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[ニュースという物語]

明治の声の文化

森洋久


声は明治の文化の中に広く浸透していた。本、雑誌、新聞などの文字媒体、錦絵、新聞錦絵などのビジュアルな媒体、浄瑠璃や歌舞伎などの身体の芸能、路上の演歌師や広告宣伝など様々な媒体に声は深く関連していた。

しかも、これらの媒体同士も繋がっており、名文句のもじりや流行唄のかえ唄が縦横無人に飛び交っていた。この複雑な関係をここにすべて解きあかすことは不可能であるが、書かれたものと声の関係と、路上の演歌師の声を通して、その一端をかいま見ることにする。

書かれたものの音読

小泉八雲の短編「門つけ」(『心』一八九六年)は、「三味線をかかえて、七、八つの小さな男の子をつれた女が、わたくしの家へ唄を歌いにやってきた」ところから始まる。女の妙技に感嘆した小泉八雲は、挿し絵が入っている小唄の本を一冊買い求めた。編笠をつけ、ときには三味線や鼓の音に合わせ、かわら版の一節を唄いながら売る姿が、江戸時代の刷り物にも見ることができる。朗じて売ることは読売のみならず、物売の一般的な手法であった。明治時代になっても飴売の情景はそのままであり、八雲の別の短編「コレラ流行期に」(前掲書)の中でも口上を述べる飴売の姿が描写されている。やがてクラリネットやバイオリンなどの西洋楽器を携えた物売も登場するようになった。

声に関して朗じる、読むという行為は、読売や物売などの特殊な職業に限らない。文字媒体を朗読することはむしろ家庭でも見られる普通の光景であった。『読売新聞』明治二六年(一八九三)六月一日付録の「新聞紙の行方」には、新聞が作られ、販売され、ある一家にたどり着くまでの様子が紹介されている。その最期は「夜の伽」と題され、母が読む新聞に子供と祖母が聞き入っている様子が描かれている。

明治十年頃までには新聞縦覧所という施設が各地に普及し、新聞を読み、情報交換する人々が集まっていた。新聞雑誌を朗読する声、討論する声、ときには演説の声が満ちていた。新聞雑誌などの印刷物はあくまでも演説や討論の材料に過ぎず、声によるコミュニケーションこそが主体であった。

そればかりでなく、一人の時でも声に出して読む習慣があった。新橋横浜間に鉄道が開通した当初から、駅構内での新聞の販売が始まった。汽車の中で、乗客が新聞や本を朗読する姿が見かけられたという。たとえば、明治二五年九月一五日の『教育時事論』には「新聞雑誌流行の人心に及す感化如何」と題して「汽車の中に入れば、必ず二三の少年は、一二の雑誌を手にして、物識り貌に之を朗誦するを見るべく」とある。明治末年になってもなお汽車、電車の中で音読する様子が記録されている。

音読から黙読へ

しかし、江戸時代から続くこうした声の文化にくさびを打つように、声を禁止する公共スペースが登場した。我が国最初の官立図書館として明治五年に湯島聖堂内に開設された書籍館では、雑談と音読が禁止された。開設当初からの「書籍館書冊借覧人規則」には「館内ニ於テ高声雑談不相成者無論看書中発声誦読スルヲ禁ズ」とある。そして、その後に開館したすべての図書館に音読禁止の規則は受けつがれていった。 しかし、音読に馴染んだ学生が黙読することは難しかったようで、音読の違反に対して、徹底した取締りを行う図書館もあった。実際、音読規制があるということは、逆に音読の文化がいかに大きかったかを示していると言えよう。図書館という黙読の空間は当時の人々には、珍奇な空間であった。明治ニ四年(一八九一)の『女学雑誌』ニ五ニ号の清水豊子の記述によれば「静としてさながら人なき境の如し」と書かれている。明治三六年の旅行雑誌『旅』に掲載された「新趣向の東京見物」という記事によれば、国への土産話として、都会の図書館にあつまる数百の人々の「無言の業」が紹介されている。

大正時代になり、音読の習慣が衰退し、黙読が一般化するにつれて、図書館規則の音読禁止条項は形骸化し、消えていった。汽車、電車の中で音読する習慣も新聞の投書などで批判されるようになり、やがて消えていった。

音読の習慣が消えていく理由の一つとして印刷文化と流通形態の変化が挙げられるだろう。江戸時代には、庶民の間では貸本による読書が一般的であった。また、書生が貴重な本を手に入れようとすれば、持ち主を探して写本を作らねばならなかった。一冊の本を一家で共有したり、借りた本を暗記するほどに読むことが一般的であった。しかし、明治時代に流通機構が徐々に整備され、さらに句読点の導入や、言文一致運動などの文章スタイルの変化も起こり、新聞や雑誌、書籍が大量に出回るようになった。

句読点の普及に付いて見ると、明治十年代は句読段落の必要性は叫ばれていたものの、その認識は広く共有されるものではなかった。明治ニ六年の『国家教育』九号を見ると、句読点が広く普及した事実を受けて、句読点の使用規則の整備が論じられている。わずか十年ほどの間に句読点が広く普及したことが伺われる。

こうした文章スタイルの変化、流通の変化、図書館に代表される黙読空間の一般化に伴って、読書は黙読が中心となり、時には一人で小説に読みふけるという個人的な読書習慣が広まっていった。

路上に広がる声

新聞やかわら版の音読の文化は、江戸時代末期から明治時代にかけての書生たちの音読、吟誦の文化と並行していた。当時の文人、書生たちの学習法とは、漢籍などを素読することだった。文章のリズムをつかんで漢語の形式を幼い頃から身につける手段として重要であると考えられていた。幸田露伴の『少年時代』には書物を「文句も口癖に覚えて悉皆暗誦して仕舞て居る」ほどに音読した様子が書かれている。 書生たちはレクリエーションの場でも、愛読する漢詩や読本を暗記し、吟誦することを楽しんだ。市川謙吉は『八犬伝』の中のさわり文句が多くの書生に暗記されており、暗誦できないと肩身がせまく感ぜられたと回想している(「明治文学初期の追憶」『早稲田大学』一九一八年)。土佐自由民権運動においては、田岡嶺雲の国会誓願の檄文などを青年たちが愛吟していた。こうした吟誦は学校、寮、寄宿舎などの共同体で集団的に享受され、連帯意識の高揚に役立っていたと考えられる。文章を暗記し、人前に披露する吟誦は音読のさらに一歩進んだ形であり、唄に近い性質を持っている。実際、土佐自由民権運動では土佐民権唄という唄も存在しており、吟誦と唄は同様の目的で享受されていた。

自由民権運動が下火になるころ、舞台で、あるいは路上で政治的な唄を唄い、歌詞の書かれた冊子を配り歩く壮士たちが現われた。当時、青年倶楽部という壮士たちの団体に所属していた演歌師添田知道は「たびたび政府に叩きつぶされる政治演説会に代わって講じられた一策であった」と語っている(添田知道『演歌師の生活』雄山閣出版、一九六七年)。こうして、青年倶楽部の壮士たちは、政治運動、選挙運動などの応援に馳せ参じたという。

しかし、演歌師の歌う演歌は自由民権運動などの政治運動とは直接関係していなかったと西沢爽は分析する(『日本近大歌謡史』桜楓社、一九九〇年)。確かに演歌は、添田知道が『演歌師の生活』で語っているような、弾圧される民間発言ではなかった。例えば、「ダイナマイト節」は演歌師の第一声といわれ、演歌の代表作であったが、その歌詞の内容は不平等条約解消であり、むしろ政治の代弁とも言える。だが、演歌師は政治や社会の事実性に立脚した数々の題材を刺激的に語る役割を果たしていたことは疑いない。

路上へ出ていった演歌師たちは、路上という公共空間の特質を効果的に利用した。路上の演歌師たちは、しばしば「路傍において通行を妨害し、許可なくして路傍で工商をなす」という違警罪(明治十三年九月公布)として取り締まられた。これは演歌師によってうまく演出に取り入れられ、民間発言への政局者の弾圧ということになる。逆に演歌師が群衆に襲われる事件も起こった。日清戦争の前夜、知道の父である添田唖蝉坊は福井で中国人について口論となり警察に保護され、心配した巡査に宿まで送られたという。観客と演者が分離されていない街路という舞台ならではの事件である。現実世界とフィクションの世界が入り乱れ、混同する空間に演歌の聞き手は位置していた。

日清戦争後には、製菓会社などの商品の広告宣伝を行う軍隊ブラスバンドを模したジンタも加わり、明治時代の路上は、広く音楽に解放されていたと言える。しかし日露戦争後は、明治三九年の電車焼打、明治四十年の足尾と別子の坑夫運動、明治四一年からの赤旗事件と、政治的、思想的な運動、事件が続いたことをきっかけとして、警察は集会と宣伝行列の人数や方法に制限を加え、手続きを厳重にした(堀内敬三『ヂンタ以来』音楽之友社一九七七年)。これと期を同じくしてジンタ、演歌師などは路上から次第に姿を消していった。路上の演歌師たちの中には、政治的なものから叙情的なものへと歌詞の内容を変えていくものもあった。

路上の演歌師の運命を尻目に室内を舞台とした演歌師たちは、歌舞伎の役者たちを取り込みつつ、新派劇という一つの芸を形成しつつあった。演説は新聞縦覧所や特設の会場など室内でも十分に効果を発揮するものであった。読売壮士演歌はもともと演説を模したものであり、特に街路でやらなければならないという理由はなかった。川上音次郎のように室内を舞台とした演歌師たちは政治、戦争、不況といった題材を演目にして新しい舞台芸術を完成した。

沈黙の読者が成立する過程とほぼ時期を同じくして、路上の声は遠のき、劇場という室内の声がより大きな力を発揮するようになる。これには、たまたま同時期に路上警備が厳しくなったという現実的な原因もあったが、黙読にふける新しい読者が政治よりも文学を好むようになっていたことも挙げられる。演劇は、この読者たちを満足させるに足りる機能を備えていた。フィクションは事実性から注意深く分離されて純粋に抽出された。劇場という現実から途絶された場において、脚本家、演出家の完全な制御の下に置かれた声には、新しい空間にふさわしい語りが要求された。芸術座第三回公演「復活」の挿入歌の作曲のために、島村抱月が中山晋平に出した注文は「学校唱歌でもない、賛美歌でもない、(さりとて演歌のような)俗謡でもない歌」というものであった。こうして出来上がった「カチューシャの唄」は観賞者の心を捉え、大正三年に爆発的なヒットとなった。声の文化の次のステージが幕開けたのである。


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