[監修]金井圓 東京大学名誉教授 |
1 概観幕末・明治の日本は近代国家としての富国強兵をめざして西洋人を顧問、教師、技師などとして雇い入れ、広く「お雇い外国人」として知られている。とりわけ明治政府は、その成立の当初から西洋の科学知識や技術、諸制度の導入のため日本人留学生の海外派遣と外国人専門家の雇用につとめ、条約改正にともない外国人雇い入れ規則が廃止される明治32(1899)年までの約30年間に政府(官傭)、民間(私傭)を併せて毎年600ないし900人の外国人を、しかも高給をもって雇った。政府雇い入れは当初年間500人を超えたが、まもなく半減し、のち漸減したが、文部省関係の教育部門には急激な減少は見られない。これに対して、民間企業の雇い入れ人数は、当初100人にも満たなかった人数が漸増し、やがて700人にも達した。政治、法制、産業、財政、教育、文化、技術、医学などさまざまな分野にわたって、明治政府がモデルと考えた先進諸国の近代的知識、技術の移植につとめ、十カ国以上の西洋諸国からの雇用が見られたが、とりわけアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスからの受け入れが群を抜いた。 幕末の洋学施設を引きついで「東京大学」が明治10(1877)年4月12日、学監D・モルレーの指導のもとに文部省管下にあった東京開成学校と東京医学校を合併して創設されたが、当時は法・理・文・医の四学部と予備門からなる高等教育機関であり、明治17年に現在の本郷キャンパスができたが、近代的な官立総合大学となったのは明治19(1886)年、帝国大学令の公布とともに、予備門を廃止し、工部大学校を合併、ついで東京農林学校をも合併して、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院をもつようになってからである。その名称「帝国大学」は、明治30(1897)年に京都帝国大学が設置されたとき「東京帝国大学」と改められた。 「東京大学」創立までに、文部省雇い入れ外国人の約20パーセントが「傭外国人教師」として受け入れられ、その数は約50人に達していたが、「東京大学」では次第に減少し、「帝国大学」発足とともに幾分増加したが、やがて20人前後に定着した。この変化は、帰国した日本人留学生が大学教授陣を占めるに従って外国人による教育分野が必要最小限の範囲に限定された結果である。 明治初年から約30年間の外国人教師は、それぞれの個性をもって西洋の新知識・技術を伝え、学生の指導に当り、また諸学会を育成する一方、日本文化のよき理解者として日本の国際交流にも寄与した。このたびの本学創立百二十周年記念展第一部「学問のアルケオロジー」への参加に当って、附属図書館はこれらのお雇い外国人教師たちの事跡を、とりわけ本学に対するさまざまな寄与、貢献という観点から、附属図書館(総合図書館、部局図書館・図書室)所蔵の著作・記録など文献資料を通じて明らかにし、併せて彼らと学生たちの生活・研究状況の実態をも回顧することとした。出品の選択・貸出し、調査・展示にかかわったすべての方々のご厚意とご尽力の成果として、観賞していただければ幸いである。 2 東京大学への貢献数多い外国人教師のうち、総合図書館、部局図書館・図書室にいまもかなりの史料の残るもの13人を選んで、その東京大学の教育・研究への寄与・貢献ぶりを個別に回顧する。その国籍は、ドイツ5人、イギリス4人、アメリカ・カナダ・フランス各1人、帰化人1人に及び、受入分野では工科5人、文科3人、法科2人、医・理・農科各1人、雇い入れ年代では東京大学以前5人、東京大学期4人、帝国大学期4人から成っているので、均整ある画像が得られるものと思われる。 i ジョン・ミルン(John Milne イギリス、1850—1913)——工学部、鉱山学・地震学、明治9(1876)年3月8日—明治28(1895)年6月20日雇用——工部大学校で鉱山学を教えるため来日、帰国するまで鉱山学も教えたが、来日当初に地震にあったことを契機に地震についての研究をおこなって、世界的に知られた。1880年、ミルンが中心となって在留外国人たちと日本地震学会を設立(ただし1892年解散)、その紀要に多くの論文等を発表した。地震計の改良もおこなっている。帰国後に東京帝国大学名誉教師の称号を授与された。日本人を妻とし、イギリスで亡くなった。 [資料解題]1 研究室の一隅でのミルン夫人とね(複製写真アルバムより)縦16.8cm、横12.0cm、工学部地球システム工学科図書室 アルバムにはミルン関係の複製写真約40枚が貼られている。ミルン、夫人とね(函館出身の日本人)、とねの両親や実家、イギリス・ワイト島の夫妻の家、訪問客、夫妻の墓、等の写真がある。 2 ミルン関係書簡集(55点) 1898—1912年頃、地震研究所図書室 おおむね1898(明治31)年頃から1912(大正元)年頃にいたる書簡55点。ミルン自筆の書簡や大森房吉からの書簡等。 3 The stone age in Japan. John Milne & c. 1881. 縦22.4cm、横14.1cm、36頁(389—424頁)、理学部生物学科図書室 松村文庫283 ミルン等が書いた日本の石器時代についての論文。Journal of the Anthropological Institute of Great Britain and Ireland (Vol.10.1881)に掲載されたもので、この論文のみ製本したもの。 4 Phenomena connected with mineral deposits. John Milne. 1878. Printed at the Imperial College of Engineering, Tokio. 縦19.8cm、横15.0cm、25頁、工学部地球システム工学科図書室 3:58 ミルンが1878(明治11)年に工部大学校で印刷したもの。この本の内容は1893(明治26)年にイギリスで出版したミルンの『採鉱家ハンドブック』(John Milne. The miner's handobook. 1893. London: Crosby Lockwood and Son. 15cm, 313p.)のなかに収録されている。 5 Notes on the ventilation of mines. John Milne. 1879. Printed at the Imperial College of Engineering, Tokio. 縦20.9cm、横14.9cm、55頁、工学部地球システム工学科図書室 15:39:2 ミルンが1879(明治12)年に工部大学校で印刷したもの。この本の内容は1893(明治26)年にイギリスで出版したミルンのThe miner's handbookのなかに収録されている。 6 Seismology. John Milne. 1898.London: Kegan Paul, Trench, Trubner, & Co. 縦19.1cm、横13.4cm、320頁、総合図書館 T350:339 ミルンの著書『地震学』の初版。1898(明治31)年出版。地震研究所長であった石本巳四雄の旧蔵書。 7 The great earthquake in Japan, 1891. John Milne & W. K. Burton. 1892. Yokohama: Lane, Crawford & Co. 縦28.9cm、横40.6cm、図版29点、地震研究所図書室 K2:313 1891(明治24)年におきたマグニチュード8.4の濃尾地震の被害についての写真集。ミルンとバルトンの共著。バルトンは帝国大学工科大学の御雇外国人教師で、日本で亡くなった。写真は小川一眞によるもの。1992(平成4)年に復刻版が刊行されている。 8 Earthquakes and other earth movements. John Milne. 1886. New York: D. Appleton and Company. 縦19.5cm、横22.8cm、363頁、工学部地球システムエ学科図書室 2:80 1886(明治19)年にアメリカから出版されたミルンの著書『地震とその他の地球の運動』の初版。この本が出版されたときミルンは滞日中であった。 9 Transactions of the Seismological Society of Japan. vol.1 (1880)-vol.4 (1882). 縦22.0cm、横14.8cm、総合図書館 ZT:7194:T ミルンら滞日外国人が中心となって明治13年に設立した日本地震学会は13年間続いたのち解散した。その紀要は全部で16巻刊行されたが、第1巻から第4巻までを1冊に合冊製本したもの。 10 10『日本地震学会報告』、第1冊(明治17年)—第5冊(明治21年) 縦19.6cm、横14.3cm、総合図書館 ZT:154 ミルンらが設立した日本地震学会の紀要は英文だったが、紀要に掲載された論文等の一部を関谷清景が日本語に翻訳したもの。丸善から発売された。第1冊から第5冊までを合冊製本して1冊にしたもの。 ii エルウィン・べルツ(Erwin Baelz ドイツ、1849—1913)——東京大学医学部教師、明治9(1876)年6月7日—明治25(1892)年7月31日、明治26(1893)年8月1日—明治35(1902)年7月31日雇用——ベルツは来日当初、生理学を講義したが、前任者が帰国するとその後を受けて内科学を担当し、臨床の重要性を説いた。その他に産婦人科学、診断学なども講義し26年間にわたって学生の教育指導と患者の診療に当たった。その功績が認められ、明治25年には、医科大学名誉教師の称号が贈られた。教鞭のかたわら、脚気の研究や温泉療法などにも多くの貢献をした。また、旅館の女中さんの手のあかぎれを見て後に「ベルツ水」と呼ばれる薬をつくってあげるといった、写真の厳しい映像とはうらはらに、優しさも備えていた。東大退職後、宮内省侍医を勤め、明治38年に帰国した。医学図書館背後に胸部銅像がある。 [資料解題]1 『内科病論 中篇』(初版)、エルウィン・ベルツ著樫村清徳校閲、伊勢錠五郎訳補、明治15(1882)年、刀圭書院、縦18.9cm、横12.8cm、387頁、医学図書館史料室 ベルツが内科の講義をする時、あらかじめ学生に与えたメモを補訳したものである。 2 『鼈氏内科学 上・中、下巻』(初版)、エルウィン・ベルツ著 竹中成憲・本堂恒次郎・馬島永徳共訳、明治26(1893)年、金原寅作、2冊、縦21.8cm、横15.2cm、医学図書館史料室 本書はベルツが日本の医師のために、日本での経験をもとに臨床に必要な知識を書いたものである。臨床を重んじるベルツの主張があらわれている。 3 Lehrbuch der Inneren Medicin mit besonderer Ruecksicht auf Japan bearbeitet. Band I・II,III.E. Baelz. 1900-1901. T. Kanahara. 二冊 縦22.5cm、横15.0cm、医学図書館書庫 V500:1 『鼈氏内科学』の原書。 4 『日本鉱泉論』、エルウィン・ベルツ著 中央衛生会訳、明治13(1880)年、中央衛生会、縦18.7cm、横13.8cm、62頁、総合図書館書庫 V46:83 日本には多くの温泉があり療養に利用されているが、これを指導する機関がない。政府は患者に温泉治療を指導すべきであると説いている。 5 ベルツ自筆の履歴書と業績目録 (文部省往復)明治16年4月20日付、縦29.1cm、横41.1cm、東京大学史史料室 この履歴書は7年間の教鞭に対する叙勲申請に添付された自筆書類である。 6 写真(東京大学医科学部卒業生とベルツなどの外人教師) 明治13年7月、縦20.1cm、横25.8cm、医学図書館史料室 明治13年の東京大学は1年間が9月から始まる西洋式の学期制を採用していた。その時の第1回卒業生(一部)の写真である。 7 ベルツ水 『第十二改正日本薬局方解説書』(1991年)収載の「グリセリンカリ液」のコピーと「ベルツ水」の空箱、縦5.0cm、横5.0cm、高さ10.9cm 箱根の旅館の女中さんに処方したのがはじまりといわれる「ベルツ水」は、現在も「ベルツ水」の別名で市販されている。正式名称は「グリセリンカリ液」という。 8 年金給与証書 ベルツの遺品、証書番号第25号、明治35年、縦27.7cm、横37.2cm、医学図書館史料室 iii ジョサイア・コンドル(Josiah Conder イギリス、1852—1920)——工学部、建築学、明治10(1877)年1月28日—明治24(1891)年7月10日雇用——工部大学校造家科(建築学科)において日本ではじめて本格的な西欧式建築教育をおこなった。帝国大学造家科になっても引き続き学生の教育にあたり、明治期のすぐれた建築家たちを育てた。また日本最初の建築設計事務所を開設した。鹿鳴館・東京帝室博物館など多くの洋風建築も設計している。東京帝国大学名誉教師、(日本)建築学会名誉会長・名誉会員でもあった。日本人を妻とし、日本で亡くなった。河鍋暁斎について日本画を学ぶなどの日本趣味もあった。なお、工学部一号館前庭に新海竹太郎作の銅像が建てられている。 [資料解題]1 『造家必携』、ジョサイヤ・コンドル述 松田周次・曾禰達蔵筆記、明治19(1896)年、績文舎、縦19.3cm、横13.4cm、121頁、工学部建築学科図書室構三三 貴重書 コンドルが家屋の建築について述べたものを日本語にしたもの。工部大学校第一回卒業生たちによって明治12年に設立された工学会は日本最初の工学の学会であるが、その機関誌『工学叢誌』『工学会誌』に、明治17—18年にかけて9回にわたり掲載されたものをまとめたもの。 2 工部大学校卒業論文(辰野金吾) 1879(明治12)年、縦33.8cm、横21.8cm、本文32枚、工学部建築学科図書室、卒業論文一 貴重書 3 工部大学校卒業論文(片山(原田)東熊) 1879(明治12)年、縦33.6cm、横21.9cm、本文32枚、工学部建築学科図書室、卒業論文二 貴重書 論文テーマ「The future domestic architecture」、コンドルによる講評の記載あり 造家科(建築学科)の第1回卒業生4人の卒業論文の最終頁には、コンドルの記した講評がある。第2回以降の卒業論文にはコンドルが署名をしたものはあるが講評はない。また現存する工部大学校の他の科の卒業論文にも御雇外国人教師等が講評を記したものはない。辰野・片山(原田)はともに明治時代の代表的建築家。講評の日本語訳は、村松貞次郎著『お雇い外国人一五、建築・土木』(鹿島出版会)の27—28頁を参照。 4 Steam boilers. 3rd ed. R. D. Munro. 1899. London: Charles Griffin & Company. 縦19.9cm、横14.0cm、157頁、工学部機械系三学科図書室 ウェスト文庫 W57 工部大学校・(東京)帝国大学工科大学の機械科の御雇外国人教師だったウェストの旧蔵書。ウェストが明治41年に日本で亡くなった後、同僚だったコンドルから東京帝大に寄贈された。 工学部一号館前庭にはウェストの胸像がたっているがその台座はコンドルの設計。なお、イギリスのコンドルの子孫の家には、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がウェストに贈ったハーンの著書が現存するそうである。 5 A manual of machinery and millwork. William John Macquorn Rankine. 1869. London: Charles Griffin & Company. 縦19.2cm、横13.5cm、588頁、工学部機械系三学科図書室 ウェスト文庫 W129 コンドルが東京帝大に寄贈したウェストの旧蔵書。この本の著者ランキンはイギリス・スコットランドのグラスゴー大学教授で、工部大学校の御雇外国人教師たちの来日に貢献があった。またランキンの著書は工部大学校をはじめ日本でもテキストとして使われた。 6 『旧工部大学校史料』、旧工部大学校史料編纂会編 昭和6(1913)年、虎之門会、縦22.8cm、横15.8cm、356頁、総合図書館参考室 K40:D:2 工部大学校出身者の団体である虎之門会が刊行した工部大学校に関する史料集。多くの貴重な史料が収録されており、御雇外国人についてもコンドル、ミルン等の肖像や外人略伝が収録されている。回想を集めた『旧工部大学校史料附録』も一緒に刊行された。昭和53(1978)年に『史料』と『史料附録』を合わせた復刻版が青史社から出版されている。 7 The Calendar of the Imperial College of Engineering (Kobu-dai-gakko), Tokio. For 1884-5. 1885-6. 1884. 1885. Printed at the College Press, Tokio. 縦23.3cm、横15.9cm、2冊、66+130頁(1884年度)、67+139頁(1885年度)、総合図書館書庫 Zk:T646E 工部大学校の時間割や規則などを記した英文の大学要覧。付録として、御雇外国人教師等が出した各期の試験問題や学生の成績が英文で印刷されている。1883(明治16)年度以降のCalendarには試験問題の出題者名も掲載されているが、1880年度までは問題だけで出題者名は印刷されていない。Calendarと別に日本語の『学課並諸規則』がつくられたが、そちらには試験問題や成績はない。なお、このCalendarの表紙・標題紙における「東京」の英文表記は、1883年度まではTokei、1884、85年度がTokioになっている。 iv エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse アメリカ、1838—1925)——理学部、動物学、明治10(1877)7月12日—明治24年(1891)8月31日雇用——モースは、明治10年6月—11月、11年4月—12年9月、15年6月—16年2月の計3回、日本に滞在した。東京大学との契約は、明治10年7月から2年間、月給は350円(ちなみに日本人教授は100円)、初代の動物学の教授に就任した。わずか2年の間に彼は、近代動物学への導入、東京大学生物学会(現日本動物学会)の創設、大森貝塚の発見・発掘で日本の考古学・人類学の幕を開き、東大に進言して日本最初の大学紀要を発刊させ、また、博物場を新設させた。また、モースが収集した陶器、民具、看板などは、世界的に有数のコレクションとして残り、関東大震災、第二次世界大戦などで焼失したりして日本に残っていないものを見ることができる。 [資料解題]1 Japan day by day. Edward Sylvester Morse.1917. Houghton Mifflin Comp. 2冊、縦17.2cm、横22.6cm、総合図書館 A100:1293 貴重書 大正12(1923)年9月1日、関東大震災で、東京帝大図書館が所蔵していた数十万の蔵書が灰となった。それを知ったモースは、12,000冊の蔵書を東大に寄贈した。これは、その中の1冊である。 この図書は、モースが、三度日本に来日した際に書かれた、日記及び733点のスケッチをもとに、大正6(1917)年に出版されたもので、明治10年の頃の日本を知る貴重な資料である。 2 モース16歳の時のスケッチ 縦5.0cm、横9.1cm、理学部生物学科図書室 モースは12、3歳の頃から貝の収集を始め、18歳で新種も発見し、十代の末にはボストン近辺の同好家に名が通っていた。一方、彼はもともと絵がうまく、16歳で製図工の職に就いたほどの腕前だった。この貝の図はその16歳の時のスケッチ。モースの伝記を書いた女性作家ウエイマン(Dorothy G. Wayman)が昭和14(1939)年に東大動物学教室を訪問した際に寄贈したものと思われる。 3 モースが左手で描いた貝のスケッチ(佐々木忠次郎旧蔵) 縦8.9cm、横9.0cm(一枚貝)、縦9.0cm、横9.4cm(二枚貝)、理学部生物学科図書室 モースは絵がうまかった上、両手を同時に使って絵を描く妙技で名高かった。このスケッチは明治11(1878)年とあるから東大教授時代に描き、理学部生物学科で最初の弟子の一人、佐々木忠次郎に与えたもの。佐々木はのち東京帝国大学農科大学教授になった日本昆虫学のパイオニア。明治10(1877)年9月16日、モースが大森貝塚を初めて発掘したときにも同行している。 4 『理科会粹』第1帙、「大森介墟古物編」 明治12年12月、縦28.5cm、横19.6cm、理学部人類学教室 H237 東京大学から刊行された最初の学術報告書である。人類学、考古学、先史学の分野では日本最初の科学的、数量的な報告書であり、その後の研究に影響を与えた。「図稿」は本冊図版原稿として実測に基づいて描かれた土器、石器、獣骨等の原図である。学史的意義が大きい。 5 A graduated course of natural science. Benjamin Loewy. 1891. London Macmillan. 縦17.1cm、横2.7cm、総合図書館 T250:632 大正12(1923)年9月1日の関東大震災で東大総合図書館が全焼したことを知ったモースは、遺言状を書き換えて全蔵書12,000冊を寄贈した。この好意に感謝して、寄贈された雑誌と単行本には、晩年のモースの肖像の入った蔵書票が貼られている。 v クルト・ネットー(Curt Netto ドイツ、1847—1909)——工学部(ネットー雇用当時の名称は理学部)、採鉱冶金学、明治10(1877)年10月20日—明治15(1882)年10月19日、明治16(1883)年9月2日—明治18(1885)年12月31日雇用——工部省の官営鉱山の冶金技師として明治6(1873)年に来日したが、明治10年に東京大学理学部の採鉱冶金学教師となった。東京大学在任期間中、渡辺渡・野呂景義等を教えるとともに、『日本鉱山編』(明治13年)、『涅氏冶金学』(上冊と附図のみ刊、明治17年)が刊行された。明治18年に帰国。帰国後も日本に関する『日本の紙の蝶々』『日本のユーモア』(共著)を出版している。 [資料解題]1 冶金学講義録(Lecture on metallurgy by Prof. C. Netto).クルト・ネットー述(筆記者不明) 1878年、縦24.7cm、横18.3cm、618頁、工学部材料系図書室(請求記号なし)貴重書 ネットーが1878(明治11)年におこなった冶金学についての講義が英語で記されている。 2 Papier-Schmetterlinge aus Japan. C. Netto. 1888. Leipzig: T. O. Weigel. 縦36.1cm、横27.2cm、266頁、工学部材料系図書室(請求記号なし)貴重書 ネットーが帰国後の1888(明治21)年に出版した『日本の紙の蝶々』。日本の庶民の生活風景を描いた絵が何枚も収録されている。 3 『涅氏冶金学』上冊と附図(復刻版)、クルト・ネットー述 渡辺渡・野呂景義他訳、1973(昭和48)年、東冶会、クルト・ネットー先生顕彰会[オリジナルは1884(明治17)年、文部省]、上冊—縦20.0cm、横13.3cm、804頁、附図—縦20.0cm、横13.3cm、145頁、総合図書館 U85:147 ネットーが東京大学理学部採鉱冶金学科でおこなった講義を、学生であった渡辺・野呂らが筆記し翻訳したもの。下冊も予定されたが刊行されなかった。ネットー来日百年を記念した事業の一環として復刻された。東冶会は東大冶金学科、現在の材料系二学科(金属工学科・材料学科)の同窓会。 vi トーマス・アレキサンダー(Thomas Alexander イギリス、1843—1933)——工学部、土木工学、明治12(1886)年3月19日—明治19(1886)年7月12日雇用——工部大学校土木科の教授として8年間にわたり土木工学全般を教えたほか、他の科の学生にも応用力学を教えた。来日期間中にもイギリスで著書を出版している。明治19年、工部大学校が東京大学工芸学部(理学部の一部を改組したもの)と合併して帝国大学工科大学になるのに賛成せず帰国。母校ダブリン大学の教授を長く務めた。 [資料解題]1 Elementary applied mechanics. Thomas Alexander. 1880. London: Macmillan and Co. 縦18.5cm、横12.8cm、119頁、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) AA:a:30 1880(明治13)年にロンドンのマクミラン社から出版されたアレキサンダーの著書。標題紙には著者の肩書として、東京の工部大学校土木科教授と印刷されている。なお、工部大学校では試験の成績が優秀な学生に賞品として書籍を授与していた。この本は1883(明治16)年度の試験での賞品として中山秀三郎に与えたものであるという工部大学校の英文の用紙が貼付されており、そこにアレキサンダーの署名もある。中山秀三郎はのちに土木科教授になった。 2 Analysis and comparative advantages of the Fink, Bollman and Warren systems of trussing, after the French of Dr. Maurice Lévy. Thomas Alexander. 1880. Printed at the Imperial College of Engineering, Tokei, Japan. 縦24.0cm、横16.4cm、33頁、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) BB:a:0001 モーリス・レヴィのフランス語の論文をアレキサンダーが翻訳し、工部大学校で1880(明治13)年に印刷したもの。 3 Graphical statics for plane sets of forces. Thomas Alexander. 1882. Imperial College of Engineering, Tokei, Japan. 縦24.2cm、横17.2cm、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) AA:a:00 図とその説明文からなった力学についてのアレキサンダーの著書。工部大学校で1882(明治15)年に発行。なお外表紙は、本が劣化してきたため後に再製本したさいのもので、発行当初のものではないが、発行当初のオモテ外表紙は本体と別に保存されている。 vii オスカル・ケルネル(Oskar Kellner ドイツ 1851—1911)——農学部、明治14(1881)年11月5日—明治25(1892)年12月31日雇用——前任者のイギリス人教師キンチ氏(E.Kinch)の後任として、明治14(1881)年来日し、以後12年間にわたって、駒場農学校、東京農林学校、農科大学と発展していくなかを一貫して、農芸化学の教師として農学教育に尽力した。農芸化学科在籍者のうち57名の卒業生を送りだし、そのなかには後の東京帝国大学総長となる古在由直やわが国の農芸化学界で活躍する人々を輩出した。明治25年、メッケルン農事試験場場長に就任するよう故国ドイツから懇願され、日本永住の意志を断ち切って同年帰国した。 ケルネルの日本における貢献は、リービッヒ(J.v.Liebig)が提唱した『植物無機栄養説』や化学研究教育法を正しく日本に紹介したことである。稲作の肥料試験、燐酸肥料分析などはわが国の稲作改良に大きな影響を及ぼした。農学部三号館一階正面柱右脇に胸像がある。 [資料解題]1 実験分析結果ノート(Results of analysis performed at the Chemical Laboratory of Imperial College of Agriculture) 縦34.0cm、横21.7cm、341頁、農学部図書館 貴重書 これは明治11(1878)年から前任者のキンチ(E.Kinch)が記入した実験ノートに、後任のケルネルが引き継いで分析結果のデータを記したものである。対象は土壌分析、桑の病源菌防除、人糞尿の分析、干草の栄養価分析など日本の国土に根差したものであった。この分析結果は、同時期に来日した外国人教師フェスカ(M.Fesca)の名著『日本地産論』の一章として紹介されている。 2 農芸化学分析書原稿ノート(Kellner's notes on the quantitative analysis) 3冊、縦32.8cm、横21.6cm ケルネルは来日直後から講義を開始した。課目は、土壌肥料学、植物生理学、家畜飼養学から気候学にまで及んでいる。これは化学分析実験の指導のために書かれた英語の原稿ノートで、来日後に駒場でおこなった分析実験結果も盛り込まれている。講義はこのノートをもとに英語で行われた。 3 『農科大学学術試験彙報』第1巻 1894年、縦23.5cm、横16.4cm、農学部図書館 貴重書 滞日中のケルネルの報文は故国の『独逸農事試験雑誌』、日本の『官報』や『農科大学学術報告』など30篇近く発表され、その後門下生により和訳されて、上記の誌名で明治27(1894)年刊行された。 4 古在由直「ドクトル、ケルネル氏日本在留中の事蹟」、『農学会会報」第19号 1893年、縦22.2cm、横15.9cm、6頁(1—6頁)、農学部図書館 明治25年末、日本での滞在を望みつつ、故国ドイツからの要請により帰国したケルネル氏の功績を讃えて門下生の古在由直が記した報文である。『大日本農会報』第139号(1893年、14—18頁)にも同時収載。 viii ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデル(John Alexander Low Waddell カナダ、1854—1938)——工学部(ワデル雇用当時の名称は理学部)、土木工学、明治15(1882)年8月20日—明治19(1886)年4月12日雇用——東京大学理学部工学科で土木工学を教えた。4年間の東京大学在任期間中にアメリカで出版した鉄橋についての著書は、アメリカでも標準的な教科書として使われた。日本でも『日本鉄道橋梁論』を刊行するなど、日本の鉄道橋梁技術に影響を与えた。帰国後も日本から渡米した多くの土木技術者たちを指導し日本の土木学界に貢献している。帰国後は橋梁設計事務所を開いたり、理学博士・法学博士の学位を授与されたりした。大正10(1921)年と昭和5(1930)年に来日している。 [資料解題]1 Bridge engineering. Vol.1. J. A. L. Waddell. 1916. New York: John Wiley & Sons. 縦23.3cm、横15.3cm、1064頁、表24点、図版42点、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) BA:w:2101 ペンで著者ワデルのサインと東京帝国大学への献辞が書かれている。二巻本の第一巻。巻頭にワデルの肖像がある。 2 ‘A system of iron railroad bridges for Japan’ (tables and plates) , Memoirs of the Tokio Daigaku, No.11, J. A. L. Waddell. 1885. Tokio Daigaku.縦28.2cm、横20.0cm、表24点、図版42点、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) BA:w:0000 ワデルが東京大学理学部工学科在任中の1885(明治18)年に東京大学から刊行したもの。 「日本鉄道橋梁論」として知られる。このあとワデルは英字新聞『ジャパン・メール』紙上でイギリス人技術者と英米技術の論争をおこなった。日本の鉄道橋梁は日清戦争(明治27—28年)頃から、従来のイギリス式からワデルの主張するアメリカ式にかわっていった。 3 De pontibus; a pocket-book for bridge engineers. J. A. L. Waddell. 1898. New York: John Wiley & Sons. 縦17.2cm、横11.6cm、403頁、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) B:w:0300 ワデルが日本から帰国後の1898(明治31)年にアメリカで出版した橋梁工学のポケットブック。 4 Iron viaducts for highways. J. A. L. Waddell. 1889. Kansas city: Selden G. Spencer. 縦23.3cm、横15.3cm、11頁、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) BA:w:02 ワデルが日本から帰国後、アメリカのカンサス市に住んでいた時期に刊行されたもの。 5 General specifications for highway bridges of irole and steel. 2nd ed. J. A. L. Waddell. 1889. Kansas city: Selden G. Spencer. 縦23.2cm、横15.3cm、64頁、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) BA:w:01 ワデルが日本から帰国後、アメリカのカンサス市に住んでいた時期に刊行されたもの。 6 The principal professional papers of Dr. J. A. L. Waddell. Ed. by John Lyle Harrington. 1905. New York: Virgil H. Hewes. 縦24.1cm、横15.1cm、991頁、工学部土木工学科図書室(大学院社会基盤工学専攻図書室) CA:w:02 1905(明治38)年に出版されたワデルの論文集。巻頭にワデルの肖像と伝記がある。 ix バシル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain イギリス、1850—1935)——東京帝国大学文科大学教師、博言学、日本語学、明治19(1886)年4月1日—明治23(1890)年9月23日雇用——明治6(1873)年5月9日来日、同8月15日より個人の英学教師、明治7年(1874)年9月1日より海軍兵学寮の英学教師を歴任後本学教師となり、後の文学部国語学研究室の基礎を作った。明治24(1891)年3月7日、外国人として最初の東京帝国大学名誉教師となる。明治25(1882)年以降数回英欧日本間を往復したが、最後はスイスのジュネーブに住み、昭和10(1935)年2月15日死去。王堂、チャンブレンと自称して、和歌をよくし、日本語(含アイヌ語、琉球語)についての研究業績や日本文化の紹介などを日本アジア協会・ロンドン日本協会・イギリス人類学会などに発表した。また日本語ローマ字化運動を積極的に推進し、文部省に対して建議書を提出した。 [資料解題]1 『ビー、エッチ、チャンブレン氏日本小文典批評』、谷千生著1887年、山岸弥平発行、巌々堂発売、縦19.0cm、横25.7cm、79頁、文学部国語研究室貴重書 チェンバレンの著作『日本小文典』に対する反論書である。 2 A handbook of colloquial Japanese. 2nd ed. B. H. Chamberlain. 1889. Tokyo: Hakubunsha. 縦19.3cm、横24.5cm、543頁、文学部国語研究室 初版は1887年刊(文学部国語研究室所蔵)。この第二版は著者本人による寄贈本である。 3 A practical introduction to the study of Japanese writing.(文字の志る遍)、B. H. Chamberlain. 1899. London: Sampson Low. Marston. 縦29.8cm、横47.8cm、482頁、文学部国語研究室 本文中には日本の文字が採録されている。 4 Ko-ji-ki(古事記),or records of ancient matters. Translated by Basil Hall Chamberlain. 1882. Yokohama: Meiklejohn. 縦22.3cm、横28.3cm、495頁、文学部言語学研究室 Transactions of the Asiatic Society of Japan. Vol.10の補遺(supplement)として発表されたチェンバレンによる英訳である。「法理文学部書庫所蔵」の蔵書印あり。 5 Letters from Basil Hall Chamberlain to Lafcadio Hearn. Ed. by Kazuo Koizumi. 1936. Tokyo: Hokuseido. 縦22.9cm、横33.0cm、158頁、文学部英米文学研究室 来日中に親しく交際したラフカディオ・ハーンとの往復書簡集。ラフカディオ・ハーンの息子小泉一雄の編集による。 6 More letters from Basil Hall Chamberlain to Lafcadio Hearn and letters from M. Toyama, Y. Tsubouchi and others. Ed. by Kazuo Koizumi. 1937. Tokyo: Hokuseido. 縦22.9cm、横32.7cm、208頁、文学部英米文学研究室 前記往復書簡集の続編。 x ルードウィヒ・リース(Ludwig Riese、ドイツ、1861—1928)——東京帝国大学文科大学史学教師 明治20(1887)年2月4日—明治35(1902)年7月31日雇用——ベルリン大学で学位を取得してのち来日。史学科の講義を担当。国史科の創設、史料編纂所の事業、『史学会雑誌』(今の『史学雑誌』)の創刊にかかわり、ドイツ東亜学会、日本アジア協会などで日本研究の成果を発表した。賜暇帰国中に集めた在外日本関係資料は明治32(1899)年5月27日の東京帝国大学図書館の展覧会にも展示された。大塚ふくを妻とし、村上直次郎・幸田成友・辻善之助らが門下にいた。 [資料解題]1 Notes of a course of lectures on universal history. Ludwig Riess.18893. 第2・5巻、縦19.7cm、横13.4cm、総合図書館書庫 G400:113 文科大学史学科学生の一人であった幸田成友(こうだしげとも、露伴の弟、歴史家)が「自分共は先生の世界史講義の草稿を拝借し、それを秀英舎で活版に附して同輩に配った」(『著作集』7)と回想した『世界史講義録』の第2・5巻の2冊である。 2 Methodology of history. Ludwig Riess. n.d. 縦20.0cm、横13.6cm、総合図書館書庫 G000:203 「史学方法論講義録」。学生の一人村上直次郎(のちの上智大学学長)は「先生の英語は、初めはだいぶ骨を折ったけれども、なれてくるとわかりいい方でした」(『キリシタン研究』12)と回想した講義。プラトンからへーゲルヘ、ランケからエンゲルスヘと話題は豊富であるが学生のノートに加筆したものか、著作としての章別構成のバランスを欠くのが面白い。 3 リースの答申書 『東京帝国大学五十年史』上、1932年、縦22.6cm、横15.7cm、1299—1303頁、総合図書館参考室 K40:269 文科大学史学科に加えて国史科(日本歴史学科)が設置され、内閣修史局の編年史編纂事業が文科大学に移管された明治21(1888)年、リースは帝国大学総長渡辺洪基の諮問に答えて、国史科の課程や運営につき詳しく意見を述べ、併せて日本歴史研究にオランダ国立中央文書館の資料が役立つことを進言した。出典の「本学貴重書類彙集」は今見当たらないので『五十年史』の引用箇所を示す。 4 附属図書館公開展覧会目録(コピー) 『史学雑誌』第10編第7号(1899年7月)、764—765頁、総合図書館書庫 ZG:9 明治32(1899)年5月27日、帝国大学では、附属図書館で法・文・理の三分科大学と附属図書館の所蔵品を一般公開展示した。そのなかには「ドクトル・リース」が仲介してオランダで筆写された「日本和蘭交通ニ関スル文書」(7号、765頁)も陳列された。展示品の多くは関東大震災(1923年)のとき焼失したがこの写本は今も史料編纂所に残っている。この展覧会の目録は『史学雑誌』第10編の第6号と第7号に掲載された。 5 Uittreksel uit de copij en originelen generaele missiven van de Gouverneur-Generael ende Raeden van Indie, betrekking de zaeken van Japan. 1614-1639. Copy, [1893] [Manuscript] [800] p. (in a paper holder) 縦32.3cm、横19.3cm、Title also: オランダ商館関係文書、史料編纂所 7098-3 リースが明治26(1893)年賜暇帰国のさい、オランダ国立中央文書館で作成させて持ち帰った「バタヴィア総督一般報告」(1614—39年)中の日本記事抜粋で、関東大震災のとき焼失をまぬがれて『大日本史料』第12編の欧文材料として利用されているもの。東京大学総合図書館『傭外国人教師・講師履歴』および『史学雑誌』第10編第7巻の記事参照。 6 Allerei aus Japan. Ludwig Riess. 1905. Berlin. 2冊、縦18.1cm、横11.7cm(1巻)、縦18.1cm、横11.4cm(2巻)、総合図書館書庫 J210:6 「日本雑記」。リースが滞日中発表した論文・小品やその後ドイツの新聞に時として匿名Th. GravenreuthとTh. Gentzで寄稿した日露戦争前後の記事を集めて文庫本2冊として刊行したもの。原潔らの抄訳『ドイツ歴史学者の天皇国家論」がある。 xi ルードウィヒ・エスレーンホルム(Ludwig S. Loenholm ドイツ、1854—?)——帝国大学法科大学、ドイツ法 明治23(1890)年9月11日—明治44(1911)年9月10日雇用—明治22(1889)年来日し、東京の独逸協会学校に招かれ法律学教師となった。翌明治23年に帝国大学法科大学ドイツ法教師となり、以来契約更新すること7回に及び21年間在職した。帝国大学において900名以上の学生を指導した。勲三等瑞宝章、旭日章を贈られた。東大名誉教師。 [資料解題]1 The Civil Code of Japan. Translated by Ludwig Loenholm.1898. Max Nossler. Printed by the Kokubunsha. 縦22.0cm、横15.0cm、321頁、法学部研究室 W963:T10:C98 日本民法の英訳。この英訳民法は巻頭に民法改正委員会総裁伊藤博文への献辞が印刷されている。 2 Das bürgerliche Gesetzbuch für Japan. Bd. 1 & 2. ubersetzt von Ludwig Loenholm. 1896. 自費出版、2冊、縦19.0cm、横12.5cm、法学部研究室 T9611:L825:B96 日本民法の独訳。Bd.1. Allgemeiner Theil und Sachenrecht. Bd. 2. Forderungsrecht. xii ギュスターブ・ボアソナード・フォンタラビー(G. Boissonade Fontarabie 1825—1910)——帝国大学法科大学、明治23(1890)年10月10日—?雇用——日本政府が、法学教育と法典編纂のため渡日を熱心に交渉した結果、明治6(1873)年司法省雇いとして来日(48歳)。翌明治7年司法省明法寮で「性法」を講義。明治10年刑法典草案起草、治罪法典草案起草、明治12年民法典の草案起草に着手。明治13年司法省法学校において民法草案を講義。明治23(1890)年帝国大学法科大学にて民法総論を講義(検事森順正通訳)。日本の法学教育に貢献したとともに、司法制度発展の基礎を築いた。明治28(1895)年帰国。勲二等旭日重光章、勲一等瑞宝章を贈られた。東大名誉教師。 [資料解題]1 『性法講義』、ギュスターブ・ボアソナード・フォンタラビー井上操筆記、明治16(1883)年12月、石原治、縦19.0cm、横13.0cm、286頁、法学部研究室 U05:B684:*S83 司法省法学校において明治7年開講した講義を井上操が聴講筆記して訳出したものである。諸種ある異版本の一冊である。 2 Projet de code de procédure criminelle pour l 'Empire du Japon. Accompagné d'un commentaire par G. Boissonade. 1882. Kokubunsha. 縦25.0cm、横17.5cm、16+976頁、法学部研究室 F9668:B684:P82 この治罪法草案は、参議司法卿大木喬任あてに上進された。ボアソナードは、明治10年から起稿し明治15年にこれを完成した。巻頭に著者の肖像あり。森順正等の共訳本「治罪法草案註釈第一—五編」がある。 3 Oeuvres choisies. 1-5. G. Boissonade Fontarabie. n.d. Note-books of lectures, taken by Taro Tezuka 5冊、縦33.0cm、横21.5cm、法学部研究室 U4408:B684:O80、A3:826 貴重書 ボアソナードの講義ノートをTezuka Taroが筆記したものである。 内容—Du droit administratif (y compris le droit constitutif), 2: Droit civil, 3: De la procedure civil, 4: Du droit commercial, 5: Code criminel. xiii ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn 1850—1904、日本名小泉八雲)——文学部、英文学、明治29(1896)年—36(1903)年雇用——ハーンが東京帝国大学に教師として就任した期間は、わずか6年半である。ハーンの功績は英文学教師としてより、英語の文学作品を通して日本を世界に紹介したことである。有名な『怪談』や『骨董』など日本の古き時代から題材を得た作品、また日本の日常生活の中から取材された作品など、ハーン独自の眼ざしは、未だ人気の衰えることはなく、ハーン自身の著作も含めて後人の研究書は後を断たない。 ハーンは1850年6月27日、現在レフカス島と呼ばれるギリシャの島でイギリス人の父とギリシャ人の母との間に生まれた。2歳から17歳までアイルランドのダブリンで育つが、5歳の時に母がギリシャヘ戻ったため大叔母に引き取られ教育を受ける。その後大叔母の破産などあってアメリカに渡り新聞記者となったが1890年派遣されて来日。B・H・チェンバレンとの交友は有名。松江、熊本の中学校で英語教師、神戸で新聞記者を勤めたあと学長外山正一に請われて東京帝国大学に赴任した。1891年小泉セツと結婚、1896年1月小泉八雲名で日本に帰化。東京帝国大学辞任後は早稲田大学に移った。なお、東京大学文学部英語・英文学研究室の市河三喜旧蔵書中にはハーンの自筆草稿、書簡等資料を多く収蔵する。 [資料解題]1 Appreciations of poetry.1922.William Heinemann. 縦24.0cm、408頁、総合図書館 E200:6662 2 A History of English Literature. 5th ed. 1941. The Hokuseido Press. 縦19.0cm、818頁、総合図書館 E200:6896 3 Some Strange English Literary Figures. 1927. The Hokuseido press. 縦19.0cm、140頁、総合図書館 E200:6647 ハーンの講義は英文学史、英詩解釈、作家論、作品論、韻律論などで、感受性豊かな文学鑑賞と批評によって学生らに深い影響を与えた。その講義内容は当時の学生たちの筆記をもとに印刷刊行されているが、以上の3点を総合図書館では所蔵している。 4 自筆書簡 落合貞三郎宛 1892年1月20日、縦31.0cm、横13.0cm、文学部英語・英文学研究室 5 自筆原稿「サクラノキノハナシ」 縦20.4cm、横14.0cm、七葉、文学部英語・英文学研究室 6 Azure psychologyの草稿 縦27.5cm、横19.8cm、草稿(縦20.0cm、横14.0cm)33枚39丁、張り込み帳、文学部英語・英文学研究室 3 「お雇い外国人教師」の周辺——生活と文化東京大学創設以来帝国大学時代におよぶ二十数年問の大学のキャンパス風景、外国人教師の待遇や生活などを、主として総合図書館所蔵『東京大学五十年史史料』の中から取材した写真やパネル等によって概観してみよう。なお、東京大学人事課所蔵『御雇外国人関係書類』はマイクロフィルムとして総合図書館で利用できる。 i 大学構内の変遷1 開成学校(錦町時代)[写真]原画は3枚続の錦絵、東京医学校とともに東京大学の名称で明治10年に統合される以前のもの 総合図書館『東京大学五十年史史料』138 2 開成学校開業式書類の内「外国人教師へ/天皇勅語」「開業式参加外国人教師一覧」 総合図書館『東京大学五十年史史料』267 3 「開成学校鳥瞰図」[パネル] 総合図書館『東京帝国大学五十年史』K40:269 4 開成学校構内の「お雇い外国人教師」の屋敷配置図[写真] 神田錦町時代の外国人教師と屋敷の番地が知られる。大学史史料室「明治四年 文部省及び諸向往復付構内雑記」 5 本郷における医学部平面図[パネル] 明治13年、東京大学大学史史料室『東京大学本部構内配置図、沿革』2—1 6 東京大学平面図[パネル] 明治19年、前記資料に同 7 帝国大学略図[パネル] 明治25—26年、総合図書館『東京帝国大学一覧』ZK-42 8 東京帝国大学平面図[パネル] 明治32—33年、前記資料に同 9 「お雇い外国人教師」館[写真] 総合図書館『東京帝国大学』、明治33年、小川写真製作所作製、パリ万博出品 ii 「お雇い外国人教師」と大学との定約書および履歴1 フルベッキ(G.F. Verbeck 1830—1898)の英文定約書 明治2年4月1日から明治5年9月30日における定約書の写、総合図書館所蔵 2 フルベッキ(G.F. Verbeck 1830—1898)の和文履歴書 東京大学人事課所蔵「人事記録」 明治政府に強く招聘され、文部省雇いとなり、大学南校の英語および学術教師をする傍ら、さまざまな諮問に応じて諸施策を提言した。後には大学南校の教頭も勤め、月俸600円という破格の待遇を受けたが、「近代日本建設の水先案内人」または「近代日本建設の父」と称されるなど、果たした功績は大きい。 iii 「お雇い外国人教師」の給料——当時の大臣や大学長の給料と比較するとき、かなりの高額であったことが知られる。さらに、帰国後も年金が支給されていた外国人教師もいたが、当時の外国人にとって日本へ行くことは身の危険を顧みないことでもあった。1 開成学校2(明治7)年「お雇い外国人教師」の給料表 総合図書館『東京大学五十年史史料』258 2 「お雇い外国人教師」に対するその他の贈与記録 総合図書館『東京大学五十年史史料』24 3 明治10年当時の日本人大学教官、学長、高級官僚の俸給記録 総合図書館『東京大学五十年史史料』241 iv 「お雇い外国人教師」のその他の生活状況1 明治6—8年における旅行許可記録 総合図書館『東京大学五十年史史料』165 2 『明治四年含要類纂』 総合図書館『東京大学五十年史史料』87 当時はまだ攘夷思想が残っており、外国人が襲撃を受ける危険も大きかった。明治3年11月23日、大学南校教師ダラス、リングの2人は神田鍋町の縁日に出かけたが、見物中に背後から日本人の青年によって斬りつけられるという事件がおきた。翌日の『太政官日誌』にはこの事件に関連する記述が見られるが、時の政府の驚きはひととおりではなく、高額の治療代が支払われた。 v 「お雇い外国人教師」の学科表1 東京大学時代学科表[パネル]明治13—14年、総合図書館『東京大学五十年史史料』24、「東京大学年報」ZK-365 2 『仏蘭西語教程』 江戸の版本に倣った子持枠付フランス語の教科書。幕末から維新直後の刊行か。 総合図書館『東京大学五十年史史料』73 vi 「試業答書」他1 『試業答書』明治13年6月、総合図書館所蔵 2 『試業答書」(加藤高明)明治13年6月 明治・大正の政治家加藤高明の答案。東京大学法学部第三年級の時のもの。試業科目は、「衡平法」。総合図書館所蔵 3 文科大学校明治30年卒業写真[パネル] 最前列右から5人目にハーンの左向き姿が写る。子供時代縄遊びで左目を失明したハーンは左方からの撮影を避けた。ハーンの横にはリースの姿が見られる。当時の文学部教官と学生たち。総合図書館所蔵 vii 「お雇い外国人教師」の見た日本1 コンドル自筆小型ノート 縦22.0cm、横14.7cm、工学部建築学科(請求記号なし) 貴重書 コンドルが日本画の色見本と模様見本を手控えたノート。文章や語句のみの部分12頁、色見本3頁(3枚)、模様見本14頁(14枚)。ノートの大部分は未使用で罫線のみの白紙である。模様見本は和服の模様を和紙に描いて切って貼付したものなどがある。 2 コンドル自筆スケッチブック(和装本) 縦43.5cm、横33.0cm、工学部建築学科(請求記号なし) 貴重書 コンドルが絵や模様を手控えたもの。内容は花鳥など日本画のものと、西洋建築に関するものに大別できる。いずれも和紙やメモ帳等に描いたものを貼付している。 3 Japanischer Humor. Curt und Gottfried Wagener. 1901. Leiptig: F.A. Brockhaus. 縦28.7cm、横21.0cm、283頁、工学部材料系図書室(請求記号なし) 帰国後のネットーがG・ワグネルとの共著で1901(明治34)年に出版した『日本のユーモア』。日本の絵画から取った挿絵が多数収録されている。共著者のワグネルは東京大学や東京職工学校(現・東京工業大学)の教師をつとめた人で、この本の出版よりも前の明治25年に東京で亡くなっている。なお、日本語訳(高山洋吉訳)が1958年と1971年に出版されている。 |
【参考文献】梅渓昇『お雇い外国人一、概説』、鹿島出版会、昭和43年ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料御雇外国人』、小学館、1975年、524頁 武内博編著『来日西洋人名辞典』、1983年 武内博編著『来日西洋人名事典・増補改訂普及版』、日外アソシエーツ、1995年 石山洋「ジョン・ミルン(明治科学の恩人達一)」、『科学技術文献サービス」第23号、1968年、54—55頁 上野益三寡雇い外国人三、自然科学』、鹿島出版会、昭和43年(ミルン資料) 石橋長英監修『ベルツ博士と私』、日本新薬(株)、1988年 安井広著『ベルッの生涯—近代医学導入の父』、思文閣出版、1995年 鹿島卯女『ベルツ花—エルウィン フォン ベルツ夫人の生涯—」、鹿島研究所出版会、昭和47年 鈴木博之「コンドルの肖像画を求めて」、『月刊百科』第352・353号、1992年2月・3月 石山洋「ジョサイア・コンドル(明治科学の恩人達一四)」、『科学技術文献サービス』第36号、1973年、51—52頁 村松貞次郎『お雇い外国人一五、建築・土木』、鹿島出版会、昭和51年(コンドル資料) 石山洋「クルト・ネットー(明治科学の恩人達八)」、『科学技術文献サービス』第30号、1970年、44—45頁 吉田光邦『お雇い外国人二、産業』、鹿島出版会、昭和43年(ネットー資料) 吾妻潔『クルト・ネットー先生の業績とその背景』東冶会、クルト・ネットー先生顕彰会、1973年 鹿島卯女編『明治の夜明け—クルト・ネットーのスケッチより」、鹿島研究所出版会、1974年 土木学会編・発行『明治以後本邦土木と外人』、昭和17年(アレキサンダーとワデルの資料) 楠家重敏『ネズミはまだ生きている—チェンバレンの伝記—』、雄松堂、1986年、741、15頁(東西交流叢書2) 太田雄三「B.H.Chamberlain: 日欧間の往復運動に生きた世界人」、『シリーズ民間日本学者 二四』、リブロポート、1990年、301、3頁 平川祐弘『破られた友情』、新潮社、1987年、353頁(チェンバレンとハーンの資料) 金井圓『お雇い外国人一七、人文科学』、鹿島出版会、昭和51年、128—197頁(リース資料) 金井圓・吉見周子編著『わが父はお雇い外国人—加藤政子談話筆記 L・リース書簡集』、合同出版、昭和53年 西村捨也編著『明治時代法律書解題』、1968年(レーンホルムとボアソナードの資料) |
前頁へ | 表紙に戻る | 次頁へ |