東京大学本郷キャンパスの歴史と建築

藤井恵介
東京大学大学院工学系研究科
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東京大学の誕生


 総合大学としての東京大学は様々な紆余曲折を経て形成されてきた。この複雑な経緯の起源を探ると徳川幕府の3つの機関に行き着く。ひとつは江戸時代初め寛永期に創設された林家塾に発する昌平黌(昌平坂学問所)、次に蕃書調所に発する開成所、さらに安政5(1858)年創立の種痘所に発する医学所である。これらの機関は明治維新後も新政府によって改組維持され、やがて「東京大学」として誕生するのである。

 明治新政府によって上述の3機関は昌平学校、医学校、開成学校として復興され、明治2年にはそれぞれ大学、大学東校、大学南校となる。大学が国学と漢学を、大学東校が医学を、大学南校が社会・人文諸学を分担し、教育研究に携わる人材の養成機関とするという構想があったためである。しかし、国学者、漢学者、洋学者の間に学問論争が起こり、新政府は洋学重視の立場に立って、明治4年には大学(本校)を閉鎖したのである。従ってこれ以後は残された大学南校、東校の2校にその任務が委ねられていくことになる。

 大学南校はその後、南校、第一大学区第一番中学と改称、発展し、明治6年4月には開成学校となった。この時点では法学、理学、工業学、諸芸学、鉱山学の5つの専門学科で構成されており、新校舎を新たに神田錦町に設けた。同年10月に行われた開業式を描いた錦絵『東京第一大学区開成学校開業式之図』によれば、木造2階建の擬洋風のものであったことが判る。また全体の配置は3棟の校舎を連結させた形式であった。一方、大学東校も東校、第一大学区医学校と改称、発展し、明治7年には東京医学校となった。校舎は明治2年以来神田和泉町にあった。

 東京大学が誕生したのは、明治10(1877)年4月のことである。東京医学校、東京開成学校(明治7年改称)を合併し、医学部と法理文3学部の構成である。これより先、東京医学校は上野の旧寛永寺地への移転計画が頓挫したために、明治9年に本郷の文部省用地にすでに移転していた。また東京開成学校も拡大発展のため、駿河台、上野など数ヵ所の移転先を検討していたが、いずれも果たせず、最終的には東京大学設立後に本郷に移転することになる。

 このような両校の移転計画と東京大学の設立については以下のような経緯があったようである。当時の文部省首脳は、千葉国府台に官用地を確保し、そこに将来新たな「大学校」を設ける計画をもっており、その前段階として開成学校と医学校を合併しておくという構想であった。しかし、その一方で、この両校を合併した東京大学こそ、将来の日本の研究教育の中心となるはずだとする考え方もあった。これは明治6年に来日し、日本の学校制度に大きな影響を与えたアメリカ人モルレーが強く主張したという。本郷の文部省用地を新たな総合大学のキャンパスとして勧めたのもモルレーであるらしい。

 いずれにせよ、東京大学が誕生し、そのための用地が確保されれば、新たな活動が展開される。新しい本郷の敷地は十分な広さに恵まれた大学キャンパスとして、恰好の地であった。

 以上で東京大学発足までの経過を辿ってきたが、少し後に合併された工部大学校と法学校についても触れておく。工部大学校は明治4年8月に工部省工学寮として誕生した。敷地は虎ノ門の旧延岡藩邸が用いられたが、明治10年に工部大学校と改称される頃までに校舎を完成した。講堂を中心にして、左翼(以上ボアンヴィル設計)、小学校、大教師館(以上アンダーソン設計)、生徒館、作工場が周囲を取り囲む整然とした配置をもつ。すべてが煉瓦造であり、古典主義的デザインをとった。ボアンヴィルはヨーロッパの正統的建築様式を身につけた建築家であって、国家的な建築の建設を目的に明治政府に招かれた。工部大学校の講堂はその最初の仕事であって、日本に登場した初めての本格的古典様式の建築であった。工部大学校は明治18年12月に文部省に移管され、翌19年3月に帝国大学工科大学となった(このとき東京大学工芸学部と合併)。そして虎ノ門を離れ本郷キャンパスに移ることになる。

 法学校は明治4年9月に司法省明法寮として創設され、麹町区永楽町にあった司法省の敷地内で旧信濃松本藩邸(松平丹波守)の建物を使用していたが、明治17年に文部省に移管され、さらに翌年には、東京大学法学部に合併された。




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