甦った記録フィルム

一九六四年、テル・サラサート、デーラマン

野田 裕
西アジア美術史家



 東京大学創立一二〇周年に因み、同博物館が企画する催事の一つとして、私がかつて東京大学イラク・イラン遺跡調査団の第四次調査に同行して取材した一六ミリフィルムの一部が甦ることになった。

 採用候補の何本かをビデオに変換したというので伺った。別れたきり音信不通になっていた分身との対面は、実に三十三年ぶりのことである。まだカラー化以前のモノクロの映像は、しかし意外なほど鮮明に、一種レトロな意匠さえ漂わせて映しだされた。その瞬間、迂闊にも私は、一種名状しがたい胸騒ぎを覚えた。穴の中に逃げ込みたいような面はゆさと、それを乗り越えて波立つような感動を抑えるのに苦労した。

 時空を飛翔して、若かりしあの時の、遥かなその一点への復帰。実際、動く映像というものは一齣一齣に、過ぎ去ったある時点における人の営みを、環境ごと血をかよわせて詰め込んでいて、不思議である。

 この時の取材フィルムは、一九六五年の春に『太陽と墓と帝王』十三回シリーズとして、さらに夏に特別編成『正倉院のふるさと・デーラマン発掘行』として、東京放送(TBS)をキーステーションに全国で放映された。放映の結果は上々だった。特別編成の『正倉院』のほうは、その年の民放祭賞を受賞したのだった。NHKの同類の番組『文明の源流を探る』に先駆けてのことであり、スポンサー事情を無視できない民放としては快挙との評価であった。その後のシルクロードブームにつながる歴史掘り起こし番組の元祖ともなったのである。

 ところが当時のテレビ局はライブラリーの設備が貧困で、放映が済んだ素材には実に冷淡というか乱暴であった。倉庫の一隅を占拠していた私関係の一六ミリ素材フィルムも次第に白眼視されるようになり、ついに追放命令が出た。そして一部が、無謀にも破棄されるに及んで、あわてて調査団に相談、貰ってもらうことになったのである。しかしすでにその時点で、放送時にフィルムにシンクロさせた一六ミリの音声テープは失われていた。フィルムという代物は可燃性で危なく、放っておくと異臭を放つ。それに、今どき扱いが厄介だ。貰ってもらったはいいが、私としては邪魔ものをおしつけたようで、内心ずっと穏やかではなかった。

 十数年間放置されていたこの代物に目をつけたのが総合研究博物館の西秋良宏さんだった。一昨年の秋、彼が行っているシリアのユーフラテス河畔に東大調査団を訪れた時、昔語りついでに話したのがきっかけだったかもしれない。三十三年の歳月をへて、フィルムはまずまずの画質を保っていた。IMAGICA(昔の東洋現像)に頼んでビデオに変換させた。こうしてわが分身は甦ったのである。

 さて、一九六四年、私がその時すでに北イラクのテル・サラサートで発掘中の東京大学イラク・イラン遺跡調査団に合流することに決まったのは、その年の四月も半ばのことだった。団長の江上波夫先生の熱心な提言に、私が勤めていたテレビ局のトップが共鳴し、ことは即座に決定したのだった。

 江上波夫先生は、当時東洋文化研究所長の要職にあったため、発掘には直接参加されず、東京におられたのである。先生の提言というのは、「昨今海外に取材したテレビ番組が多くなったが、単なる旅行番組ではなく、はっきりテーマをもった番組がそろそろ作られてもいい、それにはようやく一般的な関心が高まってきた考古学的な発掘はどうか、もしそのつもりなら協力を惜しまない」というものであった。つまりこの企画はテレビ局の発案ではなく、調査団からの誘いに乗って実現したのであり、むしろ当時いち早く映像メディアを加担させてパブリシティを考慮した調査団の先取性に敬服する。

 さっそく当時まだ大塚にあった東洋文化研究所に調査団の本部を訪ねると、現地からの郵便に私あての手紙が同封されていた。江上先生にその早手まわしの訳をたずねると、東京放送への提言の際に、参加させるなら私が望ましいと名前を出しており、現地では決まれば当然私が行くだろうと合点しているとのことだった。

 「だいたい、テレビ局を参加させようなんて考えは、君も前から知っている深井君の発案なんだよ。われわれの発掘を世間に知ってもらうに越したことはないと、私も賛成したんだよ」とおっしゃる。

 手紙には調査団の今後の予定や取材についての助言が記されていた。


テル・サラサートの今次発掘はそろそろ終盤に入る。すこし予定がのびているが、次のイランでの調査が控えており、五月一〇日には撤収したい。だから来るなら急いでほしい。
 テル・サラサートが原始農村遺跡であるのに対して、今次特別企画のイランのデーラマンはパルティアないしササン朝時代と推測される歴史時代の墳墓遺跡であり、美術史的価値の高い副葬品の出土が期待される。かつ墳墓の発掘は、原始農村遺跡にくらべて即決的であり、取材には好都合と考える。ただし、デーラマンは奥深い山中に位置しているため、あとからの合流は不可能なので、その意味でも早く来て調査団に合流してほしい。


 マッチ棒を折り曲げたような極太万年筆の字体は、見覚えのある深井晋司さんのものだった。私は深井さんとは、その数年前の『ペルシヤ美術展』のテレビ紹介などを介して知友の仲であった。従って、手紙に深井さんの、テル・サラサートもさることながらデーラマンに力点を置いた書きぶり、中でも「美術史的価値の高い副葬品の出土が期待される」とした心意について、おおかた理解していた。それは、一九五九年春、テヘランのとある骨董屋で偶然に深井さんが、正倉院の瑠璃碗とまったく同型のカットグラスを発見するという、まことに希有な出来事が発端になっている。その翌年の一九六〇年、調査団はカットグラスの出土地とおぼしき北イラン、アルボルズ山中のデーラマンに予備的踏査を試みたのだが、間の悪いことに深井さんは怪我でその時は行けなかった。雌伏四年、満を持しての本人の登場である。これはドキュメンタリーとしてうってつけだ。

 私は素直に手紙の趣旨に従うことにした。早めにテル・サラサートで調査団に加わり、団員たちと馴染んでおいたほうがいいし、この機会にメソポタミアも見ておきたかった。四月下旬、話が決まってからわずか十日後、カメラマン一人を伴ってあわただしく羽田を発ったのだった。まだ南回りしかなかった国際便のシートに身を沈めて目をつむると、正倉院蔵の艶やかな瑠璃碗と、深井さんがテヘランで発見したという、一見土器のような、土くれに覆われたカットグラスがダブって網膜にちらついた。

 テル・サラサートに着いた日の夕、調査団が日本から持参のサントリーの角瓶を一人で一本飲み干すという有り難くも苛酷な入村の洗礼を受けた。

曽野寿彦 四十二歳 考古学 副団長(キャプテン・ソノ)
池田次郎 四十三歳 人類学(ドクトール・イケダ)
深井晋司 四十歳 美術史(鬼軍曹)
堀内清治 三十八歳 建築史(ホリウチせんせ)
三宅俊成 六十二歳 考古学(ミヤケ老人)
松谷敏雄 二十八歳 文化人類学

 以上が私たちを迎えた調査団の面々である。カッコ内のニックネームはそれぞれの立場や人柄を言いあてていた。池田さんの「ドクトール・イケダ」は、池田さんの学問の領域が医学の分野に跨がるからであろうか、発掘生活でホームドクターの役割を負い、現地の人夫たちから高い信頼を受けていた。深井さんは、終戦を中国は太原で迎えたポツダム軍曹だった。三宅さんは、年齢的に老人とするにはまだ気の毒だったが、トレードマークのぼさぼさの長髪と白い顎髭はその頃からで、すでに古老の風格だった。堀内さんの「せんせ」(先生)は、そう呼んでいかにもこの人の穏和な人柄にふさわしい。松谷さんは、あだ名をつけるにはまだ紅顔の美青年でありすぎた。顧視すれば茫々。みんなまだ若かった。その後、曽野、深井、三宅の三方は鬼籍に入られた。

 テル・サラサートとは、アラビア語で三つの丘という意味である。実際にはもう一つ低い丘があるのだが、目立ったのは三つなのでそう呼ばれてきた。三つの丘は一方を開けてほぼ「コ」の字形につながっており、その一番奥の目立たない丘が二号丘で、一九五六年来、調査団が継続して発掘してきたテルである。お椀を伏せたようなこれらの丘は、作為のない伸びやかな形相にもかかわらず、自然の丘ではない。原始いらい人間が住みついた集落の址なのである。古代メソポタミア文明は土の文明であったから、一度放棄された遺構は風雨によって崩壊し、あとに土の盛り上がりを残す。先人が住んだ同じ場所に新たに集落が営まれてはまた放棄されるということを何千年もくり返すうちに、盛り上がりは次第に高まり、肥大し、今見るような一見自然の丘と見紛う姿に成長したのである。従って、これらの丘を上から順次掘り下げてゆけば、漸次古い層に及び、最深層は今から七、八千年近くも遡るのである。

 私はテル・サラサートで二週間を過ごした。時あたかもメソポタミア平原は、種々雑多な野草が咲き乱れ、小鳥が囀り、野兎が跳ね、一年中でもっとも気候のいい季節であった。二月から始められた二号丘の発掘は終わりに近く、今次発掘の最終段階において、あばかれた遺構と遺物の全貌を見ることができた。特筆すべきは、今回の発掘がテルの最深層に達し、調査団が長年志向してきた、原始農村遺跡における人類最初の定住にかかわる確かな痕跡にめぐり会えたことである。

 五月中旬、調査団のテル・サラサート撤収とともに私たちもそこを離れ、調査団とは別個に西アジア諸地域を回り、一カ月後にふたたび調査団とテヘランで落ち合った。

 調査団は二月からのテル・サラサートにおける不如意なテント生活にバテていた。しばらく休養の後、北イランのデーラマンにむけて出発したのは六月末だった。一旦アルボルズ山脈を越えてカスピ海べりに出て、そこから馬、といっても騾馬に乗り換えて、二日がかりで海抜二〇〇〇メートルの山中に分け入るという一種探検行だった。難行苦行の末、最後の岩場を越えて眼下に開けたのは夢見るように美しい大盆地だった。デーラマンだった。


[挿図1]エル・ブルーズ山脈北側にある町シャキール。ここまでは車で来れるが、その先、遺跡があるデーラマン盆地まではラバを用いるより手段はない。


[挿図2]エル・ブルーズ山脈北側の森林地帯をラバで越える。森林をペルシャ語でジャンガルという。


[挿図3]調査地となったデーラマン盆地、ガレクティ遺跡。午後になるとカスピ海から雲が山を越えて降りてくる。


[挿図4]発掘が終わるのを待っているラバ。遺跡と宿舎の往復にもラバを用いた。

 発掘地点のハッサニ・マハレは、基地のエスペリ村と谷を挟んで向き合った舌状台地上にあった。そこまでの二、三キロを乗って来た騾馬で毎日行き来した。

 舌状台地がゆるやかに谷に落ち込む突端に八×一二メートルの区画を設定し、白い紐を張った内側を平均して掘り下げていった。村人からの聞き込みや地表の観察から得た予測は的中し、都合六基の墓が次々と現れ、年代的にも的を射ているらしいものの、そのいずれの被葬者も目指すガラス器を携えていなかった。

 諦めかけていたころ、異変がおこった。設定区画から五〇メートルばかり離れた地点の頂部稜線上に、径一メートル大の石塊が曰くありげに坐っており、その下方に臨時に小規模な区画を設けて作業を始めたところ、拳大の穴が地表にぽかっと空いたのである。まだ天井が崩れ落ちていない地下式横穴墓だった。ていねいに天井を外して、壙底に積もった埋土を浚ってゆくとガラス器があったのだ。被葬者は熟年の女性で、その品は横臥して屈身した上腿と下腿の間に置かれていた。彼女は、そのほかにも鏡や化粧道具、装飾品など女性特有の華麗な品を豊富に携えていた。

 しかしこのガラス器は目指すカットグラスではなかった。胴部一面にいぼ状の突起を配した、海のさざえを連想させる器形であった。肩透かしではあったが、これもまた愛すべき品である。類を異にするが、瑠璃碗にはちがいなかった。ともあれ正規な発掘を通して出土した希有な例証として記録されることとなった。

 ところで、驚いたことにこのガラス器は、全員が見つめる目の前で、恥じらうかのように、半透明の青色から淡緑色にすっと変色したのである。皆が一斉に「あれあれ」と言ったのだから、錯覚ではない。

 その晩は、もう残り少なくなったサントリーの角瓶が惜しげもなく空いた。白いバーナーの炎に照らされて、木箱の上に据えられたガラス器は、きつい陰影を湛えていた。

 私たちが八月末、調査団より一足先に帰国すると、日本中が間近に迫った東京オリンピックで沸きかえり、都はるみが歌う「あんこ椿は恋の花」の粘っこいメロディが巷に充満していた。




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