「複製画」と美術史教育


増記隆介 東京大学大学院人文社会系研究科



 大正3(1914)年2月、東京帝国大学文科大学(以下、文科大学と略す)は、美学第二講座として美術史学講座を新設した[1]。主任教授には、美術研究誌『国華』の主幹として活躍し、明治42(1909)年以来、文科大学において日本絵画史を講じていた瀧精一(1873—1945)が迎えられた。同時に当時国華社において編集事務を担当していた藤懸静也(1881—1958)を副手として採用した。藤懸は、後に瀧の後を承けて美術史学講座第二代主任教授となっている。

 ここで翻って日本近代における美術史学成立の展開を跡づけてみると[2]、明治22(1889)年、東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)で行われたフェノロサによる「美学及(ママ)美術史」、そして、フェノロサの後を承けて明治23年以降、岡倉天心が行った「日本美術史」及び「泰西美術史」が美術史研究としての濫觴にあたる。しかし、これらの東京美術学校における美術史の講義は、佐藤道信氏が指摘されているように[3]、飽くまで創作活動に資するための知識としての講義であり、研究者を養成するためのものではなかった。そして、結果的に研究者の養成という任務を負ったのは、瀧・藤懸の二者を世に送った文科大学であり、その研究活動の発表の場となった『国華』という一雑誌であった。

 美術研究誌『国華』は、明治22(1889)年、岡倉天心・高橋健三(内閣官報局長、後に朝日新聞主筆)により月刊誌として創刊された[4]。しかし、早くも同26年には経営難に陥り、当時朝日新聞社を共同経営していた村山龍平・上野理一の2人が経営に参画、さらに同38年には、この二者による共同経営の形態をとるに至り、同時に岡倉が経営から退いている。瀧は、同34年から主幹として『国華』の運営に参加しているが、瀧の採用には、創立者の一人である高橋健三が、瀧の叔父に当たる[5]ことが大きく関わっていると思われる。また、岡倉は、この年以降38年の退任に至るまで、数度の海外渡航や日本美術院の経営困難への対応など、『国華』の運営から離れることが多く、実質的にこの年から瀧による『国華』の運営が始まったと見てよい。

『国華』が、その創刊当初より掲載図版を重視し、また、読者もその美麗な木版多色刷りの図版に多大な関心を寄せていたことは、『国華」600号に寄せられた、辻善之助(1877—1955、歴史学者・東京大学名誉教授)の次の一文に端的にあらわれている[6]

「而して其の芸術品の複製に至っては、単に妙品傑作の紹介たるに止まらずして、その木版色摺の如きは、優に一個の芸術品である。それと共に、この複製によって芸術品の保存維持の用をも兼ねるのであって、国華は実に縮小博物館の観を呈し、吾人は国華六百冊を展観することによって、ひろく東洋芸術の精粋を一堂の中に陳列観賞することができる」。

 このように木版多色刷りによるカラー図版、及びコロタイプ印刷によるモノクロ図版は、『国華』の顔ともいえる位置を占めていた。では、これらの図版をも含めた美術品の複製について当の『国華』、そしてそれを一手に運営していた瀧自身はどのように考えていたのであろうか。その解答は、「美術品の模造」(『国華』193号、明治39年6月)と題された筆者不明の一文に示されている。そして、匿名であるからこそ、この一文は、主幹であった瀧の考え方を忠実に語ったものとなっているのではないだろうか。以下、長くなるが複製というものが、明治以降の美術研究において持った意義を端的に語った重要な史料であるので引用する。

「美術研究にとりて其の原物の研究が最も肝要なる可きは論を竢たずと雖も、是れ広く一般人士の得て望む可からざる所にして、博物館の如き公衆の容易に観覧し得らるヽ場所の如きも、なほ其の所在地の遠隔なる場合に於いては、之を目賭すること難し、況んや一私人の珍襲品に至っては、研究者が欲する時期に於いて、欲する場所に於いて之を観覧せんことは、通常出来難きことヽ云ふも不可なし。吾人は此等個人の襲蔵品が漸次心安く博物館等に出陳せられ、富豪貴紳の輩が其襲蔵する美術品の鑑賞を、衆人と共に相楽しむの日到らむことを熱望するものなりと雖も、一方に於いては此等美術品の正確なる模造品を作り、以て各文芸研究の中心地の博物館等に常備せんことを欲するものなり。(中略)由来美術の原品を過重し、其の模造品を軽蔑するは、骨董癖に本(ママ)くもの多きに居る。而して斯くの如き世界美術史上の傑作品の模作を得て国民の眼前に提供することは、ひとり美術の研究者にとりて有益なるのみならず、一般国民の教育にとりても最も須要なる事項たらずんばあらず」。

 中略の部分では、日本の西洋美術研究者が遠く海外にある実作品に接することの難しさを説いているのであるが、この一文から次の二つの事柄を導き出せる。すなわち、この文が草された明治末年において、美術品の大部分は、華族と呼ばれる「富豪貴紳」の襲蔵にかかり、「一般人士」「衆人」が実作品に接することには、現在の我々が考える以上の困難を伴ったということ。西洋美術に関しては言うまでもなく遠く海外にある。それはつまり、美術品がおかれていた環境とその「公開」の困難についての記録である。そして、もう一点は、以上のように公開が難しい環境にある美術品の模造品を作り、それを展示することによって「一般国民の教育」に資するという意識の存在であり、つまり、当時の模造品に期待されたものは、何をおいてもまず、普及教育という機能であったということである。

 以上のように、模造品による美術研究及び教育の重要性を語った瀧が、実際の教育の場である文科大学美術史学講座の主任として第一に行ったことが、複製による美術資料の収集であったことは或る意味で当然のことであった。

 瀧は、文科大学教授就任以前に既に写真版による絵画の複製を当時の東京帝国大学付属図書館に寄贈している。その内の一点が本展覧会に出品されている「傳石鋭筆春山図」のコロタイプ印刷による掛図である[185-4]。この絹貼りのパネルの裏には、文学士瀧精一が、明治44年9月25日に本掛図を寄贈した由が記されている。そして、パネル表の左下隅には、「国華社照相」の朱文長方印が捺されている。「照相」は言うまでもなく写真、もしくは写真を撮ることの意であり、本掛図が国華社で撮影された写真によるものであることを示している。この複製画は、明治44年9月10日、当時京橋区弥左衛門町にあった国華社の社屋において行われた中国画の展覧会に出品されたものであり、このことは『国華』257号(明治44年10月)の「雑録」によって判明する。「雑録」によると、展覧は1日だけ行われ、当日展示されたのは、羅振玉(1866—1940、清末中華民国初の金石学者・書画蒐集家)が当時の京都文科大学に寄託していた蔵幅、及び中国・日本の所蔵家の持つ名画の「原寸大の引延写真」であったという。その作品リストの中に『石鋭筆春景楼閣山水図』の複製があり、これが本パネルにあたると思われる。

 さて、文科大学の教授に就任すると瀧は、より本格的に複製による資料の充実に邁進した。その端緒となったのが、『国華』の経営者であった朝日新聞社社主・村山龍平から贈られた同じく「国華社照相」の印をもつ一連の写真複製画である。本展に出品されている「釈迦涅槃図、金剛峯寺」[185-1]、「李真筆不空金剛像、教王護国寺」[185-2]、「不動明王図、明王院」[185-3]の題箋をそれぞれ持つ3点の写真掛図はその一部であり、瀧の教授就任後間もない大正3年10月28日に村山龍平から寄贈された旨がその裏側に記されている。

 また、瀧は、写真による複製だけでなく模写による資料の充実も図り、大正8年には原富太郎の援助を受け、国華社を通じ、画家荒井寛方・美術史学者沢村専太郎等をインド・アジャンタ石窟に派遣し、壁画の模写を行わせている。この模写は、残念ながら関東大震災の際に鳥有に帰したが、同じく荒井寛方に模写させたベルリン東亜民俗博物館所蔵の西域仏画については、現在も東京大学総合研究博物館に所蔵されている。また、中国朝鮮の陶磁資料も収集し、その一部がやはり総合研究博物館の蔵品となっている。

 以上のような複製品による美術研究及び教育は、明治末から大正期における美術品の「公開」の実態と深く関わっている。すなわち、先に述べたようにこの時代において美術品の大部分は、個人の所有物であり、一般に公開されることが甚だ難しい状態にあった。その多くは、いわゆる富豪貴紳が自娯の目的で鑑賞するものであり、一般には閉じられた世界に存在していた。このような状況を考えるとき、『国華』に掲載された多色刷りの図版が如何に読者にとって衝撃的であったか、また、それを出版する国華社にとってそれがどれほど啓蒙の意識を煽るものであったかを、多くの美術品が公開され、多数の美術全集が出版されている現在から振り返ることは難しい。これらの複製品による美術研究及び教育は、美術品の「公開」をめぐる環境の変化、また、印刷技術の進歩によって次第に消えて行く運命にあった。

 カラーの美しくかつ手軽な美術全集出版の盛行をうけて、東京大学における美術史教育の端緒を飾った複製品教材は、博物館の奥深く挨をかぶって忘れ去られつつある。しかし、これらの挨をかぶった資料群は、以上で記したようなことを語り得るのであり、これらの一連の複製パネルを本展覧会の展示に供することは、現在その研究が進みつつある、日本近代における美術研究及び教育の実態を何らかの形で再現する、そのきっかけを与えるものとなるのではないだろうか。



【註】

[1]東京大学文学部美術史研究室の沿革については、東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史・部局史一』、東京大学出版会、1986年を参照した。[本文へ戻る]

[2]近代日本における美術史学の成立に関しては、佐藤道信「近代史学としての美術史学の成立と展開」(辻惟雄先生還暦記念会編『日本美術史の水脈』、ぺりかん社、1993年)を参照した。[本文へ戻る]

[3]佐藤氏前掲論文参照。[本文へ戻る]

[4]雑誌『国華』の沿革に関しては、山川武祐編「国華社史(略)」、『国華』1000号、1978年4月を参照した。[本文へ戻る]

[5]藤懸静也は、「瀧博士の追憶 上、下」(『国華』651・652号、1946年6・7月)という一文の中で次のようなエピソードを紹介している。すなわち、日本画家・瀧和亭の長男として生まれ、幼少から丹青の道に親しんでいた瀧にその画筆を折らせたのは、或る日、瀧の描いた下図を見て叔父の高橋健三が言った「こんな絵を描いては親の恥さらしだ」との言葉によるのだというものである。このことと瀧の美術史学への「転向」がどのように結びつくのかは詳らかにしないが、ここには『国華』の創刊者である高橋健三が登場しており、その後の瀧と『国華』との結びつきを考える上で示唆的な出来事である。[本文へ戻る]

[6]辻善之助「感想と希望」、『国華』600号、1940年11月。[本文へ戻る]



[東京帝国大学文学部美術史学]



185-4 複製絵画掛図「傳石鋭筆春山図」
コロタイプ印刷、絹地に額装、縦157.9cm、横84.2cm、「國華社照相」「東京帝國大學圖書印」「美学研究室印」の朱印あり、「東京帝國大學附属圖書館 文学士瀧精一氏寄贈」の記載あり、「東京帝國大學附属圏書館、明治四十四年九月廿五日 163798」のラベルあり、総合研究博物館美術史部門



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