医学部門
東京大学医学部の創立は、安政5年 (1858) と定められている。
この日は江戸の蘭方医82名の拠金によって創設された
「お玉ヶ池種痘所」が開所した日にあたる。
種痘所はその後に幕府直轄となり、「西洋医学所」、「医学所」、
さらに「大学東校」など、めまぐるしい制度・名称の移り変わりを経て、
ドイツ医学導入による医学教育機関として明治10年 (1877)
東京大学医学部へと発展していった。
この伝統のなかで教育・研究用に蓄積された標本類は膨大な点数になる。
その中で基礎医学および臨床医学の各教室
(主として解剖学、病理学、法医学、皮膚科学、外科学の各教室)
所蔵の標本のうち、重点的な資料については
医学部標本室および総合研究博物館医学資料室において保管され、
教育・研究標本として広く活用されてきている。
これら標本類の中から、
歴史的な教育標本と国際的に貴重な研究標本の一部を紹介する。
眼球模型
眼球模型
入れ子式に組み立てられていて、
外層から内層へと取り外しながら観察できる
人体の解剖が困難であった江戸末期から明治初期においては、
フランス製のキュンストレーキと呼ばれた紙塑製の人体模型
(一般には全身模型) が、欧州から輸入され教材として活用された。
東京大学においてもキュンストレーキが用いられていたが、
現在では、唯一この眼球模型が保存されている。
この模型は左眼球と眼筋の構造とが示されたもので、
実物のおよそ10倍の大きさで作製されている。
文久2年 (1862) 、最初の海外留学生としてオランダで眼科を学んだ
伊東方成 (1831〜1898) が、明治元年 (1868) 帰国に際して持ち帰ったもの。
模型の右下角にある記録から1863年にフランスで製作されたもので、
極めて精巧にできている。
中国鍼灸治療の胴人形
我が国における鍼灸治療の歴史は大変古いが、その中で1600年頃、
紀州藩の藩医であった岩田道雪が作製したもとと言われている、
鍼灸治療の教材として整えられた木製の胴人形が保存されている。
原型は室町時代に竹田昌慶が明の王室から銅人形の模型像を貰い受けて、
日本に持ち帰った (1378) ものとされている。
これを基礎にして、道雪が自説を取り入れて作製したものである。
大きさは全長80cmで、上塗りは白漆喰で仕上げられ、
そこに全身における経穴と経絡とが墨で図示されている。
同様な物は他にも例があるが、
この人形はその中で傑作に属する代表的なものである。
当時の鍼灸道教育に盛んに用いられていたものであろう。
人工癌標本
病理学標本としては典型的な各臓器標本、
稀有な剖検例標本が多数例保存されているが、
研究標本として山極勝三郎教授 (1863〜1930) の人工タール癌標本、
その後の佐々木隆興博士 (1878〜1966) 、吉田富三教授 (1903〜1973)
の人工肝臓癌に関する研究標本は、
国際的に我が国が誇れる先人の輝ける業績を
今日に伝えてくれている貴重な標本である。
山極勝三郎と市川厚一は、ウサギの耳にコールタールを反覆して塗り、
ついに人工的に皮膚癌を世界で初めて発生させ、
癌の発生原因の一つである刺激説を実験的に証明し、1915年に発表した。
人工癌標本 (家兎タール癌)
山極勝三郎教授により、
世界ではじめて発生に成功した人工癌標本 (家兎タール癌)
人工的肝臓癌は吉田富三と佐々木隆興が、
オルソ・アミノ・アゾトルオールという化合物を米に混ぜてネズミを飼育し、
毎日その食物を与え、およそ300日たつと肝臓癌が例外なく起こり、
それが肺に転移することを1932年に世界で初めて発表し、
国際的に高く評価され、その後の癌治療の研究の発展に大きく寄与した。
広島原爆症病理標本
1945年8月、文部省が実施した広島原子爆弾被害調査研究において、
東京大学医学部病理学教室で調査、研究された26症例の貴重な標本である。
諸内臓器官、造血器官に残されている病変は、
今日においてもその恐ろしさを伝えている。
ムラージュ「Moulage」
皮膚科学においては色彩、形態ともに千変万化の疾患記録を残すのには、
昔からいろいろな技法が用いられてきた。その原点は、
忠実かつ精細な描写である。次いで写真記録で、
今日においてはカラー写真やスライドで記録保存されてきている。
記録画や写真の場合は立体的な記録はできない
(現在では
コンピューター・グラフィックスが応用されてきている)。
ムラージュ
欧州では明治後期から大正時代において、
主として皮膚科疾患の記録にムラージュ法が盛んに用いられた。
ムラージュ法とは、患部に石膏を当て凹型を取り、
これにパラフィンを主剤にした蝋を流し込んで複製をつくり、
これに患部の彩色を施して仕上げる方法である。
皮膚科教授 土肥慶蔵 (1866〜1937) は、
ドイツ留学時にその技法を習得し日本に導入した。
次の画像は「天然痘」患者の右手のムラージュである。
天然痘ムラージュ (幼児の右手)
一面に広がった発疹は発病中期特有「膿疱期」の症状を示している。
膿疱はやがて乾燥して痂皮 (かさぶた) を形成し、快方へむかう。
天然痘は徹底した種痘の実践により、1980年には世界保健機関 (WHO) より
「世界天然痘根絶宣言」が出された。
今日では幻の伝染病である。
従って我が国で天然痘の症例を観察できるのは、このムラージュ以外にない。
この他に医療の進歩によって、
現在ではほとんど見られなくなった梅毒特有の皮膚症状などを含む
ムラージュ400余点が保存されていて、
臨床医学標本として広く活用されている。
エジプト・ミイラと死蝋
エジプト・男性ミイラの人型棺上半部
解剖学、法医学関係の標本としては、明治21年 (1888) に、
在日フランス領事館より譲り受けたエジプト・ミイラが保存されている。
このミイラは最近になって、
X線コンピュータ断層装置を用いて再調査が行われ、
およそ2000年前のミイラの主の全身骨格像や
頭部、
骨盤などの三次元像から興味ある所見が得られている。
一方、日本人で生前すこぶる肥満していた人が、丁重に埋葬され、
その皮下脂肪が蝋状物質に置換されたことで、
その遺体が今日まで腐食することなく保存されている (死蝋と呼ばれる)
珍しい個体や、南米ペルーで発掘された先住民の乾燥ミイラも保管されている。
(町並 陸生)
エジプト・ミイラと柩
明治21年 (1888) に帝国大学医科大学が、
駐日フランス大使館の横浜領事館より譲渡された貴重な標本で、
外棺、中棺と人型に整えられている内棺の
三重構造になっている。
外棺の大きさは長さ200cm、幅65cm、高さ60cmである。
一番下の対になっている画像はミイラが納められている内棺と、
ミイラの本体をX線コンピュータ断層装置で撮影した画像写真である。
ミイラが納められていた外棺と中棺
ミイラの内棺
エジプト末期王朝時代 (紀元前900〜600年頃) に葬られた、
貴婦人のミイラと伝えられてきていたが、
最近、棺のヒエログリフ銘文の解読による伝承の再検証と、
X線CT検査による骨格の研究から、
被葬者が実はアメン神に仕えた「ペンヘヌウトジウウ」という名の
青年神官だったことが判明した。
(町並 陸生)
ミイラの頭蓋骨の復元像
解剖学、法医学関係の標本としては、明治21年 (1888) に、
在日フランス領事館より譲り受けたエジプト・ミイラが保存されている。
このミイラは最近になって、
X線コンピュータ断層装置を用いて再調査が行われ、
およそ2000年前のミイラの主の全身骨格像や
頭部、
骨盤などの三次元像から興味ある所見が得られている。
(町並 陸生)
X線コンピュータ断層装置を用いた調査によって
復元されたミイラの頭蓋骨の画像については、
こちらを御覧になって下さい。
医学部門展示標本
東洋医学の胴人形
ここに展示されている木製の胴人形は江戸中期1660年頃に、
紀州藩の藩医だった岩田道雪が作製したものと言われている。
大きさは全長が80cmで、木製の人形に、上塗りは白漆喰で仕上げられ、
そこに全身における経路と径穴とが墨で記入されている。
同様な胴人形は他にも例があるが、
この人形はその中で傑作に属する代表的なものである。
当時の鍼灸教育に盛んに用いられていたものあろう。
胴人形の起こりは古く西暦16年頃に中国で、
人体模型を青銅で作製したことに由来している。
後世においては1027年に、北宗の医官であった王惟一が勅命を受けて、
新知見を取り入れた胴人形のを作った。
その後、いくどか改造が加えられた。正規の胴人形は「黄帝内経靈柩」
の骨度篇その他に示された寸法通りに作られ、中空で、
胴の内部には内臓模型が納められ、
また、頭部や体肢には水銀を詰めた革袋が入れられた。
体表にはいわゆる「経絡・経穴説」に基づいて、365の小孔を穿ち、
14の経路が示してあった。
医師の試験に際しては、受験者は目をおおい、管針を持ち、
手探りで課題の経穴を探し当て、課題の小孔に管針を刺入する。
もし正しければ袋の中の水銀は管針を通って手掌に流れ出て、
術者の正しいことを示すが、
間違った孔に刺入すると針が通らない仕組みになっていた。
わが国への導入は室町時代、
竹田昌慶が明の王室より胴人形の模型像を貰い受けて、
1378年に持ち帰ったのが最初といわれている。
これを基礎にして、道雪が自説を取り入れて作製したものである。
(神谷 敏郎)
各務 (かがみ) 木骨
江戸時代においては医師でも、
「人間の骨」を所有することは社会的に容認されていなかった。
このために整骨医が指導し、工人に模刻させた木製の骨格模型が存在した。
このうち大阪の整骨医・各務文献 (1765〜1829) が心血を注いで完成させた、
等身大の全身骨格模型は「各務木骨」として知られている。
この木骨は文化二年 (1819) 幕府に献上され、
後に西洋医学所において保存され、今日、
東京大学医学部に引き継がれている。
残念なことに欠損している部位が目につくが、
その出来映えは実に素晴らしく、この木骨と真骨とを並べてみると、
頭蓋骨をはじめ一見しただけでは区別ができ難いほどで、
細部にわたり正確に作られている。
また、左右の鼻の孔を仕切っている鼻中隔は薄い銅板で細工し、
歯は蝋石を用いるなど随所に細かい工夫が施されている、芸術品でもある。
各務木骨
各務文献は整骨術の基礎は真骨の「手撫目察」にありとして、
このような真骨に忠実な木骨を座右において、治療と子弟の教育に当たった。
木骨は国際的に見て貴重な標本であるとともに、
江戸時代の「遺骨」に対する、
日本人の社会通念を示している資料ともいえよう。
同時に人体を対象とした医学教育と治療には眞骨の標本が不可欠で、
この熱意が精巧な木骨を生みだしたという、
実証派の医師の意気込みが感じさせられる
(標本ケースには比較として、現代日本人の骨格も展示した) 。
(神谷 敏郎)
人工癌発生の研究
病理学標本としては典型的な症例標本、
稀有な剖検例標本が多数例保存されているが、研究標本としては、
山極勝三郎教授 (1863〜1930) の人工タール癌の標本が、
国際的にわが国が誇れる先人の輝ける画期的な業績を今日に伝えてくれている。
山極勝三郎と市川厚一は、ウサギの耳にコールタールを反覆して塗り、
ついに人工的に皮膚癌を世界ではじめて発生させ、
癌の発生原因の一つである刺激説を実験的に証明し、1915年に発表した。
ここに展示されている左側の標本は、実験開始後276日目のもので、
ウサギの耳の表面に、人工癌が小さい球状の高まりとなって発生している。
右側の標本は356日目の標本で、
人工癌がさらに大きく発育し大きなかたまりを形成している。
展示解説パンフレットに掲載されている写真は、実験開始後660目の症例で、
人工癌が最大の塊にまで達した状態が示されている。
一口に実験660日目というが、1年8ヵ月の間、
毎日ウサギの耳に根気よくコールタールを塗り続けたことにより、
癌が発生し、その後どのような成長過程を示したかを観察し続けた先人の、
実験に対する着眼点と努力には敬服させられる。
(神谷 敏郎)
医学部門では、「ヒトの心臓の発生」と「ヒトの脳」について、
標本展示を行っています。
詳細は、「デジタルミュージアム展 展示内容」の
「心臓発生模型」と
「脳」を参照して下さい。
この展示内容に関する最新情報や関連資料等は、随時、
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