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[ニュースという物語]

政争と民衆の眼差し

北原糸子


はじめに

小野コレクション全体のなかで、幕末政争関係のかわら版は、災害に次いで大きなまとまりを示す。これは、かわら版が実際に出版された量にある程度見合ったものと考えることができる。さらに、これに幕末錦絵を加えると、幕末期の政争に関して出版された民間の情報紙誌類は膨大なものになる。この時期の民間出版情勢の、特徴は、事件を伝えるかわら版が単なる伝達媒体から風刺や批判を交えた落書に類するものを出版するようになると同時に、錦絵も絵だけではなく、文字を多用し事件の経過や解釈を伝えるものに変化することである。それが、また、明治初期、既刊の新聞記事から事件を採りだし、新聞錦絵という特異な分野を創り出す流れの前提となるものと理解されるのである。つまり、江戸時代のかわら版、錦絵と明治初期の新聞、新聞錦絵は、媒体としての性質や機能をインテグレイトさせながら、それぞれの系譜を相互に受け継いだものとすることが出来る。このことを、単純化してわかり易くいうならば、かわら版のニュース性は新聞へ、錦絵の絵画性は新聞錦絵へという図式をあげることができる。しかしながら、政治に関わる事柄について民間出版状況が示す様相は、この図式で割り切れるほど直截的な表現をとるところまで展開していない。現実の激しい政争に人々の生活が巻き込まれるなかで、漸く江戸時代全般を覆った出版統制の枠組が徐々に相対化、消滅する過程で漸く事実を伝える社会的意味が問われることになる。

このことは、幕末の政争に関わるかわら版を追っていくと自ずと明らかになる。市街戦であっても政争そのものを指し示すものは、ほとんど見られず、過去の合戦になぞらえたり、市中の混乱を単なる火事としてしか伝えていない。この理由をどのように考えるかは、江戸時代のかわら版あるいはその周辺の出版物の言説をどう位置付けるかに関わる問題を含んでいる。具体的にみていこう。

幕末のかわら版と政争

幕末の政争を伝える媒体としてのかわら版は、その多くが事実としての出来事だけをに伝え、その解説や意味を説くところがない。しかし、背後にある落首・落書の世界を考えれば、人々が手にし、耳にした情報のすべてではなかったことはすでにのべたとおりである。にもかかわらず、徳川の政府も倒れようとしているこの段階においても、なお、一般の人々は、表に現れるニュースの世界で、現実の政治に直接関わる存在として自らを位置付けてはいないかのようにみえる。本当にそうなのだろうか。

具体的に示そう。このコーナーでは、幕末文久年間の和宮降嫁問題から戊辰戦争の終結(明治二年)までの政争に関わるかわら版を扱う。

和宮降嫁問題が現実に起きた時期、京都方面で人の口の端に上った事件を年表風に表わしもののなかには、身辺の生活事情、あるいは珍事の羅列はあっても、現在わたしたちが常識として持っているこの間のホットな政治ニュースは省かれている(図175)

また、元冶元年(一八六四)七月一九日の禁門の変では、御所に砲火が飛び、京都市中は広い範囲で類焼し、市民は洛外に逃れるもの続出という大事件となったため、多くのかわら版が出た。しかし、火事を伝える従来のかわら版の体裁を踏襲するものが大半を占めた(図178〜185)。この点は鳥羽・伏見の戦いも同様である(図192〜196)

二度にわたる長州征伐も戦国期の毛利家の興亡を描くものになぞらえたり(図188、189)、鳥羽・伏見の戦いについても、関が原の合戦になぞらえるなどの趣向で、直截的な表現は採らない(図193)

この状況に変化の兆しがみえるようになるのは、徳川慶喜が大政を奉還し、鳥羽・伏見の戦いが起きて後のことである。慶応四年二月二三日、後の官報たる『太政官日誌』が京都で発刊された。しかし、この第一号は、薩長政府の正当性を内外に主張する一種の政治声明である(図198)。翌二月二四日には、江戸で幕府開成所教授の柳河春三らによる外字新聞の翻訳記事を中心に編まれた『中外新聞』が発刊された。その第一号の内容は、外国新聞の翻訳とはいえ、朝敵とされた会津藩の征討を巡る情勢分析を載せ、「此度の 朝廷の決定は全く薩摩と長州との決議より出た事なるべし」など鮮明な佐幕派の立場を表明するものであった。

江戸時代、町触が木版摺りにされた例はきわめて少ないが、三月一五日をもって大総督有栖川宮の率いる政府軍が江戸城攻撃を決定したことに対して、軽挙妄動を慎む旨の町触が二点残されている。そのうちの一点は三月二日付けで町年寄役所から出されている。町奉行所から出されたものであるとすれば、こうした類のものをかわら版に含めることを疑問視する考えも当然ある。しかし、江戸が戦場になるか否かの危機にあった時であり、ひたすら恭順の意を表すことで戦闘を避けようとした前将軍慶喜の幕府が出した政治ビラの類の摺物とみなせば、かわら版と同類として括ることも出来よう(図200)

一ツ橋家臣団を中心とする慶喜警護の彰義隊は、慶喜が上野の寛永寺に入るとそれに従って、浅草寺の屯所から上野の山に移った。彼らは、江戸警護の役割も兼ねていた。したがって、新政府軍が江戸市中の警護にあたることになった江戸無血開城後の五月一五日、彰義隊の掃討作戦となった。しかし、依然としてこれを伝えるかわら版のなかには、単に上野の大火事の焼失範囲を示しただけのものが残されている(図201)

見立ての世界からニュースの誕生へ

江戸時代政治向きの出版はタブーであった。禁門の変、鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の掃討戦ですら、かわら版には「大火」としてのみ登場する。では、人々がそれを「大火」としてのみ認識していたのかといえば、もちろん、それはそうではない。したがって、政治的事件を「大火」と報ずることは、民衆の無知のゆえではないのである。その原因についても知悉しているからこそ、出版統制の枠のなかでは「大火」と報じ、それでいながら意味していることが相互に通じ合えたのである。しかし、これでは、「近代的」ニュースとはならない。江戸時代は、いかに早く、正しく事件や出来事を伝えるかに第一義的な価値が置かれてはいなかった。隠された意図をいかに探り当てるかに興味や関心を持つ人々を相手にものが語られたし、伝えられた。そして、むしろこの見立ての世界を楽しむことが教養であり、また時には、反権力であった。これは、力による言論統制が生んだ継子であったのだ。だから、少なくとも、戦国の合戦や関が原の戦いに擬さなければならないニュースの作り方、あるいは伝え方を当然のものとして来た観念にある種の回心が起こらなければ、「近代的」ニュースは生まれない。その意味で、函館戦争のかわら版がもはや、過去の戦争に擬せられてはいないのはきわめて象徴的だといえる(図202)。漸くかわら版の言説に回心が起きたのである。維新政権誕生の最後の戦いである戊辰戦争においてこのことが可能となったのは、日々刻々と変化する戦況のなかで徳川幕府の瓦解する姿を目の当たりにして、事実とその解釈は全く異なる事柄であることが誰の目にも露呈したからである。つまり、それぞれの立場で表明される政治宣伝は、事実を報じているようで、実は、そうではないのだと。見立ての世界は、凝った趣向が分かり合えることを前提に生まれるミニ・コスモスである。しかし、この繊細な世界は、圧倒的事実の前に崩壊せざるを得ないし、その事実についても全く異なる解釈を以って相争われる緊張関係のなかでは成り立たない。かわら版や錦絵の持つ見立ての世界がそのまま明治の新時代に受け継がれなかった理由は、以上のようなものであろう。


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