[かわら版の情報社会]


蒸気船本名フレガット

ペリー一行の船を主題とするかわら版。蒸気船への関心がその機能に集中している。左の帆船と対比されて、帆をたたんだまま風上へ進んでいる描かれ方や、速さに言及している記述「一時三十里一昼夜三百六十里ヲハシル(時速五八・五キロ)」では、蒸気船が帆を張らずに速く走る船として認識されている。

図84 蒸気船本名フレガット
図84

蒸気船本名フレガット

蒸気船本名フレガット
長サ四十八間
巾十五間
帆柱三本
石火矢六挺
大筒十八挺
煙出長一丈八尺
水車丸サ四間半
人数三百六十人乗
夫世界万国ハ四大海
六大州アリ大東洋。小東洋。
大西洋。小西洋。アジヤ州。
ヨヲロッハ州。リミヤ州。
メカラニカ州。南北アメリ
カ州。是ヲ云ナリ大日本国ハ
アジヤ州ノ内東方ニアタリシ
島国ナリ又北アメリカハ日本ノ
東ニ当リテ
海上ノ里数
凡五千里ノ■[虫喰]
此国ノ内南方ニ合集国
ワシントン云大府有是ヨリ諸方ヘ
運送セル豊饒ノ地ナリ此国開ケテ千八百五十三年
独立建国以来七十七年ニナル此度王命ニ依テ
使舟渡来セリ船名ヲ
フレカットト云名附
テ蒸気舟モトハ
此車舟モトハ
ヨヲロッハ諸国ニテ用ヒシ
舟ナリシガ今アメ
リカへワタリ
テ造立ス
使節此舟
ニ乗ジテ内海ヘ
入港セリ流走ノ早キ
コト一時三十里一昼夜
三百六十里ヲハシル
タトヘ大風雨逆浪ヲ
イトハズ走ルトキハ
アタカモ龍ノ大海ヲ
ワタルガコトシ
軍艦シユケハンナ
長サ三十間
巾十三間
帆柱三本
大筒左右十六挺
石火矢六挺
人数三百人乗

 

北亜墨利加大合衆国人上官肖像之写

嘉永七年(一八五四)
ペリー艦隊の副官アダムスの肖像。大首絵のような顔面のクローズアップの上に、アメリカ言葉が記されている。縮れた髪やボタンの付いた洋服姿は、日本人との違い、異国性を感じさせる。黒い上着に胸の前でベルトを交差させた装いは、この時期のかわら版でアメリカ人兵士の姿として定着する。

図85 北亜墨利加大合衆国人上官肖像之写
図85

北亜墨利加大合衆国人上官肖像之写

人名アーダムス       衣服紺羅紗
年齢四十有余        ホタム肩フサ
大将トシテ以上十六人    唐真鍮
西浦賀舘浦江上陸
アメリカ言葉
父ヲランペー母メランペー夫婦パカンパア
魚キヨコレンポ尻ノツフラ銭ココンチア
金キヤンパ銀チイパン遊山モレフル
産コランチア葬送ムカチア芋リヨン
味ポヲ醤油シーツポ酢ヒイル
酒ハルペル鰹ペール毛ロヲモ
家コレテチ畠フウ菜ヒヨンポ
大根スレチ三弦ムチア役人モツタウ
応接 浦賀御奉行井沢美作守御目付鶫殿民部少輔
皇朝嘉永七寅孟春神風舘紀於呂香図[印二つ]

 

異人登山に富岳の怒り(仮)

万延元年(一八六〇)
黒雲に乗った天狗が、風雨で異国人を吹き落としている。万延元年にイギリス人が富士山の測量のため登山し、無事測量を終えている。そのことが、かわら版では、霊山富士に異国人が登ると神の怒りに触れたという内容で伝えられた。異国人が汚れているという意識やその異国人を日本の神が懲らしめてくれるといった対外観が現れている。

図86 異人登山に富岳の怒り(仮)
図86

異人登山に富岳の怒り(仮)

抑々富士山ハ人皇六代
孝安天皇の御時一夜ニ
あらハれたもふ御山に
して其後やまと
だけのミこと御山
をふミひらき
三国第一の
御がくをかか
せたもふまつ
る神ハ木の花
さくやひめの尊
れいげんあらた
なる事諸人しると
ころなり六十一年目庚
甲の年にハ男女とも登山
いたす当年も御ゑんねん
の事なれバ男女とも
さんけいくんじゆなす
当七月中旬いこく人
ふじ山へ登山いたしたき
むね相願右いこく人ふじ
山とざんいたし候ところ
七合五勺めころに
相なりにハかにくもおこる
かと見へしが風ふき出しくもの中にてわれ
こそハ御山の中わうにある小ミたけ石そんなり
御山ハ日本第一のあらたなるれいざんなりいじん
登山すべからずはやく下さんいたすべしと御こへ有し

 

武鑑の戯文(仮)嘉永六年(一八五三)

武鑑とは、武家の家系や家紋、家臣名、江戸屋敷などを記したハンドブックである。このかわら版は、武鑑の形式を使った判じものになっている。家紋部分には黒船や大砲が図案化され、又至る所で掛詞が多用されている。
上段には、ペリー一行が去ることを意味する「お済み」「帰り」や、「安泰」「泰平」という言葉が目に付く。異国船来航に動じない神国日本というところだろうか。だが下段に目を移すと様相は一変する。海岸警備に当たる武士は「昼夜寝ず」「蚊に喰われ」と、現場では大変である。一方、市中では武具師が繁盛し、御台場も建設されて慌ただし気な活気が伝わってくる。
このかわら版は一回目の来航後、二回目に来航する迄の間に作られたものとおもわれるが、ペリー一行よりも庶民に身近な世相の方が判じ物のネタになっている。掛詞に頭をひねり、共感しつつ読み解く庶民の姿がみえる。

武鑑の戯文(仮)

図87 武鑑の戯文(仮)
図87

上段
北雨李加[北アメリカ]家
意国[異国]天皇後胤
雨李加[アメリカ]條喜撰
 [蒸気船]入道[入港]
郷秀斎[合衆(国)]二十一代孫也
蘭姓後北南ノ姓ト改
雨李加[アメリカ]大隅[お済み]守安平男
舎弟安元 雨[アメリカ]家北南ト別ル
○乗行[乗り行き]称北ノ太守隠岐[沖・退きカ]守
国行  尾張[終わり]守号帰着斉
諸国   入道安心斉
国遠  志摩[終い]守実南家ノ男
女子浦賀伊豆[出づ]守室
女子芝浦台馬[台場]室
某早弼
安泰[安泰]甲斐リ[帰り]守四艘
泰平[泰平]武蔵[武職]隙成[隙なし]養子
春待諸方固[御固め]之進養子
■不着丸
中段
上裏賀御門沖 江戸ヨリ十八里
元北[元来た]之間     丑六月三日
大海[退海]之間意国舟[異国船]渡水 四般
雨李加[アメリカ]甲斐リ[帰り]守安泰
御内室海岸大馬[台場]ノ介長治娘
献上 書翰三通金銀若干水銀若干宝石種物
拝領 偏遠所[返答書]御台馬[御台場]刃之錆
参府御暇之節早船御注進番
御嫡 雨李加[アメリカ]不着丸■
御内室
下段
 陳谷伊勢イ[陣屋の威勢]
 野陣播磨[野(夜)陣張り]
 寺社内借人
▲固現重郎[固め厳重]
▲番野貫木[番(晩)の辛き]
 中谷根津[昼夜寝ず]
 蚊ニ桑礼[蚊に食われ]
 四般北へ右衛門[(異国船が)四般来た]
▲鍛治谷音之進[鍛冶屋の音]
▲大剣砥右衛門[大剣を砥ぐ]
 武具家金右衛門[武具屋の金]
 馬具司茂宇毛[馬具師の儲け]
▲勤番成之進
▲大馬新規之助[台場を新規(に築く)]
▲武芸磨吉郎[武芸を磨く]
▲武器新太郎[武器を新しく]
▲甲冑求女[甲冑を求め]
中 本牧羽田
中 大森品川
下 芝佃島
下 洲崎中川沖
治宗[馳走]派 安台[安泰]寺
時献上 獅子ノ皮 五色羅紗 猟虎皮 国産類
珊瑚珠 猪漬一樽貴石ノ品 交恵キ品[交易品]
一万三千里 居城北雨李加郷秀国[北アメリカ合衆国]一名 外異国江戸ヨリ海上 五千余里
弘安四年蒙古ノ大船着ス神風ニ破ル嘉永二酉年伊年
義利亜来着ス又嘉永六丑年六月三日北雨李加[北アメリカ]州
上喜撰[蒸気船]四船ケ渡来此以後末代マテ来船スル事無シ

※読み下し文中の[ ]内は掛詩が意味すると考えられる言葉

神州泰平武守固鑑 嘉永七年(一八五四)

江戸湾につながる海岸防備「御固(おかた)め」のかわら版。外交は武士の仕事として、庶民の関心が見物する側から示されている。陸には陣幕や幡、海には番船が描かれ、賑やかさと臨場感がある。ペリー来航の際に庶民が求めた情報は、アメリカ側に対するものばかりでなく、日本の武家に関する情報も多い。そこには神国観も噴出する。

図88 神州泰平武守固鑑
図88

神州泰平武守固鑑

抑大日本と申ハ神代の始より天照大神のみすへ
たへず天子の御まつりこと明らかにして猶仁恵あつく
義につよく礼をつくり智たくましく信実あり
此ゆへに人気さかん也まけを取ことをせず人皇十五代
神功皇后の三かんをやぶり弘安年八月一日に日蓮
上人のはたまんだらを押立うつの宮治部大夫さだつな
モウコを皆殺になし文禄二年豊臣公てうせんおバ
せいバつし大明おもしたがへ給ひしこと皆人のよく知ル所なり
此ことく幾度となく勝利あつて一トたびの不覚を
取ことなし然に此たびアメリカ○ヲロシヤ○イギリス等のふね
来ることハかれら願のすじ有て参リしにて別てわけの
有ことにあらずされど太君の御めぐみあつく諸候の
御手当をつよくそなへさせ下万民のうれいをなから
しめんと其心をくバり給ふことなれバよろづのあたひを
たかくせず夫々のかげうをはげみゆたかにくらさせんとの
こといとありがたくもおそれ尊給ふべし
品川一番御台場武州かハごへ十七万石 松平誠丸
同二番おふしうあいづ二十三万石 松平肥後守
同三番武州おし十万石 松平下総守
同大森土州かうち二十四万二千石 松平土佐守
中略
浦賀二千石高 戸田伊豆守
御奉行二千万石 井沢美作守
中略
異国人応接ぶぜん小くら十五万石 小笠原左京太夫
同しんしう松しろ十万石 真田信濃守
中略
○御用掛御代官
石火矢六十挺  江川太郎左衛門
大筒六百挺   斉藤嘉兵衛
長柄三万筋   竹垣三右衛門
鉄砲一万三千挺 林部善太左衛門
武州海岸見廻  勝田次郎
相州御台場   田付四郎兵衛
狼煙百廿本車台付大筒三百五十挺
惣人数合三十二万六千三百八十余人
袖嘉永七寅年二月改


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