[第二部 コンテンツ]
植物
本草図譜、岩崎常正 |
本部門は、国際的には東京大学植物標本室The Herbarium of the University of Tokyo(TI)の名前で知られている。上記植物標本室は総計約170万点のおし葉標本を収蔵するが、現在では、これらの標本を1ヶ所に収納できるスペースが無いため、本博物館と理学部附属植物園に分蔵して収納している。博物館には被子植物離弁花類と単子葉類、植物園にはシダ植物、裸子植物、被子植物合弁花類がある。
特に分類学の研究では、変異を十分に掌握することが欠かせないが、この変異を具体的に示すものが標本なのである。分類学者は研究のために多数の標本を集めることになる。集めた標本を既存の標本とつき合わせることではじめて成果を得ることが出来るからである。標本は自らの研究を証拠付けるだけではない。次の研究の重要な研究材料でもある。分類学者は標本が必要であり、たくさんの標本を収蔵する施設で研究を展開する。 ハーバリウムでは、居ながらにして世界中の植物をそこで見ることが出来る。また、おし葉標本は細胞以上のレベルの形態学の研究、中でも微小で硬質な花粉や種子からマクロな形態の研究に支障なく、利用することが出来る。例えば、花粉の研究者はハーバリウムで世界中の植物の標本から必要な材料を入手出来るのである。おし葉標本は、実際に植物の分布を証明する数少ない資料でもある。おし葉標本から種々の有用物質が抽出されたこともある。また、被爆標本や被爆地で年を変えて採集された標本は大気中の放射能の変化などを研究する貴重な資料ともなる。おし葉標本から分子レベルの遺伝情報が得られるようになった現在では分析・解析技術の進歩が標本の新たな利用を生み、先端研究の推進に役立っている。
松村を継いで分類学を担当した早田文蔵は動的分類体系の創始者として国際的に著名だが、台湾植物の分類学的研究を精力的に進め多くの新種を発表した。1917年にはフランス領インドシナに植物調査に赴き植物採集を行った。早田の台湾とインドシナのコレクションは世界的にみても古いものであり、多数のタイプを含み世界中で注目され、現在でも利用頻度が高い。
昭和初期は東京大学において分類学研究ももっとも活発に行われていた時期である。早田に続いて教授となった中井猛之進は、朝鮮の植物を研究したが、国内の植物についても造詣は深かった。また植物の分類体系についても独自の見解を抱いていた。中井が著わした論文は500篇以上に及び、それらの基礎資料となった標本およびタイプ標本は、標本室に収蔵される。中井教授時代に、伊藤洋、小林義雄、前川文夫、北川政夫、佐藤正己、津山尚、原寛、百瀬静男、木村陽二郎など、数多くの分類学者を輩出した。この時代、分類学の研究は地域の植物相の解析と種族誌の研究に分かれていた。北川政夫は中国東北部(特に満州)、原寛は北海道日高地方、津山尚は小笠原の植物を研究した。他方、伊藤はシダ類オシダ亜科、小林は菌類、前川はギボウシ属、佐藤の地衣類、百瀬はシダ類の配偶体世代、木村はオトギリソウ属植物の種族誌的な研究を行った。これらの研究者による標本は、当標本室の重要なコレクションとなっており、標本室が充実していった。
本田正次が教授となった第二次世界大戦後の一時期に分類学は停滞したが、原寛が教授となり、新たな発展の時代を迎えた。
原は狭隘化した標本室の改善を目的に、自然史関係の資料を収集する自然史博物館構想を抱き、関係者と諮って1966年に現総合研究博物館の前身にあたる総合研究資料館の創設に尽力した。原は、研究面では戦争で中断していた海外での植物研究の実現に努めた。特に、日本植物の進化に関連した北アメリカ東部、周北極地域、中でも資料が欠けていた中国とヒマラヤ地域の植物相に着目した。当時、中国は鎖国的状況であったため、1960年から東京大学インド植物調査が組織され、ヒマラヤの植物相研究が開始されることになり、本館はその拠点となり、その標本の整理と保管は植物部門の重要な業務であり、また現在、ヒマラヤ植物相研究の世界的なセンターとなっている。
1982年に赴任した岩槻邦男教授は東南アジアとマレーシア地域の植物相の多様性の解明に向けた調査を続けた。さらに中国西南部とインドシナへとその関心を広げていき、今日に引き継がれている。
(大場 秀章)
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