補遺 大学史と大学史資料


中野実 大学史史料室



1 はじめに


 120周年を迎えた東京大学には多くの資料群が残されてきている。資料の堆積が歴史を構成する。ここでいう資料が、紙資料ばかりではないことはあらためて記す必要はないだろう。表現されたあらゆるものが資料であるからである。こんな大げさな構えを冒頭に置いた訳は、大学史資料と呼ばれるものが、狭い対象として取り上げられる傾向が強いからである。東京大学公文書類はその一つである。

 大学には多くの資料が堆積されてきている。一般的には物品資料(遺品類を含む)、文書(紙)資料、映像資料に区分できる。大学という機関に沿って考えると、このほかにいくつか考えられる。

 一つの分類は、

図書館資料(教育研究の成果物、図書類)
博物資料(学術調査標本、遺品、物品類)
文書資料(会議資料、人事記録、受講ノート)

である。あるいは、

学術資料(実験設備類、機器類から学生のレポート、試験問題など)
行政資料(会議記録、通牒類、建物設計図、学生成績原簿、人事記録など)

にも区分できる。学生服などは行政資料に入るかもしれない。

 大学史資料をどのように考えるか。大学史資料が、大学がこれまでに堆積してきた資料の総体を指すことにはちがいない。今回の展示のすべてが大学史資料である、とも言える。しかしここでは、大学史資料とは東京大学がこれまで蓄積してきた文書資料のうち行政関係を中心にして構成された資料群を指すことにする。いくつもの取り落としが出てくることは承知している。あくまでも中心にして、ということである。さらに限定しなければならない。大学には学部、研究所、大学院、事務局など多くの部局があるが、これらはさらに細分化される。学部から学科、研究所から部門、事務組織なら庶務部、経理部、施設部、学生部などに、である。消去式で限定してみよう。ここでいう東京大学公文書類、大学史資料とは、学部、研究所などの教育研究組織ではなく、経理部、施設部、学生部を除いた事務部局の資料ということになる。別言すれば、大学史資料とは事務局庶務部(現在は総務部)系統の史料である。

 国立大学設置の基本はパブリックである。しかし大学史資料の観点からみると、大学の中味をうかがうに足る資料はほとんどはプライベート・ぺーパーになっている。大学組織の歴史性と教育研究という普遍性に鑑み、このような措置を取ってこれたのであろう。しかし、まったくブラック・ボックスであったというのは正確でない。大学は多くの情報を発信してきたこともまた事実である。明治中期までの東京大学の歩みを、東京大学史史料室が所蔵している大学史資料と併せて追ってみよう。


2 東京大学小史と大学史資料


 大学史史料室は表1にみられるような資料群を所蔵している。


 東京大学の歴史は創立年である明治10(1877)年を起点として、それ以前を前史、以降を校名変遷(制度的区分)に沿って次のように区分する。

前史
—明治9年
東京大学
明治10年—明治18年
帝国大学
明治19年—明治29年
東京帝国大学
明治30年—昭和23年
新制東京大学
昭和24年—

 しかしこの時期区分は大学史資料の観点からすると、あまり適切ではない。大学史と大学を管轄する行政機関史とが常に雁行していないからである。行政的にみれば明治4(1871)年の文部省設置、明治18年の内閣制度発足、明治26年の大学制度改革の三つが転換点になっている。これらを念頭において小史をみてみよう。

 前史は徳川幕府時代の遺産の復興と度重なる校名変更が特色である。東京大学の前身は徳川幕府時代の、軍事技術の修得および外交文書の処理(翻訳、起案など)のために語学をはじめとした洋学の必要性に促されて設置された蕃書調所と、蘭方医が種痘法を普及させるために神田お玉が池に設けた種痘所に遡る。ともに安政年間に設置されていた。また、幕府の儒官林羅山が上野忍が岡に建てた半官半民の聖堂が淵源になる官学としての昌平坂学問所があり、幕末維新期直後の東京大学前史に関わっていた。維新後、それは開成学校、医学校、昌平学校として明治政府により復興された。古い皮袋に新しい酒が盛り込まれたのである。明治4年に文部省が設置された。この結果、それまで教育行政的機能を果たしていた昌平坂学問所の後身である大学校は廃止されるとともに、大学南校は南校、大学東校は東校と改められた。このことは国学、儒学が衰退、洋学の隆盛が約束されたことを物語る。

 明治10(1877)年4月12日、東京大学が成立した。この日が現在の東京大学の創立日である。その母体は東京開成学校、東京医学校とである。時はまさに西南戦争が戦われている時代であった。当時にあって、どうしてこの二校を合併して新しく大学を作らなければならなかったのか、そのあたりのことはいまだよくわかっていない。創設にあたって積極的な理念はなかったようである。しかし、東京大学の創設が日本における近代的な大学の誕生であることは、間違いのないことであった。東京大学には法学、理学、文学、医学の四学部が置かれ、さらに予備門という予備教育機関ももっていた。いまだ学校体系が整備されていなかったため、このような独自な予備教育機関が必要であったのである。場所は本郷ではなかった。本郷には医学部のみで、法理文三学部は神田錦町にと別々にあった。

 日本の教育制度、学術制度の近代化には二つの方法が採られた。一つは外国人教師の招聘であり、もう一つは海外留学生の派遣であった。特に外国人教師の招聘は文部省に限らずあらゆる官庁で行われた。その招聘は明治元年末から行われ、学生の教育指導に当たった。当時の正規の講義はすべて外国人であり、邦人教師は補助的地位にあった。しかし、外国人教師の招聘と雇用には巨額の費用を要したため、帝国大学体制成立後になると多くの留学生が帰国してまがりなりにも専門教育を担当できるようになったことも手伝って、その数は少なくなっていった。外国人教師には進化論を伝えたモース、地震学の基礎を築いた機械工学のユーイング、日本列島の地質構造を調査したナウマン、イギリスの言語学者で東洋比較言語学を開拓したチェンバレン、アメリカ人のフェノロサは哲学を講じ、傍ら日本美術の研究に尽力した。

 これら外国人教師たちすべてが母国で正規の教育を受けてきた者ばかりではなかった。水準の低い者もあった。元の職業では船員とかサーカス団員など、ユニークな経歴をもつ者もいた。また、物質的には厚遇されてもいろいろな制約があり、時には危険も伴っていた。明治3年には、依然残っていた攘夷思想から2人の教師が襲撃され重傷を負うという事件も発生していた[1]。このほか外国人教師には日本の女性と結婚して帰化したり、あるいは帰国してからも日本からの留学生の受け入れに尽力するなど、日本との関係が継続していったケースも見られた。帰国後昇進を重ねた者もおれば、その反面で帰国後失意の中で過ごす教師もおり、その救援の活動が展開されたこともあった。これらは極東の一小国に勇を鼓して来日した教師たちの光と影を物語っている。

 ところでこの時期の史料はどうなっているだろうか。まず明治4年以来「文部省往復」という簿冊がある(詳細は後述)。この簿冊は南校、第一番中学、開成学校、東京大学法理文三学部(明治14年以前まで)系統の文部省との往復文書綴である。これには東校、医学校、東京大学医学部系統の文書は含まれていない。文部省設置以後であっても二つの機関は別個に独立した教育機関であり、明治10年の合併後も4年間は別々の組織であった。この事態を改善するため東京大学四学部を統一した唯一の管理者、総理が誕生したのが明治14(1881)年であった。これ以降管轄官庁たる文部省と東京大学との文書往復は「文部省往復」に一本化されることになる。

「文部省往復」以前はどうなっていたか。文書(史料)の所蔵、保存は基本的に組織の継受関係に規定される。この点からいえば蕃書調所、種痘所の資料は東京大学に、昌平坂学問所は文部省に継承されたと考えられるが、この間に明治維新を挟んでいることもあり、組織的体系的に所蔵、保存している機関はない。維新期以前と以後とに分けてみると、蕃書調所資料は、一部が徳川幕府からの引継ぎ文書として東京大学史料編纂所に、種痘所資料は一部が雑誌に復刻されているのを知るのみである[2]。昌平坂学問所文書も一部が筑波大学に所蔵されている[3]。維新後でもっとも大量に保存されているのは国立公文書館である。ここには「公文録」「公文類聚」として維新以後の東京大学関係資料を含む教育(学制)関係が保存されている。東京大学附属図書館には「東京帝国大学五十年史料」として、東京帝国大学五十年史編纂に際して収集、保存されてきた史料群が存在している。


3 帝国大学体制の成立


 明治19(1886)年3月、帝国大学なる大学が創設された。帝国大学は東京大学を基礎にして創設されたが、それだけではなかった。司法省の法学校、工部省の工部大学校、農商務省の東京農林学校といった、ほかの官省の高等専門教育機関が統合された。工部大学校は工部省工学寮に起源をもつ専門教育機関であり、東京農林学校は駒場農学校と山林学校とに起源をもつ同じく専門教育機関であった(当初は内務省の管轄であり、農商務省の設置により移管された)。特に工学、農学というような実学的、応用的学問を大学の学部構成に入れたのは、世界の大学史上ではめずらしい展開であった。当時、大学の構成はいわゆる神・法・医の専門学部とそれらの基礎としての哲学部からなっていた。工学、農学といった学問は「大学」の枠組みではなく、専門学校の系統であった。帝国大学は欧州のような伝統的な固い因習に掣肘されることなく、殖産興業、富国強兵という「国家ノ須要」という文脈において大胆な学部構成を取り入れたのである。

 近代国家の発展に大学・高等専門教育機関が大きな役割を果たすことは世界に共通している。固い、伝統的な大学制度とそれを支える意識がまったくなく、社会的移動を困難にする、すなわち社会の活性化にマイナス要因になる階級社会が恐ろしく早いスピードで解体してしまった日本においては、大学が活躍する田圃は無限といっていいほどであった。明治政府はこの大学に大きな期待をかけた。「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ並ニ其蘊奥ヲ攷究スル」と規定されたのである。初代の文部大臣となった森有礼は、大学は国家のために設置した、と直截に語っていた[4]

 帝国大学は法科、医科、工科、文科、理科、農科(明治23年に追加)の六分科大学からなっていた。当時は学部という名称ではなく、分科大学という言葉が使われていた。この大学はドイツ大学をモデルにした、とこれまでよく言われてきたが、最近では単一のモデル論ではなく、まさに「国家ニ須要」に従いさまざまな国のモデルを選択し受容した、と考えられるようになってきた。

 帝国大学は、極東の一小国たる日本が、世界資本主義の渦中に投げ出され、その国家的独立を達成するために作った大きな装置であった。

 明治9(1876)年に現在の本郷キャンパスに東京医学校が移転してきたとき、その風景には「空漠タル原野」という表現が充てられおり、その後の発展は絵空事に近かったにちがいない。しかし以来約30年間に本郷キャンパスは急速に整備され、学者町、学生町として発展していった。

 もともと本郷は豊島郡湯島郷本郷であり、正式に湯島本郷というべきところを上を略して本郷と呼び慣らわされてきた。もともとは湯島のなかでもその中心という意味である。その本郷が東京大学と切ってもきれぬ関係が出来上がるのは明治19(1886)年帝国大学創設以後であり、さらに明治23年に第一高等学校(東大教養学部の前身)が本郷キャンパスの隣、向ヶ岡(現・農学部キャンパス)に移転してきてからである。現在の言問通りを挟み、かたや近代日本の学術、研究のメッカと、かたや全国からの俊秀を集めた一高が並び、一挙に学者町、学生町になり、かつ多くの下宿屋も誕生したのであった[5]。これをさらに鳥瞰すれば、皇居外堀を隔てて一方の神田周辺には私立法律系学校が集結し(神田一橋通り町の東京高等商業学校、東京外国語学校は別として)、他方の本郷には文部省所管の高等教育機関が配置されたことになる。こちらには上野山の不忍池を挟む恰好で東京美術学校、東京音楽学校も設置されていた(『東京都教育史』通史編二)。もともと本郷の学者町といわれる西片町一帯は備後福山の阿部家の土地であった。その阿部家は文教の発展に援助もし、現誠之館小学校を創設した。

 明治30(1897)年6月、京都帝国大学の設置にともない、帝国大学は東京帝国大学と改称した。明治19年からこの時期までに、学術研究面も含めて日本の高等教育体制の特色ともいうべき、帝国大学を中心とした帝国大学体制は完成していった。明治26年には講座制が置かれ、また専門学会も形成され、20世紀に入る頃からようやく近代日本の学術も欧米の学問受容一辺倒から離陸をはじめる。明治アカデミズムの成立はこの時期である。

 帝国大学以後に新しく出来た史料群に「秘書」がある[挿図1]。これは官制改正関係史料を綴った簿冊である。官制とは一般的には「行政機関の設置、廃止、名称、組織及び権限などについての規定」(広辞苑)であり、具体的には教職員の職掌、設置、廃止などを規定していた。帝国大学令公布の段階では含まれていた官制関係事項が、井上毅文部大臣の一連の大学制度改革にともない、この時に独立して帝国大学官制となった。たとえば講座設置理由書などは、人員の増配置にかかわる事柄であるので、この「秘書」に残されることになる。このように時期により新しく史料群が出来てくることがある。このほかには大正期以後のものでは科学研究費関係などがある。



4 一覧と年報


 以上の史料群は大学史資料のうち、直接的な機関間の往復文書群である。つぎに、広義には行政文書群に入るが、学外に情報を発信してきた基幹的史料をみていこう(以下拙稿「大学一覧について」『東京大学史史料室ニュース』第18号(1997年2月)を元にした)。

 大学(学校教育機関)の全体像を捉えるには一覧(Callender)と年報(Annual Report)しかない。教育機関の基幹資料、文献といってもいい。研究対象としての大学はどちらかといえば細分化され、史料は限定されがちになる。情報の発信源であると同時に収集拠点である大学を全体として対象化しようとすると、一覧、年報の重要性は強調してもしすぎることはない。

i 大学一覧

 まず大学一覧からみていこう。一覧はいつごろからどこの機関が編集、発行したのだろうか。国立国会図書館の『明治期刊行図書目録』によれば、もっとも古い時期は明治8(1875)年2月の東京開成学校一覧である。明治10年代に入ると東京大学、同予備門、東京外国語学校などの官立学校をはじめとして、東奥義塾一覧(明治11年9月)などの私立学校も発行していた。この目録にはないが、専修学校でも明治16年7月に一覧を編集、発行していた。学校情報を社会に知らしめる、存在をアッピールするといった広報活動は、我々が考えているよりも早くからはじめられていたのである。

 東京大学の一覧で具体的にみていこう[挿図2]。東京大学の前身校を含めた一覧は表2の通りである(包摂校は除く)。表から分かるように国立国会図書館所蔵の一覧よりも早い「壬申四月改」と表記のある明治5年の『南校一覧』がある。これは小冊子形態で、規則、舎則、授業時間割、生徒人名(等級別、出身府県、年齢併記)という内容である。一覧が毎年度の大学の概要を内外に示すものとすれば、『南校一覧』は先駆的な位置づけがなされる。一覧の記載事項を最大公約数的に挙げれば、沿革略、職員、主要な法令ならびに規則、各学部の学科目、附属研究施設の概要、旧職員・在学生・卒業生の氏名、参考表、施設図などである。ただ財政関係のデータは掲載されていない。一覧は市販もされていた。市販の例を示せば、500頁余の明治24—25年版の奥付には、編纂兼出版帝国大学、印刷所薬研堀活版所、売捌所丸善商社書店、定価30銭である。一覧の記載事項中、いくつかを選びそれぞれの掲載年代を略記しておく[表3]。


 このなかにあって明治6年3月の「第一大学区第一番中学一覧表」という折りたたみ式の大判(約36×55センチ)一枚刷りのものもある。官員、教官、教師、科目表、生徒氏名(表裏)からなっている。一枚刷りの一覧表は記載事項からみると、先の一覧とずいぶん異なる。一覧表がどうして作成されたのかという疑問は、機能的にはよく理解できる一覧がどのような理由から発行されたのかという疑問とも重なり、答えはいまだ不明である。ただ、一覧表もまたこのあとにも発行されていた。名称は多少異なるが、同じ体裁の明治24—25年の一覧略は64×78センチの両面活版印刷物である。一覧略は一覧が「大冊ニシテ一目其概略ヲ尽スニ便ナラス且其部数ニ限リアルヲ以テ広ク之ヲ頒布スル能ハス」ということで作られ、さらに「普ク入学志願者ニ便ニス」と受験者への配慮も考えられていた。

ii 年報

 東京大学関係の年報は『文部省年報』所載の分も含めて東京大学史史料叢書として『東京大学年報』全6巻(東京大学出版会)に復刻されている。

 復刻した史料の時期は、明治6(1873)年第一大学区第一番中学から開成学校へと専門学校に改組されてから明治30年京都に第二番目の帝国大学が設置されるまでである。東京大学、帝国大学の成立を含むこの時期は、帝国大学史の流れから見れば、揺藍期、成立期を経て、確立期にいたる期間である。一覧の検索に用いた「明治期刊行図書目録」にもあるように、年報も多くの機関で発行していた。

 年報には庶務の概要、規則改廃、人事、教育研究の実況、統計的諸表などから構成されている[挿図3]。これらはさまざまな情報を与えてくれる。たとえば、学科課程の編成は当時の専門分野を表現しているし、学則などは学生の修学状況を伝えてくれる。なかでも非常に興味深いのは邦人、外国人教師の「申報」である。申報はもともと一般的には上司に伺いをたてる、報告するという意味であるが、ここでは内外の教師が行った教育研究の実践が記されている。なにをどのようにどこまで教えたのか、教授にはどのような方法を用い、あるいは改善しようとしたか、学生の勉学態度はどうであったか(いちいち学生を名指しで絶賛する申報もある)、あるいは健康問題など、申報は一つの読み物としても面白い。たとえば、学生の勉学態度には概ね高い評価が与えられていた。その一方で学業進歩の阻害要因として病気、教科書の不備、基礎教養の欠如を指摘していた。そして、何よりも問題なのは学生が講義の記憶にばかり汲々として「自修ニ吝ニシテ」という点にあったらしい。雇外国人教師ベルツ(内科学)はこの弊害を除去するには「幼年ヨリ欧州ノ語学及ヒ数学ヲ学ハ」させることが肝要であり、「日本及ヒ支那ノ文字ヲ学フハ常ニ暗諦(考究セスシテ)スルノ学風ニ陥ラシムル」とまで述べていた。



5 公文書類について


 東京大学が蓄積してきた公文書は、あらためて述べれば事務組織機構に沿って大別される。つまり、庶務(総務)、経理、施設、学生の各部などである。これらはさらに事項別あるいは年次別に編成、保存されている。施設では建物ごとの図面、施工図、写真などが一括して保存されているかもしれない。庶務部系統の資料群としては、さきにあげた「文部省往復」をはじめとした史料群がある。ここでいくつかの代表的な公文書類、簿冊を紹介してみよう。

i 「文部省往復」

 文部省が創設された明治4(1871)年から継続して残されてきた庶務系列の基幹史料である[挿図4]。この往復とは文部省との往復文書綴であり、ここに綴られている文書のうち東京大学の文書は文部省へ送付した控えあるいは送付する草稿であり、文部省のほうは原文ということになる(但し、写もある)。これ以前の文書については「東京帝国大学五十年史料」として一部が附属図書館に所蔵されている(前述)。ところで、文部省の公文書が大正12(1923)年の関東大震災によってほとんど焼失してしまったことを考えると「文部省往復」の存在の貴重さの一端を知ることができよう。国立学校設置法以前、すなわち昭和24(1949)年までの旧制度下では248冊である。その内訳は明治期130冊、大正期26冊、昭和期92冊である。装丁は黒布表抵が主であるが、全体的に昭和10年代頃からは板目紙の仮とじ製本となっている。


 簿冊は目録と本文(資料)から成っており、目録は後年作成され、資料とともに編綴されている。資料は年代順に上から綴られ、通し番号が付されている。目録の編成は時期により異なり、旧制度までの間に6回変更されている[表4]。


 では、どのように異なるのだろう。第一期の目録編成は法令の形式と文部省各局課とに区別されている。まず、達、准允、伺、上申、届などの部があり、次いで督学局、学務課、会計課、教務課などの部が続く、という編成である。たとえば、第一期の最終年の明治18年の目録構成は、御達、届、上申、伺、請、進達、学務一局(後の専門学務局)、学務二局(同普通学務局)、庶務局、報告局、内記局、会計局、編輯局、編纂課となっている。明治19年以降は、当初局課往復などが残るほかこの体裁はまったく崩れ、ほとんどの目録は件名が羅列されるにすぎない。変更の背景のひとつに内閣制度の発足に伴う法体系の整備を指摘できるだろう。ついで明治42(1909)年からは事項別目録となる。同年の目録には、祝祭日儀式典例から始まり拝謁並氏所参拝、学事及統計ニ関スル事項、私立学校授業応嘱許可、本学参観、兵役ニ関スル事項、判任官現員調など15項目がならんでいる。第四期は文部省局課別編成となり、第五期は第三期に復し、第六期は第四期に戻る、という変化をたどる。昭和4(1929)年の目録編成は大臣、次官、官房文書課、同会計課、同体育謀、専門学務局、普通学務局、実業学務局、社会教育局、学生部、秘書課となっている。目録編成の右のような頻繁な変遷がいかなる事情によるものなのか不詳である。文書処理上の繁雑さは免れないことだけはたしかであったろう。この往復の収録文書について留意すべき点は、明治14(1881)年までの東校、東京医学校、医学部系統の文書が含まれていないことである。医字部系統は別に事務組織を持ち、独自に文書の処理も行っていたからである。この「往復」は東京開成学校系統の庶務関係の文書綴といえる。

ii 「文部大巨准允」

 東京大学の組織、制度、式典に関する諸資料が収録されている『東京大学百年史(資料一)』中、たとえば「五 通則」(分科大学—学部通則)に掲げられた資料の日付を見ると、二つの日付が併記されている。一つは評譲会の議決日を示し、もう一つは文部大臣の認可日を表している。右のような併記がなぜ必要になるかと言えば、総長(総理あるいは学校長)の職務規程に大臣決裁事項と総長専決事項とが区別されているためである。准允は文部大臣の決裁を経た文書(伺書及び指令)の綴りである[挿図5]。さきに記したように昭和7(1932)年以降のこの簿冊は見当たらない。なお簿冊名(背表紙名)は文部省・准允、大臣准允とも表記されている。装丁は「文部省往復」などと同様に黒布表紙である。資料の編綴は年代順に上から綴られ、通し番号が付されている。「文部省往復」のように局課、事項別の編成にはなっていない。各冊には必ず目次が付され、明治期と大正期とではその位置が相違する。明治期は各年度の頭初に目次が付されているのに対し、大正期以降のものは同一人物の筆になる「大臣准允」なる表紙があり、目次はすべて簿冊の初めにまとめられている。実際の件名をみると、分科大学(学部)の規則、学科課程の改正が多数を占めており、明治28、29、30年は予算流用並更定関係のみが綴られている。このようにこの簿冊には途中欠本があったり、予算流用の件のみが編綴されるなど方針に揺れがみられるため、基本史料としては実に惜しまれる。初期の准允のうち二、三の例をあげておこう。第一は明治14(1881)年1月裁可の「理学士教員一個ノ学校ヲ開キ生徒募集ニ依リ理学器械貸渡ノ件」は東京物理学校(現・東京理科大学)開設にあたっての願書である。文中「講義日ハ日々之事ニ無之ユヘ講義日毎ニ借用シ講義相済候ハバ其都度返納可致」とあり、その慌ただしさが目に浮かぶ。二つめは同年制定の事務章程にかかわる「加藤(弘之)総理大学ノ事務三学部内於テ取扱ノ件」である。さきに見たように東京大学はキャンパスが医学部は本郷、法理文三学部は神田錦町にわかれていた。どこで大学の総括事務をとるのかという問題について「該学事務之儀取扱候場可無之ニ付姑ク三学部内ニ於テ取扱候様致度」と伺い出て、同年7月7日「伺之通」と指令されていた。


iii 川留学生関係簿冊

 つぎに個別事項の資料として「海外留学生関係」綴を取り上げてみよう[挿図6]。1880年代から1910年までの東京大学における海外留学生にかかわる史料の簿冊名と時期は表5のとおりである。


 簿冊の装丁は「文部省往復」「文部大臣准允」と同様に黒布表紙である。構成は目録と本文(資料)からなり、編綴は年代別に上から綴られている。ただし明治16年の簿冊には目録がなく、明治38—43年の簿冊は「海外留学ニ関スル件」「留学期間延長及転学留学地追加等ニ関スル件」「雑」と事項に区分されている。収録件名(目次の件名)は全部で464件にのぼる。たとえば「明治十七年官費留学生四人派遺ニ付学科年限等取調井入物選択ノ件」のように、内容は留学生の入選、学科、修業場所などから、留学生からの転校(学)願、留学延期願、諸工場派遣願、学費増給願等々である。さらには留学先での学位試験費用の下付願など、留学の実態に近い史料も豊富である。もちろん、それら以外に留学生施策にかかわる文部省からの通牒類も収められている。明治16、17、18年の分には、明治15年2月に制定された官費海外留学生規則中の第9条第4項(「毎年一月七月ノ両度ニ第四号書式[修業場所、受持教師、修業課目、受業料、旅行などからなる]ノ申報書ヲ文部省ニ送達スヘシ」)による申報書(文部省から回覧された写しと思われる)が綴じられており、一部分ではあるが極めて詳細な留学状況が判る。明治16年に収められている申報書の人物は、九里龍作、和田垣謙三、小藤文次郎、難波正、飯島魁、三浦守治、緒方正規、小金井良精の8名である。このほか活版印刷の史料としては、明治15年以降の文部省海外留学生表(題名及び発行主体は時期により異なる)がある。その年を摘記すれば、明治15—16年、19—22年、24—31年、38—39年、41—43年である。

 井上哲次郎を取り上げて、どのような史料が残されているのか具体的にみてみよう。彼は明治16年度の留学生で哲学専攻、留学先はドイツ、帰国は明治23(1890)年である。井上にかかわる主な史料(件名)は表6のとおりである。


 哲学専攻の留学生派遺事由があるので(明治16年7月付、専門学務局長宛、加藤弘之総理発)、以下に紹介しておこう
(〈〉内は削除。傍線は挿入、朱筆。文中の合字及び略字は現代表記に改めた。

「哲学ハ已ニ本学文学部ノ一専門学科タリ宜シク学士ヲ養成シ漸次外国教員ト交替セシメサルヘカラス而シテ該当ノ如キ若シ小成ヲ以テ足レリトスレハ〈敢〉テ海外留学ヲ要セサレトモ他日我大学ノ教授タルヘキ者ヲ養成センニハ決シテ小成ヲ以テ安ンスヘカラサル事勿論ナレハ必スヤ欧土ニ到リ碩学鴻儒ニ就テ実ニ真誠哲学ヲ研究セシメサルヘカラス加之本邦現今浅学無識ノ輩カ妄ニ過激粗暴ノ空理ヲ唱テ世ノ少年子弟ヲ誤ラントスルカ如キハ必寛深ク真理ヲ講究スル真誠哲学ノ未タ起ラサルニ職由スルモノナル事必然ナレノ益以テ真誠哲学ノ一日モ怠ルヘカラサルヲ知ルヘシ是レ速ニ哲学専修ノ者一名ヲ留学セシメサルヘカラサル所以ナリ故ニ卒業帰朝ノ上ハ本学教員ニ充テ専ラ学生ノ教導ニ従事セシメ〈ン〉以テ漸ク真誠哲学ノ興隆ヲ謀ラント欲スルナリ」(明治16年留学生書類中)。

 ちなみに、大学幹事の服部は欄外に「哲学専修ノモノヲ派遺スルハ大不同意」と記していた


6 おわりに


 明治30(1897)年の京都帝国大学創設を挟む20世紀前後に、東京大学は制度的に安定化し、拡充していく。帝国大学も複数化していき、私立の専門教育機関は大学昇格への道を模索しはじめ、帝国大学を中心とした教育、学術と国家との関連構造をもった帝国大学体制が完成していったのである。

 大学史資料としてこれまで公文書類を中心に紹介してきた。しかしこれだけはない。いわゆる個人文書もまた重要な資料である。個人文書の内容は多岐にわたっており、公文書類を補足するもの、日記などのまったくプライベートな資料までを含んでいる。歴代総長資料としては、加藤弘之、渡辺洪基、長与又郎、平賀譲、内田祥三史料がある。明治期を中心に大学史資料をみてきたが、昭和戦前期の長与又郎、平賀譲、内田祥三史料は戦時下の動向を知るうえで欠くことのできないものである。長与史料は日記が中心となり、詳細な大学状況が記されている。平賀史料の中心は艦船設計図などであり、簡単な行動記録的な懐中日記も含まれる。内田史料は大学の公文書類を含めて会議資料、事務書類などが膨大にあり、学外資料としては学術研究会議関係がある。学内史料は大学が保存している文書類を補って余りあるものといえる。

 このような個人文書も積極的に収集していくことにより、大学史資料が豊かになるとともに、大学の歴史像もまた豊富になり、可能性に満ちた研究対象になっていくのである。



【註】

[1]田中時彦「大学南校雇英人教師襲撃事件」、『日本政治裁判史録』(明治・前)、昭和43年参照。[本文へ戻る]

[2]たとえば山崎佐が『日本医史学雑誌』に5回にわたり連載した「お玉ヶ池種痘所」など。[本文へ戻る]

[3]橋本昭彦「昌平坂学問所関係文書(筑波大学所蔵)の全体構成」、『国立教育研究所研究集録』第16号、1988年。[本文へ戻る]

[4]森大臣の暗殺前後まで帝国大学については拙稿「帝国大学体制形成に関する史的研究」、『東京大学史紀要』第15号、1997年3月。[本文へ戻る]

[5]キャンパスを中心にした東京大学小史としては拙稿「東京大学の一二〇年」、『東京人』、1996年5月号。[本文へ戻る]



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