[ニュースという物語]


東京絵入新聞 第三千八百二十三号付録

明治二十一年(一八八八)三月四日 
落合芳幾画
同紙連載の「裏見富士女西行」のお披露目広告。「口上」を述べているのは作者の四世中村福助。口上に、「像上の挿画は毒婦お吉が三度姿を換升た体」というのは、ヒロインが見世物芸の女芸人から大名の側室に成りあがり、はては尼法師に身をやつすという物語の趣向を異時同図法的に示したもの。同紙の雑報によると、この附録は新富座の興行舞台から客席にも撒かれたという。
東京絵入新聞 第三千八百二十三号付録
図289

東京絵入新聞 第三千八百二十三号付録

裏見富士女西行/中村福助作/久保田彦作校合/当絵入新聞へ本日より引/続毎日記載いたし候
乍憚口上
先以御贔屓様方御機嫌克恐悦至極に奉/存升る随まして私儀昨年中より病気にて既に大患にも陥り可申の所/大医方御方剤相応し加るに松本大医御差図にて大磯海水浴にて/暫く保養仕り候効験に依り再び何れも様へ御目通り致し升るハ実以/冥加至極難有仕合に奉存升扨大磯入浴中徒然の余り日々数十町/宛遊歩仕り候折柄不斗承りし一奇談ハ同地出生の女子にして/成長の后江戸へ罷出種々の悪行の末天網に罹り重き所刑に/臨みしが此者常に歌道の心懸ありて/一首の和歌を詠ぜし故いとも危ふき/一命を右歌の徳にて助かり爰に/懺悔して尼となり彼鴫立/沢の古蹟西行庵にて臨/終を遂げしといふ里人これを/西行お吉と号け夜話の/料と致せしを私覚書に/致し所持罷在候/を久保田彦作/氏に見せし所/恰もよく東京/絵入新聞の依頼も/あれバ同氏校合の上/投書して然るべしとの勧めに余儀なく草稿を贈り升た私ハ/兎もあれ同新聞御愛頑の諸君次に私し御ひゐきの/御方様幸ひに御高覧下さらバ難有奉有升る則ち/像上の挿画は毒婦お吉が三度姿を換升た体と御評判御評判

 

「裏見富士女西行」第二十四回

『東京絵入新聞』明治二十一年(一八八八)四月三日
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
「中村福助作 久保田彦作校」の新聞小説。彦作は狂言作者として黙阿弥門下にいた経歴の持ち主だが、彼の筆がどのくらい入っているかは不明である。物語じたいは、お家騒動、女清玄、江島生島など歌舞伎的プロットを寄せ集めただけのものであるにもかかわらず、百余回、三ヶ月以上におよぶ長期連載であった。

「裏見富士女西行」第二十四回
図290

 

裏見富士女西行

明治二十二年(一八八九)一月、金泉堂
国立国会図書館蔵
新聞連載中の挿絵に作者が登場していたことは、読者の興味が物語そのものよりも作者に向けられていたことをうかがわせるが、このボール表紙本においても中央に福助の肖像写真を、フレームに彼の紋所をあしらった意匠となっている。中身は回数の重複を訂正しただけで、本文・挿絵ともに新聞連載時のままである。序文には新聞附録の文面が使われている。

裏見富士女西行
図291

 

改進新聞 第三千百五号付録

明治二十六年(一八九三)六月十一日、増原熊太郎撮影
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
『裏見富士女西行』のブックデザインにも見られるように、明治も二十年代に入ると、災害報道を先駆として新聞紙面に写真やそれをもとにした銅板・石版画が登場しはじめる。新聞付録においても従来の役者の錦絵が写真に取って代わられる時代、視覚メディアの新たな展開の到来であった。

改進新聞 第三千百五号付録
図292


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