ロゴ

[小野秀雄とコレクション]

小野秀雄による錦絵新聞の発見

土屋礼子


小野秀雄がその最後の著書となった『新聞錦絵』を出版したのは、一九七二年(昭和四十七)七月、彼が八七歳の時であった。以後、これらの錦絵に興味をいだく者はこの書をまっさきに参照してきた。しかし、錦絵新聞に対する彼の関心は晩年になってからではなく、彼が最初の著書『日本新聞発達史』を執筆した三十歳代の頃に始まった。『新聞研究五十年』における彼自身の記述によれば、それは大正の半ば頃、彼が『日本一』という雑誌を主宰した後、東京日日新聞社に入社し記者として働いていた時期にさかのぼる。「ある時、お成り街道(旧黒門あたりの電車通り)を歩いていると、二、三件の絵草紙屋が見つかった。そこで私は、『東京日日新聞』と横書きの題字のある錦絵を発見した。それを買ったのが、縁になって、新聞のかたわら、瓦版も収集することになった。」(同書一〇〇頁) 実際、一九二〇年(大正九)四月に東京日日新聞社主催の春季皇霊祭十大先覚記者追悼会に、小野は初期新聞類とともに「台湾征伐に従軍せる岸田吟香の図(東日絵付録)」を陳列品として出品している (1)

このように彼は原資料を収集しながら新聞の歴史的研究を練り上げ、一九二二年(大正十一)『日本新聞発達史』を著し、新聞史の中に短い記述ながらも初めて錦絵新聞を位置づけた。その全文を引用しよう。「四、錦絵新聞の流行/是等の新聞が発刊された頃、絵草紙屋は新聞紙が世上の人気に投じたるを看破し東京日日及び郵便報知に掲載されたる卑俗なる事件を一枚摺の錦絵となし、新聞名と其記事の掲載されたる号数及び其記事を絵の上に書き入れて発行した、東京日々新聞の錦絵は芳幾の画にて條野、岸田等の記事、郵便報知の錦絵は芳年の画であった、是が新聞錦絵の元祖となり同一の絵を小型に描き「東京日々新誌」と題せる「よし藤」の錦絵、唯「日々新聞」と題せる貞信の錦絵続々出で、後には「大日本絵入新聞」と題し新聞より独立せるものも表れた、明治八年には「大阪錦絵新聞」も大阪に出版され、一時錦絵新聞は大流行を来した」

ここで注意深くお読みになられた方は気づくであろう。小野は「錦絵新聞」と「新聞錦絵」の両方の語を混在させて用いている。その理由を彼は自ら「我国初期の新聞と其文献について」の中の「一四 新聞錦絵と錦絵新聞」で明らかにしている (2)。すなわち、『東京日々新聞』のシリーズをはじめとして東京で発行されたものは「新聞錦絵」で、「大衆向けの東京土産」であるが、大阪では「純日本式のグラフィック」として発行された「錦絵新聞」であるという。小野は『新聞錦絵』の中でも再度、「私は東京の錦絵は「新聞錦絵」、大阪の錦絵は「錦絵新聞」と名づけて区別した。」と繰り返しており、これは彼の一貫した主張であった。しかし問題なのは、東京、大阪、および京都などその他の地域で発行されたものすべてを総称してどう呼ぶかという点で、彼が明確な答えを出していないことである。つまり『日本新聞発達史』においては、見出しから「錦絵新聞」を総称としているように思われるし、また『新聞錦絵』では、本の題名からして、これが総称であるかとも考えられる。つまり、この「錦絵新聞」か「新聞錦絵」かという呼称の問題には、小野は自ら総称とその概念を明解に提示するかたちで決着をつけてはいない (3)

一方、小野が錦絵新聞を発見し研究し始めた頃、一般には「錦絵新聞」の呼称が使われていた。例えば、一九二〇年(大正九)に大阪天王寺公園で開催された新聞博覧会では、住吉理三郎や西村新兵衛が「錦絵新聞」を出品したという目録が残っている (4)。また、一九二四年(大正十三)十一月に吉野作造を中心に発足した明治文化研究会のメンバーの中でも、宮武外骨は「錦絵新聞の流行」(『明治奇聞』第二編、一九二五年)以来、一貫して「錦絵新聞」の呼称を用い、同じく石井研堂も「錦絵新聞」という項目を一九二六年の『明治事物起原』増訂版に加えた。さらに一九二六年(大正十五)に小野秀雄をはじめとする明治文化研究会の支援を受けて開かれた産業文化博覧会でも、「錦絵新聞」と呼んで新聞館の展示を紹介している (5)。おそらく「新聞錦絵」は、小野が率先して使い始めた語であろう (5)

では、なぜ小野は「新聞錦絵」の語を用い始めたのであろうか。ここで鍵になるのは、「東京ミヤゲとしての新聞紙」(『明治奇聞』第四編、一九二五年)という宮武外骨の一文であろう。宮武はこの中で明治八年の『朝野新聞』の記事に基づいて、幕府時代に錦絵が江戸みやげであったと同じく、明治初期には旅行客によって新聞紙が東京みやげとして買われていた事実を指摘し、それならば「其新聞の記事を錦絵に描いて、原新聞の表題と号数を入れて発行すれば、古今結合二者兼用で、開化時代の東京土産として絶好のものである、売れるに違ひない、儲かること請合といふのが岸田吟香あたりの発案であろう」と推測した。つまり、地方からの旅行客目当てに、新しい新聞紙というものの話題性と錦絵の視覚的な美しさを兼ねた開化の新商品として作られたというのである。もし、そのとおり地方客相手なら新聞記事内容の速報性よりも、芳年などの有名絵師による美術的な価値の高いものがより喜ばれたはずであろう。ならば、錦絵による新聞ではなく、新聞記事による錦絵ととらえたほうがよいだろう、と小野は考えたのではないだろうか。そう推理すれば、彼の書『新聞錦絵』に含まれるのが、有名絵師の描いた大判の錦絵ばかりで、東京で発行された『大日本国絵入新聞』や大阪発行の錦絵が全く取り上げられていないのもうなずける。

しかしながら、東京みやげとして錦絵新聞が生産されたという説には疑問が多い。確かに東京みやげとして新聞紙を買い求めるように錦絵新聞を買い求める地方客も少なからずいたであろう。しかし、新聞紙がみやげものとして生産されたのではないように、錦絵新聞もみやげとして生産されたとは考えにくい。もしそうならば、政局が安定して上京する客も増えたであろう明治十年以降にもっと錦絵新聞が盛んになってもよいはずであるが、そのようには見受けられない。また、絵草紙屋が「東京日々新聞絵附ロク芳幾筆にて繁悩ヲ極メ」と回想しているように (7)、四、五日程度のかなり短い間隔で発行されたらしいのは、なぜなのか。さらに、検閲が入ったり、正誤訂正が求められたり、発禁になったりというのは、単なるみやげの性格を越えているであろう。

ただし、みやげ説には重要な論点が含まれている。つまり、東京や大阪といった都市とそれ以外の農村を主体とする地域の間に情報格差が存在し、錦絵新聞やかわら版あるいは新聞紙といったメディアが誕生した都市における受容とはまた別の形で、各地で流通し受容されていたらしいという推測である。読者論として「みやげ」というもののメディア性は、おそらく意外な拡がりを持つテーマであり、ここでは、小野がその点にも注意を払って「新聞錦絵」の語を採用した点だけを確認しておこう。

小野が強調した「新聞錦絵」の語は、錦絵の一分野としての錦絵新聞の評価を高め、その保存と収集に寄与した。しかし一方で小野は、『地方別日本新聞史』(一九五六年)の中の「大阪府新聞史」で「錦絵新聞の続出」の項を立てて記述し、「錦絵新聞」の語も使い続けた。彼がそうして新聞史の流れに錦絵新聞を位置づけたのは、欧米からの輸入品としての新聞紙の歴史ではなく、日本にもともとあったニュース概念の内発的発展として日本の新聞史を構想したからではないだろうか。すなわち、かわら版や錦絵と新たに出現した新聞紙とをつなぐ重要な架け橋のひとつとして、彼は錦絵新聞を位置づけようとしたのではなかっただろうか。それは新聞学の研究を「日本学の一部分」と考えた彼の研究の根幹とつながっていたはずである (8)。小野自身は錦絵新聞の概念を理論的にみがきあげ、新聞紙との関係を構造的に明確にするには至らなかったが、彼にとって錦絵新聞は決して新聞研究の余興ではなく、真剣な研究対象であったことはまちがいない。

もとより錦絵新聞は、近代的新聞の枠をはみ出る存在であり、小野以降の新聞研究でもまともにこれを論じた者は僅かである。一方、小野が新聞史の中に錦絵新聞を取り込んだために、錦絵新聞に対する見方が新聞紙を基準とする方向に限定されてしまったという批判も可能であろう。しかし,小野が提示したメディアとしての錦絵新聞には、彼が構想した新聞学を越えて、現在と直裁につながるさまざまな問題が可能性としてはらまれている。小野による錦絵新聞の発見は、日本におけるニュースとメディアの歴史に独自の新たな展望を開く手がかりとして、彼のコレクションとともにわれわれに手渡されているのである。



(1) 冊子『大正九年春季皇霊祭當日の追悼記念会—先覚十大記者小伝』(一九二〇年四月発行、非売品)一頁。
(2) 『明治文化全集 第四巻新聞篇』(日本評論社、一九二八年)「解題」十三頁。
(3) なお筆者は総称として「錦絵新聞」の語を用いている。これについては、拙著『大阪の錦絵新聞』(三元社、一九九五年)の第一部を参照されたい。
(4) 『新聞博覧会報告』大阪電報通信社、一九二〇年
(5) 『中外商業新報』大正十五年十月十三日記事参照。ただし、一カ所だけ「錦絵新聞(又は新聞錦絵)」との記述があり、これは小野秀雄の主張によるものかもしれない。
(6) 鈴木秀三郎『本邦新聞の起源』(一九五九年)や吉田暎二『浮世絵辞典・定本』(一九八九年)でも「錦絵新聞」が使われており、戦前に研究を始めた人は共通して「錦絵新聞」を用いたようである。
(7) 永田生慈『資料による近代浮世絵事情』(三彩社、一九九二年)三十五頁
(8) 拙稿「戦前期新聞研究における読売瓦版・錦絵新聞・小新聞」(『人文研究 大阪市立大学文学部紀要』第五十巻題九分冊、一九九八年十二月、三九-五八頁参照。

前のページへ 目次へ 次のページへ