[第二部 コンテンツ]
考古美術
1956年に東京大学は、イラクとイラン両国へ発掘調査隊を派遣した。これは第2次世界大戦後、海外で実施された本格的な学術調査の嚆矢となるものであった。その実現に当たっては、文部省の科研費や民間の諸財団の援助を受けて数多くの考古学的調査が外国で行われている今日の状況からは想像もできないような努力が費やされた。
まず前年11月、「イラク、イラン遺跡発掘委員会」が本学に設けられた。それは、総長(矢内原忠雄)を委員長、東洋文化研究所長(仁井田陞)を副委員長とし、関係部局長である教養学部長、文学部長、理学部長、工学部長、さらに事務局長を委員に連ね、東洋文化研究所の石田英一郎、江上波夫両教授を幹事とするものであった。また、諮問機関として関係各学部の専門学者によって構成される「専門委員会」が置かれた。これは委員長として仁井田所長が当たり、委員には考古学、人類学、民族学、宗教学、東洋史学、西洋史学、東洋と西洋の両美術史学、建築史学、自然・人文地理学、古生物学、植物学などの人文・自然両科学の分野にわたる専門家17人が選ばれ、「イラク・イラン遺跡調査団」を派遣するために必要な審議を行うに必要な本学の当時の学者のほとんどすべてを網羅するものであった。
専門委員会は、調査団員の選考に当たり、その結果を遺跡発掘委員会が承認して1956年5月に、江上波夫教授を団長とし、合計12名よりなる団員を正式に決定した。
団員の専門は発掘調査を直接担当する考古学のみならず、いわゆる周辺科学として美術史学、人類学、自然・人文地理学、建築史学、古生物学に及び、調査団はまさに総合的に構成されていた。さらに、メンバーは本学の教官に限られず、他大学や博物館からも選ばれている。これは、とりもなおさず、本学が主体とはいえ、当時の日本の全力をあげての海外調査への取組みの姿勢をうかがわせる。それは日本考古学協会、日本人類学会、日本民族学協会、日本オリエント学会など学会組織も本学のこの計画を支持したことによっても裏づけられよう。
一方、朝日新聞社は、この事業を援助し、特派員を1名派遣した。また日本映画新社はカメラマンを2名同行させ、映像記録として残した。
かようにして、総勢15名よりなる東京大学イラク・イラン遺跡調査団は、第1次調査を開始したのであった。江上教授を団長とする調査は、その後1965年までの10年間に5回にわたって実施された(第I期)。1963年には文部省の科研費に海外学術調査の枠が新設され、第4次調査以降は、主としてこの補助金によってまかなわれている。
江上教授退官後は、10年をかけて報告書の作成がなされた。それは、1975年春に終了し全15巻の報告書として公刊された。 第I期の研究成果を発表し終えて、深井晋司教授を団長とする調査が、1976年と1978年の2回にわたりイランとイラクで実施された(第II期)。1980年にも予定され科研費の交付も決まっていたが、両国の戦争のため中止せざるをえなくなり第II期の第3次調査は実現しなかった。深井教授の2回の調査報告は、ターク・イ・ブスターンの大部の実測図を含め、5巻の報告書として公けにされている。
定年退官を目前にして深井教授は1985年2月に急逝した。その後は筆者がイランとイラク両国の発掘調査を断念し、シリアでの調査を継続している。1987、1988年(この頃には科研費によって連続しての調査が可能となった)にはシリア東北部で、1994、1995、1996年には、ユーフラテス川上流域での発掘が行われた(第III期)。第III期の成果としては、1987、1988年の発掘調査書が、1991年に刊行されただけであり、それ以降の報告はこれから作成されることになろう。
本資料部門の所蔵する資料は、1956年に始まった東京大学イラク・イラン遺跡調査団、またそれを継承する現地での実地調査によって日本に将来されたものである。だが内容的にいえば、第I期にもたらされたものが9割以上を占める。というのは、ほぼ1970年を境にして、イラクでもイランでも外国の調査団に出土品を分与することを止めてしまったからである。それ以前にあっては、外国の調査団は登録した出土遺物の半分を正式的に、つまり合法的に持ち出すことが認められていた。こうした配慮のおかげでイラクやイランでの発掘調査は1930年代以降、第2次大戦中とそれに続く混乱期を除いて、盛んに実施されてきたといえよう。外国の調査団は正式に分与された遺物を本国に持ち帰り展示に供したりするのはそれなりのメリットがあったからである。本部門に保管されている第I期時代の出土品の類は同様に合法的に持ち帰ったものばかりであり、今後、思いもかけない事態の変化が生じない限り、返却を求められるようなものではない。
第II期、第III期にもたらされた資料は量的にも限られるし、完形土器といったものは全くない。サンプルとしての土器片、科学的分析用の種々の資料に限定される。しかし、これらとて、われわれ研究者や学生諸君にとっては、わざわざ現地へ出向かなくても現物を手にとって観察できるという大きな利点を持っている。
こうした日本人の研究者が自らの手で掘り出した資料は第一級の価値を有する。また1970年代以降、持ち帰るのが困難というより不可能になっている実情を考慮すれば、その保管の責任は重いと言わざるを得ない。ただ単に保管しておくだけでは、死蔵に等しい。研究や教育に活用しなければ意味はない。本資料部門では、このような認識のもとに国内外の研究者や学生(学部学生をも含む)に資料を解放している。毎年、数名の学内外の人たちが、今日では貴重となった生の資料を利用して研究を続けているのをわれわれ関係者は誇りに思う。
ほかに西アジア各国の遺跡で表面採集した資料類がある。発掘による出土品に較べれば価値は劣るとはいえ、第2級のランクに位置づけられよう。さらに若干ではあるが、比較のために購入した資料もある。これらも研究者や学生にも解放されていることはいうまでもない。
考古学的資料以外に、現地で撮った写真、遺物の実測図、発掘日誌などもあり、これらは、保管されている遺物の研究にとっては必須のものばかりである。こうした資料類も、発表のプライオリティなどに抵触しない限り、全く自由に利用に供している。
(松谷 敏雄 西秋 良宏)
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江上波夫編(1958)『テル・サラサート』東京大学東洋文化研究所
松谷敏雄(1979)「西アジアの考古学的調査」『UP』84:7-13.
深井晋司編(1980)『イラン・イラク学術調査の歩み』東京大学イラン・イラク学術調査室。