東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻


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肖像一覧

凡例
本書は東京大学総合研究博物館の特別展「東京大学コレクションVIII博士の肖像」(会期・一九九八年十月一日〜十一月十五日)の図録として作成したものである。
展覧会に先立って学内で行った肖像の所在調査にもとづき、像主か作者が明らかになった肖像画・肖像彫刻をできるかぎり収録した。したがって、そのすべてが展示されたわけではない。展示物は番号の下に*で示した。
制作年・寸法・技法・材質の順にデータを記した。肖像画は縦×横(cm)、肖像彫刻は高さ×幅×奥行(cm)で寸法を示した。肖像本体および額や台座に記されている言葉をすべて記録した。肖像の所有者や管理者が不明瞭な場合が多々あり、所蔵先を統一的に明記することは困難であった。むしろ、肖像を作り守り伝えてきた組織を明らかにすることを心掛けた。したがって、現行の組織名とは異なる場合が多い。屋外に設置された彫刻のみ所在地を記した。
像主と作者の略歴は木下直之が執筆した。
写真撮影は上野則宏と鈴木昭夫が行った。それぞれの撮影物を(U)と(S)で示した。
肖像の所在調査およびデータの採集には、次の学生諸君の協力を得た。記して感謝申し上げる。 池田昭光、伊東俊彦、植田彩芳子、宇野貴文、大島徹也 川埜伸、岸清香、河野まゆ子、湖上麻子、輿石優子 杉野愛、祐川良子、中村麗子、西多亮子、根本亮子 土方浦歌、廣瀬就久、堀沢加奈(敬称略)

肖像画目次
001 田口和美像  高橋勝蔵 作
002小金井良精像  和田英作 作
003井上通夫像  中沢弘光 作
004ペッテンコーファー像  岡田三郎助 作
005緒方正規像  満谷国四郎 作
006横手千代之助像  藤島武二 作
007田宮猛雄像  宮田重雄 作
008片山國嘉像  和田英作 作
009井上達也像  堀江正章 作
010河本重次郎像  松井昇 作
011石原忍像  石井柏亭 作
012庄司義治像  今関一馬 作
013 土肥慶蔵像  岡田三郎助 作
014 山極勝三郎像  作者不詳
015 吉田富三像  小磯良平 作
016 高橋順太郎像  濱地清松 作
017 林春雄像  和田三造 作
018 像主不詳  寺崎武男 作
019 橋田邦彦像  鏑木清方 作
020 楓田琴次像  山本正 作
021 切替一郎像  樋口加六 作
022 藤村靖像  藤村靖 作
023 佐野圭司像  中村琢二 作
024 長井長義像  Hans WisLicenus 作
025 箕作佳吉像  長原孝太郎 作
026 飯島魁像  岡精一 作
027 渡瀬庄三郎像  岡精一 作
028五嶋清太郎像  田辺至 作
029 谷津直秀像  伊原宇三郎 作
030 田中茂穂像  作者不詳
031 坪井正五郎像  長原孝太郎 作
032 松村任三像  松岡寿 作
033 三好学像  満谷国四郎 作
034 早田文蔵像  寺内萬治郎 作
035 藤井健次郎像  寺内萬治郎 作
036 服部広太郎像  寺内萬治郎 作
037 柴田桂太像  清水良雄 作
038 中井猛之進像  加納川郁之助 作
039 本田正次像  作者不詳
040 小倉謙像  作者不詳
041 中野治房像  作者不詳
042 篠遠喜人像  石川光成 作
043 山川健次郎像  川村清雄 作
044 像主不詳  満谷国四郎 作
045 田中宏像  和田英作 作
046 外山亀太郎像  高島野十郎 作
047 岸上鎌吉像  高島野十郎作
048 原十太像  高島野十郎 作
049 小島憲之像  岡田三郎助 作
050 数藤斧三郎像  中村彝 作
051 中野初子像  和田英作 作
052 山川義太郎像  石井柏亭 作
053 ジョサイア・コンドル像  白瀧幾之助 作
054 的場中像  青山熊治 作
055 末広恭二像  作者不詳 作
056 横田成年像  作者不詳
057 大越諄像  作者不詳
058 藤懸静也像  鏑木清方 作
059 隈川宗雄像  黒田清輝 作
  ■内科講堂
060 三浦謹之助像  黒田清輝 作
061 博士十二氏肖像  作者不詳
062 鮫島尚信像  山本芳翠 作
063 菅原道真像  小堀鞆音 作
064 坂上田村麻呂  小堀靹昔 作




001*  [田口和美像]  高橋勝蔵作
一八九四年、七五・〇×五四・〇cm、油彩・布
画面左上に「高橋勝蔵写、明治廿七年」
医学部解剖学教室蔵(U)
田口和美(一八三九〜一九〇四)は解剖学教室の初代教授。現在の埼玉県藤畠に生まれ、林洞海の門に学んだあと栃木県佐野町で開業したが、一八六九年、医学校に所属し、解剖所を管理した。七七年に東京大学医学部教授となり、没するまで在職した。九三年、日本解剖学会が設立されると、その会頭を務めた。肖像画はこの頃のもの。肖像彫刻も伝わっている(七〇図参照)
高橋勝蔵(一八六〇〜一九一七)は現在の宮城県亘理町に生まれ、一八七一年に伊達家の開拓団の一員として北海道に移住した。その後、画家を志して上京、さらに八五年に渡米し、サンフランシスコのカリフォルニア・デザイン学校で油絵を学んだ。九三年に帰国すると、東京芝に芝山研究所を開設、翌九四年に明治美術会で滞米作品を公開して話題を呼んだ。「田口和美像」は、まさしくこの年の制作である。龍と人の頭蓋骨の彫刻を配した額縁は珍しい。
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002[小金井良精像]  和田英作 作
一九一〇年、九一・〇×七三・〇cm、油彩・布
画面右下に「EISAKU-WADA 1910」
医学部解剖学教室蔵(U)
小金井良精(一八五八〜一九四四)は解剖学教室の二代教授。新潟県長岡に生まれ、一八八〇年、東京大学を卒業するとすぐにドイツに留学、解剖学および組織学を学んだ。八五年の帰国後は、骨格を中心に日本人の人類学的研究を進めた。八六年、東京帝国大学医科大学の発足とともに教授となった。田口和美教授没後、第一講座を担任し、一九二一年に退官した。肖像彫刻も伝わっている(七二図参照)。
和田英作(一八七四〜一九五九)は白馬会、文部省美術展覧会(以下文展と略す)で活躍した画家。鹿児島県出身、上京して曽山幸彦、原田直次郎、黒田清輝、久米桂一郎らに就いて学び、一八九六年の白馬会創設に参画した。一九〇〇年に文部省留学生となり、パリでラファエル・コランに師事した。一九〇三年に帰国し、東京美術学校教授となる。肖像画を数多く残した。この肖像画は、第五回文展(一九一一年)の出品作品。
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003*  [井上通夫像]  中沢弘光 作
制作年不詳、七一・五×七〇・〇cm、油彩、布
画面右下に「Hiromitsu Nakazawa」
医学部解剖学教室蔵(U)
井土通夫(一八七九〜一九五〇)は解剖学教室教授。徳島出身、一九〇四年に医大学を卒業し、一九〇六年から一一年までドイツとフランスに留学した。二一年から三九年まで、解剖学教室教授として第二講座を担任した。発生学の研究に務めた。肖像彫刻も伝わっている(七三図参照)。
中沢弘光(一八七四〜一九六四)は白馬会、文展で活躍した画家。東京に生まれ曽山幸彦、堀江正章(九図参照)に師事したあと、一八九六年、東京美術学校西画科に入学し、黒田清輝の指導を受ける。同年創設された白馬会に参加した。一九〇七年の第一回文展より入選を重ねた。
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004*  [ペッテンコーファー像]  岡田三郎助 作
一九一一年、七一、〇×五一・五cm、油彩・布
画面右下に「S-OKADA. 1912」、
額縁下部に「D. M. Petten Kofer」
医学部衛生学教室蔵(S)
マックス・フォン・ペッテンコーファー、Max von Pettenkofer(一八一八〜一九〇一)はドイツの衛生学者。一八五四年のミュンヘンでのコレラ大流行を機に、流行病と地下水の研究に取り組んだ。六五年にはミュンヘン大学の衛生学教授となった。のちに東京大学衛生学初代教授となる緒方正規が一八八〇年にドイツに留学し、最初に師事したのがこのペッテンコーファーである。彼の肖像画は、いわば祖師の肖像として衛生学教室に掲げられてきた。
岡田三郎助(一八六九〜一九三九)は白馬会、文展で活躍した画家。佐賀に生まれ、上京して曽山幸彦、堀江正章(九図参照)、黒田清輝、久米桂一郎らに師事する。一八九六年、東京美術学校に新設された西洋画科助教授となり、同時に白馬会創設に参画した。翌九七から一九〇二年までフランスに留学し、ラファエル・コランに就いて学んだ。帰国後は教授となった。一九一二年に、藤島武二(六図参照)とともに本郷洋画研究所を設立した。
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005*  [緒方正規像]  満谷国四郎 作
一九二?年、七一・一×五一・四cm、油彩・布
画面右下に「K. Mitsutani 192?」、
額縁下部に「緒方正規教授、明治一九年三月〜大正八年八月」
医学部衛生学教室蔵(S)
緒方正規(一八五三〜一九一九)は衛生学教室の初代教授。熊本八代出身。一八八〇年、東京大学医学部を卒業するとドイツに留学し、ペッテンコーファーのほか、ルードウィヒ、ホフマン、フォイトらに就いて堂び、八四年に帰国した。学生宿舎三室を利用して、直ちに開設した衛生学実験場が衛生学教室の始まりとされる。八六年に教授となり、在職のまま没した。肖像彫刻も伝わっている(八一図参照)。
満谷国四郎(一八七四〜一九三六)は明治美術会、太平洋画会、文展で活躍した画家。岡山総社の出身。五姓田芳柳、小山正太郎に師事したのち、一九〇二年、太平洋画会の創設に参画した。
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006*  [横手千代之助像]  藤島武二 作
制作年不詳、七一・三×五九・三cm、油彩・布
画面左上に「T. Fdjishima」、額縁下部に「横手千代之助教授、大正八年一一月〜昭和六年三月」
医学部衛生学教室蔵(S)
横手千代之助(一八七一〜一九四一)は衛生学教室の二代教授。東京に生まれ、一八九四年の医科大学卒業後、直ちに衛生学助手、九八年に助教授となり、一九〇八年から三一年まで教授を務めた。この間、一九〇一年より一九〇四年までドイツに留学した。退官後は、上海自然科学研究所長となった。在職二十五年を記念して、門下生により『横手社会衛生叢書』が刊行されている。
藤島武二(一八六七〜一九四三)は白馬会、文展で活躍した画家。鹿児島出身。はじめ日本画を学んだあと、曽山幸彦、中丸精十郎、松岡寿(三二図参照)らの指導を受けて洋画家へと転向。黒田清輝と出会ったことから、一八九六年、岡田三郎助とともに、東京美術学校に新設された西洋画科の助教授となった。一九〇六年から一〇年までパリとローマに留学した。帰国後、教授となる。一二年には、岡田と本郷洋画研究所を設立した。
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007*  [田宮猛雄像]  宮田重雄 作
一九五九年、七一・七×五九・八cm、油彩・布
画面左中央に「重 Miyata」、額縁下部に「田宮猛雄教授、昭和六年八月〜昭和二四年三月」
医学部衛生学教室蔵(S)
田宮猛雄(一八八九〜一九六三)は衛生学教室の三代教授。大阪府出身。一九一五年に医学部を卒業し、直ちに伝染病研究所に入所した。二七年に教授となり、三一年から衛生学講座を担当した。恙虫病の研究で大きな業績を残した。戦前戦後を通じて、伝染病研究所長、医学部長、日本医学会長、日本医師会長などの要職を務めた。
宮田重雄(一九〇〇〜一九七一)は国画会で活躍した画家。名古屋の十三代続いた医家に生まれ、自らも慶応大学医学部に学んで医者となった。その傍ら梅原龍三郎に師事し、一九二五年に国画会洋画部が発足すると、ここを発表の場とした。
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008*  [片山國嘉像]  和田英作 作
一九一三年、八九・〇六三・五cm、油彩・布
画面右下に「EISAKU WADA 1913」
医学部法医学教室蔵(U)
片山國嘉(一八五五〜一九三一)は法医学教室の初代教授。静岡県出身。東京大学医学部の第一回(一八七九年)の卒業生であり、卒業後は生理学教場に勤務し、外国人教師チーゲルの助手として、裁判医学の講義や通訳に携わった。八一年に助教授、八四年から八八年までドイツに留学、帰国とともに教授となり、裁判医学講義を担当した。九一年に、裁判医学は法医学と改称された。一九二一年に退官。

和田英作は二図参照。
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009*  [井上達也像]  堀江正章 作
制作年不詳、五一・〇×三八・〇cm、石版・紙
画面下に「井上達也先生肖像」、画面枠外に「済安堂蔵版、堀江正章謹写、高橋石版所印刷、非売品」、マット紙下部に「井上達也、自明治拾壱年至明治拾参年助教、自明治拾四年至明治拾五年助教授」
医学部眼科学蔵(U)
井上達也(一八四八〜一八九五)は東京大学医学部の前身である医学校、および東京医学校で、眼科教育に携わった。当時は眼科が独立しておらず、一八七一年着任の外国人教師ミュルレル(六七図参照)、七四年着任のシュルツェ、さらに代わって八一年に着任したスクリバ(六八図参照)が外科・産婦人科とともに眼科を講じた。井上は、助教、次いで助教授として、彼らを助けた。マット紙に記された経歴はそのころのもの。
堀江正章(一八五八〜一九三二)は教育者として活躍した画家。信州松本に生まれ、一八七八年に工部美術学校入学、サン・ジョヴァンニの指導を受けた。その後、曽山幸彦の私塾で教え、九二年に曽山が没すると、塾を継承し大幸館と名付けた。和田英作、岡田三郎助、中沢弘光らを育てた。九七年からは、県立千葉中学校の図画教師となった。
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010*  [河本重次郎像]  松井昇 作
一九一四年、六四・〇×五一・五cm、油彩・布
画面左下に「N. Matsui 1914」
医学部眼科学蔵(U)
河本重次郎(一八五九〜一九三八)は眼科学教室の二代教授。一八八三年に医科大学を卒業し、外科助手となった。八五年から八九年までドイツに留学し、眼科学を学んだ。帰国後直ちに教授となり、眼科学講座を担任した。一九二二年に退官する雷で、三十三年にわたって職にあり、眼科学の基礎を築いた。肖像彫刻も伝わっている(八九図参照)。
松井昇(一八五四〜一九三三)は明治美術会で活躍した画家。現在の兵庫県出石町に生まれ、上京して川上冬崖の私塾聴香読画館に学んだ。浅井忠や小山正太郎と親しく、一八八九年の明治美術会創設に参画した。
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011*  [石原忍像]  石井柏亭 作
一九三二年、六三・五×五二・〇cm、油彩・布
画面右上に「Hakutei 1932」
医学部眼科学蔵(U)
石原忍(一八七九〜一九六三)は眼科学教室の四代教授。一九〇五年に医科大学を卒業すると陸軍に進み、二等軍医、軍医学校教官を務めた。一二年から一四年までドイツに留学し、二二年に東京大学医学部教授となった。その後、医学部長を務め、四〇年に退官した。肖像彫刻も伝わっている(九〇図参照)。
石井柏亭(一八八二〜一九五八)は太平洋画会、文展、二科会、一水会などで活躍した画家。日本画家石井鼎湖の長男として、東京に生まれる。彫刻家石井鶴三は弟。浅井忠、次いで中村不折に師事した。一九〇一年に新しい日本画を標榜した无声会に参加し、一四年には文展に対抗して二科会を結成するなど関心も活動も幅広い。一九〇七年に『方寸』、一五年に『中央美術』など美術雑誌の創刊に関わり、二一年には西村伊作と文化学院を創立した。
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012*  [庄司義治像]  今関一馬 作
一九六五年、五九・五×四九・〇cm、油彩・布
画面左下に「IMAZEKI」、裏面に「喜寿記念、庄司義治先生像、一九六五年、今関一馬作」
医学部眼科学蔵(U)
庄司義治(一八八九〜一九八一)は眼科学教室の五代教授。東京帝国大学医科大学を一九一四年に卒業したあと、留学、岡山医科大学、九州帝国大学を経て、四〇年から教授となった。四八年には日本眼科学会会長となり、五〇年に退官した。
今関一馬(一九二六〜  )は国画会で活躍した画家。春陽会の創立会員である洋画家今関啓司の子として、東京に生まれた。東京大学に入学したが中退。国画会で発表を続け、一九六一年より会員となった。六九年には、教養学部図書館の壁画「青春」を手掛けた。
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013*  [土肥慶蔵像]  岡田三郎助 作
一九二四年、七〇・五×六一・五cm、油彩・布
画面右上に「S. Okada 1924」
医学部皮膚科学教室蔵(U)
土肥慶蔵(一八六六〜一九三一)は皮膚科学教室の三代教授。福井県出身。一八九〇年に医科大学卒業後、直ちに附属第一医院外科医局に入り、スクリバの助手を務めた。九三年から九八年までのドイツ留学中に皮膚病学黴毒学に転じ、帰国後一八九八年に助教授となり、同時に皮膚科教室を開設した。一九〇〇年に皮膚病学会が設立され、土肥はその会長となった。一九二六年に退官した。
岡田三郎助は四図参照。
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014*  [山極勝三郎像]  作者不詳
制作年不詳、七九・〇×五九・五cm、油彩・布
医学部病理学教室蔵(U)
山極勝三郎(一八六三〜一九三〇)は病理学教室の二代教授。信州上田に生まれ、一八八八年に医科大学を卒業した。病理学は八三年に独立した課目となり、ベルツ(六九図参照一が受け持った。次いでディッセ、三浦守治(七七図参照)が担任した。一八九三年に二講座制が設定されると、三浦が第一講座を担任、翌九四年に山極が助教授として第二講座を担任した。九五年に教授となり、一九一〇年から第一講座を担任した。二三年に退官。
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015*  [吉田富三像]  小磯良平 作
一九六三年、七一・〇×五九・五cm、油彩・布
画面右下に「1963 RKOISO」
医学部病理学教室蔵(U)
吉田富三(一九〇三〜一九七三)は病理学教室教授。福島県出身、一九二七年に医学部を卒業し、病理学教室に進んだ。三七年にドイツに留学、翌三八年、長崎医科大学教授、四四年、東北帝国大学教授を歴任したあと、五二年から六三年まで、病理学教室教授を務め、第一講座を担任した。
小磯良平(一九〇三〜一九八八)は帝国美術院展(以下帝展と略す)、新制作派協会で活躍した画家。神戸に生まれ、東京美術学校西洋画科に進んで、藤島武二(六図参照)に師事した。一九二八年から三〇年までパリに留学。三六年には、帝展改組に反対し、新制作派協会を結成した。戦後は東京芸術大学教授を務めた。
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016*  [高橋順太郎像]  濱地清松 作
一九三三年(原作は一九一〇年制作、翌一一年の第五回文展に出品された)、八四・七×六〇・〇cm、油彩・布
裏面に「壱千九百十年ノ黒田清輝作ヨリ帝大ノ依頼ニ濱地清松之ヲ模写ス、壱千九百三十三年六月廿一日」、画枠に「COPIED PAINTING BY S HAMACHI」
医学部薬理学教室蔵(S)
高橋順太郎(一八五五〜一九二〇)は薬理学教室の初代教授。金沢に生まれ、一八八一年に医学部卒業。翌八二年から八五年にわたる留学を終えて帰国した高橋により、薬理学は薬物学の名で独立して教えられることになった。翌八六年に教授となり、九三年から薬物学講座が設けられた。一九二〇年に退官した。肖像彫刻も伝わっている(八二図参照)
潰地清松(一八八六〜一九四七)は和歌山県古座町に生まれ、渡米してボストン美術学校を卒業した。そのまま二十三年間アメリカに留まり、さらにフランスで二年を過した。一九二八年の第九回帝展で特選をとった。第一美術協会理事を務めた。
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017*  [林春雄像]  和田三造 作
一九三三年、八九・八×七一・四cm、油彩・布
画面右下に「昭和八年、三造」
医学部薬理学教室蔵(S)
林春雄(一八七四〜一九五二)は薬理学教室の二代教授。一八九七年に医科大学を卒業し、一九〇〇年に助教授となった。一九〇二年から五年までドイツに留学した。八年に第二講座が設けられると、林が帰国後勤務していた福岡医科大学から転じてこれを担任した。翌年教授となり、三四年まで在職した。肖像彫刻も伝わっている(八三図参照)。
和田三造(一八八三〜一九六七)は白馬会、文展、帝展で活躍した画家。兵庫県生野町の生まれ、白瀧幾之助(五三図参照)と青山熊治(五四図参照)は同郷。黒田清輝に師事し、東京美術学校西洋画科に学んだ。一九〇七年の第一回文展に「南風」を出品し、一躍注目された。一九〇九年から一五年まで、フランスを中心に留学。帰国後は工芸や図案への関心を高めた。三二年に東京美術学校図案科の教授となった。
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018*  [像主不詳]  寺崎武男 作
一九三四年、寸法未測定、油彩・布
画面左下に「Takeo Terasaki, 3, 1934」
医学部蔵(U)
寺崎武男(一八八三〜一九六七)は東京生まれ、一九〇七年に東京美術学校洋画科を卒業した。直ちにイタリアに留学し、壁画研究に努めた。
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019*  [橋田邦彦像]  鏑木清方 作
一九四五年、一二九・〇×四二・〇cm、絹本着色
箱蓋の表に「橋田先生像」、箱蓋裏に「清方作并題」
医学図書館蔵(S)
橋田邦彦(一八八二〜一九四五)は生理学教室教授。鳥取県出身。同教室の初代教授大沢謙二(七六図参照)に師事、卒業後はドイツとスイスに留学して電気生理学を研究した。一九一八年、助教授として第二講座を担任、二二年に教授となった。三七年に第一高等学校校長、四〇年に文部大臣となり、教授を辞した。四五年の敗戦直後、戦犯容疑を受け自決した。すでに四一年に、還暦祝いとして生理学教室同窓会が肖像画の制作を鏑木清方に依頼していたが、完成は逝去後となった。橋田家より本学に寄贈された。
鏑木清方(一八七八〜一九七二)は金鈴社、文展、帝展で活躍した画家。戯作者條野採菊の子として東京に生まれる。水野年方に入門、新聞や雑誌の挿し絵を描いて頭角をあらわす。文展に入選を重ねる一方で、一九一六年には金鈴社の結成に参加した。
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020*  [楓田琴次像]  山本正 作
一九六六年、七二・五×六一・〇cm、油彩・布
裏面に「楓田琴次先生像、山本正、昭和四十一年十一月」
大学院医学系研究科認知言語医学講座蔵(S)
楓田琴次(一八八六〜一九七五)は耳鼻咽喉科学教室教授。東京出身。一九一二年に医科大学薬学科を卒業し、さらに二〇年に医学科を卒業した。三五年に助教授、四三年に教授となり、四六年、退官した増田胤次のあとを受け、耳鼻咽喉科学講座を担任した。翌四七年に退官し、東京芸術大学教授となった。さらに、五九年に国立聴力言語障害センター所長を務めた。
山本正(一九一五〜一九七九)は独立美術協会で活躍した画家。岡山県に生まれ、初め里見勝蔵に、次いで野口弥太郎に師事した。一九三一年、独立美術協会の第一回展に入選、以後出品を重ね、四九年に会員となった。戦後の一時期、抽象画に転じたが、晩年は再び具象画に戻った。
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021*  [切替一郎像]  樋口加六 作
一九七〇年、六五・〇×五三・〇cm、油彩・布
裏蓋に「切替一郎先生像、樋口加六画伯筆、昭和四十五年(一九七〇)年五月」
大学院医学系研究科認知言語医学講座蔵(S)
切替一郎(一九〇九〜一九八九)は耳鼻咽喉科学教室教授。東京に生まれ、一九三三年に医学部を卒業した。四二年から帝国女子医学薬学専門学校教授を務めたあと、四七年に、楓田琴次退官のあとを受け、耳鼻咽喉科学教室教授となった。六五年に音声言語医学研究施設長を務め、六九年に退官した。
樋口加六(一九〇四〜一九七九)は独立美術協会で活躍した画家。宮城県出身。太平洋画会研究所、次いで川端画学校に学び、林武に師事した。初め二科展に出品し、独立美術協会が結成されると、一九三一年の第一回展から出品を重ねた。四六年に会員となった。
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022*  [藤村靖像]  藤村靖 作
一九六五年、三五・〇×二六・八cm、油彩・ボード
画面右下に「Jan'65 Osamu」
大学院医学系研究科認知言語医学講座蔵(S)
藤村靖(一九二七〜  )は医学部音声言語医学研究施設教授。東京に生まれ、一九五二年に理学部を卒業した。直ちに、小林理研研究助手となり、六二年から東京電気通信大学助教授となった。六四年に音声言語医学研究施設教授となり、六九年から、切替一郎退官のあとを受け、第二代施設長となった。七三年にアメリカのベルテレフォン研究所に転出し、九〇年からはオハイオ州立大学教授を務めている。この肖像画は、学内唯一の自画像である。
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023*  [佐野圭司像]  中村琢二 作
一九八一年、七一・五×五九・〇cm、油彩・布
画面左上に「Takuji 1981」、裏蓋に「佐野先生像、中村琢二」
医学部脳神経外科学教室蔵(U)
佐野圭司(一九二〇〜  )は脳神経外科学教室教授。同教室の前身は一八九三年に開設された外科学第三講座であるが、スクリバ(六五図参照)が担任したあとは長く空講座になっていた。一九五六年に佐野が脳神経外科外来医長・講師となり、翌五六年に脳研究施設助教授となった。しかし、教授として、外科学第三講座の主任に専任しだのは六二年からであった。翌六三年、第三講座は脳神経外科学講座と正式に改称された。
中村琢二(一八九七〜一九八八)は一水会で活躍した画家。佐渡の生まれ。洋画家中村研一の弟。兄の勧めで安井曽太郎に師事し、一九三七年、一水会の創立に参加した。
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024*  [長井長義像]  Hans WisLicenus 作
一九二九年、五九・五×四九・〇cm、油彩・布
画面左下に「Hans WisLicenus 1929」
薬学部蔵(S)
長井長義(一八四五〜一九二九)は医学部薬学科教授。医学部の前身である大学東校在学中、一八七〇年に、第一回の留学生として、大沢謙二らとともにドイツに送られた。そのまま十三年間ベルリン大学でホフマンに就いて学び、請われて八三年にようやく帰国した。すぐに医学部薬学科教授と理学部化学科教授を兼任した。さらに、内務省衛生局試験所長や大日本製薬会社技師長兼顧問などを兼ね、日本の薬学研究の基礎を築いた。一九二一年に退官した。Hans WisLicenusは経歴不詳
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025*  [箕作佳吉像]  長原孝太郎 作
一九〇七年、七一・五×五二・五cm、油彩・布
画面右下に「K. NAGAHARA 1907」
理学部動物学教室蔵(S)
箕作佳吉(一八五八〜一九〇九)は動物学教室の三代教授。洋学者箕作秋坪の三男として江戸に生まれた。坪井正五郎(三一図参照)は義弟になる。慶応義塾、次いで南校に学んだあと、一八七三年に十六歳で渡米し、エール大学を卒業。さらにジョンズ・ホプキンズ大学で動物学を専攻、海産動物を研究の対象とした。その後イギリスに渡り、脊椎動物発生学を学んだ。八一年に帰国し、翌八二年から一九〇九年まで動物学教室の教授を務めた。同教室の初代教授はモース、二代教授がホイットマンであるが、いずれも在職期間は短く、箕作が実質的な開祖といってよい。
長原孝太郎(一八六四〜一九三〇)は白馬会、文展で活躍した画家。岐阜県大垣出身。一八八三年に小山正太郎に入門、次いでドイツから帰国した原田直次郎におおいに感化された。八九年から九九年まで、動物学教室で標本写生の仕事に従事した。その傍ら、九三年には漫画雑誌『とばゑ』を創刊、また九六年の第一回白馬会展にも、水彩による軽妙な風俗画を出品した。九八年に東京美術学校の助教授となった。
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026*  [飯島魁像]  岡精一 作
一九一一年、七二・〇×五二・〇cm、油彩・布
画面右上に「Seiichi Oka 1911」
理学部動物学教室蔵(S)
飯島魁(一八六一〜一九二一)は動物学教室の四代教授。一八七七年に発足した東京大学理学部生物学科の第一回卒業生である。モースとホイットマンの両方の教えを受けたことになる。卒業後、八一年から八四年までドイツに留学し、翌八五年に教授となった。九三年からは、箕作佳吉が第一講座を、飯島が第二講座を担任した。
岡精一(一八六八〜一九四四)は明治美術会、太平洋画会で活躍した画家。大阪に生まれ、上京して浅井忠、本多錦吉郎、小山正太郎に師事した。一九〇〇年に渡米し、さらにフランスに移り、ジャン・ポール・ローランスに就いて学んだ。一九〇八年に帰国し、太平洋画会に所属した。
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027*  [渡瀬庄三郎像]  岡精一 作
制作年不詳、七一・五×五二・〇cm、油彩・布
画面左下に「SEIICHI-OKA」
理学部動物学教室蔵(S)
渡瀬庄三郎(一八六二〜一九二九)は動物学教室の五代教授。箕作佳吉と飯島魁の下でセミの発音器と金魚の尾の発生を研究したあと、渡米してジョンズ・ホプキンズ大学に学び、さらにシカゴ大学で教鞭をとった。帰国後、一九〇一年に動物学第三講座が増設されると、渡瀬が教授となった。二四年に退官した。岡精一は二六図参照。
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028*  [五嶋清太郎像]  田辺至 作
一九二八年、七一・五×五九・五cm、油彩・布
画面右下に「I. Tanabe 1928」
理学部動物学教室蔵(S)
五嶋清太郎(一八六七〜一九三五)は動物学教室の六代教授。箕作佳吉と飯島魁の下で寄生虫を研究し、一八九〇年に卒業した。その後渡米し、ジョンズ・ホプキンズ大学で腔腸動物を、ハーヴァード大学で棘皮動物の発生を研究した。九六年に帰国したあとは第一高等学校教授を務めていたが、一九〇九年、亡くなった箕作のあとを継いで理学部教授となった。二八年に退官した。
田辺至(一八八六〜一九六八)は文展、帝展で活躍した画家。東京出身。哲学者田辺元は兄。東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝に師事した。卒業後も、同校助手、助教授、教授となって永く後進の指導にあたった。文展には一九〇七年の第一回から出品を続けた。
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029*  [谷津直秀像]  伊原宇三郎 作
一九三七年、七一・五×五八・五cm、油彩・布
画面右上に「U. Ihara」
理学部動物学教室蔵(S)
谷津直秀(一八七七〜一九四七)は動物学教室の七代教授。一九〇〇年に動物学科を卒業し、翌一九〇一年に渡米、コロンビア大学でヒモムシの発生を研究した。さらに一九〇五年から一九〇七年までイタリアのナポリ臨海実験所でクシクラゲ、の研究に従事した。同年に帰国、動物学教室の講師、次いで助教授となったが、その後慶応大学医学部教授となっていた。二二年、亡くなった飯島魁のあとを継いで、母校の教授に戻った。三八年に退官した。
伊原宇三郎(一八九四〜一九七六)は帝展、一九三〇年協会展などで活躍した画家。徳島に生まれ、東京美術学校西洋画科に学んだ。藤島武二(六図参照)に師事した。一九二五年にフランス留学、帰国後、帝展で特選を重ねる一方、東京美術学校助教授を務めた。
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030*  [田中茂穂像]  作者不詳
制作年不詳、五九・五×四九・〇cm、油彩・布
画面左上に「Taniyama 知生」
理学部動物学教室蔵(S)
田中茂穂(一八七八〜一九七四)は動物学教室の八代教授。学生時代に鹿児島県の魚類調査から出発し、魚類の分類研究に一生を捧げ、日本の魚学の基礎を築いた。一九〇四年に卒業、二〇年より三八年まで、谷津直秀教授(二九図参照)の下で助教授を務め、脊椎動物学を講じた。二六年から二七年にかけて、スタンフォード大学に留学した。三八年に教授となり、翌三九年に退官した。田中の魚類標本は総合研究博物館に収蔵され、今なお活用されている。
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031*  [坪井正五郎像]  長原孝太郎 作
制作年不詳、六〇・〇×四五・〇cm、油彩・布
画面左下に「長原」
理学部人類学教室蔵(S)
坪井正五郎(一八六三〜一九一三)は人類学教室の初代教授。江戸に生まれ理科大学動物学科に学んだ。在学中の一八八四年に同志と人類学会を設立した。その後、大学院で人類学を専攻。八九年から九二年までイギリスとフランスに留学し、帰国後教授となる。翌九三年に人類学講座が設置された。一九一三年、ロシアでの万国学士院連合大会に出張した途上、エジプトのアレクサンドリアで客死した。

長原孝太郎は二五図参照
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032*  [松村任三像]  松岡寿 作
一九一五年、六四・〇×五二・〇cm、油彩・布
画面右下に「H. MATUSUOKA 1915」
理学部附属植物園蔵(S)
松村任三(一八五六〜一九二八)は植物学教室教授。松岡藩の家老の家に生まれ、貢進生として大学南校に学んだ。幕府の小石川薬園は、明治維新後大学東校や文部省によって引き継がれ、一八七七年東京大学創立とともに大学附置の植物園となった。最初の主管者が矢田部良吉理学部教授であり、この七七年から、松村は矢田部に師事した。標本作成に従事し、標本室の建設に努めた。八三年に助教授となり、八六年から八八年まで私費でドイツに留学した。九〇年に教授となり、翌九一年、矢田部が非職を命じられると、代わって植物園の主管者となり、九七年には初代園長となった。二二年に退官した。
松岡寿(一八六二〜一九四四)は明治美術会で活躍した画家、美術教育者。岡山に生まれ、上京して川上冬崖の私塾聴香読画館に入門、さらに一八七六年に開設された工部美術学校に入学し、フォンタネージの指導を受けた。八〇年から八八年までイタリアに留学、帰国した翌八九年に、明治美術会の創立に参加した。後半生は、東京高等工芸学校教授として、美術教育に力を注いだ。松岡が遺した『揮毫控』には、「松村任博士像在職二十五年祝賀会代表藤井博士依頼」とメモがある。
ほかに、「渡辺洪基氏像帝国大学依頼五〇円」と「濱尾新氏肖像帝大依頼明治丗一年十一月五〇」というメモがあり、揮毫料がわかって興味深い。これらの二点は所在が確認できない。
(『松岡寿展』図録、神奈川県立近代美術館・岡山県立美術館、一九八九年)
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033*  [三好学像]  満谷国四郎 作
制作年不詳、七九・〇×六三・五cm、油彩・布画面左上に「K. Mitsutani」理学部附属植物園蔵(S)
三好学(一八六一〜一九三九)は植物学教室教授。初代教授矢田部良吉を補佐したのが松村任三と大久保三郎であったが、一八九五年に第二講座が開設されたとき、大久保は非職となり、代わってドイツ留学から帰国したばかりの三好が担任教授となった。植物生理学を講じた。一九二二年、松村退官のあと第二代園長になり、二四年の退官まで務めた。

満谷国四郎は五図参照
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034*  [早田文蔵像]  寺内萬治郎 作
制作年不詳、七九・〇×六四・〇cm、油彩・布
画面左下に「m. Terauti」
理学部附属植物園蔵(S)
早田文蔵(一八七四〜一九三四)は植物学教室教授。新潟県に生まれ、理科大学植物学科に学んだ。卒業後、一九〇五年から二四年まで、台湾総督府の依頼で台湾の植物調査に携わった。一九〇八年からイギリスに留学し、台湾植物を研究した。その後、松村任三のあとを継いで教授となり、二四年から三〇年まで第三代園長を務めた。
寺内萬治郎(一八九〇〜一九六四)は文展、帝展で活躍した画家。大阪に生まれ、初め松原三五郎に就いて学ぶ。上京して黒田清輝に師事、東京美術学校西洋画科に進む。卒業後は、文展、帝展に出品を続けた。
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035*  [藤井健次郎像]  寺内萬治郎 作
一九二七年、九〇・〇×七二・〇cm、油彩・布
画面左上に「M. TERAUCHI」
理学部附属植物園蔵(S)
藤井健次郎(一八六六〜一九五二)は植物学教室教授。石川県出身。一八九二年に植物学科を卒業し、一九〇一年からドイツ、イギリスに留学した。一九〇五年に助教授となり植物形態学講座を担任、一一年に教授となった。二七年に退官。国際細胞学雑誌『キトロギア』を創刊し、編集主幹を務めた。

寺内萬治郎は三四図参照
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036*  [服部広太郎像]  寺内萬治郎 作
制作年不詳、五二・〇×四四・〇cm、油彩・布
画面左下に「M. Terauti」
理学部附属植物園蔵(S)
服部広太郎(一八七五〜一九六五)は、植物学教室講師。東京に生まれ、九九年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業し、一九〇一年に助手、七年理科大学講師となり、三三年までこれを務め、微生物学、粘菌類の研究を行った。また、五年学習院講師、一四年に教授となり、同年には東宮(後の昭和天皇)御学問所御用掛となり、博物学を担当した。二五年〜六五年生物学御研究所長を務め、昭和天皇の生物学研究を支えた。二三年〜四三年徳川生物学研究所長。

寺内萬治郎は三四図参照
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037*  [柴田桂太像]  清水良雄 作
一九三七年、寸法未測定、油彩・布
画面右下に「Yoshio Shimidzu 1937」
理学部附属植物園蔵(S)
柴田桂太(一八七七〜一九四九)は植物学教室教授。大学南校からドイツに留学して製薬学を修めた柴田承桂の子として、東京に生まれた。三好学の講演に触発され植物学科に進んだ。一九一〇年から一二年、ドイツに留学し、植物生理学の研究に従事した。帰国して助教授となり、一八年に教授となった。翌一九年、植物園内に植物生理化学実験室を設立、この建物は柴田記念館として今も残る。
清水良雄(一八九一〜一九五四)は文展、帝展、光風会で活躍した画家。東京に生まれ、東京美術学校西洋画科に学んだ。文展、帝展に出品する一方、一九二七年からは光風会会員となった。四五年に広島に疎開、五〇年には広島大学講師となり、広島で没した。
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038*  [中井猛之進像]  加納川郁之助 作
一九四二年、八八・五×七〇・〇cm、油彩・布
画面右下に「皇紀二千六百二年、加納川郁之助画」
理学部附属植物園蔵(S)
中井猛之進(一八八二〜一九五二)は植物学研究室教授。岐阜に生まれ、理科大学植物学科でへ松村任三に就いて学んだ。一九〇八年に助手となり植物園に勤務、一七年に講師、二二年に助教授、二七年に教授となった。二三年から二五年までは欧米諸国に留学、東アジアの植物研究を進めた。三〇年かち四二年まで第四代・園長を務めた。

加納川郁之助は経歴不詳
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039*  [本田正次像]  作者不詳
制作年不詳、五二・〇×四四・三cm、油彩・布
理学部附属植物園蔵(S)
本田正次(一八九七〜一九八四)は植物学教室教授。熊本で生まれ、第五高等学校を経て、東京帝国大学理学部に学んだ。卒業後も大学に残り、イネ科植物を中心に植物分類学の研究を行った。一九二一年に助手、三四年助教授を経て四二年教授となった。また四二年より五三年まで第五代附属植物園長に任ぜられた。史蹟名勝天然記念物調査委員、文化財専門審議会委員を歴任し、五一年に日本自然保護協会を設立し、尾瀬が原湿原の保存、日光杉並木の保護などに尽力した。
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040*  [小倉謙像]  作者不詳
制作年不詳、五二・〇×四四・〇cm、油彩・布
理学部附属植物園蔵(S)
小倉謙(一八九五〜一九八一)は植物学教室教授。東京帝国大学理学部に学び、一九一九年同学部講師、二七年助教授を経て三八年教授となった。五二年〜五六年まで附属植物園長に任じられ、戦争で荒廃した植物園の復興に尽力した。植物形態学、古植物学の研究で、国際的な業績を残されたが、植物切手の収集、研究家としても有名。
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041*  [中野治房像]  作者不詳
制作年不詳、七五・五×六一・三cm、油彩・布
画面左下にサイン(判読不能)
理学部附属植物園蔵(S)
中野治房(一八八三〜一九七三)は植物学教室教授。現在の千葉県我孫子市出身。一九〇九年に植物学科を卒業、引き続いて大学院に進み、三好学に就いて植物生態学を研究した。一九年から二四年まで、鹿児島の第七高等学校教授を務めたが、最後の二年間はドイツに留学した。帰国後、東京帝国大学理学部助教授となり、三四年に教授、四三年に退官した。
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042*  [篠遠喜人像]  石川光成 作
制作年不詳、五二・〇×四四・〇cm、油彩・布
画面右下に「石川光成筆」
理学部附属植物園蔵(S)
篠遠喜人(一八九五〜一九八九)は植物学教室教授。長野県出身、一九二〇年に植物学科を卒業。藤井健次郎が一八年に遺伝学講座を開いた時の最初のただひとりの学生だった。その後、篠遠も教授となり、遺伝学講座を担任した。石川光成は経歴不詳
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043*  [山川健次郎像]  川村清雄 作
制作年不詳、六七・〇×五〇・五cm
額縁下部に「□川健次郎」の貼り紙
理学部蔵(S)
山川健次郎(一八五四〜一九三一)は物理学教授。会津藩士の子として生まれ、明治維新後は新潟と東京で学び、一八七一年から七五年まで開拓使の推挙を得てロシアとアメリカに留学した。物理学を専攻し、七七年に東京大学が創立されると教授に就任した。一九〇一年には総長を務めた。
川村清雄(一八五二〜一九三四)は明治美術会で活躍した画家。幕臣の子として江戸に生まれる。早くから絵に親しみ、英学修業のために通った幕府の開成所で、川上冬崖や高橋由一から教えを受ける。一八七一年、徳川宗家の給費生として、政治・法律を学ぶために渡米したものの、途中から画家を志し、フランス、イタリアヘと留学先を変えた。八一年に帰国し、大蔵省印刷局に一時勤めたあと、自宅で門弟を指導した。八九年の明治美術会創立に参加した。
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044*  [像主不詳]  満谷国四郎 作
一九一四年、六四・〇×五二・〇cm、油彩・布
画面左下に「K. Mitsutani 1914」、裏面に「和田垣or荒木」の貼り紙
農学部農業資源経済学教室蔵(U)
満谷国四郎は五図参照
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045*  [田中宏像]  和田英作 作
一九一八年、六〇・四×四五、五cm、油彩・布
画面右下に「大正七年夏、和田英作画」
農学部獣医解剖学研究室蔵(U)
田中宏(一八五九〜一九三三)は農科大学教授。鹿児島に生まれ、一八八二年に駒場農学校獣医本科を卒業、直ちに同校助教心得となる。八五年に助教、八七年に東京農林学校教授となった。九〇年に農科大学助教授となり、九三年より家畜解剖学講座を担任した。一九〇〇年に教授となり、二二年まで務めた。

和田英作は二図参照
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046*  [外山亀太郎像]  高島野十郎 作
制作年不詳、六四・五×五二・〇cm、油彩・布
画面右下に「Y. Takashima」
農学部養蚕学研究室蔵(U)
外山亀太郎(一八六七〜一九一八)は養蚕学研究室教授。神奈川県愛甲郡小鮎村に生まれ、東京農林学校(農学部の前身)に学んだ。一八九二年に卒業し、九六年から三年余り福島県立蚕業学校の初代校長を務めた。一九〇〇年から、蚕の遺伝研究を始めた。一九〇二年、東京帝国大学農科大学助教授となると同時に、シャム国政府顧問に招聘され、バンコクで蚕業指導にあたった。一九〇八年、助教授に復帰し、一七年に教授となった。
高島野十郎(一八九〇〜一九七五)は水産学科出身という異例の画家。現在の禰県久留米市に生まれる。水産学科で魚の神経を研究し、一九二八年に卒業した。長兄に岩野泡鳴や青木繁と交わった詩人高島宇朗(号は泉郷)がおり、その感化からか、学問の道には進まず、画家を志した。とはいえ、美術学校にも研究所に美術団体にも属さず、徹底して自己流を貫いた。二九年から三三年まで、アメリカとヨーロッパに遊んだ。三五年に福岡で初めての個展を開き、その後東京に移り住んだ。
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047*  [岸上鎌吉像]  高島野十郎作
制作年不詳、六三・二×五二・三cm、油彩・布
画面左下に「m. y. Takashima」
大学院農学生命科学研究科水圏生物科学専攻蔵(U)
岸上鎌吉(一八六七〜一九二九)は水産学科教授。現在の愛知県東海市に生まれ、一八八九年に理科大学動物学科を卒業した。さらに大学院に進み、箕作佳吉(五図参照)の下でクモとカニの発生を研究した。九一年に農商務省水産局技師なり、内外の水産事情の調査に従事した。一九〇八年に、農科大学に新設され水産学第一講座を教授として担任、一〇年には水産学科として発足させた。二八年に退官した。翌二九年、揚子江上流の魚類調査の途中、中国で客死した。

高島野十郎は四六図参照
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048*  [原十太像]  高島野十郎 作
一九四二年、六五・三×五三・〇cm、油彩、布
画面左下に「y. Takashima」、裏面に「原十太教授肖像、高島野十郎、昭和十七年十月謹作」、額縁下部に「原十太先生」
大学院農学生命科学研究科水圏生物科学専攻蔵(U)
原十太(一八七二〜  )は水産学科教授。静岡県出身。一八九五年に理科大学動物学科を卒業し、九七年より札幌農学校教授となる。その後、学習院教授を経て、一九〇八年に東京帝国大学農科大学講師となり、翌年より、水産海洋学研究のため、イギリス、フランス、ドイツに留学した。一一年に帰国し、教授となった。三三年に退官した。

高島野十郎は四六図参照
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049*  [小島憲之像]  岡田三郎助 作
一九一七年、八〇・〇×六一・〇cm、油彩・布
画面左下に「S. OKADA」、額縁下部に「教授小島憲之君之像、在職三十四年祝賀記念、僚友学業生寄附、大正六年三月」
教養学部美術博物館蔵(U)
小島憲之(一八五七〜一九一八)は第一高等学校図学教授。下野国雀宮に生まれ、一八六八年に横浜に出て英語を学ぶ。さらに大学南校で学ぶ。七三年にアメリカに渡り、コネティカット州ハートフォード中学校に入学、七五年にコーネル大学建築学科に進学した。七九年の卒業後もしばらくアメリカに留まり、建築家の助手を務める。八一年に帰国して工部大学校に勤務、翌八二年からは大学予備門(第一高等学校の前身)教諭も兼任した。八六年より大学予備門の専任となった。岡田三郎助は四図参照
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050*  [数藤斧三郎像]  中村彝 作
一九二〇年、八〇・〇×六一・〇cm、油彩・布
画面右下に「T. Nakamura」、画面左下に「1920」
教養学部美術博物館蔵(U)
数藤斧三郎(一八七一〜一九一五)は第一高等学校数学教授。松江に生まれる。東京理科大学数学科に学び、一八九四年に卒業する。翌九五年、久留米尋常中学校教諭となり、九七年から第二高等学校教授となるが「翌年、病のためにいったん非職を命じられる。しかし、先輩の斡旋により、すぐに嘱託として第一高等学校で数学を教える。翌年に教授となり、四十五歳の若さで病没するまで在職した。
中村彜(一八八七〜一九二四)は文展、帝展、太平洋画会で活躍した画家。水戸に生まれ、軍人を目指したが、肺結核のため挫折し画家になった。白馬会、次いで太平洋画会で学んだ。中原悌二郎、荻原守衛から大きな感化を受けた。一九一六年の第十回文展で特選に輝いた「田中館博士の肖像」(東京国立近代美術館蔵)も、物理学者田中館愛橘の東京帝国大学在職二十五年を記念したものである。
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051*  [中野初子像]  和田英作 作
一九一九年、五九・五×四四・〇cm、油彩・布
画面左上に「WADA. EISAKU 1919」
工学部電気工学科蔵(S)
中野初子(一八五九〜一九一四)は工科大学電気工学科教授。工部大学校で電信学を学び、一八八一年に卒業した。直ちに工部省に出仕、文部省を経て、八六年に工科大学助教授となった。八八年に、志田林三郎を助け、電気学会を創立した。また、同年よりアメリカ、イギリスに留学し、九一年に帰国すると電気工学科教授となり、在職のまま一九一四年に没した。

和田英作は二図参照
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052*  [山川義太郎像]  石井柏亭 作
一九二六年、六〇・〇×四四・〇cm、油彩・布
画面右上に「Hakutei 1926」、裏蓋に鉛筆で「山川博士の像」
工学部電気工学科蔵(S)
山川義太郎(一八六〇〜一九三三)は工科大学電気工学科教授。工部大学校で電信学を学び、一八八二年に卒業した。八七年、工科大学助教授となり、九九年に教授となった。九六年から九九年まで、イギリス、ドイツ、アメリカに留学した。一年先輩の中野初子とともに、電気工学科の基盤を築いた、二三年に退官した。

石井柏亭は一一図参照
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053*  [ジョサイア・コンドル像]  白瀧幾之助 作
一九二〇年、一〇八・〇×一〇三・五cm、油彩・布
画面左上に「I. Shirataki 1920」
工学部建築学科蔵
ジョサイア・コンドル Josiah Conder(一八五二〜一九二〇)は工部大学校造家学科教師。ロンドンに生まれ、建築学を学び、一八七六年に日本政府と五年間の雇用契約を結んで、翌七七年に来日した。工部大学校での最初の教え子に、辰野金吾や片山東熊がいる。建築教育に従事する傍ら、上野博物館、鹿鳴館、東京大学法文科校舎など、本格的な西洋建築を相次いで設計した。八六年に工科大学造家学科講師となるが、八八年に辞任、建築事務所を構えて設計の仕事に力を注いだ。肖像彫刻(一二〇図)もある。
白瀧幾之助(一八七三〜一九六〇)は文展、帝展で活躍した画家。兵庫県生野町に生まれ、上京して、山本芳翠(六二図参照)、次いで黒田清輝に師事した。東京美術学校西洋画科を卒業したあと、一九〇四年のセントルイス万国博覧会を機に渡米、ニューヨーク、ロンドン、パリ、再びロンドンと移りながら絵を学び、一一年に帰国した。その後は文展、帝展に発表を続けた。この肖像画は、第二回帝展の出品作。
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054*  [的場中像]  青山熊治 作
一九三二年、八〇・五×六二・五cm、油彩・布
画面右上に「K. AOYAMA 45」
工学部地球システム工学科蔵(S)
的場中(一八五六〜一九三三)は工科大学採鉱冶金学科教授。伊勢に生まれ、一八八二年に工部大学校鉱山学科卒業。八三年に同学科助教授となり、八六年から工科大学採鉱冶金学科助教授を務めた。九〇年にドイツに留学し、フライブルク鉱山大学に学び、九三年に帰国した。翌年九四年より教授となった。
青山熊治(一八八六〜一九三二)は文展帝展で活躍した画家。兵庫県生野町に生まれ、上京して、初め高木背水に師事した。東京美術学校西洋画科に進み、在学中から注目を浴びた。一九一四年から二二年まで、ロシア、イギリスを経由して、フランスに留学した。三〇年から、九州帝国大学工学部会議室に壁画を描いている。
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055*  [末広恭二像]  作者不詳
一九三四年、五三・五×四一・〇cm、油彩・布
画面右下に「F. KOME 1934」
工学部船舶海洋工学科蔵(S)
末広恭二(一八七七〜一九三二)は工科大学造船学科教授。東京に生まれる。一九〇〇年に造船学科を卒業し、翌年講師、さらにその翌年助教授となり、一九〇六年より力学講座を担任した。一九〇九年から一一年までドイツとイギリスに留学し、帰国後に教授となった。二五年からは地震研究所長も務めた。
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056*  [横田成年像]  作者不詳
一九三七年、五三・〇×四一・〇cm、油彩・布
画面右下に「F. KOUME 1937」
工学部船舶海洋工学科蔵(S)
横田成年(一八七五〜一九五三)は工科大学造船学科教授。兵庫県出身。一八九八年に造船学科を卒業し、直ちに助教授となり、一九〇六年から二年間、イギリス、ドイツ、アメリカに留学した。、一九一〇年に教授となった。一八年に航空研究所長を務め、三六年退官した。
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057*  [大越諄像]  作者不詳
制作年不詳、四四・〇×三七・〇cm、油彩・布
画面左下に「T. MURAKAMI」
工学部精密機械工学科蔵(S)
大越諄(  〜一九六九)は工学部造兵学科および精密工学科教授。助教授として、一九三八年から第二講座で精密工学を教えた。四一年に教授となり、四四年に精密加工学を内容とする第五講座が開設されると、これを担任した。戦後、造兵科は精密工学科として再出発した。六〇年に退官した。
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058*  [藤懸静也像]  鏑木清方 作
一九四一年、二八・〇×二〇・五cm、紙本淡彩
画面右下に印「清方」、旧裏蓋に「藤懸静也教授寿像スケッチ 鏑木清方筆」
文学部美術史学研究室蔵(S)
藤懸静也(一八八一〜一九五八)は文学部教授。茨城県古河町出身。文科大学史学科を卒業したあと、大学院に進み、日本美術史を専攻した。瀧精一が退官したあとを受け、美学美術史第二講座を、一九三四年から四一年まで担任した。四五年に、やはり瀧を継いで国華社主幹となった。

鏑木清方は一九図参照
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059*  [隈川宗雄像]  黒田清輝 作
一九一六年、七四・二×六〇・五cm、油彩・布
総合研究博物館蔵(S)
隈川宗雄(一八五八〜一九一八)は医学部生化学教室教授。八二年に医学部を卒業すると、ドイツに留学、ベルリン大学で生理病理化学を研究した。九一年に医科大学教授となり、大澤謙二(七四図参照)担当の生理学のうち、化学部門の講義を担当じた。九七年に医化学講座が生理学教室より独立し、その主任となった。二七年に、医化学講座は生化学講座と改称された。肖像彫刻(八四図)もある。
黒田清輝(一八六六〜一九二四)は白馬会、文展、帝展で活躍した画家。鹿児島に生まれ、法律を学ぶために一八八四年から留学したパリで、山本芳翠(六二図)と出会い、その影響下に画家を志す。ラファエル・コランに師事した。九三年に帰国すると、翌九四年に画塾天真道場開設九六年に白馬会創設、東京美術学校西洋画科新設などに精力的に関わり、洋画壇の基礎を築いた。『黒田清輝日記』東京国立文化財研究所蔵)には、この肖像画制作の様子が次のように記されている。「一九一六年三月七日火午後曇午後二時半ヨリ大学へ赴キ医科学部図書室ニ於テ隈川博士ノ肖像画ニ着手セリ五時辞去」
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■内科講堂
医学部附属病院の内科講堂には、内科学教室の歴代教授の肖像四十一点が飾られている。このうち油彩による肖像画が三十三点、肖像写真が八点である。今回は個々の肖像画に関する調査を行わなかったが、最上段中央の「三浦謹之助像」は黒田清輝の作品として早くから知られているので、特別に紹介する。(U)
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060*  [三浦謹之助像]  黒田清輝 作
一九二〇年、寸法未測定、油彩・布
医学部第一内科蔵
三浦謹之助(一八六四〜一九五〇)は第一内科学教室教授。福島県出身。一八八七年に医科大学を卒業し、ベルツの助手となった。八九年よりドイツとフランスに留学し、九二年に帰国すると講師となり、翌九三年助教授、九五年に教授となり、内科学第二講座を担任した。その後、一九二〇年になって第一講座を担任し、二四年に退官した。

黒田清輝は六一図参照。一九二〇年の『里田清輝日記』に制作の様子が記されている。また、黒田の没後に刊行された和田英作編『黒田清輝作品全集』(審美書院、一九二五年)には、「三浦博士肖像(未完成)東京帝国大学蔵」として、図版が掲載されている。
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061*  [博士十二氏肖像]  作者不詳
一八八八年、五〇・〇×三五・〇cm、木版・紙
『絵入朝野新聞』附録一七七一、一八二二号(一八八八年十月十八日、十二月十六日)
発行所東京銀座四丁目九番地絵入朝野新聞社、発行人兼印刷人伊東杵太郎編集人 眞野均平
 法学部明治新聞雑誌文庫蔵(S)
木下直之「肖像のある風景」(五〇頁)参照
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062*  [鮫島尚信像]  山本芳翠 作
一八八〇年頃、一一五・〇×七八・五cm、油彩・布
教養学部美術博物館蔵
鮫島尚信(一八四五〜一八八〇)は外交官。鹿児島に生まれ、一八六五年、薩摩藩よりイギリスに送られた留学生のひとり。六八年に帰国すると外務大丞に任ぜられ、少弁務使として、すぐにフランスに派遣された。七三年、駐仏特命全権公使となり、七六年からはフランス在勤のままベルギー公使も兼ねた。八〇年に病没、モンパルナスの墓地に埋葬された。
山本芳翠(一八五〇〜一九〇六)は明治美術会で活躍した画家。現在の岐阜県明智町出身、一八七一年に横浜に出て、五姓田芳柳の仕事にふれ洋画家を志す。翌年入門し、芳翠と号する。七八年から八八年までフランス留学、法律を学ぶためにやはりフランスに留学した黒田清輝を画家に転向させたことで知られる。八九年、生巧館画学校を開設して後進の指導にあたる一方、明治美術会の創設に参画した。
  この肖像画は鮫島尚信がパリで客死した直後の制作と考えられる。日本に持ち帰り、画家が亡くなるまで手元に置いたが、その後、鮫島の随員として駐仏公使館に勤務した小城久治郎の手に渡った。小城は、この絵を自分が経営する芝公園のフランス料理店三縁亭に掛けておいた。のちに小城の孫である教養学部ドイツ語教授小城正雄により本学に寄贈された。なお、鮫島が。パリで山本に某伯爵家の天井画制作を依頼したという話が伝わっている(長尾一平『山本芳翠』一九三〇年)。
(三浦篤「明治洋画の黎明−山本芳翠作≪鮫島尚信の肖像≫の発見と修復」『美術博物館ニュース』第二八号、一九九七年二月所収。三浦篤「美術史的観点から見た山本芳翠作≪鮫島尚信像≫」『修復研究所報告』第一三巻、一九九七年所収)
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063*  [菅原道真像]  小堀鞆音 作
一八九二年頃、一六一・〇×一四八・五cm、絹本着彩
画面右下に「鞆音拝写」と印「和画士鞆音」
教養学部美術博物館蔵(U)
菅原道真(八四五〜九〇三)は平安時代中期の学者・政治家。文章得業生を経て、八七七年に文章博士となった。九一年、宇多天皇により蔵人頭に抜擢され、以後、参議、中納言、権大納言、九九年にはついに右大臣までのぼりつめたが、九〇一年に突然太宰権帥に左遷され、二年後に没した。その後、道真の亡霊は御霊となってたたると信じられた。一方、学問・詩文の神、天神として敬われた。特に、江戸時代の寺子屋では天神が祭られた。
小堀鞆音(一八六四〜一九三一)は日本美術院、文展、帝展で活躍した日本画家。現在の栃木県佐野市に生まれ、上京して川崎千虎に師事した。内国勧業博覧会や日本絵画協会の共進会で注目され、一八九七年に東京美術学校助教授となる。翌九八年、美術学校騒動のため岡倉天心に従って辞任、日本美術院の創設に参加した。一九〇八年になって、美術学校に教授として復帰した。有職故実に通じ、歴史画を得意とした。
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064*  [坂上田村麻呂]  小堀鞆昔 作
一八九二年頃、「一六一・〇×一四八・五cm、絹本着彩
画面左上に「鞆音拝写」と印「和画士鞆音」
教養学部美術博物館蔵(U)
坂上田村麻呂(七五八〜八一一)は平安時代初期の武将。七九一年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに参加し、九六年に陸奥出羽按察使兼陸奥守、鎮守府将軍となり、九七年には征夷大将軍に任じられた。八〇四年にも再度征夷大将軍となり、蝦夷経営に大きな役割を果たした。

小堀鞆音は一八九〇年の第三回内国勧業博覧会に「大阪後役之図」を出品し、妙技三等賞を受けた。第一高等学校長木下廣次はこれを評価し、一高で買上げるとともに、文武両官の図として、菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画制作を依頼した。一対の肖像画は、二局の倫理講堂の講壇正面に向かって左右の壁に掲げられ、式典や催しのたびに覆いが外された。(小堀桂一郎「旧一高所蔵の歴史画に就て」『東京大学教養学部紀要・比較文化研究』第十四輯、一九七七年三月所収)
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