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映画の痕跡、痕跡の映画
─ 「東京物語」の撮影台本 ─


『東京物語』の撮影台本は全124ページからなる。何度も丸められてページが繰られたせいか、もともと藁半紙でできていた紐綴の台本は、今では縁がすっかり擦り切れていて、注意して扱わないとすぐに千切れてしまいそうなほど痛んでしまっている。印刷された文字を除けば、主として鉛筆、色鉛筆、および万年筆が書き込みに用いられているが、とりわけ鉛筆で書き込まれた文字には薄れて判読しづらくなってしまったものが多く、色鉛筆は擦れて滲み、万年筆は裏写りするなど、その書き込まれた情報量の多さにもかかわらず、必ずしもすべてのものが読みやすいものであるわけではないのが現状だ。ともあれ、ここではその書き込まれた情報の種類を整理して、何がどのように扱われているのかを極く簡単に解説するのがとりあえずの目的なので、対象を判読可能なもの、頻繁に登場する書式に限って話を進めてみたい。

どこの頁でも良いが、撮影台本を開いてみると文字や線や記号、そしてときには絵コンテ風のスケッチなどがさまざまに書き込まれている。これらは一度に書かれたものではないので、そこには前後関係がある。では、この前後関係について一体どのようなことを考慮しなければならないのか。いくつかの例を取って考察してみよう。 まず、各頁で最も目に付くであろう赤鉛筆で書かれた大きな×印。これはその部分の撮影が終了したことを示す記号なので、当然撮影中に書き込まれたものだ。ショット番号を示す数字に入れられた赤いチェックも、該当するショットが撮影済みであることを示していて、やはり撮影の進行にしたがって書き込まれたものだと分かる。こうした前後関係は比較的簡単に推測できるものなのだが、同じく赤色の色鉛筆で各頁の上部に書き込まれた二本の横線、およびショットの区切りを示している縦の赤線が、やはり撮影中に書かれたものであるかといえば必ずしもそうではないだろう。段差を付けられてシーンごとの区切りを明確にしているこの横線には定規が使われているわけではない。しかし、縦の赤線の方はしばしば定規を用いて引かれ、それが机上で書かれたものであることを伺わせるからである。それだけでなく、×印、横線、縦線の何れも、青色、時には緑の色鉛筆で記されている場合があり、しかもしばしば赤色で書かれたものと重複さえしていることが事態を複雑にしている。もちろん推測をすることはできる。例えば、小津は現場に少なくとも赤色と青色の二本の色鉛筆を携行していて、準備段階や撮影中は赤を使っていたが、現場での変更や新たな決定がなされたときは青色その他を使ったのだろう、と考えることは可能だ。だが、後に見るように何れにせよ誤差や例外を含むこうした観測は、残された撮影台本を読むうえで解釈の指針とはなるにしても、それ自体で何か別のものを見ることを可能にするわけではないのだから、あくまでもある程度の妥当性を持った指針に留めるべきだろう。このことを確認したうえで、書き込まれたものの前後関係からどのようなことが考えられるのか、もう少し例を当たってみる。

『東京物語』の撮影台本には、箇所こそ然程多くはないものの絵が描かれているところがある。例えば一頁目に鉛筆で描かれている六つの絵は、『東京物語』を見たことがある者なら、すぐにそれが冒頭の実景ショットの絵であることが分かるだろうし、もう少し関心のある者なら、現存している『東京物語』の冒頭にはないショットの絵がそこに含まれていることに気が付くだろう。それはこの絵がラッシュあるいは編集の段階で描かれたことを推測させる。また一方、例えば十九頁目に描かれている絵の場合、明らかに人物の位置関係の概略を示しただけのものだから、これは演出に当たってのメモと考えるのが妥当だ。すると、同じ絵といってもそれぞれに描かれた時期が異なる少なくとも二種類があり、一方は完成したフィルムの異同に直接的な関連をもち、他方は演出に関して付随的に生まれた備忘だろうということになる。つまり、撮影台本に書き込まれた情報は、たとえ絵のような具体的なものであっても、完成したフィルムの形態への関与の仕方が異なるのである。

このように解読の一般的な指針を導きだすこと、そして解読から得られた結果が現在の映画の姿とどのような関わりを持っているのかを検討すること。この二点は映画がどのようにして現在の姿をとるに至ったのかを解明するうえで非常に重要だ。しかしその反面、そこには完成した作品との予定調和に陥ってしまうという危険が絶えずつきまとう。出来上がった映画を前にしている者にとって、撮影台本に残された情報とは、多少の混乱はあっても、そこから出発していずれは因果関係と継起的順序の整合性に回収される過去の痕跡となりがちだからだ。撮影台本には確かにさまざまな情報が書き込まれている。それは判読困難な記号であったり、映画が今とは別の形をとったかもしれないことを伺わせる痕跡だったりするが、要は単なる解読に終わらず、如何にそれらの記号を新たな容貌のもとに復活させるかということである。

II

書き込みにあたって小津はいくつかの筆記具を用いている。その使い分けにどのような意味があるのか、それを指針としてみたい。

鉛筆

鉛筆で書き込まれている情報には三種類ある。まず撮影前にショットの番号(およびカット割り)が鉛筆で記されている。例えば六七頁、久しぶりに邂逅した笠智衆と東野英治郎と十朱久雄の三人が、小料理屋の座敷の卓を囲んで歓談するという小津がしばしば設定する状況では、鉛筆で記された番号が棒線で連結されているが、これは中抜きで撮る同じ構図のショットの配列を撮影前に考察したことを示したものだ。撮影前に、というのは、鉛筆で書かれた番号のうちいくつかは赤鉛筆でチェックが入っているからである。ただし、ショットまたはカット割を示す番号のすべてが鉛筆で書かれているわけではない。しばしば赤鉛筆で書かれている場合もあるのだが、これは撮影現場で書かれたものと思われる。三七頁の終り、中村伸郎が老夫婦を風呂に誘いに二階に上がろうとする場面では、9の番号だけが赤鉛筆で記されている。該当するショットは、立ち上がって店に出ていく杉村春子をどんでんを返して追った後、さらに今度は手ぬぐいをもって二階に上がろうとする中村伸郎を、今度は軸をやや斜めにして切り返したショットで捉えたものだ。やはりそこに赤鉛筆で記された鉤の手状の区切り(「アクション・カット」を示す)と同じく、おそらくはセットの問題で現場で追加したものだろう。

次に鉛筆は撮影中のメモとして使われる。構図や人物配置のラフスケッチとして用いられることは既に述べたが(十四、十九、あるいは六一頁など参照)、その他にも台詞の変更、追加を示すこともある。冒頭、自分の机が廊下に出されてしまったことに抗弁する村瀬禅の台詞の一つ(七頁)は、台本では「ぢゃ僕どこで勉強するんだい」としか書かれていないが、その下に「試験あるんだぞ」との台詞が鉛筆で書き込まれていて、これが新たに採用された台詞であることが分かる。さらにまた、台詞だけでなく、演出上の追加や変更も鉛筆で記される。同頁で言えば、「どこだって出来るぢゃないの!」と言って階下に降りていく三宅邦子は、単に降りていくのではなく、「ハタキを拾って」から降りていくのである。同様に、長男の家の二階に案内された笠智衆は「上着をぬ」ぎながら会話をするのだし(十三頁)、熱海から突然帰ってきた老夫婦を詰問しようとする杉村春子は、「団扇をもって」から二階に上がっていくのである(六〇頁)。

東京物語撮影台本の1ページ
図 『東京物語』(1953)の撮影台本の一頁(一0六〜一0七頁)。
笠智衆と原節子が尾道の夜明けを迎える場面
鉛筆で記された情報のもう一つは、撮影終了後、ラッシュを見終えた後か効果音や音楽(Mで示される)も含めた編集段階で書き込まれたもので、フィルムのフィート数や、冒頭や終り近くの尾道の実景ショット描いた絵はこれにあたる(一、一〇三、一〇九頁など)。だが、現在目にすることのできる映画は、絵コンテに相当するこうした絵に必ずしも則しているわけではない。冒頭の波止場のショットが映画にはないことは既に述べたが、例えば一〇六頁にある寺の遠景を示した絵に相当するショットも実際にはない。こうしたことから、これらの絵はその箇所に挿入される実景ショットの種類や配列を検討した跡だと思われるが、同じことは音に関する書き込みについても言えるのである。原節子が老夫婦をアパートに招いた晩に店屋物をとる場面では(四九頁)、「電車入る」と効果音の指定がなされており、確かに遠くを走る電車の音が聞こえてくる。一方、葬儀の後、原節子が東京に戻る日が来たことを笠智衆に告げる場面(一一七頁)の「ボー」という船の汽笛の指定は、発動機の音に代えられているし、一〇六頁の同じ「ボー」という効果音指定にいたっては実際には何の音も入れられていない。

万年筆

万年筆(あるいはペン)での書き込みについてはそれほど問題はないだろう。それが実景の指定(五七頁)であれ、フィート数(九九頁)であれ、あるいは熱海の旅館で聞かれる流行歌の題名(五六頁)であっても、撮影後に書かれたものであることはほぼ間違いないからである。そのことは、鉛筆で書かれた撮影中に生じた変更を、後から万年筆で上書きしている(四九頁)ことからも分かるのだが、万年筆の書き込みの場合、後から書かれたという点で興味深い状況が個別的にいくつかある。例えば笠智衆と東山千栄子の二人がバスで東京見物をする場面(四一、四二頁)は、突然陽気な音楽が鳴りだして多くの人体が等しく振動するという奇妙に忘れ難い場面だが、大掛かりという意味では『東京物語』で最も困難なものだった筈のこのロケ撮影のカット割りは、この撮影台本で判断するかぎりでは、どうやら定まっていなかったらしいのである。その効果から考えると僅か9ショットしかないことに驚かされるこの場面は、おそらく万年筆での書き込みがなされたと思われる編集段階では、13ショットとして構想されており、最終的には3と4にあたるショットが省かれている。ある程度の構想はあったものの、台本にはなくやはり現場でなされた決定を、あとから万年筆で書き足しておいたと思われる箇所は他にもある。例えば、一一七頁、東京に戻る原節子が学校に出掛ける香川京子と玄関で最後の別れをする場面がそうだ。台本にはうっすらと鉛筆で書かれた追加分のカット割を示す線が残っていて、そのうえを定規を使った赤鉛筆でなぞった後、さらに撮影したショットの内容が、台詞とともに簡潔に記されている。

色鉛筆(赤鉛筆その他)

台本になされた書き込みのうち、色鉛筆でなされたものが最も目立って数が多く、またしばしば解読困難である。ともかく、推測できる範囲から述べてゆくと、まず、台詞を喋る人物名の上部に赤や黄緑や青などの色鉛筆で印がつけられている場合、それは同じ色のショットが同じ人物を同じ構図で撮ったものであることを示している(一一二頁など)。また、最も多く使われている赤鉛筆は、それが鉛筆でなされた書き込みであれ、同じ赤鉛筆でなされたものであれ、撮影(または処理)の済んだ対象に対してチェックする役割を果たしている。そうしたもののうち、各頁に見られる大きな×印はその箇所の撮影が終了したことを示していることは既に述べたが、赤色と青色の×印が同じ頁に共存していることはどういうことなのか(例えば七二頁)。まず考えられるのは撮り直しをした、あるいは二種類のOKテイクをだした、ということだ。だが、例えば六八頁には青色のみで×印が書かれており、十二頁にいたっては赤色で×印が二回書き込まれているのだから、必ずしもそうとは言い切れない。

おそらく赤色と青色の使い分けはいつも守られていたわけではないという事情があるのかもしれないが、これまでに述べてきたことも総合して考えると、筆記具の違いには、準備、クランク・イン、撮影、クランク・アップ、編集といった映画の製作段階における前後関係と、更に同じ段階内での前後関係が関係していることが分かる。つまり、実際には撮影中でも次の日の構想を練り、撮影中に変更が為され、ラッシュを見た後は覚書を書くというサイクルがあったはずだから、例えば同じカット割りの準備と言っても、クランク・イン前になされたものと、撮影に入ってもう一度考え直されたものでは、前後関係が生じるのである。すると、まず、鉛筆はすべての段階で用いられるが、既に述べた万年筆で上書きされたものばかりでなく、例えば消しゴムで消した跡や青色で上書きされたカット割り(六八頁)が示すように、原則としてその段階内での初期のものであるといえる。次に、青、時には黄緑の鉛筆での書き込みは鉛筆のものよりは新しいが、七〇頁に見られる青色で書かれた「アクション・カット」を示すA-Cという記号に、赤色の×印が付けられていることからも分かるように、赤鉛筆よりは古い。先に述べた実景ショットの鉛筆で書かれた絵コンテは、まず青色の円で囲まれ、更にそれに赤色の×印が付けられるという具合である(一〇九頁など)。万年筆での書き込みは、準備段階、撮影中は用いられず、撮影終了後の覚書、あるいは編集時の指定として使われる。最後に赤色の色鉛筆は、カット割を示す定規を用いて引かれた線以外は、撮影中、あるいはある処理を終了、変更したことを示す際に使われる。したがって、例えば一〇九頁に万年筆で指定されたフィート数が修正されるときには赤色が使われるのである。

もちろんこうした規則には例外がある。一つだけ挙げるなら、一一四頁にあるフィート数の指定は万年筆で書かれており、状況からして明らかに編集時に書かれたものだが、その修正は鉛筆で為されている。だが、はじめにも述べたように問題は規則ではなくあくまでも解読の指針なのだから、「例外」は個々の事例によって判断できれば十分である。本当に重要なのはこの撮影台本から一体どのような新しいことが見えてくるのかということだ。それは映画の痕跡として残された台本から、別の『東京物語』を、むしろ痕跡の映画として見出す作業にならねばならないだろうが、では例えばどのようなことが考えられるのか。

III

撮影台本にはさまざまな書き込みが各種の筆記具や記号を用いてなされており、解読が容易ではないことには少し触れたが、逆に言えば、スクリーンには継起的、均質的なものとして映るものが、台本では重層的、複雑ではあっても分解することが可能なものになる。例えばデヴィッド・ボードウェルは、小津に見られる「アクション・カット」について次のように述べている。

「小津映画は、おそらくこれまでの映画の中で最も首尾一貫して完全なアクションの一致を行っている。『若き日』のスキーのシーンに見られるように、彼はこの技術を早くから身に付けていた。『晩春』以後、人物が立ち上がりはじめると、話法は必ずといってよいほどアクションを持続させつつ遠くからのショットにカットした。小津は主要な身振りだけでなく、補助的な身振りをも一致させた。」(『小津安二郎 映画の詩学』p.178、デヴィッド・ボードウェル、杉山昭夫訳、青土社、1992)

確かにその通りで、『東京物語』についていえば、東山千栄子が孫を連れて土手に遊びに行った際、しゃがみ込む動作で大胆につなげて一気にロングから寄っていたことがすぐに思い出されるし、「補助的な身振り」での「アクション・カット」も数多く見受けられる。したがって、全く正当な指摘というほかないのだが、台本を眺めていると、どうも趣が異なってくるのである。鉛筆の項目で述べたように、撮影台本には演出上の追加も記されているが、「ハタキを拾って」二階から降りたり、「団扇をもって」店に出たり、「徳利をとり」相手にさしたり(六八頁)、「時計出」して持ってきて、「フタをあけネジまき」したり(一二〇頁)、さらにまた、すわって「扇と」ったり(一一八頁)と、「補助的な身振り」の演出が続出する。もちろん、こうした演出は会話の間合いをとったり、きっかけを作ったり、あるいはそもそも画面に動きを導入することで運動による視覚的なリズムを作りだしているといえるだろう。その証拠に「ウチワ」、「トマル」、「ウチワ動く」、「トマル」といった書き込みが台詞に連動するようになされている(九二、九三頁など)。こうしたことは、原節子が老夫婦との会話の合間に団扇をとってあおぎはじめたり、さらには酒を飲みながら「眼ウナヅク」とか(六八頁)、会話の途中で「頭下げて」、「眼下げる」、「原目上げる」(一一八頁)などの目の芝居によって、さらに人物の感情表現にまで至っているといえるかもしれない。だが、如何に演出上の工夫であり、団扇が夏の小道具だとしても、これらの書き込みはやはりかなり異様であると言わざるを得ない。なぜか。例えば一一八頁の「目下げる」の書き込みのある箇所は、東京に戻る原節子と笠智衆が最後の会話をするところなのだが、実は原節子は単に目を下げているのではなく、義父に飲ませるための酒を借りにいった際、ちょうど隣室の主婦がしていたように、先程まで畳みかけていた洗濯物を手にするために目を下げたのである。しかも、この書き込みのある直前に笠智衆は台本にある通り「すわって」、原節子は書き込まれているように「座る」にもかかわらず、そこではアクションカットは行われずに、目を下げて洗濯物を手にするところに「a-c」と書き込まれているばかりか、そもそも原節子のこの洗濯物を手にとるという行為は、「扇とり」というすわった笠智衆が直後に行う動作に呼応しているのである。無論、扇を手にした瞬間に「アクション・カット」が行われていることはいうまでもない。座るときよりも、物を手にするときに「アクション・カット」が行われるのは、原節子が香川京子に別れを言う直前の場面でも同様だ。二人は相前後してしゃがみ込むが、「アクション・カット」がなされるのは、しゃがみ込んだ香川京子が本を手に取って鞄に詰めようとするときなのである。

物を手にするという行為は、その頻度によって『東京物語』においてはかなり特異な行為と言える。撮影台本に書き込まれた小津の夥しい書き込みを見ると、それが「主要な身振り」、「補助的な身振り」といった「アクション・カット」が行われる際の行為の分類からは逸脱したものに思われてくるのだ。「ホータイ」という言葉の書き込まれている箇所では、山村聰の言う台詞は「おい、ちょいと包帯取って」というものだし、はるばる上京してきた老夫婦にはふさわしいのかもしれない夏の日の傘は、なぜか置き忘れられそうになって再び手に取られる。こうした行為の系列にあって、盃を手にして口に運ぼうとしたり、あるいは荷物を「持って」二階に上がろうとする時になされる「アクション・カット」は、それが「補助的な身振り」だから、小津がアクションの一致を絶えず念頭に置いていて「補助的な身振り」でさえも注意を怠らなかったから、なされたのだろうか。「アクション・カット」とは、本来そこでカットが行われたことを観客に意識させないための技法である。「一番見たいと客が思うものは隠せ」とは小津の言葉だが、映画の裂け目はもちろん、何かを手に取る行為をわざわざ見に行く観客がそれほど多いとも思われない。あるいは問題はむしろ小津の方にあるのだというべきかもしれない。これほどの頻度で何かを手に取る映画に執着した理由が何であるかは分からない。しかし、少なくともこの点において、またしても『東京物語』という映画が謎めいた映画になったことは確かなのだ。


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