東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻


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肖像一覧

凡例
本書は東京大学総合研究博物館の特別展「東京大学コレクションVIII博士の肖像」(会期・一九九八年十月一日〜十一月十五日)の図録として作成したものである。
展覧会に先立って学内で行った肖像の所在調査にもとづき、像主か作者が明らかになった肖像画・肖像彫刻をできるかぎり収録した。したがって、そのすべてが展示されたわけではない。展示物は番号の下に*で示した。
制作年・寸法・技法・材質の順にデータを記した。肖像画は縦×横(cm)、肖像彫刻は高さ×幅×奥行(cm)で寸法を示した。肖像本体および額や台座に記されている言葉をすべて記録した。肖像の所有者や管理者が不明瞭な場合が多々あり、所蔵先を統一的に明記することは困難であった。むしろ、肖像を作り守り伝えてきた組織を明らかにすることを心掛けた。したがって、現行の組織名とは異なる場合が多い。屋外に設置された彫刻のみ所在地を記した。
像主と作者の略歴は木下直之が執筆した。
写真撮影は上野則宏と鈴木昭夫が行った。それぞれの撮影物を(U)と(S)で示した。
肖像の所在調査およびデータの採集には、次の学生諸君の協力を得た。記して感謝申し上げる。 池田昭光、伊東俊彦、植田彩芳子、宇野貴文、大島徹也 川埜伸、岸清香、河野まゆ子、湖上麻子、輿石優子 杉野愛、祐川良子、中村麗子、西多亮子、根本亮子 土方浦歌、廣瀬就久、堀沢加奈(敬称略)

肖像彫刻目次
065 ユリウス・スクリバ像  長沼守敬 作
066 エルヴィン・ベルツ像  長沼守敬 作
067 レオポルド・ミュルレル像  藤田文蔵 作
068 榊俶像  長沼守敬 作
069 呉秀三像  石川方堂 作
070 田口和美像  作者不詳
071 大澤岳太郎像  作者不詳
072 小金井良精像  堀進二作
073 井上通夫像  作者不詳
074 大澤謙二像  武石弘三郎作
075 三浦守治像  武石弘三郎作
076 山極勝三郎像  作者不詳
077 長与又郎像  作者不詳
078 緒方知三郎像  作者不詳
079 青山胤通像  新海竹太郎作
080 岡田和一郎像  武石弘三郎作
081 緒方正規像  武石弘三郎 作
082 高橋順太郎像  武石弘三郎 作
083 林春雄像  作者不詳
084 隈川宗雄像  朝倉文夫 作
085 柿内三郎像  作者不詳
086 弘田長像  作者不詳
087 栗山重信像  堀進二 作
088 詫摩武人像  浅井行雄 作
089 河本重次郎像  作者不詳
090 石原忍像  堀進二 作
091 石原久像  作者不詳
092 真鍋嘉一郎像  小野田高節 作
093 三沢敬義像  植木力 作
094 島薗順次郎像  赤塚秀雄 作
095 エルヴィン・ベルツ像  作者不詳
096 三田定則像  作者不詳
097 近藤次繁像  作者不詳
098 青山徹蔵像  作者不詳
099 大槻菊男像  山本正寿 作
100 清水健太郎像  丸山不忘 作
101 石川浩一像  作者不詳
102 草間悟像  作者不詳
103 塩田広重像  赤塚秀雄 作
104 都築正男像  堀進二 作
105 高橋明像  高村泰正 作
106 下山順一郎像  武石弘三郎 作
107 小藤文次郎像  堀進二 作
108 エドワード・ダイヴァース  長沼守敬 作
109 桜井錠二像  作者不詳
110 柴田桂太像  三坂取太郎 作
111 ヨハネ・ルードウィヒ・ヤンソン像 大熊氏廣 作
112 松井直吉像  新海竹太郎 作
113 オスカル、ケルネル像  朝倉文夫 作
114 上野英三郎像  作者不詳
115 エドワード・エアトン像  沼田一雅 作
116 チャールズ・ウェスト像  沼田一雅 作
117 チャールズ・ウェスト像  沼田一雅 作
118 三好晋六郎像  武石弘三郎 作
119 原龍太像  田中親光 作
120 ジョサイア・コンドル像  新海竹太郎 作
121 辰野金吾像  作者不詳
122 寺野精一像  作者不詳
123 伊東忠太像  盛岡勇夫 作
124 井口在屋像  新海竹太郎 作
125 井口在屋像  新海竹太郎 作
126 古市公威像  堀進二 作
127 有坂蔵像  朝倉文夫 作
128 山内鎮一像  朝倉文夫 作
129 青木保像  朝倉文夫 作
130 加茂正雄像  盛岡勇夫 作
131 渡辺渡像  新海竹太郎 作
132 渡辺渡像  新海竹太郎 作
133 濱尾新像  堀進二 作
134 渋澤元治像  北村正信 作
135 真島正市像  林謙三 作
136 加藤弘之像  朝倉文夫 作
137 クリスチャン・ビルケラン像  作者不詳
138 瀧精一像  掘進二 作
139 ラフカディオ・ハーン像  作者不詳
140 エドマンド・ブランデン像  舟越保武 作



065  [ユリウス・スクリバ像]  長沼守敬 作
一九〇七年、一一〇・〇×八五・〇×四五・〇cm、ブロンズ、石製台座、石製衝立(五七六・〇×二〇二三・〇×六一五・〇cm)
台座正面に「DR. JULIUS SCRIBA PROFESSOR DER CHIRURGIE 1881-1901」
医学部蔵(S)、御殿下グラウンド南側
ユリウス・スクリバ、Julius karl Scriba(一八四八〜一九〇五)は医学部のドイツ人教師。一八八一年から一九〇一年まで、医学部で外科を教えた。ほかに、眼科と皮膚科を担当した時期もある。植物学にも造詣が深く、植物標本を収集した。一九〇一年に退職し、築地の聖路加病院の外科主任となったが、一九〇五年に鎌倉で病没した。日本語で名前を須栗場と書いた。
長沼守敬(一八五七〜一九四二)は明治美術会、文展で活躍した画家。現在の岩手県一関に生まれ、上京して、イタリア公使館の通弁見習となる。一八八一年、イタリアに渡り、日本語教師を務める傍ら、ヴェネツィア王立美術学校で彫刻を学ぶ。八七年に帰国し、八九年、明治美術会の創設にただひとりの彫刻家として参画した。九七年に再度イタリアに渡り、翌年帰国すると東京美術学校教授となった。(『長沼守敬展』図録、萬鉄五郎記念館、一九九二年)
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066  [エルヴィン・ベルツ像]  長沼守敬 作
一九〇七年、二〇・〇×八五・〇×四五・〇cm、ブロンズ、石製台座「スクリバ像」と石製衝立を共有
台座正面に「DR. ERWIN BELLZ PROFESSOR DER MEDICIN 1876-1902」
医学部蔵(S)、御殿下グラウンド南側
エルヴィン・ベルツ、Erwin von Baelz(一八四九〜一九一三)は医学部のドイツ人教師。一八七六年に来日、まず東京医学校で生理学と薬物学を教え、七七年に東京大学医学部が発足すると内科学を担当した。産婦人科学も、専任の日本人教授ができるまでベルツが受け持った。九二年に、医科大学名誉教師の称号が贈られた。一九〇二年まで在職し、その後も日本に留まり、宮内省侍医を務めた。在職二十五年を記念する祝賀会が一九〇一年十一月二十二日に小石川植物園で盛大に催された。一九〇五年にドイツに帰国した。

長沼守敬は六五図参照
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スクリバとベルツの肖像彫刻の除幕式は一九〇七年四月四日に行なわれた。その様子を『東京医事新誌』一五〇七号が次のように伝える。
「此日拭うが如く晴れたる空に大小無数の日独両国旗美しく飾られ運動場には天幕二個を張り渡し式後の宴会場に充てたり、銅像は高さ数丈の柱に幕を繞らして包まれて医科大学の中央なる丘上に東面し内外科の病院を眼下にせる恰好の場所に位置せり。斯くて来賓等一同像前に参集するや銅像建設事務主任清水彦五郎氏式を始むる旨を告げ、先づ委員長青山博士は浜尾総長へ引渡を了するや、総長は簡単なる挨拶をなして像前に歩を進めて幕を綴りたる紐を取り去るや、慢幕は四周一時に降りて生けるが如き二個の銅像は此に現はれ群衆は一時に拍手を以て之を迎へたり。右は故スクリバ博士にて左はベルツ博士なり。何れも赤色花崗岩の台上に据えし半身像にて、スクリバ氏はフロックコート、ベルツ氏は背広服なり。此に於て青山博士は中央に進みで両博士は我医学界の恩人にして其斯道に貢献せられたる所は万人の均しく膽仰敬慕する所なり。吾等師の指導教訓を受けたるもの相集りて両博士の功績を不朽に伝へ師恩の万一に報ゐんとして之を企画しに除幕式を挙ぐるに至り衷心欣喜の情に禁へず云々との意味を独文にて朗読し、次で浜尾総長は一篇の式辞を朗読せられたる(後略)」
現在は衝立の右端に次の解説がある。
「東京大学名誉教師ベルツ先生(在職一八七六−一九〇二)同スクリバ先生(在職一八八一−一九〇一)は本学部創始のころ二十年以上にわたってそれぞれ内科学外科学を教授指導しわが国近代医学の真の基礎を築いた恩人である
この碑は両先生の功績を記念するため明治四十年四月四日(一九〇七)建設せられたがこのたび医学部総合中央館の新築にともなって昭和三十六年十一月三日(一九六一)原位置の北方約六十メートルのこの地点に移した
東京大学医学部」
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067  [レオポルド・ミュルレル像]  藤田文蔵 作
一八九五年、九〇・〇×六〇・〇×三五・〇cm、ブロンズ、石製台座 本体基底部背面に「鋳造後藤務」、台座正面に次の銘文
「文学博士島田重礼撰
普国陸軍一等軍医生医学徳□礼玻
繆爾刺児君明治四年為我大学医校
教師労績灼然叙勲四等既去而人益
仰慕乃胥謀鋳像以□不朽云
明治廿八年三月田口茂卿書」
医学部蔵(S)、薬学部東側
レオポルド・ミュルレル、Leopold Muller(一八二四〜一八九三)は東校、第一大学区医学校、東京医学校のドイツ人教師。ドイツ医学の採用を一八六九年に決定した明治政府の招聘により、七一年に、テオドール・ホフマン(Theodor Eduard Hoffmann)とともに来日した。ミュルレルが陸軍軍医少佐、ホフマンが海軍軍医少尉だった。ミュルレルは外科のほか婦人科と眼科を講じ、ホフマンが内科を教えた。大きな権限を与えられ、一挙にドイツ式の医学教育を展開した。三年の任期を終え、七五年に帰国した。
藤田文蔵(一八六一〜一九三四)は洋風彫刻を学んだ第一世代の彫刻家。現在の鳥取県出身。上京して国沢新九郎の私塾彰技堂に入門、さらに一八七六年に開校した工部美術学校に入学して、ラグーザから洋風彫刻を学んだ。卒業後、八三年に彫刻専門美術学校を設立した。一九〇〇年から一九〇五年まで東京美術学校の教授、それから東京女子美術学校に移り、校長を務めた。肖像彫刻を数多く制作した。

ミュルレルが東京医学校を辞任する際に記念に撮影されたと思われる写真が残っている。軍服を身につけ、手に日本刀を携えている。ミュルレルの肖像彫刻は、この写真をもとにしたらしい。ベルリンで病没したミュルレルの三回忌に建立された。台座は建築家河合浩蔵の設計、銘文は文学博士島田重礼の撰、それを解剖学教授田口和美(一図参照)の子で書家の田口茂一郎(米舫)が揮毫した。一九五九年に盗難にあったが、六四年にコンクリート複製を設置し、さらに七五年にブロンズ像として復元された。
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068  [榊俶像]  長沼守敬 作
一八九六年、七八・七×六七・六×三二・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体基底部に墨書「銅像、No, 1. 大正九・三・丗一、精神科」、同背面につぎの銘
「医科大学教授医学博士
榊俶君学術通博授徒甚
篤我大学専攻精神病学
者実以君為嚆矢矣惜夫
明治三十年二月六日以
病没春秋僅四十一越一
年朋友門生等胥謀鋳此
以表其遺徳」
医学部精神医学教室蔵(S)
榊俶(一八五七〜一八九七)は精神医学教室教授。開成所助教授榊令輔の子として、江戸に生まれる。一八八〇年に医学部を卒業、八二年から八六年までドイツに留学し、ベルリン大学で精神医学を学んだ。帰国後すぐに教授となった。翌八七年、東京府癲狂院の医務が大学に委任され、榊はその院長を兼務した。一九一九年まで、精神医学教室は同病院内に設置されていた。

長沼守敬は六五図参照
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069  [呉秀三像]  石川方堂 作
一九三九年、七六・四×五七・五×三九・七cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和己卯、方堂作」、台座正面に「呉秀三先生像」
医学部精神医学教室蔵(U)
呉秀三(一八六五〜一九三二)は精神医学教室教授。広島藩医呉黄石の子として江戸に生まれる。一八九〇年に医科大学卒業。榊俶の下で精神病学を学ぶ。九六年に助教授となり、翌九七年から、ドイツ、オーストリア、フランスに留学した。一九〇一年から二五年まで、教授として精神医学教室を主宰した。

石川方堂は経歴不詳
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070  [田口和美像]  作者不詳
一九〇七年、一一八・〇×一〇五・〇×五四・〇cm、セメント、台座なし
本体基底部背面に「明治四十年、美盛作」
医学部解剖学教室蔵(U)
田口和美は一図参照
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071*  [大澤岳太郎像]  作者不詳
一九二二年、七九・〇×七〇・〇×四五・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「大正十一年秋、吉田□三澤郎作」、台座正面に「大澤岳太郎」
医学部解剖学教室蔵(U)
大澤岳太郎(一八六三〜一九二)は解剖学教室教授。尾張国津島に生まれ、一八八七年に医科大学を卒業した。九四年から九八年までドイツに留学し、比較解剖学を学んだ。一九〇〇年に教授となり、第三講座を担任した。その後、一九〇四年に田口和美(一図参照)が亡くなったため、第二講座を担任していた小金井良精(二図参照)が第一講座に、大沢が第二講座に移った。在職のまま没した。
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072*  [小金井良精像]  堀進二 作
一九三七年、八二・〇×六七・〇×六〇・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体基底部に「小金井良精先生寿像」、本体側面に「昭和十二年七月、堀進二作」、台座正面に「小金井良精先生」
医学部解剖学教室蔵(U)
小金井良精は二図参照
堀進二(一八九〇〜一九七八)は太平洋画会、文展、帝展、日展で活躍した彫刻家。東京に生まれ、太平洋画会研究所に入り、新海竹太郎(七九図参照)に師事した。このころ、中原悌二郎や中村葬(五〇図参照)ら新宿中村屋の芸術家グループと交わる。のちに中村舞の肖像彫刻を制作した。一九一一年以後、文展、帝展に出品を続けた。工学部建築学科で、非常勤講師として、新海竹太郎のあとを受け、二八年から四七年まで、さらに五六年から五九年まで彫塑の講義を受け持った。本学の肖像彫刻を数多く制作している。
(『堀進二・加藤顕清展』図録、神奈川県立近代美術館、一九八九年)
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073  [井上通夫像]  作者不詳
八二・〇×六二・〇×四二・〇cm、石膏? 木製台座
本体基底部に「MICHIO INOUE PROFESSOR DER ANATOMIE」、台座正面に「井上通夫先生」、背後の壁に二種類の顔面(一種は断面図)
医学部解剖学教室蔵(U)
井上通夫は三図参照
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074  [大澤謙二像]  武石弘三郎作
一九一七年、七七・三×六八・〇×四六・二cm、大理石、木製台座
本体基底部に「PROF. DR. KENJI OSAWA」、本体背後に「1917 K. TAKEISHI」、台座正面に次の銘文
「大澤謙二先生(一八五二〜一九二七年)は医学者として本学最初の教授でありわが国生理学の父であった
先生は愛知県豊川の大林家に生れ豊橋の医家大澤家に入り十四歳にして上京医学所に学んで中得業士となり二回にわたりドイツに留学一八八二年帰国して東大教授 生理学の教育に従事し 講義の傍 開国期の医学界の啓発に尽し学界の柱石となる多数の学者を育てられた 教授在職三十三年六十四歳にして勇退され七十六歳尊い生涯を閉じられた
本像は一九一七年 先生の寿康を祝し門弟が建立し旧生理学教室中庭に置かれ 関東震災の厄を免れ保存されていたが 一九八二年開講百年に際し東大生理学同窓会がその台座を新にしてここに安置し先生の遺徳を永遠に伝えることになった
    一九八三年
東大生理学同窓会」
医学部生理学教室蔵(U)
大澤謙二(一八五二〜一九二七)は生理学教室教授。愛知県豊川に生まれ、一八六九年に医学校の句読師、翌七〇年に中得業士となり、七〇年、最初の海外留学生として、長井長義らとともにドイツに派遣された。ベルリン大学で生理学を研究し、七四年に帰国した。七八年に再度留学し、八二年に帰国して教授となった。これが生理学教室の創設である。一九一五年に退官した。
武石弘三郎(一八七七〜一九六三)は文展で活躍した彫刻家。新潟県出身。東京美術学校彫刻科で、長沼守敬に師事した。卒業後、一九〇一年から一九〇九年までベルギーに留学、ブリュッセル王立美術学校に学んだ。帰国後、早稲田大学理工科彫刻科講師となり彫塑を教える一方、一一年からは文展に出品し、肖像彫刻家として一家を成した。本学でも、医学部教授の肖像彫刻に、武石の手になるものが多い。
(佐々木嘉朗『彫塑家・武石弘三郎ノート』北日本美術、一九八五年)
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075*  [三浦守治像]  武石弘三郎作
一九一七年、六九・〇×六一・〇×三五・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体基底部正面に「PROF. MORIHARU MIURA」、同背面に「11. MAI 1857-2 FEB. 1916」、本体背面に「Tokiyo 1917 K. Takeishi」、台座正面に「三浦守治先生」
医学部病理学教室蔵(U)
三浦守治(一八五七〜一九一六)は病理学教室教授。磐城国御木沢村に生まれ、一八八一年に医学部を卒業した。翌八二年、ドイツに留学し、ライプチヒ大学およびベルリン大学で病理学を研究した。八七年に帰国し、教授となり、病理学と病理解剖学を担任した。一九一一年に退官した。

武石弘三郎は七四図参照
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076*  [山極勝三郎像]  作者不詳
一九二九年、六三・〇×四九・〇×三〇・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和四年秋、矩一作」、台座正面に「山極勝三郎先生」
医学部病理学教室蔵(U)
山極勝三郎は一四図参照
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077*  [長与又郎像]  作者不詳
一九三七年、六五・〇×五一・〇×四三・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体側面に「昭和十二年宏三作」、台座正面に「長与又郎先生」
医学部病理学教室蔵(U)
長与又郎(一八七八〜一九四一)は病理学教室教授。医学者長与専斎の三男として東京都に生まれた。作家長与善郎は末弟、一九〇四年に医科大学を卒業、ドイツに留学した。一九〇七年に病理学教室講師となり、一〇年、第一講座に移った山極勝三郎のあとを受け、助教授として第二講座を担任した。翌一一年に教授となり、三四年まで務めた。三五年に総長に就任した。
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078  [緒方知三郎像]  作者不詳
六〇・〇×六五・〇×四二・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「緒方知三郎先生寿像□」、台座正面に「緒方知三郎先生」
医学部病理学教室蔵(U)
緒方知三郎(一八八三〜一九七三)は病理学教室教授。緒方洪庵の孫として東京都に生まれた。一九〇七年に医科大学を卒業へ病理学教室に入り、山極勝三郎(一四図)に就いて学んだ。一九一〇年から一三年まで、ドイツに留学した。帰国後、直ちに助教授となり、二三年に山極勝三郎が退官したあとを受けて、第一講座担任の教授となった。四三年に退官した。
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079  [青山胤通像]  新海竹太郎 作
一九二〇年、八九・〇×八六・〇×六二・五cm、ブロンズ、石製台座
台座正面に「青山胤通」、本体背面に「大正九年、新海竹太郎作」、同背面に次の銘文
「君美濃人明治二十一年
任東京帝国大学医科大
学教授二十四年授医学
博士尋補附属医院長後
補医科大学長在官三十
載門人遍干天下声名布
干中外大正六年特授男
爵十二月二十三日薨距
生安政六年五月十五日
享齢五十又九君既逝僚
友門下胥謀建像乎大学
域内以表追慕之沈云」
医学部蔵(S)、薬学部東側
青山胤通(一八五九〜一九一七)は医学部第三内科教授。美濃苗木藩士の子として江戸に生まれる。一八八二年に医学部を卒業、ベルツの推挙で、翌八三年よりドイツに留学した。ベルリン大学で内科学を専攻し、ほかに病理学も学んだ。八七年に帰国し、翌八八年、医科大学教授となる。一九〇一年からは医科大学長を務めた。
新海竹太郎(一八六八〜一九二七)は太平洋画会、文展、帝展で活躍した彫刻家。山形の仏師の家に生まれ、上京して彫刻家後藤貞行に師事、さらに浅井忠にデッサン、小倉惣次郎に塑像を学ぶ。一九〇〇年から一九〇二年までドイツに留学し、帰国後、太平洋画会彫刻部を主宰した。文展、帝展に出品を続けた。一九年から二七年まで、工学部建築学科で彫塑を教えた。
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080  [岡田和一郎像]  武石弘三郎 作
一九二一年、八五・〇×七八・〇×五二・二cm、大理石、木製台座
本体側面に「K. TAKEISHI 1921」、台座正面に「岡田和一郎先生」
医学部耳鼻咽喉科学教室蔵(U)
岡田和一郎(一八六四〜一九三八)は医科大学耳鼻咽喉科学教室教授。一八八九年に医科大学を卒業、外科学を専攻した。九五年に助教授となり、翌年から九九年までドイツに留学した。帰国後すぐに耳鼻咽喉科学講座が開設され、これを担任した。一九〇二年に教授となり、二四年に退官した。

武石弘三郎は七四図参照
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081  [緒方正規像]  武石弘三郎 作
一九二一年、八三・五×七四・五×五四・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体側面に「K. TAKEISHI TOKYO 1921」
台座正面に次の銘文
「東京帝国大学教授医学
博士緒方氏正規肥後国
河股村人父玄春本西條
氏為緒方氏所養母家女
明治十八年始講衛生学
干大学至大正八年凡三
十五年叙正三位勲一等
大正八年四月嬰病七月
三十日薨距生嘉永六年
十一月五日享年六十有
七元配榊氏生子正雄規
雄継石原氏生子益雄女
春子正雄天規雄嗣春子
適医学博士佐佐氏廉平」
医学部衛生学教室蔵(U)
緒方正規は五図参照
武石弘三郎は七四図参照
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082  [高橋順太郎像]  武石弘三郎 作
一九二一年、七三・三×五四・九×四七・八cm、ブロンズ、石製台座
本体側面に「K. TAKEISHI、1921」、本体基底部に「D. JUNTARO TAKAHASHI」
台座正面に「Dr. JUNTARO TAKAHASHI. ORDENTLICHER PROFESSOR UND DIREKTOR DES PHARMAKOLOGISCHEN INSTITUTS 1885-1920」
医学部薬理学教室蔵(U)
高橋順太郎は一六図参照
武石弘三郎は七四図参照
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083  [林春雄像]  作者不詳
一九三三年、七九・八×八二・六×四六・六cm、ブロンズ、木製台座
本体側面に「大□」、同背面に「林春雄先生、昭和八年夏、□島大□作」
医学部薬理学教室蔵(U)
林春雄は一七図参照
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084  [隈川宗雄像]  朝倉文夫 作
制作年不詳、七九・〇×四八・〇×三七・七cm、ブロンズ、石製台座
本体背面に「文夫作」、台座正面に「PROF. DR. M. KUMAGAWA」、同背面に「□工場製造」、同下部四面に鶏の浮彫り
医学部生化学教室蔵(U)、医学部二号館東側
隈川宗雄は五九図参照
朝倉文夫(一八八三〜一九六四)は文展、帝展、日展で活躍した彫刻家。大分県出身。東京美術学校彫刻科に入学し、藤田文蔵(六七図参照)、白井雨山の教えを受けた。卒業後、文展で受賞を重ね注目を浴びる。一九二一年から四四年まで、東京美術学校教授を務めた。一方で、朝倉塾、のちに朝倉彫塑塾(現在の朝倉彫塑館)を開設し、後進の指導に努めた。
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085  [柿内三郎像]  作者不詳
一九三七年、七三・〇×四九・〇×三九・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和十二年春、義友作、YOSHITOMO W」、台座正面に「柿内三郎」、台座背面に次の銘文
「柿内教授
在職二十
五年ヲ祝

昭和十二年四月五日
  東京帝国大学
  医学部生化学教室
  同窓会」
医学部生化学教室蔵(U)
柿内三郎(一八八二〜一九六七)は生化学教室教授。一九〇七年に医科大学、一〇年に理科大学化学科を卒業したあと、隈川宗雄(五九図参照)に就いて生化学を専攻した。一八年に隈川が亡くなり、そのあとを継いで教授となった。四三年に退官した。
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086*  [弘田長像]  作者不詳
制作年不詳、九〇・二×六三・五×四六・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体基底部に「□□作」、台座正面に「弘田長先生」、向側面に「明治二十二年十二月医科大学教授拝命小児科学担任、大正十年十一月退官、大正十一年二月東京帝国大学名誉教授名称拝受」
医学部小児科学教室蔵(U)
弘田長(一八五九〜一九二八)は小児科学教室教授。土佐国中村に生まれ、一八八〇年に医学部を卒業した。翌八一年に熊本県立医学校教諭となり、八三年からは同校校長と附属病院長を務めた。八四年に退職し、八五年から八八年までドイツに留学、ストラスブルク大学に学んだ。帰国後、初めての小児科専門医として医科大学教授となった。一九二一年に退官した。
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087  [栗山重信像]  堀進二 作
一九五〇年、七一・〇×四一・〇×三三・八cm、ブロンズ、木製台座
本体基底部に「栗山重信先生」、同背面に「大正十年四月任東京帝国大学助教授、大正十年十二月小児科学講座担任、大正十一年四月任東京帝国大学教授、昭和二十一年十月退官、昭和二十三年二月東京大学名誉教授名称拝受」、同側面に「昭和二十五年六月、堀進二作」
医学部小児科学教室蔵(U)
栗山重信(一八八五〜一九七七)は小児科学教室教授。兵庫県姫路に生まれた。一九一一年に医科大学を卒業し、一五年からボストン大学に留学した。帰国後、講師、助教授を経て、三六年に教授となった。四六年に退官した。

堀進二は七二図参照
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088  [詫摩武人像]  浅井行雄 作
一九五四年、六八・五×五九・八×三六・五cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和二十九年六月、浅井行雄謹作」、台座正面に「詫摩武人先生」、同背面に「昭和二十年十二月任東京大学教授小児科学講座担任、昭和二十九年三月退官、□□□□□□□□」
医学部小児科学教室蔵(U)
詫摩武人(一八九四〜一九七九)は小児科学教室教授。一九二二年に医学部を卒業し、二六年に千葉医科大学教授、二八年に教授となった。四六年に東京大学に移った。
浅井行雄(一九一五〜  )は二科展、新文展、日展で活躍した彫刻家。静岡県棒原郡吉田町に生まれ、帝国美術学校彫刻科を卒業した。
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089[河本重次郎像]  作者不詳
制作年不詳、六二・〇×五〇・〇×三一・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「□門作」、台座正面に「河本重次郎先生、□峯徳富正敬書」
医学部眼科学教室蔵(U)
河本重次郎は一〇図参照
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090  [石原忍像]  堀進二 作
一九四〇年、七〇・〇×七四・〇×五〇・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「東京帝国大学名誉教授石原忍先生像」、同側面に「昭和十五年十月堀進二作」
医学部眼科学教室蔵(U)
石原忍は一一図参照
堀進二は七二図参照
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091  [石原久像]  作者不詳
制作年不詳、四一・〇×二〇・〇×二〇・〇cm、木、木製台座、ガラスケース
本体背面に「亀□作」
医学部口腔外科学教室蔵(U)
石原久(一八六六〜一九四一)は口腔外科学教室教授。埼玉県出身、一八九四年に医科大学を卒業し、翌九五年に助手となった。九九年からアメリカとドイツに留学し、歯科学を研究、留学中の一九〇〇年に助教授となった。一九〇三年に帰国し、歯科講座を担任した。一五年に教授となり、歯科講座が独立した。二七年に退官した。
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092  [真鍋嘉一郎像]  小野田高節 作
一九三三年、四四・〇×二九・〇×二三・五cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和八年、鋳金角川建治、原型小野田高節」、同背面に「物療開姶二十年記念物療所一同」、台座正面に「寿真鍋先生」、台座に虎と竹の浮彫り
医学部内科物理療法学教室蔵(U)
真鍋嘉一郎(一八七八〜一九四一)は内科物理療法学教室教授。愛媛県西条出身。一九〇四年に医科大学を卒業し、青山胤通に就いて内科学を専攻した。一九一一年からドイツに三年間留学し、帰国後講師となった。一八年に新設された物理療法研究所主任となり、二六年から教授を務めた。
小野田高節(一八九二〜一九五五)は帝展、新文展で活躍した彫刻家。山形に生まれた。一九一五年に東京美術学校を卒業し、朝倉文夫に師事した。
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093  [三沢敬義像]  植木力 作
一九五五年、四一・〇×一九・五×二〇・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「三沢敬義先生、寿像、昭和三十年、植木力」、台座正面に「三沢先生寿像」、同側面に「昭和卅年五月、渡邊世祐書」
医学部内科物理療法学教室蔵(U)
三沢敬義(一八九四〜一九七一)は内科物理療法学教授。福島県郡山市出身。一九二一年に医学部を卒業し、二六年からいったん郡山市太田病院に勤務した。三一年にドイツに留学し、三三年に帰国、直ちに医学部講師となり、内科物理学講座を分担した。翌三四年に助教授、三八年に教授となった。五五年に退官した。
植木力(一九一三〜  )は一陽会、二科会で活躍した彫刻家。東京に生まれ、一九四〇年に東京美術学校塑造部を卒業した。
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094  [島薗順次郎像]  赤塚秀雄 作
一九三六年、六六・〇×四三・二×三〇・八cm、ブロンズ、木製台座
本体背後に「昭和十一年十一月赤塚作」、台座背後に「祝還暦」
医学図書館蔵(U)
島薗順次郎(一八七七〜一九三七)は第一内科学教室教授。和歌山県出身、一九〇四年に医科大学を卒業したあと、陸軍二等軍底として日露戦争に従軍した。一九一一年にドイツに留学し、内科学を学び、一三年に帰国、岡山医学専門学校教授を経て、一六年より京都帝国大学教授を務めていた。二四年に、退官した三浦謹之助のあとを継いで、第一内科学教室教授となった。三三年から三七年まで病院長も務めた。現在、医学図書館には島薗順次郎記念財団文庫が設けられ、肖像はその脇に置かれている。

赤塚秀雄は経歴不詳
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095  [エルヴィン・ベルツ像]  作者不詳
制作年不詳、四四・〇×二五・〇×三一・〇、ブロンズ
大理石台座正面に「Erwin von Balz 1849 bis 1913」、同背後に「Geschenk der Geburtsstadt Bietigheim an die Universitat Tokio 1962」、木製台座に貼紙「ベルツ先生晩年の像、ベルツ先生の生地BIETIGHEIMの市長マイ氏より日本国際医学協会・石橋長英博士を通じ東京大学に寄贈された。」
医学図書館蔵(U)
エルヴィン・ベルツは七一図参照
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096*  [三田定則像]  作者不詳
制作年不詳、六七・〇×三六・〇×二八・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「口」、台座正面に「三田定則先生」
医学部法医学教室蔵(U)
三田定則(一八七六〜一九五〇)は血清学および法医学教室教授。岩手県盛岡出身、一九〇一年に医科大学を卒業し、一九〇四年に法医学教室助教授となった。その後、一九〇九年から四年間、ドイツ、フランスに留学し血清学を学んだ。一二年に帰国し、一八年に開設された血清学教室教授となり、二一年からは退官した片山国嘉のあとを継いで法医学教室教授を兼担した。三六年に退官した。
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097  [近藤次繁像]  作者不詳
一九三七年、六八・〇×五五・〇×三九・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「聖□」、台座背面に「昭和十二年十月、門人一同」
医学部第一外科学教室蔵(U)
近藤次繁(一八六五〜一九四四)は第一外科学教室教授。長野県松本に生まれ、一八九一年に医科大学を卒業した。直ちにスクリバ(六五図参照)の医局に入り、外科学を学んだ。九二年より九五年まで、ドイツ、オースリア、フランスに留学、帰国後、九七年にスクリバの後任として、医科大学助教授となった。翌九八年に教授となり、外科学第一講座を担任した。一九一二年から二四年まで附属病院長を務め、翌二五年に退官した。

岸田劉生の筆になる近藤次繁の肖像画が二点知られている。近藤家に伝わる一点には「近藤次繁氏肖像千九百二十一年七月廿日、於鵠沼画房岸田劉生描之」、神奈川県立近代美術館所蔵の一点には「近藤医学博士之像、大正乙丑三月廿日、於大学校内岸田劉生写之」と記されている。大正乙丑は一九二五年である。
一九二一年には、近藤の在職二十五年を記念する祝賀会が開かれた。その折りに、肖像画が贈られた。劉生が大学に通って教授室で写生する様子を、しばしば隣の図書室からうかがった教え子の中田瑞穂が、出来栄えをこんなふうに評している。
「出来上りの像は、きれいなよく似た従来の肖像画とは全く質のちがう、凄く沈欝な、行き方としてはデューラー、色調としてはレンブラントを思わせるもので、しかも頭でっかちのカリカチュア染みたところがあり、その上胸の前に小さな一花を捻じておられるポーズ、先生最も不機嫌な時の表情で、常磐花壇でのたのしいお顔と全く対照的であった。」
さらに、中田は謝礼が千円であったこと、同時にコピーを一枚注文したが、それにも千円を請求されて驚いたことを伝える。(中田瑞穂「近藤先生の一門下として」、黒江光彦「二枚の近藤先生像のこと」、いずれも東大第一外科同窓会編『東大第一外科の歩み』一九七六年所収)
『劉生日記』には、中田の思い出に対応するように、一九二一年二月二十三日の条に、こんな記述がある。「近藤が、近藤の御父さんが大学二十五年の祝いのために記念の肖像をかいてほしいとの事武者から聞き電話かけて近藤呼び、その話聞く。千円札をよこす由。丁度六月はヒマなので喜んで引きうける。六月半ばから通う事にほぼきめる。」劉生のいう「近藤」とは長男の経一で、白樺派の同人であった。「武者」は武者小路実篤。一方、一九二五年の『劉生日記』にも、三月に、大学に通って近藤の肖像画を制作する様子が記されている。
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098  [青山徹蔵像]  作者不詳
制作年不詳、六五・〇×五六、〇×二六・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「□二作」
医学部第一外科学教室蔵(U)
青山徹蔵(一八八二〜一九五三)は第一外科学教室教授。長野県洗馬村に医師熊谷氏の次男として生まれ、一九〇七年に医科大学を卒業した。卒業前後に、内科教授青山胤通(七九図参照)と養子縁組をして青山姓を名乗った。一九年に助教授となり、二五年に、近藤次繁(九七図参照)の後任として教授となった。三六年に、定年を待たずに退官した。
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099  [大槻菊男像]  山本正寿 作
一九四八年、六一・〇×五〇・〇×三五・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和廿三年九月、山本正寿作」、台座に「大槻菊男先生」
医学部第一外科学教室蔵(U)
大槻菊男一一八七〜一九七七一は第一外科学教室教授。仙台出身、一九一三年に医科大学を卒業し、いったん楽山堂病院に勤務したあと、一九年に大学院に入学、二二年に助教授となった。三六年に教授となり、外科学講座を担任した。四八年に退官し、第一国立病院副院長、次いで虎ノ門病院院長を歴任した。

山本正寿は経歴不詳
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100  [清水健太郎像]  丸山不忘 作
一九六三年、六五・〇×六三・〇×三六・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和三十八年二月、丸山不忘作」
医学部第一外科学教室蔵(U)
清水健太郎(一九〇三〜一九八八)は第一外科学教室教授。東京に生まれ、一九二九年に医学部を卒業した。はじめ精神科教室に入局したが、脳神経外科医を志し、第一外科に転入局し、青山徹蔵に就いて学んだ。四〇年にアメリカに留学したが、戦争のために抑留され、四二年に帰国した。四五年に助教授となり、四八年、大槻菊男の後任として教授となり、外科学第一講座を担任した。六三年に退官した。
丸山不忘(一八九〇〜一九七〇)は米沢に生まれた。本名義男。一九一七年に東京美術学校鋳金科を卒業し、香川県立工芸学校教諭を務めたあと、二一年から三一年まで鋳金美術工場を経営した。翌三二年、東京美術学校講師、三六年に助教授、四六年に教授となった。
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101  [石川浩一像]  作者不詳
一九七六年、六八・八×四九・二×二八・五cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「岬、1976.3月」
医学部第一外科学教室蔵(U)
石川浩一(一九一五〜  )は第一外科学教室教授。東京出身、一九三九年に医学部を卒業。四五年に助手、四九年に講師、五六年に助教授となり、六一年からアメリカに留学した。六三年に、清水健太郎の後任として教授となり、外科学第一講座を担任した。七六年に退官した。
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  102  [草間悟像]  作者不詳
直径二七・〇cm、ブロンズ浮彫り
医学部第一外科学教室蔵
草間悟(一九二一〜  )は第一外科学教室教授。一九四五年に医学部を卒業し、五三年に助手、五九年に講師、六七年に助教授となった。七六年に教授となり、外科学第一講座を担任した。
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103  [塩田広重像]  赤塚秀雄 作
一九四九年、五四・〇×二九・七×二六・五cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「塩田廣重先生像、昭和二十四年十月、赤塚秀雄作、Oct 1949」
医学部第二外科学教室蔵(U)
塩田広重(一八七三〜一九六五)は第二外科学教室教授。京都府富津町出身、一八九九年に医科大学を卒業、スクリバ、近藤次繁の下で外科学を学んだ。一九〇二年に助教授となり、一九〇七年から一九〇九年まで、ドイツ、オーストリアに留学した。初代教授佐藤三吉のあとを受け、二二年から三四年まで第二外科教室の教授を務めた。

赤塚秀雄は経歴不詳
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104  [都築正男像]  堀進二 作
一九五三年、八六・〇×七一・四×四四・七cm、ブロンズ、台座なし
本体背面に「昭和二八年五月、堀進二作」
医学部第二外科学教室蔵(U)
都築正男(一八九二〜一九六一)は第二外科学教室教授。兵庫県出身、一九一七年に医科大学を卒業し、海軍に進んだ。海軍軍医学校選科学生として東大に再度入学し、塩田広重に就いて外科学を学んだ。二九年に口腔外科教室教授となり、三四年から第二外科教室教授となった。一方、海軍軍医少将を兼ねたため、四六年に公職追放になり退官した。四五年、広島原爆被害調査と救護活動に従事した。

堀進二は七二図参照
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105  [高橋明像]  高村泰正 作
一九四四年、七〇・五×五三・〇×三八・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「昭和拾九年八月高村泰正作」、台座正面に「泌尿器科学教室初代教授高橋明先生、昭和二年七月〜昭和二十年十月在職」
医学部泌尿器科学教室蔵(U)
高橋明(一八八四〜 )は医学部泌尿器科学教室教授。一九二七年に、新潟医科大学より泌尿器科学教室講座担任の教授として着任した。従来、尿道膀胱疾患の診断治療と腎臓疾患の診断にとどまっていた泌尿器学科の内容を拡充、泌尿器と男性性器の疾患のすべてを対象とした。四五年に退官した。

高村泰正は経歴不詳
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106  [下山順一郎像]  武石弘三郎 作
一九一五年、八〇・九×六五・八×四一・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体側面に「K. TAKEISHI. 1915」、同基底部に「PROF. J. SHIMOYAMA」
薬学部蔵(S)、薬学部東側
下山順一郎(一八五三〜一九一二)は医科大学薬学科生薬学教室教授。犬山藩士の子として生まれる。一八七八年、医学部製薬科の第一回生として卒業した。八三年から八七年までドイツに留学し、帰国後設置されたばかりの医科大学薬学科教授となる。生薬学講座を担任した。

武石弘三郎は七四図参照
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107  [小藤文次郎像]  堀進二 作
一九三七年、七二・五×五九・五×三七・三cm、ブロンズ、石製台座
本体基底部に「小藤文次郎先生像」、同側面に「昭和十二年壱月 堀進二作」
台座正面に次の銘文
「帝国学士院会員東京帝国大学名誉教授正三位勲
一等理学博士小藤文次郎先生安政三年生石州津
和野明治三年為藩貢進生遊学東京十二年卒東京
大学理学部地質学科業為内務省御用掛十三年被
命留学独逸十七年帰朝執教鞭於東京大学理学部
十九年任帝国大学理科大学教授大正十年以年老
退官其研鐙学術兼教授学生者実三十有五年也爾
後尚在地質学教室継続研究如故昭和十年春罹病
三月八日莞享季八十葬多摩墓地先生実我国地質
学之泰斗而本邦斯学之徒莫一不受先生之教其研
究論文常重干内外学界我国地質学効今日之隆盛
者先生之力居多矣」
理学部地質学教室蔵(U)
小藤文次郎(一八五六〜一九三五)は地質学教室教授。津和野藩の貢進生として上京、七九年に東京大学理学部地質学科を卒業した。翌八〇年から八四年までドイツに留学し、帰国後地質学科で教鞭をとり、八六年に教授となった。一九二一年に退官した。

堀進二は七二図参照
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108  [エドワード・ダイヴァース]  長沼守敬 作
一九〇〇年、九六・〇×七〇・五×三九・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体基底部に「DR. E DIVERS」、台座背面に「明治三十三年七月有志者建之」
理学部蔵(S)、理学部化学館中庭
エドワード・ダイヴァース、Edward Divers(一八三七〜一九一二)は工学寮、工部大学校、理科大学のイギリス人教師。一八七三年に来日して化学を教えた。すでに来日以前から次亜硝酸塩の発見などの業績を持ち、日本にいても、イギリスやドイツの学会誌に研究成果を精力的に発表し、八五年にはイギリス王立協会会員に選ばれた。九九年に帰国した。東京帝国大学名誉教師の称号が贈られ、さらに翌一九〇〇年に、肖像彫刻が理科大学正面に建立された。

長沼守敬は六五図参照
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109  [桜井錠二像]  作者不詳
一九六九年、五八・三×五一・三cm、ブロンズ浮彫り、木製額縁
本体下部に「Professor Joji Sakurai 1858-1939」、本体右下に「洋二」
理学部化学教室蔵(S)
桜井錠二(一八五八〜一九三九)は化学教室教授。金沢に生まれ、一九八一年に南校に入学した。さらに東京開成学校に学び、七六年、第二回文部省貸費留学生としてイギリスに留学、有機水銀化合物に関する研究に従事した。八一年に帰国し、理科大学化学科講師、翌年に教授となった。一九〇七年から一九年まで学長を務め、その間理化学研究所の設立に奔走した。一九年に退官した。この浮彫りは、門下生および化学教官により桜井錠二の三十回忌に寄贈された。
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  110  [柴田桂太像]  三坂耿太郎 作
一九六二年、六〇・〇×五三・〇cm、ブロンズ浮彫、石製記念碑(一四二・〇×三五〇・〇×一七〇・〇cm)にはめ込み
本体下部に「KEITA SHIBATA 1877-1949」、記念碑左端に「日本の植物生理化学は柴田桂太によってこの地に創始された」、同記念碑左下にブロンズメダル「concordia Parvae Res Crescunt」
理学部附属植物園蔵
柴田桂太は三七図参照
三坂耿太郎(一九〇八〜一九九五)は福島県郡山市に生まれる。本名政治。一九三七年に東京美術学校彫塑科を卒業し、戦後は日展で活躍した。
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111  [ヨハネ・ルードウィヒ・ヤンソン像]  大熊氏廣 作
一九〇二年、九〇・〇×五九・〇×三六・五cm、ブロンズ、石製台座
本体基底部に「Janson」、本体背面に「大熊氏廣作」、台座正面に「東京帝国大学名誉教師勲三等ヤンソン君像」
農学部蔵(U)
ヨハネ・ルードウィヒ・ヤンソン、Johannes Ludwig Janson(一八四九〜一九一四)は、駒場農学校、農科大学のドイツ人教師。一八六九年にベルリン獣医学校を卒業、普仏戦争に従軍したあと母校の助教授となったが、八〇年に来日し、一九〇二年の任期満了まで獣医学を教えた。いったん帰国したあと、再び来日し、盛岡高等農林学校、第七高等学校ドイツ語講師を歴任し、鹿児島で没した。
大熊氏廣(一八五六〜一九三四)は文展で活躍した彫刻家。現在の埼玉県鳩ケ谷市に生まれる。初めは洋画家を志したが、一八七六年に工部美術学校が開設されると、彫刻科に入学し、ラグーザに師事した。卒業後、八四年より工部省に出仕し、皇居造営のための彫刻制作に従事した。八八年より八九年まで、パリとローマに留学。靖国神社の「大村益次郎像」を初め、多くの肖像彫刻を残した。
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112*  [松井直吉像]  新海竹太郎 作
一九一四年、六〇・〇×四四・〇×三六・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「大正三年、新海竹太郎作」、台座正面に「理学博士松井直吉君像」、同背面に「東京帝国大学農科大学長従三位勲二等理学博士松井直吉君在職自明治二十三年至同四十四年同人等追慕作此像以為記念、大正四年二月」
農学部蔵(U)
松井直吉(一八五七〜一九一一)は理学部化学科教授、農科大学学長。大垣藩士の子として、大垣に生まれる。大学南校に学んだあと、一八七五年に文部省第一回留学生として渡米、コロンビア大学鉱山学科に学ぶ。八〇年に帰国し、理学部化学科教授となる。九〇年の農科大学発足に際して学長となった。

新海竹太郎は七九図参照
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113*  [オスカル、ケルネル像]  朝倉文夫 作
一九一五年、六一・五×三七・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体側面に「文夫作」、台座正面に「名誉教師ケルネル君像」、同背面に「東京帝国大学名誉教師独逸人オスカルケルネル君明治十四年応聘来朝講農芸化学同廿五年帰国同人等追慕作此像以為記念」
農業部蔵(U)
オスカル・ケルネル、Oskar Kellner(一八五一〜一九一一)は駒場農学校、東京農林学校、農科大学のドイツ人教師。イギリス人教師キンチ(E. Kinch)の後任として一八八一年に来日し、農芸化学を教えた。日本に永住するつもりだったが、メッケルン農事試験場長に就任せよというドイツからの強い要請により、九二年に帰国した。名誉教師の称号を与えられた。

朝倉文夫は八四図参照
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114  [上野英三郎像]  作者不詳
一九三〇年、六八・三×六〇・五×三七・五cm、ブロンズ、木製台座
本体下部に「上野先生之像」、同背面に「昭和五年三月戌、北口□作」
農学部蔵(U)
上野英三郎(一八七一〜一九二五)は農学科教授。三重県出身。一八九五年に農科大学農学科を卒業した。農業土木及び農具研究を専攻、一九〇〇年に講師となり八年より二年間、ドイツ、フランスに留学した。一九一一年に教授となり、在職のまま二五年に没した。「忠犬ハチ公」の飼い主としても知られる。
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115  [エドワード・エアトン像]  沼田一雅 作
一九一〇年、八七・〇×六九・〇cm、ブロンズ浮彫、木製額縁
本体下部に「W. E. Ayrton」、本体右下に「I. Numata Sculp S. Tsuda Founder」
木製額縁側面に「受業弟子等醵金造之、明治四十三年十一月」、同額縁下部に「PROF. W. E. AYRTON, F. R. S 1847-1908」
工学部電気系図書室蔵(S)
エドワード・エアトン、William. Edward. Ayrton(一八四七〜一九〇八)は工学寮、工部大学校のイギリス人教師。明治政府の招聘により一八七三年に来日し、電信科で物理学と電信学を教えた。来日前の八六年から七二年まで、インドに滞在し、電信監督官として電信局を管理した。七八年に、東京京橋に電信中央局が開局した際、工部大学校で開かれた祝宴の席上、エアトンの指揮の下、日本初の電気灯(フランス製アーク灯)が点灯された。中野初子(五一図参照)や山川義太郎(五二図参照)は、その教え子である。七九年に帰国した。
沼田一雅(一八七三〜一九五四)は帝展で活躍した彫刻家。福井に生まれ、上京して竹内久一に師事、一八九四年に東京美術学校助手、九六年に助教授となる。一九〇三年、海外窯業練習生としてフランスに留学、国立セーブル陶磁器製作所で学ぶ、このころ、ロダンにも就いて学ぶ。一九〇六年に帰国し、再び東京美術学校で教鞭をとった。
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116  [チャールズ・ウェスト像]  沼田一雅 作
製作年不詳、二七・〇×六七・〇×六七・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体下部に「Chs. D. West」、石製台座基底部に「CHARLES DICKINSON WEST, PROFESSOR OF MECHANICAL ENGINEERING, 1882-1908, ERECTED BY HIS COLLEAGUES PUPILS AND FRIENDS」、同基底部に、製図器具、機械、造船所、蒸気機関のブロンズ浮彫り
工学部蔵(S庭)、工学部1号館前
チャールズ・ウェスト、Charles Dickinson West(一八四七〜一九〇八)は工部大学校のアイルランド人教師。ダブリンに生まれ、ダブリン大学トリニティ・カレッジで機械工学を修め、一八六九年に卒業したあと、五年余りイギリスのベルケンヘット製鉄場で働いた。造船の知識をこの時に得ている。ヘンリー・ダイヤー(Henry Dyer)の後任として、八二年に来日し、機械工学とともに造船学も教えた。そのまま日本に留まり、一九〇八年に没した。

沼田一雅は一一五図参照
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117*  [チャールズ・ウエスト像]  沼田一雅 作
制作年不詳、一一七・〇×六七・〇×六七・〇cm、石膏原型
木製台座本体下部に「Chs. D. West」
工学部機械工学科蔵(S)
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118  [三好晋六郎像]  武石弘三郎 作
一九一四年、九一・〇×七二・〇×五一・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体基底部に「PROF. S. MIYOSHI」、本体背面に「K. TAKEISHI. Tokyo. 1914」
手に持つ書物の背表紙に「MANUAL OF NAVAL ARCHITECTURE W. H. WHITE」
工学部蔵(S)船型試験水槽前
三好晋六郎(一八五七〜一九一〇)は工科大学造船学科教授。一八七九年に工部大学校機械工学科を卒業し、直ちにイギリスに留学した。八二年に造船学科が新設され、八三年に帰国し助教授となり、造船学第一講座を担当した。八六年に教授となった。

武石弘三郎は七四図参照
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119*  [原龍太像]  田中親光 作
一九一四年、八七・五×五四・〇×三九・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体基底部に「工学博士原龍太氏之像」、本体背後に「大正三年六月、原型田中親光、鋳造平塚駒次郎」
工学部土木工学科図書室蔵(S)
原龍太(一八五四〜一九一二)は工科大学土木工学科教授。福島県出身、米沢の英語学校を経て上京、一八七三年に慶応義塾に入学した。七五年に開成学校に転じ、八一年、理学部土木工学科を卒業した。直ちに東京府に入り、橋梁の建設に従事した。九六年に工科大学講師となり、九九年に教授となった。

田中親光は経歴不詳
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120  [ジョサイア・コンドル像]  新海竹太郎 作
一九二二年、二六五・〇×六二・〇×六二・〇cm、ブロンズ、石製台座
本体基底部に「大正十一年新海竹太郎作」、台座正面に「J. CONDER」(縦書)、台座下部に二匹の邪鬼の浮彫り
工学部蔵(S)、工学部1号館前庭
ジョサイア・コンドルは五三図参照
新海竹太郎は七九図参照
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121  [辰野金吾像]  作者不詳
制作年不詳、ブロンズ浮彫、五九・〇×四三・〇cm、木製額縁
工学部建築学科蔵(U)
辰野金吾(一八五四〜一九一九)は工科大学造家学科教授。唐津に生まれ、唐津藩の英語学校に学んだあと、工学寮に入学した。一八七七年に来日したコンドル(五三・一二〇図)に就いて建築学を学び、七九年、工部大学校造家学科第一回生として卒業した。直ちにイギリスに留学し、八三年に帰国した。いったん工部省に勤めたあと、八六年に工科大学造家学科教授となる。工科大学長、建築学会長などを歴任した。代表的な建築作品に日本銀行本店、東京駅がある。
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122*  [寺野精一像]  作者不詳
制作年不詳、八八・五×六二・五cm、ブロンズ浮彫、木製額縁
本体左下に「□八」、額縁下部に「寺野先生」
工学部船舶海洋工学科蔵(S)
寺野精一(一八六八〜一九二三)は工科大学造船学科教授。名古屋に生まれる。一八九〇年に工科大学造船学科を卒業、九二年に助教授、九七年より九九年までイギリスに留学し、九九年に帰国すると教授となった。一九一八年から二〇年まで工科大学長、次いで工学部長を、その後は航空研究所長を務めた。
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123*  [伊東忠太像]  盛岡勇夫 作
一九三一年、三二・〇×三二・〇×二〇・五cm、ブロンズ
本体背後に「昭和六年六月、伊東忠太」、本体基底部背後に「資生堂立体写真像部謹製」工学部建築学科蔵(U)
伊東忠太(一八六七〜一九五四)は工科大学建築学科教授。米沢に生まれ、一八九二年に工科大学造家学科を卒業した。日本の古建築を専攻、一九〇五年より建築学科教授となった。代表的な建築作品に、平安神宮、明治神宮、築地本願寺がある。
盛岡勇夫(一八九三〜一九八五)は広島に生まれ、東洋大学哲学科を卒業、一時、雑誌「新小説」の編集に携った。写真から肖像彫刻を制作する技術を開発し、これを「立体写真」と名付けて、一九二七年より実用化させた。当初は銀座資生堂内に立体写真像部を開設して営業し、三三年に立体写真像株式会社を設立した。同社は現在も活動を続けている。
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124*  [井口在屋像]  新海竹太郎 作
一九二五年、六二・〇×三四・〇×二六・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「大正十四年、新海竹太郎作」
工学部機械工学科蔵(S)
井口在屋(一八五六〜一九二三)は工科大学機械工学科教授。金沢出身、一八七六年に工学寮に入り、八二年に工部大学校機械科を卒業した。直ちに助教授となり、九四年から九六年までイギリスに留学した。帰国後、工科大学教授となる。

新海竹太郎は七九図参照
125  [井口在屋像]  新海竹太郎 作
一九二五年、六二・〇×三四・〇×二六・〇cm、石膏原型、木製台座
本体背面に「大正十四年、新海竹太郎作」、木製台座正面に「ゐのくちありや」
工学部機械工学科蔵(S)
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126  [古市公威像]  堀進二 作
一九三七年、二〇五・〇×一二二・〇×二一〇.〇cm、ブロンズ、石製衝立(二五五・〇×一四四・五×四八〇・〇cm)、本体側面に「昭和十二年二月 堀進二作」、向かって右の壁面に次の銘文
「先生諱公威古市氏姫
路藩士族夙立志工学
遊学仏国帰朝奉職内
務省尋任帝国大学工
科大学長挙於帝国学
士院会員為枢密顧問
官叙従二位勲一等授
男爵昭和九年一月二
十八日病薨寿八十一
先生天資明敏人格高
潔至誠奉公一以国家
為任好誘掖後進
於情誼博聞彊記熱慮
断行識人善任深得衆
心和是所以能裁群議
収成功也先生実本邦
工業教育之鼻祖而司
鐸五十年於治水港湾
鉄道等公私事業所盡
力頗多不譲大禹疏鑿
之功鳴呼盛矣故旧
門生敬慕不止胥謀募
資建銅像於大学前庭
以伝先生之豊功盛徳
於千歳云
昭和十二年四月」
工学部蔵(S)、工学部列品館西側/font>
古市公威(一八五四〜一九三四)は工科大学土木工学科教授。姫路藩士の子として江戸に生まれる。一八六九年に開成学校に入学、七五年、文部省留学生としてパリに留学、エコール・サントラル(工科大学)で土木工学を修める。七九年に卒業し、翌年帰国。内務省土木局に勤めて、おもに河川工事に従事した。八六年、帝国大学創立と同時に、工科大学土木工学科教授兼工科大学長を務めた。八九年、工学博士となる。九八年に退官した。

堀進二は七二図参照
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127  [有坂蔵像]  朝倉文夫 作
一九四〇年、三八・〇×三〇・〇×三七・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「文夫作」、台座正面に「有坂銘蔵先生」、台座背面に「皇紀二千六百年夏至、造兵学科、謝恩会」
工学部精密機械工学科蔵(S)
有坂(一八六八〜一九四一)は工科大学および工学部造兵学科教授。一八九〇年に、造兵学科を卒業した第一回生。直ちにフランスに留学し、九三年に帰国した。海軍で造兵大技士、造兵廠長などを務め、最後は造兵中将となった。一方、一九〇二年から二五年まで教授を兼任し、火砲製造法を教えた。

朝倉文夫は八四図参照
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128  [山内鎮一像]  朝倉文夫 作
制作年不詳、四七・〇×二七・〇×三二・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「文夫作」、台座正面に「山内鎮一先生」
工学部精密機械工学科蔵(S)
山内鎮一(一八八六〜一九四〇)は工学部造兵学科教授。一九〇九年に工科大学造兵学科を卒業、一七年から助教授となった。二一年に第四講座が新設され、二二年より担任し、砲架構造・移動砲架・戦車」特殊兵器に関する、工学を講じた。翌二四年に教授となった。

朝倉文夫は八四図参照
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129  [青木保像]  朝倉文夫作 
制作年不詳、四七・五×二五・〇×三二・五cm、ブロンズ、木製台座
本体背面に「文夫作」、台座正面に「青木保先生寿像」
工学部精密機械工学科蔵(S)
青木保(一八八一〜一九六六)は工学部造兵学科教授。一九〇八年に工科大学造兵学科を卒業し、直ちに講師となり、翌九年から助教授となった。一七年からアメリカ・イギリス・フランス・スイスに留学し、二〇年に水雷を教える第三講座が開設されると、帰国して教授となった。四三年に退官した。

朝倉文夫は八四図参照
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130*  [加茂正雄像]  盛岡勇夫 作
一九三七年、六二・五×五〇・〇×三二・〇、ブロンズ、木製台座
本体背面に「加茂正雄自署、贈呈昭和十二年十二月、加茂名誉教授記念会」
本体背面基底部に「立体写真像、□□□盛岡勇夫作」、木製台座正面に「加茂正雄先生」
工学部機械工学科蔵(S)
加茂正雄(一八七六〜一九六〇)は工科大学および工学部機械工学科教授。愛媛県出身。一八九八年に機械工学科を卒業、直ちに助教授となった。一九〇六年からアメリカ、イギリス、フランス、ドイツに留学、一二年に帰国すると教授となり、船用機関学第二講座を担任した。二一年から三七年に退官するまで、熱機関を内容とする機械工学第一講座を担任した。

盛岡勇夫は一二三図参照
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131  [渡辺渡像]  新海竹太郎 作
一九二二年、八〇・〇×四三・〇×五〇・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体背後に「大正十一年、新海竹太郎作」
工学部地球システム工学科(S)
渡辺渡(一八五七〜一九一九)は工科大学採鉱冶金学科教授。長崎出身、七九年に理学部採鉱冶金学科を卒業し、八二年から八五年までドイツに留学、フライベルク鉱山大学校で学び、さらにベルギー、イギリスで炭坑瓦斯爆発予防法を研究した。翌八六年、工科大学発足時に教授となった。一九〇二年から十八年まで、工科大学長を務めた。

新海竹太郎は七九図参照
132  [渡辺渡像]  新海竹太郎 作
一九二二年、八〇・〇×四三・〇×五〇・〇、石膏、木製台座
木製台座正面に「渡辺渡先生」
工学部地球システム工学科蔵
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133  [濱尾新像]  堀進二 作
一九三二年、二七一・五×一六〇・〇×二四〇・〇cm、ブロンズ、石製台座、石製衝立
本体側面に「昭和七年、堀進二作」
衝立中央に次の銘文
「夫誠積干中則発乎外可以感孚於天
地鬼神況於人乎是以至誠之人生則
為衆人所感戴死則為衆人所景仰豊
功盛徳光前照後焉浜尾先生至誠之
人也其在文教要職為東宮大夫為枢
密院議長無一不至誠服務贋事而其
終始所綣縫者為本学事業矣自始官
於東京大学至薨前後五十年雖職司
有不同心則無一日不在本学充実内
容拡張規模創講座制定学位令増設
農科大学等皆出於先生至誠主張其
罷文部大臣後再為本学総長以枢密
顧問官姑兼本学総長者亦以至誠感
乎人心也其薨也全学如喪父母以大
講堂充葬儀場籍表哀痛之意葬之前
皇上賜御沙汰有致意忠誠謀事密之
語天語昭昭真蔽先生徳業矣葬之日
勅使来臨□官□公以至学生列干儀
者二千有余可以観先生徳業之盛焉
昭和三年五月本学設記念事業実行
委員会遂決建設銅像以致追慕之枕
之議像巳成乃挙所以先生徳業基於
至誠以詮後人云
昭和八年六月
東京帝国大学浜尾先生記念事業実行委員会」
安田講堂南側(S)
濱尾新(一八四九〜一九二五)は帝国大学総長。豊岡藩士の子として生まれる。一八七二年に文部省に出仕、七三年から七四年までヨーロッパに留学。七七年、東京大学創立時に、法理文三学部副綜理として同郷の加藤弘之(一三六図参照)を補佐した。九三年に、帝国大学総長となり、九七年には文部大臣となった。一九一一年に、再び東京帝国大学総長を務めた。

堀進二は七二図参照
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134  [渋澤元治像]  北村正信 作
一九三七年、六一・〇×三四・五×二九・〇cm、大理石、木製台座
本体側面にモノグラム「正信」、台座側面に「渋澤先生昨年十月目出度還暦ヲ迎へラレ本年三月大学ヲ勇退セラルゝコノ機ニ当リ門弟一同深ク感謝ノ意ヲ表シ記念トシテ之ヲ贈呈ス、昭和十二年、渋澤先生謝恩会」
工学部電気工学科蔵(S)
渋澤元治(一八七六〜一九七五)は工科大学電気工学科教授。埼玉県出身。一九〇〇年に工科大学電気工学科を卒業。一九〇二年から六年まで、ドイツ、スイス、アメリカに留学。帰国後、逓信技師となり、高圧送電事業に従事した。翌一九〇七年に竣工した駒橋発電所、東京間の送電系の設計では中野初子(五一図参照)を助けた。一七年に非常勤講師、一九年に教授となり、三七年に退官した。
北村正信(一八八九〜一九八〇)は文展、帝展、日展で活躍した彫刻家。新潟に生まれ、上京して太平洋画会で彫刻を学んだ。一九一一年の第五回文展に初入選して以来、文展、帝展を発表の場とした。
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135  [真島正市像]  林謙三 作
一九四一年、三九・〇×二四・〇×一七・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体下部に「Dr. M. Masima」、台座背後に貼り紙「昭和十六年作井誠太氏の依頼によって彫刻家林謙三氏(帝展無鑑査)の製作されたものである。」
工学部物理工学科蔵(S)
真島正市(一八八六〜一九七四)は工学部教授。香川県出身、一九一四年に東北帝国大学理科大学物理学科を卒業し、一七年から東京帝国大学二科大学講師、二〇年から同工学部助教授を務めた。二三年に理科学研究所の主任研究員となり、二七年から二九年までドイツに留学した。三五年に教授となり、応用物理学の研究と教育に従事した。
林謙三(一八九九〜一九七六)は日展で活躍した彫刻家。大阪に生まれ、一九二四年に東京美術学校を卒業した。
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136*  [加藤弘之像]  朝倉文夫 作
一九一五年、六七・〇×三九・〇×三一・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体基底部に「加藤弘之先生」、本体側面に「文夫作」、旧台座正面に次のように墨書されている。
「加藤弘之先生ノ八十ノ寿ヲ祝シ
奉ランカ為辱知ノ有志胥謀リ
此ノ銅像ヲ作製シ以テ先生二贈
呈ス
大正四年六月」
総合図書館蔵(S)
第十回文部省美術展覧会(一九十六年)に出品された。
加藤弘之(一八三六〜一九一六)は東京大学総理、帝国大学総長。但馬国出石に生まれる。藩校弘道館に学んだあと、江戸に出て、佐久間象山、ついで蘭医大木仲益に就いて学ぶ。一八六〇年、蕃書調所教授手伝となる。維新後も、大学大丞、外務大丞などを歴任。七三年、明六社同人となり、翌七四年には、民撰議院設立建白に際し、時期尚早論を展開した。七七年、東京大学創立時に法理文三学部綜理となり、八一年の改正で、大学全体を管理する総理となった。さらに、九〇年に帝国大学総長となった。

朝倉文夫は八四図参照
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137  [クリスチャン・ビルケラン像]  作者不詳
一九〇八年、四〇・〇×二九・〇×二二・〇cm、ブロンズ
理学部地球惑星物理学科蔵、ノルウェー科学アカデミー、オスロ大学、ノシュク・ヒドロ社寄贈
クリスチャン・ビルケラン、Kristian Birkeland(一八六七〜一九一七)はノルウェーの物理学者。地球磁気学を専攻、オーロラに関する研究で知られる。極地方で地球磁力線に沿って出入りする電流を予想したことから、「ピルケランド電流」という名が今も使われている。一九一七年に来日し、理科大学教授寺田寅彦を突然訪ねてきた。交際はひと月半に及んだが、滞在先の上野のホテルで謎の死を遂げてしまう。寺田は、その時の体験を、「B教授の死」(『文学』一九三五年七月号)と題した随筆に書き残している。
オスカル・カストバルク、Oscar Castbeng(一八四六〜一九一七)はノルウェーの彫刻家。肖像彫刻を数多く残した。画家としても活躍し、晩年には風景画を好んで描いた。本作品は一九〇九年にオスロで三体鋳造されたものの一点。
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138*  [瀧精一像]  掘進二 作
一九三四年、八〇・〇×六八・〇×三七・〇cm、ブロンズ、木製台座
本体基底部に「瀧精一先生像」、本体側面に「昭和九年十月、堀進二作」
文学部美術史学研究室蔵(U)
瀧精一(一八七三〜一九四五)は文学部教授。日本画家瀧和亭の長男として、東京に生まれた。拙庵と号した。一八九七年に文科大学を卒業し、大学院に進んで美学を専攻した。一九〇一年から国華祉の主幹を務めた。一四年、教授となり、新設された美学美術史第二講座を担任、日本美術史を講じた。二七年から文学部長を務め、三四年に退官した。

堀進二は七二図参照
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139  [ラフカディオ・ハーン像]  作者不詳
一九三五年? 寸法未測定、大理石浮彫り
本体背景に「ラフカディオ・ハーン、ギリシアヨリ」
総合図書館蔵(S)
ラフカディオ・ハーン、Lafcadio Hearn(一八五〇〜一九〇四)は文科大学英文学科の教師。一八九六年から一九〇三年まで在職し、英文学を教えた。ギリシャで、イギリス人の父とギリシャ人の母との間に生まれ、アイルランドのダブリンで育った。その後、アメリカで新聞記者となり、一八九〇年に日本に派遣された。松江、熊本の中学校で英語を教え、神戸で新聞記者を勤めたあと、学長外山正一に請われ、九六年に帝国大学文科大学に赴任した。同じこの年、日本に帰化し、小泉八雲を名乗った。

この浮彫りはギリシア日希協会より本学文学部に寄贈され、一九三五年九月二十六日午後三時より、図書館記念室にて贈呈式が行なわれた。一九三三年に、東京日希協会と松江市八雲会からギリシア国民に贈った小泉八雲記念碑に対する返礼。(『帝国大学新聞』一九三五年九月二十三日、三十日)
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140  [エドマンド・ブランデン像]  舟越保武 作
一九八三年? 寸法未測定、ブロンズ浮彫り
総合図書館蔵(S)
エドマンド・ブランデン、Edmund Charles Blunden(一八九六〜一九七四)は文学部英文学科のイギリス人教師。一九二四年から二七年まで在職した。関東大震災直後の図書館建設の様子を詩にうたっている。戦後、英国政府派遣の文化使節として、再び来日した。名誉教授斎藤勇の呼び掛けで浮彫りが作られ、一九八四年一月十七日に図書館三階ホールで除幕式が行なわれた。
舟越保武(一九一二〜  )は新制作派協会で活躍した彫刻家。岩手県一戸町に生まれ、東京美術学校彫刻科に学んだ。一九三九年、新制作派協会彫刻部の創設に参画した。このころより、大理石彫刻の直彫りを始めた。六七年より八〇年まで、東京芸術大学教授を務めた。
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