鳥居龍蔵と南米調査行 |
関 雄二 天理大学国際文化学部 |
一九三七(昭和一二)年三月一二日、鳥居龍蔵博士と次男龍次郎氏(以下敬称略)は東京を発ち、海路南米へと向かった。外務省から依嘱された文化使節としてブラジルならびにペルーにおける人類学、考古学的研究の現状を把握し、現地関係者との交流をすることがその目的であった。この南米調査行は、鳥居がこれまでアジア各地で展開してきた調査とは目的も異なれば、とくに専門としていた地域でもなかったため、鳥居の伝記等ではほとんど扱われることはなく、また鳥居の死後、刊行された『鳥居龍蔵全集』においても、帰国後に鳥居が引き受けたいくつかの講演や報告記事が若干納められているにすぎず、調査の実態はあまり定かではない[1]。確かに南米訪問の内容を振り返ること自体が鳥居の研究上の位置づけに新たな光を与える可能性は低いかもしれない。しかも南米調査のフィールド・ノート類はほとんど失われてしまっているため資料にも限界がある[2]。しかしその後南米において展開される東京大学による古代文化の調査研究の先鞭をつけたという意味では、その足跡を辿ることは決して無駄ではないと考える。 鳥居の南米行に対する筆者の興味は、九年ほど前、滞在先のペルーで国立博物館設立の動きを知ったことに始まる。一九六〇年代より計画が立案されては立ち消えとなっていた構想が実現化の運びとなり、ペルーの同僚達が積極的にこれに関与していたのである。なかでも一階の展示室には、アンデス文明の母胎ともいえる形成期(前一八〇〇年−紀元前後)の工芸品が展示され、建築も一部復元されることが決まり、その準備に追われる現場を何度か訪問した。遺構復元の目玉の一つにペルー中央海岸北部のモヘケ遺跡の壁面装飾があり、その傍らに置かれていた一枚の写真を見て驚いたことを思い出す。モヘケ遺跡で発見されたレリーフを前に、調査者フーリオ・C・テーヨ博士と並ぶ堂々とした一人の老紳士の姿が目に入った。紛れもなく鳥居龍蔵である。鳥居がペルーの考古学の父と呼ばれるテーヨと会ったことは知ってはいたが、この写真を見るのは初めてであった。担当者は、テーヨと並ぶ人物が誰であるのかも知らずに写真を選んだという。こうしてテロの嵐が吹き荒ぶ首都リマで記録探しを開始し、わずかではあるが、これまでいくつかの資料を掘り起こしてきた。その復元作業の一端をここに紹介しよう。 鳥居は、南米からの帰国後の報告会で、外務省の依嘱であると同時に自らが所属していた東方文化学院から派遣された文化使節であったと述べている[3]。中薗栄助は、その著書『鳥居龍蔵伝』において、依嘱した外務省の意図は別にあり、南米移民を推進する国策が背景にあった可能性を指摘している[4]。たしかに当時の日本は、国内の不況、人口増、食糧不足などにあえぎ、打開策として国内の土地整理、工業振興とともに移民政策に力を注いでいた。一九二八(昭和三)年には、移住開拓政策を担当する拓殖省が設置されている。しかし移民政策に深くかかわる農業、地理等の専門家の派遣ではなく、人類学、考古学の大家鳥居を派遣することを決めたのはなぜであろうか。移民政策の直接推進が目的ならば他の人選もあったろう。むしろ、文化交流を通じたブラジルとの友好関係を築きたいとする方針があったのではなかろうか。 鳥居がブラジルを訪れたこの年、ブラジルへの移民が七年ぶりに再開していた[5]。というのも日本の国内事情という勝手から推進されてきた移民政策であり、ブラジル側の事情もあってすんなりとは運んでいなかったのである。ブラジルで日系移民を制限する法案、日系移民排斥運動が展開されたのも昭和の初期であった。移民政策を推進したい日本国政府にしてみれば、ブラジル政府との友好関係を強化する必要があったのかもしれない。その意味で、当時日本を代表する識者鳥居龍蔵に白羽の矢が立てられた可能性はある。これは今日では一般的に見られる文化外交の走りともいえる。鳥居自身、帰国後神戸で行われた「中南米事情展」の講演会の席上、冒頭で「文化工作」という言葉を用いてこの点に言及している[6]。もっとも、これをアジアで展開していた日本の植民地政策と同列で述べることはできないような気がする。たしかに国の外交政策と全く関係のない文化使節などほとんど存在しないし、文化と政治の密接な関連は今日学問的に常識化している。しかし鳥居の派遣は、ブラジルという主権を保持した国との間の外交上の問題としてとらえるべきであり、ことに移民については、コーヒー・プランテーションで労働力を欲していたブラジル側にも強い思惑が存在した点は否定できないのである。 とはいえ、龍次郎によれば、ブラジルに到着した鳥居らを迎える現地の大使館の対応はすこぶる冷淡で、一時は険悪なムードに陥ったというから、この文化外交をどこまで現地の大使館、日本政府関係者が理解していたかは疑問である[7]。とくに経費の点で、出発前は現地に行けばなんとでもなると言われていたにもかかわらず、到着後の受け入れに誠意が見られなかったようだ。結局、和解したものの、すでに入植していた在留邦人(日本人会)の世話を受けることになる。ブラジル文化を調査するために遠く離れた母国から研究者が派遣されたことを聞きつけた在留邦人の間には、単なる郷愁ばかりか、高名な知識人を迎える誇りさえ生まれ、彼らの威信は否が応でも高揚したにちがいない。 しかし当時の入植者達の生活環境は実に劣悪、また過酷なものであった。しかも、そのほとんどが渡航前に知らされていた条件との乖離に起因していた。問題を起こすような手配をしたのは民間の移民取扱業者ではあったが、現地の領事部に対する反発は当然予想できる。ブラジルのいくつかの開拓地を訪問したことを思い出しながら、鳥居らは現地の実状査察に日本政府関係者が訪れた形跡がまったくない点に強い憤りを覚えたという[8]。 ブラジルにおける調査概要は、やはり帰国後、雑誌『中央公論』に発表した「ブラジルの人類学」と称する小論において論じられているが、あえてまとめるならば、三点ほどに集約されよう[9]。第一点は、現地研究者との交流であり、彼らからの情報と出版物を通じて、研究の動向を探ることにあった。第二点は、現存の先住民インディオの文化的位置づけ、そして第三点としては、具体的に話題となっている遺跡を訪れ、場合によっては発掘調査を試みている点である。このうち、最も関心が高かったのは、第三点であり、アジア地域における鳥居の関心が、人類学の中でもより考古学的、文化史的分野に振れつつあった点と合致している。ミナスジェライス州の洪積世人類の遺跡ラゴア・サンタ洞窟の訪問、現地の在留邦人の協力を得て行われた大西洋岸での貝塚発掘、そして最後は、アマゾン川河口の巨大な島マラジョー島での発掘調査というように実に精力的な行程をこなした[挿図1]。
やがて大河アマゾンを船でさかのぼった鳥居一行は、マナウス近郊の開拓地などを寄るなど二月以上の旅の後、ようやくペルー領イキートス市に到着する。途中、川から採取した濁った水が飲料水として出されたが、腹をこわすこともなく、ブラジル到着以来の日課とも言えるパパイヤとパンの朝食を平らげながら、変化の乏しい大河アマゾンの風景を眺め続けていたという[10]。 イキートスには出迎えの日本人が待ち受けていた。じつはもともと南米調査の行程にはペルーやボリビアは含まれていなかった。中薗英助の指摘にもあるように、アマゾン遡航の途中でペルー日本人会の説得にあい、急遽計画を変更したと鳥居は記している[11]。しかし、この表現にはやや無理がある。リオ・デ・ジャネイロやサン・パウロに戻ることなく、アマゾン川をたださかのぼる旅行を選び、イキートス市へ向かうことは、今日でもペルーを訪れる目的以外、旅行者がとる行動ではない。龍次郎によれば、出発前、日本の新聞に鳥居のブラジル訪問の記事が掲載されると、ペルーで事業を営む人物が鳥居のもとを訪れ、是非ペルーへも足をのばして欲しい旨の要請があったという[12]。そこで計画を変更し、ペルーでの受け入れ態勢はこの人物に一任したというのである。イキートス市で出迎えたのは、この人物であった。しかもアマゾン遡航は、鳥居と二人きりであったというから、旅の途中で計画が変更されたわけではなかろう。 イキートス市から首都リマまでの旅は複葉の木製プロペラ機であった。客室といっても、機体に沿った形で椅子が並び、下を見ると、壊れた床からアマゾンの森林が間近に見えた。搭乗前にはなにやら書類にサインさせられ、後にそれが墜落や事故にあっても賠償を放棄せよという内容であることがわかったと苦笑しながら龍次郎は筆者に語った[13]。 リマに着いた鳥居は、ホテルに住まいながら、精力的に学者と遺跡を訪れる。長旅のせいか洋食にも飽き、街で開いていた日本食レストランに足繁く通うようになる。鳥居のリマ到着は、現地の最も有名な新聞『エル・コメルシオ』紙に大きく写真入りで報じられた。その日付けから判断すると、八月三一日にリマ入りしていたことになる。掲載された鳥居の顔写真は六十歳前のものであり、現地で撮影されたものではないことがわかる。しかも記事には、東大、上智大の職歴から、学位論文、叙勲にいたるまで、かなり細かい略歴が報じられており、仲介の労をとった例の日本人か現地公使館が事前に資料を入手し、記者に渡していたことが予想される。以下に記事の一部を紹介しよう。
この日の新聞の一面には、スペイン市民戦争と並んで日中戦争の戦況を報じる記事が掲載されていた。七月七日に廬溝橋事件が発生していたのであるから、まだ一月も経っていないことになる。記事の傍らには中国に向けて出征する兵士と彼らを送り出す日の丸の小旗の列を写した写真が見える。この件に関しては、とくに『エル・コメルシオ』の記者も鳥居には尋ねていない。記事の答えにもあるように、鳥居は、事前に相当程度ペルーの古代文化に関する知識を得ていたようだ。英語、ドイツ語、フランス語はもとより、独学でスペイン語も習得していたからこそ可能であったのだろう[15]。大学の講義でインカを扱ったこともあるという[16]。 九月四日、鳥居らは南米最古の歴史を誇る国立サン・マルコス大学を訪問し、インカ研究の第一人者であり、当時文学部長を務めていたオラシオ・ウルテアーガと長時間にわたり話をする[17]。その後、附属考古学博物館の展示を見て回っている。鳥居が訪れた文学部棟は旧市街地の中心にあり、現在校舎としては使用されていないが、大学の附属博物館、図書館として機能し続けている。この折りに大学で講演するように依頼があったようだ。講演が実現するのが翌月の二八日であるから、おそらくこの間を利用して、鳥居はクスコなどの地方都市と遺跡を訪問したのだろう。移動には、公使館から随行員が派遣されることもあったが、ほとんどリマの中央日本人会からの援助に基づくものであった。 インカや先インカ期の文化についての知識の大半は書物によると述べたが、なかでもインカの王の系統や事績に関する関心は、欧米の研究書ばかりか、そうした研究の基礎を提供していた十六世紀の記録という一次資料にまで及んでいた。アンデスの古代文化には文字がなかったから、征服後にスペイン人宣教師、兵士らが書き残した文書、いわゆる年代記が重要な情報源となっていたのである。鳥居は自ら書物を求めて書店へと赴くだけではなく、再版とはいえ、こうした年代記を広告まで出しながら収集している。シエサ・デ・レオンの『インカ帝国史』、インカ王族とスペイン人との混血であったインカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベーガが記した『インカ皇統記』を手に入れ、しかもそうした年代記の出版の経緯なども帰国後の講演で詳しく言及している[18]。驚くべき知識欲である。 インカ帝国の都クスコを空路訪問した鳥居は、サクサワマン、ピサック、ルミコルカ、オリャンタイタンボ、マチュピチュといったインカ時代の遺跡を訪れ、その見事な石造技術を称讃している。今日世界遺産にも登録されたマチュピチュ遺跡は、観光のメッカとして連日観光客で賑わっているが、当時はマス・ツーリズムを受け入れるだけの基盤が整備されていなかった。ウルバンバ川沿いを走る列車で遺跡の麓まで行く点では現在と同じであるが、観光バスに乗って三十分ほどで簡単にたどり着ける遺跡までの道のりも、馬で、しかも断崖絶壁の小道を進まざるをえなかった[19]。 クスコから鉄道に乗り西に向かうと、船が航行できる湖のなかでは、世界でいちばん高いところにあるといわれるティティカカ湖にたどり着く。ここより船でボリビアへ向かった鳥居の目的は、ティワナク遺跡の訪問であった。海抜四〇〇〇メートルの高原に展開する先インカ期の神殿都市である。ボリビアでも鳥居は考古学者を訪問している。鳥居の終始一貫した姿勢というのは、欧米の研究者が記載したものに頼ることなく、自分の目とそれに必ず現地研究者の意見を求めることであった。なるべく中立的に諸説を分析し、自分の立場を述べることで偏見から逃れることができたのであろう。 いったん首都リマに戻った鳥居は、海岸の遺跡の踏査を始める。ペルーの海岸地帯は赤道直下にしては珍しく砂漠地帯であり、降雨はほとんどみられない。こうした気象条件を活かして、古代の人々は焼かないレンガ、すなわち日干レンガを積み上げて次々と建造物を築き上げた。なかには、日干レンガを一億五千万個も積み重ねてアメリカ大陸最大のピラミッド型神殿を造った時代もあった。これらの遺跡は、インカ以前のものが多く、鳥居はインカに収斂される諸文化の発展段階を把握しようと努めていたようだ。 たしかに当時のアンデス考古学は古典的な進化主義的見方をとるものが主流であり、鳥居もこれに従っていた。また帰国後の講演記録を読むと、盛んに日本と比較している[20]。聴衆が理解しやすいようにという配慮からだろうが、そこには古来、常に領地をめぐって、争乱や戦争を繰り返していくことで変化、発展し続けてきた日本の歴史モデルで理解しようとしているようにみえる。もっとも、鳥居のフィールド・ワーカーとしての強みか、進化主義的な見方にとらわれながらも、現象を忠実に観察することも忘れてはいない。インカの卓越した石造建築を称えながらも、土器や織物といった他の物質文化では、インカ以前の方が洗練され、しかも多様性に満ちた作品が多いという評価を下しているのである。 さてペルーから北に六〇〇キロも離れたペルー第二の都市トルヒーヨでは、現地の日本名誉領事カルロス・ラルコ氏に手厚いもてなしを受ける。先のガルシラソの本を入手してくれたのも彼であった[21]。ラルコ家は北海岸ではエリート層であった。カルロスとの血縁関係は不明だが、チクリンと呼ばれる場所に大農場を構え、その土地から出土する考古学的遺物に興味を示し、後にペルーを代表する考古学者となる人物にラファエル・ラルコ・ホイレがいる。鳥居はこのラルコ・ホイレにも会っている。彼の邸宅に招かれた鳥居は、出土品、収集品のみごとさに圧倒され、またラルコ・ホイレの説明にも感服したとみえ、彼に学位論文としてまとめることを勧める[22]。これに刺激されたためかはわからないが、翌年よりラルコ・ホイレは次々と著作を発表するのである。 ペルー訪問当時、鳥居も訪れたトルヒーヨ市郊外のチャン・チャン遺跡に代表されるチムー文化、そしてそれに先行するモチーカ(モチェ)文化の存在は漠然と把握されていた。さらにラルコ・ホイレの農場でも盛んに見せられたチャビンとよばれる様式の土器は、こうした文化よりもさらに古いと考えられていた。チャビンというのは、アンデス北部高地で発見されていたチャビン・デ・ワンタルという遺跡に由来する。チャビン・デ・ワンタルは神殿であり、ジャガー、ヘビ、猛禽類などを描いた多数の石彫で飾り立てられていたことがわかっており、各地のチャビン的図像をもった土器などの工芸品は、チャビンに関連したものとみなされていたのである。こうしたチャビン文化の波及説を唱える人物としてフーリオ・C・テーヨがいた。 テーヨは当時サン・マルコス大学の教授でもあり、考古学の分野においては右に出るものがいないほどの実力者であった。鳥居がペルーに到着していた頃、テーヨは中央海岸北部のカスマ谷で発掘調査をしていた。どのようなルートによるものかは不明であるが、その情報を入手した鳥居はテーヨの調査地に赴く。空路カスマ(チンボテ市?)に到着した鳥居は、埃まみれになりながらモヘケ遺跡を目指す。初対面のテーヨは鳥居によそよそしい態度を示した。発掘途中の建造物には保護のための覆いが施され、見えないようになっていた。テーヨは元来気難しい、用心深い性格の学者として有名であり、しかも突然押し掛けた素性もわからぬ異邦人に心など開くわけはなかった。説明もフィールド・ノートを開くばかりで、遺跡を見せたがらず、じつに気まずい雰囲気であったと龍次郎は懐古する[23]。 ところがこの状況が一変する。テーヨの後方ではペルー人以外の外国の学生が作業していた。この学生に気づいた鳥居は、旧知のイギリスの人類学者ラドクリフ=ブラウンの名をあげる。ひょっとしたらこの学生はラドクリフ=ブラウンの下にいた学生であったのかもしれないと龍次郎は考えている。いずれにせよ、米国の人類学者との交流が深いテーヨにとっては知らぬはずのない当代切っての人類学者の名を挙げられ、その友人であると言われたわけだから態度を豹変させざるをえなかったのだろう。モヘケばかりか、近くのセロ・セチンという有名な石造神殿まで案内をするほどであった。これには鳥居に随行していた公使館の書記官も驚き、鳥居を見直したという。 とはいえテーヨもしたたかであった。胸襟を開いたようには見せたが、実はモヘケ神殿の最大の発見である漆喰のレリーフ像については、最後までその顔の部分を鳥居に見せることはなかった。今日では有名なこの顔の部分の特徴を筆者が龍次郎に語ると、その部分はフィールド・ノートの絵でしか説明されなかったとの返事が返ってきた[24]。しかも鳥居が遺跡を前に写真撮影をしようすると、誘いもしないのに必ずテーヨが隣に立ったという[挿図2]。これは単なる記念写真好きの人物のとる行動ではない。おそらく、どこにも発表していない遺跡の調査を別の人物が行ったと勘違いされないための予防策であったのだろう。冒頭で述べた写真はこのとき撮影されたものである。
テーヨは報道に大変な注意を払い、調査後は論文よりも必ず紙上で先に調査の概要を発表していた。テーヨの死後、弟子がまとめた『カスマ谷の考古学』という本の巻末に、鳥居の名が一カ所出てくる[25]。弟子による付録の文章であるが、調査期間中この遺跡を訪れた外部の人間がたった二人であること、そして例の多色のレリーフが発見されたのが八月下旬であり、鳥居の訪問がその直後であったことがわかる。いかにテーヨが用心していたか予想がつく。 テーヨの用心深さはこれにとどまらない。筆者は鳥居の記録を追ってテーヨの日誌やフィールド・ノートを閲覧しようと試みたが、かなわなかった。テーヨは遺言を残し、関係書類一切を封印することを命じ、二人の娘にこれを託した。『カスマ谷の考古学』が出版されたとき、いかに高弟による編集とはいえ、遺族からの猛烈な反対にあい、以後、サン・マルコス大学附属博物館の一室に設けられたテーヨの部屋は出入り厳禁となるほどであった。 カスマよりリマに戻った鳥居は、かねてからの約束であった講演会をこなす。一〇月二八日に、サン・マルコス大学の哲学・歴史・文学部の催事用サロンにて行われた講演は翌日の『エル・コメルシオ』紙に写真入りで報じられた[挿図3]。前日には講演の予告までが掲載されていた[26]。講演内容は、『国立サン・マルコス大学文学部雑誌』にまとめられている[27]。それによると、演題は、「考古学的観点から見た日本の先史、ならびに古代の文化」であり、会場にはサン・マルコス大学文学部長のオラシオ・ウルテアーガ博士、日本領事、日本人会会長、『リマ日報』編集部員、大学の教授、教官の姿が見られたという。
まずウルテアーガ博士が講演者を紹介し、本学において日本文化への関心が目覚めることが確実であると述べた。次に鳥居は、母語を操りながら、学部長の言葉や、アメリカ大陸で最も有名な大学で受けた歓迎に謝辞を述べた。講演は通訳であるトミタ・ケンイチ氏が博士の重要な研究を読み上げる形で進められ、写真も適宜紹介された。そして日本最古の歴史書『古事記』や『日本書紀』について触れた後、当時考古学的に最古と考えられていた新石器時代の話へと移る。とくにイヌイット(エスキモー)などの北方文化との比較を物質文化やシャーマニズムなどの精神文化の点で行い、最後に古代の日本人が持っていた社会関係、労働システム、宗教的信仰、政治組織、武具についても触れたとされる。 異国趣味を満喫させるような日本文化の紹介ではなく、学問的水準を下げることなく、堂々と日本文化の成立と周辺文化との関係を述べており、ペルーで初めての本格的な日本紹介であったと思われる。講演後の鳥居は、精力的に考古学的情報を収集する傍ら、駐ペルー公使やペルー人の案内で、植民地時代の貴族の邸宅や教会を巡っている[28]。鳥居がクリスチャンであった点を差し引いても、古代から近代、そして現代までも包括的にとらえようとする姿勢がここに見て取れる。なお、このときの訪問先のなかに、豊臣秀吉の弾圧の前に殉教を余儀なくされた長崎の二十六聖人の絵が飾られた「跣足の修道院」があった。現在では観光ルートからもはずれ、旧市街地の中でひっそりとした佗まいをみせている。親切だった案内役のペルー人は、その後来日を果たし、鳥居の紹介のもと、上智大学で講演を行っている。見知らぬ土地でも、鳥居の周辺には、在留邦人をはじめとしていつも厚情あふれる人々であふれていた。実直な学者という面の他にも、何か人を惹きつけるものを持っていたにちがいない。こうして調査は無事終了し、リマを離れる。海路エクアドル、メキシコ、アメリカ合衆国を経由しながら一九三八年一月二六日に帰国する。 専門地域ではなかったが、南米に対する鳥居の学問的思い入れは相当なものがあったようだ。これはひとえにダーウィンなど偉大な博物学者が足を踏み入れた場所であるという点に集約できよう。鳥居が若い頃こうした博物学者の著書を耽読した点は八幡一郎も指摘しているし[29]、ことにいずれの欧米の学者も若くして中南米を訪れ、学問的業績をあげた点に鳥居はこだわった。中南米こそ若い研究者がフィールドとして選ぶべき場所であると再三述べている。 「帝国大学の如きも、未だこの方面には手を着けていない。これは最初私どもが大学の助手をしておった時代に、南米方面に接触する機会が多かったのではありますけれども、先輩その他の人が、日本に関係がないが如くいうので、ともに手を携えて研究することを怠った結果であると考える。この点におきまして私は、ここにおいてインカ帝国の話をするということは、日本における斯学上始めではないかと思うのであって、またその栄光に浴することを喜ぶものであります。そうして殖産興業、貿易商業、農業移民の方面と、こういう文化学術方面と相提携するということも、今後は非常に必要になってくるだろうと私は考えるのであります[30]」。 神戸市におけるこの講演のちょうど二十年後、東京大学アンデス地帯学術調査団が発足し、日本におけるアンデス研究が本格的に開始される。その意味で直接的ではないかもしれないが、鳥居の蒔いた種は確実に育ってきたといえる。調査団の発足当初から中心的役割を果たし、若くして亡くなった泉靖一教授は、生前鳥居について語ったという。 「何と言ったって、あんなに恐ろしい人はいないよ。満州もモンゴルも華北も、鳥居さんの名を聞かぬことはない。南米へ行って今度こそ出し抜いたと思ったら、やっぱり鳥居さんの訪れた跡だった[31]」。 たしかに今は鳥居の時代とは違う。調査対象地域を限定し、深く理解し、厚く記述することが求められてはいる。しかし専門の世界に埋没することの危険性はあらゆる分野で指摘されてはいるし、鳥居の再評価もこの延長線上でとらえることができよう。また鳥居の南米行を振り返るならば、文化外交の重みも自ずとわかる。文化を語ることがすくなくともラテン・アメリカ社会においては最も尊敬されるという点は、鳥居の時代も今も変わらない。その意味では、単なる研究の向上や学術交流のレベルを越えた文化使節の役割をわれわれフィールド・ワーカーが果たすことが、鳥居以上に要求されている時代なのかもしれない。いや文化使節などという仰々しい看板を掲げずとも、現代は否が応でもフィールドの事情に巻き込まれ、文化の良き理解者として政治的、社会的にふるまわざるをえない場面に遭遇することはむしろ当たり前になってきているのである。「先人に学ぶ」という言葉は決して凡庸な表現ではない。 |
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