と題されたその文章の要旨を抜粋により記載しておく。「(…)映画の撮影に占める照明の役割は、撮影監督の意図する画調の色彩効果、コントラストなどを基に、撮影現場における配光作業を具体的に担当するものである。したがって(…)撮影監督と協議し、相互に緊密な連携をとって行い、撮影とは分離し得ない一体不可分の関連技術である。しかしながら、わが国では(…)分業化された作業形態が定着し、一部には(…)誤った権利主張により現場作業に若干の混乱が見られるようになる。(…)映画の製作過程に於いて撮影を前提としない照明のみの単独作業はあり得ないことであり、あくまでも撮影にともない必要に応じて行われる作業であるという本質的認識の上に立って相互の緊密な連携が必要不可分である。撮影監督は自己の責務を自覚して、技術的秩序確立のために、照明技術者と充分に意図の疎通を図り、映像技術の発展向上に努力しなくてはならない」。
※32 厚田雄春・蓮實重彦, 前掲書, p. 288.
※33 現在、松竹撮影所に隣接する鎌倉シネマワールドで公開されている『東京物語』の予告篇は、おそらくそのデュープ・プリントであり、つまるところ現存する『東京物語』本篇の映写用プリントとジェネレーションを同じくする。
※34 当時の松竹での、大船撮影所におけるネガ編集をめぐる証言。「OKのネガはたった一本しかないのですから、編集段階でそれにハサミを入れて切ったり、薬品(アセトン)でつないだりするのは非常に危険なことなのです」(池田禅, 「カットするときはなるたけいいコマで切れよと小津さんは言った」, 『人は大切なことも忘れてしまうから──松竹大船撮影所物語』所収, p. 330. )。さらに小津の場合。「編集の浜村義康と並んだ小津さんは、(…)切る箇所をぽつんぽつんと言う。(…)『麦秋』で、麦畑の遠望の中を花嫁行列が行く情景カットがあり、これも十数カットあって、第三者にはどれも同じに見えるのになかなか決まらず、そのうちに予告編を作る事になり、ワンカットぐらい判るまい、とその中の一つをつかってしまったところ、次のラッシュで、おい、一つ抜けてるぞと指摘され、ぞっとしたという」(吉田剛, 「松竹大船ばなし」, 同上所収, p. 311. )。
※35 蓮實重彦, 前掲書, p. 143.
※36 同上, p. 143.
※37 同上, p. 174. これまでに本稿の筆者が参照し得た以下のフランス語によるシナリオでは、それが実際の撮影台本に書かれた日本語をそのまま仏訳したものであるため、これに相当する表記は認められなかった。
Yasujir� OZU et K冏o NODA, メLe Voyage � T冖y簒, traduit par Michel et Estrellita WASSERMAN, Publications Orientalistes de France, 1986, p.7. を参照のこと。
※38 蓮實重彦, 『映画はいかにして死ぬか』, p. 174. 川又氏によれば、とりわけ小津作品の場合、こうした可能性はほぼあり得ないという。
※39 同上, p. 146.
※40 厚田雄春・蓮實重彦, 『小津安二郎物語』, p. 281.
※41 同上, p. 287.
※42 蓮實重彦, 『監督 小津安二郎』, p. 245.
※43 厚田雄春・蓮實重彦, 『小津安二郎物語』, p. 252.
※44 厚田氏の遺品には、氏が携わった幾つかの映画作品の製作日程を子細に記した手帳類が含まれており、今日われわれが当時の映画製作の実際を推し量るうえでこれを示唆する貴重な資料となっている。なお、『東京物語』の撮影記録については、すでにその内容がそのまま活字に起こされている。蓮實重彦, 『監督 小津安二郎』, pp. 228-245. を参照のこと。
※45 この撮影台本は、すでにその全ページが複写され、出版物に転載されているが、その印刷の具合いから小津自身による書き込みなどの細部を読み取ることはいかにも困難であるように思われる。『リブロ・シネマテーク 小津安二郎 東京物語』, pp. 293-326. を参照のこと。
※46 「オミット」という言葉自体は正確には撮影台本中に10回用いられているが、さらに一カ所、やはり朱線で消された線画のうえから「このカット 不使用」と書き込まれているところがある。


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