明治期日本人の中東探険 |
杉田 英明 東京大学大学院総合文化研究科 |
歴史上、中東世界に最初に足を踏み入れた日本人は誰だったのだろうか。文書資料に拠る限りでは、イェルサレム巡礼を果たしたとされるキリスト教徒・ペトロ岐部(一五八七−一六三九)がまずはその第一候補に挙げられるであろう。彼は十七世紀初頭のキリシタン禁制の時代、信仰を捨てぬままマカオに国外追放され、ローマに渡ってイエズス会司祭となり、のち喜望峰経由で帰国、最後は東北で捕えられて殉教するという波瀾の生涯を送った豊後人である[1]。ただ、ローマに到着した確実な証拠は残っていても、マカオからローマへ至る旅程については何らの記録も見出されておらず、陸路を辿ってイェルサレムに至ったというのもただ伝聞と推測によるのみであるから、彼を以て最初の中東旅行者と断言するにはいささかの躊躇と不安を感じざるをえない。 とすれば、中東と日本人との接触の嚆矢は、やはり鎖国を経て海外への門戸が再び開かれ始めた十九世紀半ば、幕府や諸藩、あるいは明治政府から欧米諸国へ派遣された使節団や留学生らの体験に求めなくてはならないだろう。実際、当時のインド洋航路による航海では、アラビア半島のアデンやエジプトのスエズ、ポートサイードなどが船の寄港地になっており、ヨーロッパへの途上、ないしはそこからの帰途にこれらの港やカイロ、アレクサンドリアなどの都市を見学するのが通常の旅程だった。福沢諭吉も加わった一八六二(文久二)年の第二回遣外使節団以来、多くの日本人が初めて見る中東世界の実情を日記や旅行記に残している。それらを読めば、ヨーロッパ人の進出と現地社会の道徳的退廃、そして遺跡に反映する過去の栄光に胸打たれた旅行者の感慨が私たちにも伝わってくることだろう[2]。また、カイロと並んで中東世界の交通上の要衝であったオスマン帝国の首都イスタンブルにも、明治初年以来、福地源一郎(一八四一−一九〇六)や中井弘(一八三八−一八九四)ら何人もの日本人が足跡を残している[3]。 だが、これらの地域はいずれも都市部に属し、宿泊施設は勿論、鉄道や馬車などの交通手段も比較的よく整備され、さらには公衆浴場(ハンマーム)のような福利施設の恩恵に浴せる場合も少なくなかった。従って、そこへの旅を「探険」と呼ぶのは——当時の旅行者自身にとってはまさに「探険」にほかならなかったにしても——現代の語法からするといささか大袈裟に過ぎるように思われる。むしろ、生命の危険さえ伴いかねない真の「探険」が必要だったのは、都市部から隔たった内陸の沙漠地帯や山岳・高原地帯を通過する旅においてであった。そして実際、そうした「探険」を敢行した日本人も明治から大正・昭和初期にかけて少なからず存在するのである。本稿では、広大な中東世界のなかでもとくにイラン(ペルシア)、シリアおよび小アジア、そしてアラビア半島の三地域について、それらの探険家たちの記録のごく一端を紹介してみよう。
イランの首都テヘランへは早くも一八八〇(明治一三)年、国交樹立の前提となる国情・商況調査の目的で吉田正春使節団が派遣されている[4]。一行は総勢十名、外務省御用掛・吉田正春(一八五一−一九二一)を団長に、参謀本部工兵大尉・古川宣誉(のぶよし)、大倉組商社副長・横山孫一郎ら日本人商人五名、インド人通訳、ペルシア人料理人、アフガン人従僕各一名という、出身も国籍もまちまちな混成部隊であった。大半の日本人は乗馬の経験もない一般民間人であり、事前にイランの気候風土に関する情報が得られなかったため、服装や装備もきわめて不十分であった。そのなかでは、吉田自身の旅装がこの探険行に最もふさわしいものだったようである。
彼らはイラン南部の港ブーシェフルを酷暑の七月に出発、騾馬に跨がって四〇〇〇メートル級の高山を擁するザグロス山脈に一気に取りつき、砂嵐や盗賊・猛獣の襲撃に脅かされつつ、苛酷な条件下のイラン高原や沙漠地帯を踏破する。水銀が限界を越えて膨張し、温度計が破損するほどの日中の熱暑を避けて、一行は寒冷な夜間の旅を余儀なくされるが、その温度差は吉田が「斗(きんと)雲に乘じて赤道より北氷洋に旅行せし夢を語るべし」(六四頁)というほどのすさまじさだった。また、彼らが利用した政府の駅逓制度は官吏の腐敗のために荒廃甚だしく、駅館とは名ばかりで、屋根すらもなく、備えるのはことごとく疲弊した痩せ馬、飲料水は近くに溜った汚水のみということも多かった。吉田の旅行記の一節を引こう。
「犬牙錯綜の巨巌」(六二頁)を踏み、一条の峡路を辿り、峻坂の上下を繰り返す夜旅は、不慣れな驢馬の背に跨がっていたこともあり、非常な神経の集中を一行に強いたようである。急激な高度の変化のため、多くの者が鼻血を出した。そして、夜明けとともに形ばかりの駅館に辿りついたときには皆疲労困憊、文字通り誰もが倒れ込むという有様だったことがよくわかる。同様の状況は次の一節からも窺われよう。
ここでも、宿駅は馬の食う乾草の上での野宿も同然だったのである。ただ、どちらの引用にも月や星への言及が見られるように、筆者はどんな苦境を描くときにも、壮大な規模で次々に展開する荒涼峻厳たるイランの自然の崇高美・悲壮美を、硬質の漢語の多用によって同時に読者に伝えようとする。その結果彼の旅行記は、たんなる即物的な行動記録の域を越えて、現代のアルピニストの文学的登攀記にさえ近づいているように思われる。旅行記の標題に付された角書きの「探」という文字も、彼の記述を読めば決して空虚な装飾ではないことが納得されてくるに相違ない[5]。 吉田正春使節団ののちにも、一八九六(明治二九)年六月には、陸軍大佐・福島安正(一八五二−一九一九)が中央アジアにおけるロシアの軍事情勢を偵察のため、同一の経路を単身辿っている[6]。このときは、旅慣れた彼でさえ、最初は日射病で「地上に伏し、幾んど死するの状を為し、(中略)脈搏激甚、眩暈、嘔吐を催すこと數囘」(七頁)という状態だった。さらにその三年後、一八九九−一九〇〇(明治三二−三三)年にかけては、台湾総督府の家永豊吉(一八六二−一九三六)がアヘン密輸経路の調査のため、やはり同じ道からテヘラン入りし、小アジアへ抜けている[7]。家永もまた駅舎旅行を「悲惨中の悲惨」(八七頁)と呼んでいるように、吉田使節団から二十年を経てもなお、施設の不備・不衛生や賄賂の横行といったイラン社会の疲弊ぶりは変わるところがなかったのだった。
小アジア半島の内陸部を日本人として最初に踏査したのは、おそらく前述の家永豊吉であろう。彼はテヘラン到着後、カスピ海からカフカスを列車で横断して黒海へ出、イスタンブルやイズミル(旧スミルナ)を見学、さらに鉄道でコニヤに至ったのち、ディヤールバクル(旧アーミド)からアレッポまで従僕一名を伴って騎馬旅行を敢行している。これは彼自身、「波斯に於ける旅行に比し其困難遠く優れり」(一四〇頁)、「余をして戰時の情况を想起せしめたり(一四七頁)というほどの難行苦行であったらしい。アナトリアの一〇月はすでに寒風が吹き荒れ、駅舎は相変わらず貧弱で、「牛馬と雜居して辛くも一夜の眠を取」(一四三頁)ったり、「不潔にして氣味悪き獄屋同樣」(一四五頁)の一室を給せられたりは日常茶飯事、盗賊からも間一髪のところで逃れえたほどだった。唯一の心の慰めは、故国の富士山や日光の風光を思い起こさせる秋の自然の美観のみ。彼は途中ついにマラリヤに冒され、「原野の鬼となりて果てなん哉」(一五六頁)とまで覚悟したが、奇跡的にディヤールバクルに辿り着き、医師の治療を受けることができた。銀行や「洗湯」や「コヒー店」のあるアレッポに到着したときの彼の感慨——
という言葉は洵の実感であったろうと思われる。 家永に遅れること数年にして、当時東京帝国大学助教授だった建築史家・伊東忠太(一八六七−一九五四)がトルコ・シリアを調査の目的で旅行している[8]。伊東は工科大学造家学科(のちの建築学科)提出の卒業論文を基にした「法隆寺建築論」(一八九三年)で、ギリシア建築のエンタシスが法隆寺に伝播したことを主張、のち「法隆寺の発見者」とまで讃えられるようになる日本建築史の創始者である。彼は法隆寺の意匠や構造・形式が中国・朝鮮、さらにはインド・西アジアの建築へと繋がっていることを実証すべく、「中國・印度・土耳古・合せて三ヶ年間の留學を命ずる辭令[9]」を受け、一九〇二(明治三五)年三月から一九〇五(明治三八)年六月まで計三年四カ月、六万哩に及ぶユーラシア踏破の大旅行に出発する。中国・インドから一旦ヨーロッパに渡り、陸路イスタンブルへ出たのち、小アジア半島の西側を調査、さらにエジプト・パレスチナを経てシリア・トルコという順番で中東各地を巡回した。 一九〇四(明治三七)年七月末から五カ月間のこの中東旅行中、伊東は鉄道、馬車、騎馬を併用し、イスタンブルの薬種屋の主人イスマイルを従僕に雇って、写真機材などを持たせて歩いたようである。また、オスマン帝国領内では保安上、護衛兵を付ける義務もあった。
このハリール・ラシードはイェルサレムからアンマンまで同行した護衛であったが、場所によって護衛兵は次々と変わっていったらしい[挿図1、2]。伊東自身の記録には登場しないのだが、ハマー出身のハジ・マハムードという人物が伊東と覚しき日本人の護衛を務めたときの思い出を、奇しくもイギリスの女流探険家ガートルード・ベル・(一八六八−一九二六)・が記録に留めている。
伊東自身、まさか自分の姿がこのような形でイギリス人の著作に記録されることになろうとは、夢にも思わなかったことだろう。だがこれは、彼の強い性格と精力的な活動ぶりが彷彿と浮かび上がってくるような逸話である。実際、旅行記を読んでも、彼はすでに中国やインドで豊富な経験を積んできたためか、野宿を強いられ、悲惨な境遇に置かれてさえあまり動じた様子がない。例えば、アレッポからアンタキヤ(旧アンティオキア)へ至る途中で、村のハーン(隊商宿)に一泊したときには、
と述べ、かえって自らの強さを誇るがごとくである。あるいはアダナからコニヤへ至るタウルス越えで[挿図3]、氷点下六度の寒気中に投宿したさいの記述も同様である。
このように、伊東の旅行記は悲壮感や文学趣味とはあくまでも無縁で、むしろ実務的な、あっけらかんとした叙述にこそ特徴があると言えるだろう。これは彼の性格とも多分に関連があるのかもしれない。 彼の中東調査旅行は結局、「法隆寺建築論」の補強には直接役立たなかった。しかし、各地の遺跡や建築を丹念に見てまわった成果は、のちに東洋建築史の叙述に生かされることになる。彼の「東洋建築史概説」や「回教建築」などの論文は[11]、日本語によるイスラム建築論の濫觴とも言うべき位置を占めているのである。
アデンのような海港都市へ多くの日本人が早くから寄港したのとは対照的に、アラビア半島内部への旅行が行なわれるようになるのはかなり遅れ、明治末年の日本人イスラム教徒による最初のメッカ巡礼の実現を待たねばならなかった。この最初の巡礼者が山岡光太郎(一八八〇−一九五九)である[12]。 山岡は日露戦争に陸軍のロシア語通訳官として出征、戦後は日本に亡命してきたタタール系ロシア人で民族独立運動の指導者アブデュルレシト・イブラヒム(一八五七−一九四四)の知遇を得、その理想に共感するところがあったらしい。やがてメッカ行きを決意し、一九〇九(明治四二)年一一月にインドのボンベイでイブラヒムと合流、ここで急遽イスラムの教義や儀礼を習得して便宜的にムスリムとなったという。イブラヒムに同行してメッカの大祭に参加したのちは、メディナをまわり、さらにシリア・トルコ諸都市を経て翌年六月にシベリア経由で帰国している。 巡礼は元来、世界各地の信徒が肉体的・経済的負担を克服して行なう最大の集団儀礼であり、きわめて大量の人間がごく短期間に、同一の場所で同一行動を取るので、苛酷な自然条件とも相まって、そこにはつねにさまざまの危険が存在した。山岡の場合も例外ではない。
路上の茶店を利用できなければ「正さに骨を亜剌比亜原頭に曝せしやも知るべからざるなり」という状態だったのである。また「不潔とか、汚穢とかを稽(かんが)ふるの暇なし、口腹を満さずんば、唯だ之れ餓死あるのみ」(一九七頁)というように、人間が密集するだけに衛生状態もきわめて悪かった。便宜的ムスリムという山岡にしてみれば、これは生命の危険を伴う一種の「探険」であったに違いない。それでも彼は無事巡礼を果たし、帰国後は生涯を敬虔な信徒として過ごしたという。巡礼と大祭に参加した感動が、彼に少なからざる影響を与えたのであろう。 なお山岡以降も、田中逸平(一八八二−一九三四)をはじめとして何人かの日本人がメッカ巡礼に赴いている。ただ、アラビア半島全体を見渡せば、先に触れた古川宣挙や家永豊吉がイラン旅行の途次にそれぞれオマーンの首都マスカットに寄港し、さらに志賀重昂(一八六三−一九二七)が一九二四(大正一三)年二月、同市を訪れて旅行記を残しているのが目につく程度で[13]、この地域は戦後に至るまで、中東のなかでも最も情報の乏しい地域であり続けたようである。 |
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