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[新聞錦絵の情報社会]

幕末〜明治の浮世絵事情と新聞錦絵

岩崎均史


浮世絵版画の情報伝達性

浮世絵版画は、江戸時代の庶民絵画の代表的な存在として、また、技巧的な木版画として評価がなされていることについては、周知のことであろう。そして我々は浮世絵版画を歴史・風俗資料としても利用し、浮世絵版画から江戸時代の庶民生活の様子を視覚的に知ることができる。つまり、今現在それらの情報を浮世絵版画は伝達していることになる。これで浮世絵版画の情報伝達性を説明したらおそらく詭弁の誹りを受けることだろう。しかし、現代人同様に浮世絵版画から入手できる情報を、江戸の庶民も大かれ少なかれ享受していたことも間違いないことなのである。浮世絵版画は、その誕生時点から情報伝達性を帯びた絵画として登場している。浮世絵はその名にあるように、「浮世」つまり今現在の世相、当世風なものを描くことを専らとしており。その主なものは、時代の先端の風俗や流行、そして話題であった。もっと具体的に記せば、江戸庶民の話題ともなる芝居の舞台や役者、色里である吉原の遊女達や廓内の様子、市中の名所の様子、祭礼などの年中行事、服飾的な流行等々であり、浮世絵版画がそれらを視覚的に庶民に伝えたのである。庶民は、そのような浮世絵を愛で、あわせてその情報を入手すべく、絵草紙屋に赴き浮世絵版画を求めたのである。しかし、浮世絵版画は現在の新聞のような速報性と報道性は希薄であった。それは、浮世絵版画の制作過程と出版物として受けていた様々な統制により、そうならざるを得ない状況があったからに他ならない。

浮世絵版画の出版統制

書物問屋や地本問屋(浮世絵版画は地本問屋の扱い商品)などの出版に関しては、明暦三年(一六五七)から度々出版に関する規制が出され、明治に至るまで、幕府の統制下に浮世絵版画も含む出版が行なわれていた。

その主なものは、

*幕藩体制維持に合わない諸思想・宗教(特にキリスト教)を内容に含むもの
*織豊政権以後の武家についての記述
*事件・事故などの出来事(ニュース・報道的なもの)や流行しているものを扱うことと幕政批判
*必要以上に贅沢な印刷(色数・技巧など)
*風紀上好ましくないものの板行(春画・春本・好色本など)

などの禁令が享保改革時に出そろい、以後、その時々の状況により新たなものが加わるなどの変化はあるが、骨子は明治まで変わらなかった。一応、明治五年と八年の新政府による新出版法令により江戸時代の統制出版は終了するが、それまでは繰り返し同様の規制が出されていた。

寛政以降で特筆すべきことは、浮世絵版画も含めた出版(絵草紙)の事前内容検閲制度がある。当初問屋仲間の行事(当番制)の検閲のみであったが、両町奉行↓町年寄↓掛名主↓仲間月番行事↓問屋(版元)の流れで出版が許可された(申請は逆の流れ)。検閲済の証拠として板下に行事の改印が押され、浮世絵版画にはこの改印はそのまま彫り込まれ、摺られた。また、天保の改革で問屋仲間の解散が命じられると、名主の印が押され、後日仲間が復活し再び行事の改印がおされる。この制度は、画中に無粋な事務的印章が押されるわけで、絵画鑑賞的には邪魔なものであるが、この印の形状的変遷を追うことにより、版画の制作時期を絞り込むことができる。特に嘉永五年(一八五二)以降は、浮世絵版画の刊行年月がそこから読み取れるという、またとない研究データを提供してくれるものとなっている。

浮世絵版画の扱われ方

浮世絵版画は、絵師の芸術性を自由に発露したものではなく、版元がどのような内容の絵が売れるもの(商品として売上が見込めるもの)かどうかの判断を行ない、絵師に作画を依頼する。つまり、売れそうにないものを制作することはまずなく、あえて損が見込まれるようなものには手は出さなかった。版元は、購買層である庶民達の興味の対象を把握し、浮世絵版画を売り出していたため、「役者絵」(芝居関係)や美人画(遊里関係を含む)などの作品が群を抜いて多い。これは、双方共に庶民の関心事であったからであり、商品としての定番でもあったからに他ならない。

買い求められた浮世絵版画は、現在のように高価な絵画を求める感覚はなく、また、それを飾り(壁に貼るなど)鑑賞するという行為は行なわれなかった。多くは手にとり見るという扱われ方であった。浮世絵版画は、春信以降の多色摺が行なわれるようになってからある種「愛玩品」であり、直接手にとり、画面に触れ、角度を替えて画面の変化を楽しむなどするのが本来の楽しみ方であった。このような身近な楽しみかたに応えるべく、彫師や摺師が技術の研鑽を行ない、化政期以降は信じられないような技術の高さを見せる。十八〜十九世紀にかけて、世界のどこの国にも多色摺の印刷物が廉価で庶民階層に存在しておらず、色彩的快楽を江戸の庶民は得ていたことは浮世絵版画の大きな功績といえよう。

明治の浮世絵版画と新聞錦絵

明治に入り浮世絵版画は、絵画的には西洋絵画の表現の移入や他の印刷技術の応用などが行なわれる一方、新たなジャンルの開拓が盛んに行なわれたが、次第に浮世絵版画が商品価値を失いはじめる。それは、銅版・石版・写真などが、それまでの浮世絵版画が行なわれていた領域でも行なわれ、適当な住み分けもできず明治三十年代以降は庶民のための廉価な印刷物としての浮世絵はほぼ終わりを告げる。だが、むしろ当時の木版技術は、恐らく最高水準に達するという皮肉な状況であった。導入初期の西洋印刷技術や写真は不安定であったり高価であったが、需要と供給のバランスと技術の向上により、浮世絵に代わり大量に廉価に印刷物を提供できるようになったし、メディアも増加した。確かに、庶民に対しての販路を浮世絵版画は失うが、絵画として美術作品として新版画に受け継がれ、また原色印刷が普及するまでは、カラー図版としては、多色摺りの木版画が用いられたように、浮世絵版画はその技術的なものは限られた分野ではあるが引き継がれていったのである。

このような明治の浮世絵版画の流れの中、今までの規制から解放されたまさに新しい商品として新聞錦絵が登場するのである。新聞錦絵は、新しい報道メディアである新聞記事を題材とした浮世絵版画の一ジャンルであるが、その形態はあくまで浮世絵版画であった。つまり、新聞は題材とはしているものの、報道という意識は制作側には希薄であり、錦絵で作った新聞という形態ではなかった。まだ、新出版法令がひかれる以前は、浮世絵版画としての検閲を受け(改印の存在)、絵草紙屋で他の浮世絵版画と同様に販売された。形態的にも二枚続き・三枚続きなども存在するなど浮世絵版画の画面構成が踏襲されている。画面に多くの文字(記事)が記され、絵と文字の相対的バランスが特徴的かも知れないが、この形式は、歌川国芳などが幕末期に盛んに行っており、それ以前に化政期には歌川豊国などの役者絵にその形態がすでに見られる。また、同じく幕末期には芳年などが、人物と伝記を組み合わせたシリーズを多く描いており、新聞錦絵の画面構成はすでにでき上がっていたものの踏襲と見るべきであろう。新聞錦絵を描いた最初の絵師である落合芳幾は、豊国の孫弟子であり、国芳の門下、芳年と同門であることからも、これは自然な流れであったのかもしれない。内容が通俗的な事件がほとんどなのも浮世絵版画を求める層の興味の対象に意識的に迎合したものであろう。

落合芳幾自身が東京日々新聞の創設に加わり、挿絵も描いていたということから、おそらく、浮世絵師芳幾に版元が持ちかけて行なわれたと思われる。時期的にも新時代の新たな浮世絵の題材が盛んに模索されており、新奇さが受け、一時の流行をみるが、次第に飽きられ長く続くものにはならなかった。報道性よりも従来の愛玩・鑑賞あるいは、吾妻錦絵に代わる東京土産的に購入されたのか、新聞錦絵は地方に残っている例が多い。

最後に、新聞錦絵の浮世絵版画としての評価であるが、当然ながら一時代を築いたものとしての評価と共に、絵画的・版画技巧的な評価もなされて当然と思われる。しかし、絵画的には江戸時代の浮世絵版画を超えて評価を与えるものは少ないといわざるを得ない。これは、文字との組み合わせによる画面上のバランスなどが影響しているからであろう。また、彫り摺りの点では、これも一般的にあまり高い評価を得ていないようであるが、状態のよい作品が少なく、図版などで紹介されるものが吟味されないというのが実情のようだ。実は、新聞錦絵も他の浮世絵版画も同じ事なのだが、初摺りの状態の良い物は最高水準にあった技術を遺憾なく発揮したものなのである。摺りの状態に出来不出来が見られるということは、それだけ版を重ねた証左であって、売れゆき良好な商品であったのであろう。本来は、他の浮世絵版画同様に、本来制作側が意図した状態である初摺りを確認の上、評価すべきものなのである。


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