資料館の発足当時からして、すでにそうであった。 「資料館標本資料報告」 (第一号) に掲載されている昭和五〇年の調査報告と、 昭和五六年に刊行された『大学所蔵標本総覧』の自然史系標本に関する データを併せると、 昭和五七年段階で資料館に収蔵された学術標本の総数は約百四十万点に上る。 この数字は、当時全学で登録されていた標本総数の約半分に当たった。 その後、学内でのキュラトリアル・ワークも進み、 また標本の自然増加などもあり、平成六年度の調査結果をまとめた 「東京大学所蔵の学術資料に関する調査」によると、 標本総数は二百四十万点を超えている。 これは学内に存在する標本総数の約三分の一に相当する。 標本の中身は化石・岩石標本、動物標本、植物標本、 人類・医学標本、文化系標本などに大別され、 このなかには植物部門のタイプ標本七千三百十九点や 地史古生物部門のそれ二千六百四十四点をはじめ、 岩石鉱床部門、森林植物部門、水産動物部門などのそれを含む 一万五百七十二点のタイプ標本が含まれている。 また、これらの学術標本に関するテキスト・データベース十万九千七百五十八件、 画像データベース四百十五件が作られており、 これらの一次資料及び二次資料を基に資料館発足以来 すでに四百十五点の学位 (博士) 論文が生み出されている。
学術標本とは、理系と文系を問わず、様々な学説や仮説を構築し、 検証する上で欠くことのできぬ基盤資料のことを言い、 そこには学術調査を通じて集められる自然財・文化財も、 また実験研究の過程で必要となる研究機器も、 さらには教育研究の結果として得られる成果 (=モノ) も含まれる。 学術標本を観れば研究の展開や学説の成立ちが一目瞭然に判る と言われるのはそのためである。
現に、東京大学の工学部や理学部などに分蔵されている 学術標本や試作品のコレクションを見ると、 日本近代の産業や工業の発展において 大学がいかに重要な役割を担ってきたのか一目瞭然。 時代の転換を促すような新しい発見、技術、理論は、 それらを基に生まれてきたのである。 幸いにして、総合研究博物館には、 それらの一部がオリジナルの状況のままに保存されており、 それらを体系的に整備し直すなら、 科学技術や学術研究の進化のプロセスを歴史的に跡づけることも可能である。 たとえば、医学部門には、 明治一二年の学部創設以来学内で使われてきた教材標本、実験器具、 医療器具が良好な状態で保存されており、これらを通して 日本における医学理論の展開や医療技術の進歩の跡を辿ることができる。 建築史部門には、中国の歴史的建造物の各種の部材や拓本をはじめ、 東アジア諸国の考古学資料が大量に保存されており、 これらを通して日本における東アジア文化研究の足どりを辿ることができる。 その他、農学・理学・工学系の諸部門には各分野の研究で 実際に使用・試作された実験器具や試作機械が残されており、 これらを通して近代日本における科学技術史を復元することもできる。
古いものでは大学の黎明期にお雇い外国人教師が海外から携えてきた 教育教材や実習器具、イラク・イラン遺跡調査 (一九五六年以降) 、 アンデス地帯学術調査 (一九五八年以降) 、 インド・ヒマラヤ植物調査 (一九六〇年以降) 、 西アジア更新世人類遺跡調査 (一九六一年以降) 、 シリア地溝帯学術調査 (一九六七年以降) など、 世界各地でなされてきた海外学術調査の収集資料、 各分野の先達たちによってあるいは収集され、 あるいは寄贈・遺贈された研究資料等々。 これらは、その来歴こそ様々であるが、 学内における教育研究の歩みを証拠立てるものという意味で、 大学のもっとも誇り得る財産である。
これらの資料のなかには、多種多様な自然科学系の標本や試料はもちろん、 国から文化財の指定を受けている考古出土品や、 世界にたった一つしか存在しない生物や鉱物の標本が大量に含まれている。 大学博物館には、毎年、海外から多数の研究者が訪れる。 それは質と量の両面において、 「東京大学コレクション」が 稀にみる豊かさを有していることの証なのである。
博物館所蔵の学術標本のなかには、 傑出人脳の液浸標本群をはじめ、 被爆直後の広島で採集された岩石の原標本、 大森貝塚の発掘に寄与したモースの遺品、 中国や朝鮮の陶磁器をはじめとする東アジアの古文物、 鳥居龍蔵が世界各地で撮影・収集した民俗写真・資料、 エジプトのミイラ、伊能中図他の古地図、 ネアンデルタール人他の先史人類遺物、古生物や恐竜の化石など、 江戸幕府の御殿医が使った医療器具一揃い、 歴史的・学術的に見て誠に貴重な、 がしかしこれまであまり知られずにきた標本・資料も大量に保管されている。 「東京大学コレクション」は、 地球上の大方の地域・時代を覆う時空的な広がりと、 人間諸科学の大方の分野を覆う学問的な広がりとを同時に有しており、 その意味でかけがえのない人類的な遺産なのである。
「東京大学コレクション」には、 およそ想像の許すかぎりのものが含まれている。 その意味で、これは「コレクション」のコレクションなのである。 それらも、とどのつまりはモノの集積にすぎない。 がしかし、全体を見渡す博物誌的な視座さえ確保できるなら、 かくも魅力的なものは他所に見いだし難い。 二十万点を超える植物標本、五千体に及ぶ古人骨、 明治から戦前にかけての乾板写真、東アジアの古文物、 水産動物や昆虫の標本、古生物の化石、岩石鉱物の標本など、 どれもが博物誌的な宇宙の構成要素なのである。
国内で流通した貨幣や古札、農具や漁具、大型機械や船の模型、 傑出人脳や入墨標本、明治時代の建築や土木の図面や部材、 原爆で被爆した植物や瓦礫、考古の出土品、江戸時代の春画本、 稀少動物の剥製、さらには先述のボーリング・コアや隕石、 変わったものでは明治時代のルアー釣り用毛針コレクション、 そして、あの「忠犬ハチ公」の内蔵標本まで、 いずれもコレクションとして稀少ならざるはなく、珍奇ならざるはない。 これらの量と質、多様性と遍在性、希少性と珍奇性こそ 「東京大学コレクション」の魅力なのだろう。 現代人が忘れて久しい博物学的な好奇心、 それをこれほどまでに惹起する場所が他の何処にあろうか。
附属図書館には、「鴎外文庫」や「亀井文庫」、 あるいは『御成敗式目』の有数なコレクション、 江戸時代の浮世草子のコレクションとして有名な 「渡辺霞亭文庫」などが保存されている。 また経済学部図書館には「アダム・スミス文庫」が、 史料編纂所には薩摩藩関連史料を集めた「島津家文庫」が、 法学部附属法制史センターの明治新聞雑誌文庫には 明治・大正・昭和を生きた稀代の出版人宮武外骨の収集品がそれぞれ残されている。
ところで、多少とも審美的・歴史的な価値を有する文化財についてはどうか。 実際のところ、これについてはいまだ充分な調査が行き届いておらず、 その全貌も充分に把握されていない。唯一確かなのは、 学内に残されている美術品の大半が旧帝大時代の遺産であるということ。 その代表格は安田講堂を飾る小杉未醒の大壁画である。 講堂の建設は大正一二年の関東大震災に前後する。 この歴史建築は、大学紛争以来、長い間休眠状態にあったため、 その装飾壁画について知る人は今でもあまり多くない。 大講堂正面演壇上の左右のルネッタ大壁を飾る『涌泉』と『採果』。 廊下中央を飾る『動意』 (三階) と『静意』 (四階) の二点の半円形壁。 これらは、フランス留学から帰国し、様式と技法の両面において 和洋のあいだを揺動しつつあった画家の代表作の一つである。 この壁画と同時に、藤島武二にも講堂内の「便殿」 (天皇が行幸するさいに休憩される特別室) の装飾壁画が注文された と記録にあるが、こちらはついに完成されずに終っている。
学内にはまた、記念肖像の絵画と彫刻がいくつも残されている。 画家としては川村清雄、和田英作、石井柏亭、鏑木清方、小磯良平など、 彫刻家としては大熊氏廣、新海竹太郎、藤田文蔵、朝倉文夫、舟越保武 などの名を挙げることができる。 たしかに、近代日本美術の一線で活躍した人々が名を連ねてはいる。 しかし、公式注文の肖像画や胸像であったせいもあろうが、 美術家としての冒険精神に欠けるものが多い。 ために、美術品というよりはむしろ、 歴史的な記念物としての価値を認めるべきだろう。
それに対し、工学部の前身である工部大学校が明治一〇年に開校されたさい、 工部省工学寮から引き継がれた工部美術学校の遺産は、 知られざる美術文化財として貴重である。 西洋の絵画・彫刻・建築教育の実践校として設けられた工部美術学校には、 イタリアからフォンタネージ、ラグーザ、カペレッティの三人の教師が招かれた。 彼らは赴任にあたって母国から、彫像や建築部材の石膏レプリカ、 絵画、彫刻、建築の教育教材や文献を携えてきた。 それらはかなりの量に上ったようで、現在の工学部には、 彼らが二年間の滞在中に制作した作品と弟子たちのそれを含め、 二百点以上の石膏教材と絵画が残されている。
驚いたことに、これらの舶来品はつい最近まで教室で教材として使われていた。 つまり、教材として「生きて」いたということ。 ここに「学術標本」の扱いの難しさがある。 美術教育の教材を含め、明治時代に集められた同時代資料や実験器具類は、 それ自体百年近い歴史をすでに有している。 ゆえに、事実上の歴史的文化財なのである。 しかし、そうしたものも、教育研究の現場にあっては生 (き) の教材であり、 したがって、永久保存の対象というより、 使役に供すべき「備品」として扱われるのが常である。
これは、恒久保存を理由に専門家といえど 容易に近づき難い一般の歴史文化財のあり方を考えたとき、 必ずしも悪いことではないかもしれない。 しかし、また同時に弊害もある。 「備品」はひとたび用を成さなくなったと認定されるや、 容易に廃棄される質のものだからである。 歴史的な「備品」はもはや備品ではない、 歴史的文化財なのだという認識の欠落が、 学内でどれほど多くの「学術標本」を消滅させてきたことだろうか。 大森貝塚の発見者エドワード・モースが日本に残していった 幕末・明治期陶磁器コレクションも、 危ういところでそうした運命から救済されたものなのである。
近代日本における教育制度を顧みるなら、 東京大学に膨大な学術標本の貯えられていることは、 むしろ当然の結果と言えるかもしれない。 しかし、そうは言っても、人気ない資料庫のなかで、 重畳され、緊束され、陳列され、集載され、架蔵されている モノたちの眠れる姿を前に、いったい誰が驚嘆せずにおられようか。 それら圧倒的な量 (かさ) を目の当たりにして、 モノの存在理由など改めて詮索する必要はない。 そこに惜しみなく注入されたろう時間と労力、 その自ずからなる逢着点がコレクションであり、 その長い道のりの過程に「学問」が存在したということなのだろう。
総合研究博物館では、平成六年度より、 学内の歴史的文化財すなわち「学有財」を一般に公開し、 それらの存在と価値を広く社会に喧伝する事業に着手している。 初年度には 「 東アジアの形態世界」と題する文化史系コレクションの特別展示において、 中国、朝鮮、日本など東アジア諸地域で収集された考古出土品、 美術彫刻等の「形態」の多様性を紹介し、 七年度の自然史系特別展示 「 動く大地とその生物」では、 大地の成立ちとそこに生きる生物の「種」の多様性を開陳してみせた。 さらに本年度は国内における活字製造と活版印刷を 文化史・技術史の両面から振り返ってみせる 「 歴史の文字 − 記載・活字・活版」展と 理学部附属小石川植物園の本草学コレクションを紹介する 「日本植物研究の歴史をさかのぼる − 小石川植物園三百年の歩み」展 の両展を開催した。 こうした特別展示を恒常的な事業として継続して行くことで、 「東京大学コレクション」の輪郭を いくらかでも明確にすることができるのではないか、 関係者としてそのように願わずにはいられないのである。
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