帝国大学における「日本建築学」講義

建築アカデミズムと日本の伝統


稲葉信子 文化庁文化財保護部



 明治22(1889)年1月、帝国大学で「日本建築学」の講義が始まった。英国人教師ジョサイア・コンドルが工部大学校時代に先鞭をつけ、辰野金吾に受け継がれた帝国大学における建築教育が、欧米のそれの直輸入であったと解釈されているなかで、日本の伝統建築を専門に教える科目が、帝国大学発足まもない時期に新設されたことは興味深い。筆者に与えられたテーマは帝国大学と続く東京帝国大学における建築学講義であるが、その全体を扱うことは筆者の能力を超える。ここでは、この「日本建築学」の導入という事実を手がかりに、明治19年帝国大学発足後の建築教育を日本の伝統との関わりという側面から、少し周辺の状況も加えてとらえ直すことを試みることで、テーマを少し絞ることを許していただこうと思う。なお本稿は、拙著「木子清敬と明治20年代の日本建築学」(東京工業大学学位論文、1989年)と「伝統への視点の獲得——明治20年代の日本建築界と日本建築学」(『磯崎新の革命遊戯』、TOTO出版、1996年)をもとに、その一部を用いて構成を改めたものである。


1 工部大学校から帝国大学へ、そして造家学会の設立——建築アカデミズムの成立


 明治19(1886)年3月1日帝国大学令が制定され、東京大学は工部大学校を併合、帝国大学が創設された。工科大学はその分科大学の一つとして、東京大学の工芸学部と工部大学校の組織を統合・再編成することにより出発した。造家学科(現在の建築学科)は東京大学には設置されておらず、工部大学校のそれが継承された。帝国大学発足時の造家学科教授陣は、初め東京大学理学部から大学予備門に移った小島憲之が工科大学講師を兼務、次いで3月6日工部大学校助教授であった曽禰達蔵が助教授に就任(同年6月辞職)、さらにひと月遅れて4月10日辰野金吾が教授に就任、ジョサイア・コンドルを講師(明治21年3月辞職)、曽山幸彦を助手(明治21年5月助教授)として出発した。翌明治20年8月には中村達太郎が講師に就任、まもなく助教授に昇進した(明治20年12月)。また明治21年度のみ片山東熊が造家学・図学講師として在職、さらに22年1月から後述する木子清敬が講師として日本建築学を教え始めた[1]

 明治12(1879)年工部大学校第1回卒業生であり、選ばれて4年間の英国留学を終えて明治16年に帰国した辰野金吾は、既にその翌年の明治17年12月からコンドルに代わって工部大学校の教授に就任していた[2]。辰野は、帝国大学発足後も引き続き造家学科教授の職にあり、明治26年の講座制発足後は第二講座(建築計画)を担当、明治31(1898)年には工科大学長となったが、35年に49歳で退官して、翌36年建築事務所を開いた。辰野は在職中から数多くの建築作品を発表していたが、その在職中の代表的な作品に明治29年竣工の日本銀行本店がある。日本銀行の設計は明治22年には始まっている。造家学科の筆頭であった辰野が建築設計の実務と教育の両立で忙しかったであろう間、造家学科で建築教育に専念していたのはむしろ中村達太郎であったと思われる。中村は明治15年に工部大学校を卒業、皇居御造営事務局を経て帝国大学の教官となった。中村は明治27年1月教授に昇任、第一講座(建築構造)を担当した。

 明治20年代後半から30年代に入ると、辰野や中村のもとで帝国大学を卒業した若い世代が相次いで教授陣に加わるようになる。明治30(1897)年6月には京都帝国大学の設立に伴い帝国大学は東京帝国大学と改称され、また明治31年7月には学科名が造家学科から建築学科へと改称されている。明治24年卒業の石井敬吉は、24年から講師、25年3月から31年12月まで助教授を務め、第三講座(建築史)を担当した。明治25年卒業の伊東忠太は30年1月から講師、32年7月助教授、38年6月教授に昇任、石井に続いて第三講座を担当した。明治26年卒業の塚本靖は、31年9月から講師、32年1月助教授、35年12月教授に昇任、退官した辰野金吾に代わって第二講座を担当した。明治27年卒業の大澤三之助は、32年1月から37年9月まで講師を勤め第三講座を分担したが、その間の35年12月に東京美術学校の教授となった。明治28年卒業の関野貞は、34年9月から助教授となって最初は第二講座、35年12月から第三講座を分担した(大正9年教授)。明治30年卒業の武田五一は、32年7月から助教授を務め第二講座を分担したが、36年5月から京都高等工芸学校の教授となった。明治36年卒業の佐野利器は36年8月から講師、39年5月助教授、鉄骨構造・鉄筋コンクリート構造を担当した(大正7年教授)。また明治23年卒業の横河民輔も、36年8月から38年9月まで講師を務め鉄骨構造を担当した。以上の他、松岡寿が明治25年から36年3月まで、富尾木知佳が32年4月から大正2年9月まで講師を務めていた。

 ところで遡って帝国大学が発足した明治19(1886)年は、建築界でもう一つ大きな動きがあった年である。「造家学会」の設立である。現在の日本建築学会の前身である造家学会は、帝国大学発足直後の明治19年4月9日に設立された。造家学会は、機関誌『建築雑誌』の発行ほか、講演会などの活動を通じ、帝国大学を支えてアカデミーの一翼を担うとともに、明治時代唯一の建築の団体として実務の領域をも取り込んで、広く啓蒙的役割を果たしてきた。造家学会の機関誌『建築雑誌』の発刊は、明治20年1月から始まった。帝国大学の教官であった中村達太郎は、創刊時から断続的にではあるが明治36年まで長く編集委員を務めた。同様に石井敬吉以下、横河民輔、伊東忠太、塚本靖、武田五一、大澤三之助など造家学科の教官を務めたものは、『建築雑誌』の編集委員も務め、記事の執筆も分担している。

 中村達太郎は、『建築学階梯』(明治20年)、『日本建築辞彙』(明治39年)などの出版で知られている。中でも『日本建築辞彙』は、日本の伝統的な建築技術用語を丹念に収録した辞書であり、しかもそれが実用書として出版されたことが注目される。中村は、『建築雑誌』の建築に関わる各種の事項や用語を取り上げて解説を試みた連載記事で、日本の伝統的な技術用語を取り上げている(第49号、明治24年1月)。これは、『日本建築辞彙』に先行するものであり、特に用語の定義や解説は、建築学の一般領域に日本建築を位置づけるもので注目される。伊東忠太や関野貞については、日本建築史あるいは東洋建築史との関係を改めて指摘するまでもないであろう。大澤三之助は日本建築一般を得意とし、東京帝国大学での講師の期間、またその後は東京美術学校で日本建築を教えたとされる[4]。塚本靖は建築装飾を専門としたが、日光廟の修理に携わった経験から大澤三之助と共著で「日光廟建築論」(『東京帝国大学紀要』、明治36年)を発表、また『建築雑誌』にも「法隆寺建築装飾論」(第94号、明治27年10月)をはじめとして日本建築に関わる記事を数多く掲載している。武田五一も同様である[5]

 近代日本の建築学は、明治19年に相次いで設立された帝国大学と造家学会の発足をもって実質的に開始されたと考えてよい。この明治時代においてアカデミズムの総体そのものであった帝国大学と造家学会が、実質的には中村達太郎と、次の世代の塚本靖、伊東忠太、大澤三之助、関野貞らによって支えられ、そのいずれもが日本建築に関わる活動を行い、また言論を発表していたという事実は注目すべきである。しかも加えて中村を除く塚本靖以下の研究者に共通していることで指摘しておかなければならないのは、そのいずれもが東京美術学校の講師も交代で務めていたことである。周知のように、東京美術学校はフェノロサ・岡倉覚三らが進めてきた日本美術・工芸の保護育成に関わる活動の一環として、文部省の管轄下に設置された学校である。東京美術学校は明治20年10月に設置され、明治22年2月に開校した[6]。同校では設置当初から規則の上では建築科が設置されていたが、しかし生徒募集は行われなかった。建築の専門教育が行われるようになったのは、明治29年図案科(工芸図案・建築装飾)設置、大正12年建築科設置以降である。しかし他科において授業の一科目として建築装飾術の授業が行われた。伊東忠太(26年、30年)、塚本靖(26年9月—29年1月、同12月—32年7月)、大澤三之助(30年3月—32年6月、34年2月—)、関野貞(29年、40年—)及び武田五一(32年7月—34年2月)は交代でこの講師を嘱託で務め、このうちの大澤三之助が35年12月から専任の教授となった。なお伊東忠太より前には、文部省技師久留正道(明治14年工部大学校卒業)が明治24年から1年余り講師を務めていた。

 ところで伊東忠太や関野貞のような日本建築の専門の研究者を待たずとも、当初から『建築雑誌』には日本建築関係の記事が数多く掲載され、また学会の定期的な集まりでは、日本建築に関する講演が繰り返し行われていた。内務省技師であった妻木頼黄が造家学会で慣れない日本建築史の講演を行って、当時学生であった伊東忠太に支離滅裂、間違いだらけと呆れられたのは、明治24年10月である[7]。これより早くから文部省技師久留正道も、相次いで日本建築に関する講演を行っている[8]。久留は工部大学校時代から日本建築の伝統に興味を示していたという。久留は、前述のように東京美術学校の講師を務め、また同校講師時代の明治25年(1892)に、同校が製作を担当してシカゴで開かれたコロンブス万国博覧会に出品した「鳳凰殿」の設計にも関わった。しかしこの時期、日本建築に積極的に関わろうとしていたのは、久留に限らない。


2 日本建築学の導入——講師木子清敬


 造家学科に日本の伝統的な建築技術を専門に教える科目が「日本建築学」の名称で設置されたのは、既に述べたように意外に早く、帝国大学と造家学会の発足後問もない明治22(1889)年1月である。明治20年に設立された東京美術学校が準備を終えて開校したのは、この翌月である。また後に日本建築史の創始者として知られるようになる伊東忠太が帝国大学に入学したのも、この年の7月である。

 日本建築学の最初の講師は、宮内省の技師木子清敬に依嘱された。木子への講師嘱託の日付は明治22年1月19日である。明治22年3月28日頒布の『建築雑誌』第27号雑報欄には「本曾正員木子清敬君ハ、過般帝國大學の嘱託ニヨリエ科大學ニ於テ日本建築學ヲ教授シ居ラルゝガ、神社ノ部ハ結了シ来學期ヨリハ宮殿及ビ佛堂ノ建築ヲ講義セラルゝト云フ」とあり、辞令発令後まもなく授業が開始されたことが分かる。

 木子という名は、禁裏に出入りを許された大工の家として、記録では室町時代まで遡る。その木子の名を伝える木子家の一つに生まれた木子清敬[9]は、皇居の営繕の仕事を得たのを契機に明治天皇とともに東京に移り、そのまま宮内省内匠寮の技術者となった。数ある伝統建築技術者の中から木子清敬が講師として選ばれた背景については、木子が宮内省の技師であったことがあろうが、とりわけ明治21年10月に完成した明治宮殿の造営工事で中心的な役割を果たしたことが大きく関係していると考える。宮内省に籍を置いたままの嘱託講師であった。明治6年に焼失した皇居(旧江戸城)の再建事業は、最終的には木造・日本建築で建てられることとなったものの、当初は本格的な西洋建築を建てる計画であったから、その造営工事には、片山東熊を始め新家孝正、河合浩蔵、中村達太郎らの工部大学校卒業生も数多く加わった。主要部だけでも五千坪を超える宮殿建築の造営工事は、洋式から和式へ、またその逆へと数度の変更を経て、その間にコンドルの設計案も挟み、最終的には日本建築として完成した。明治宮殿の謁見所など公式行事のための建物は、床を寄木張りにし、西洋家具を置き、暖炉を据えるが、しかし骨格はあくまで正当な日本建築である。襖や杉戸の絵、天井格間の古代文様などの装飾絵画は博物館の山高信離が担当、彫刻や蒔絵なども含め全国から優秀な技術者が集められた。計画開始から15年近くを経過して、既に文明開化の時代は過ぎてしまっている。帝国憲法の発布、皇室典範の制定は明治22年である。この間に内閣制度の成立、帝国大学令の交付があった。欧化主義の時代に計画が始まり、当初は西洋建築をめざしたといえ、最終的に日本建築で建てられた明治宮殿の明治21年という完成の年は、時代の転換期にあたるという点で示唆深い。

 明治22年1月19日という木子清敬への講師発令の日付は学年の途中で第2学期の開始後にあたるが、これについては明治宮殿の建設が一段落し、明治22年1月11日の明治天皇の新宮殿への移徒が終わるのを待ったことが考えられる。

 一方、木子清敬が東京帝国大学の講師を解任されたのは明治34(1901)年9月11日である。東京帝国大学総長山川健次郎の名で内匠頭堤正誼に宛てて書かれた通知書には、「本学工科大学に於いて日本建築に関する授業開始以来、多年の間貴寮木子技師に右授業の為め同大学講師を嘱託し、非常の便宜を得たる結果として、他に相当の講師を嘱託し得る様に相成候段深謝奉り候。就は本日を以て同技師の職を相解き候條、右御挨拶方々此段御通知候也」とある。「他に相当の」というのは、伊東忠太、あるいは関野貞であろうか。伊東忠太が工学博士の学位を授与されたのは明治34年2月、関野貞が助教授に発令されたのは明治34年9月2日である。木子の授業の後を受けて日本建築を教え、その仕事を受け継いだのはむしろ東京美術学校に移った大澤三之助であったともいう[10]

 宮内省の技師である木子清敬が、帝国大学の学生の中から日本建築学の学者が育ち次第、大学講師としての役割を終え、本務に専念することになったことは容易に推察される。しかし、明治22年1月19日に講師を嘱託されて以来ほぼ12年8カ月余りが経過している。それは決して短い期間ではない。この間に、明治23年7月卒業の横河民輔を始めとして41人の学生が大学を卒業した。その中には後に日本建築学に関係のある言論や作品を発表、あるいは日本建築学に関係のある職についたものとして、既に述べてきたものの他に、三橋四郎、松室重光、星野男三郎らがいる。木子清敬は明治26年に伊東忠太を平安神宮建設に、明治29年に塚本靖と大澤三之助を日光東照宮・輪王寺各社殿修理調査にそれぞれ技師や嘱託員として送った。伊東忠太、塚本靖、大澤三之助ともに大学院在学中の時である。伊東忠太は平安神宮工事中、木子清敬に代わって京都に滞在し初めて日本建築の現場監督を務めた。塚本靖は日光では東照宮や輪王寺大猷院廟の実測に携わった。伊東忠太の日記[11]によれば、伊東忠太は大学院に進学後も大学あるいは木子清敬の自宅で木子に会い、またともに旅行もし、木子の自宅では木子が所蔵する建築資料も閲覧している。伊東の日記からは、木子の家に中村達太郎も訪れていたことが分かる。また大澤三之助の授業用資料には木子清敬が収集作成した日本建築学関係資料が多数引用されている。

 弘化元(1844)年に生まれ、明治が始まった年に25歳という青年であった木子は、そのタイミングのよい年回りから、明治40(1907)年に64歳で没するまで明治という時代のほぼすべてを通じて宮内省の和風建築の第一人者として、宮殿建築はもちろん政府が関係する主要な神社建築の設計や内務省古社寺保存会委員など保存関係の事業に携わってきた。伊東忠太やその同じ世代が日本の伝統建築を学んだのは、この木子清敬を通じてである。木子は、その宮内省の筆頭技師としての立場から否応なく、日本の伝統建築の近代への公式の伝達者としての役割を付与されたのである。この木子の日本建築学の授業について、木割規矩の解説が中心の大工の講習会のようなものに過ぎなかったと、伊東忠太は後になって回想している[12]。日本建築学が設置された経緯と同様、今日の木子の講義に対する評価も、基本的にはこの伊東の回想に拠っている。しかし木子が行った講義の名称は、正確には「日本建築学」であって「日本建築史」ではない。

 木子家に残された木子清敬の講義資料を分析して、木子が何を帝国大学の学生に伝えようとしたのか、あるいは伝わったかを明らかにしようと試みたことがある。建築という枠組みの中で、何が近世から近代に伝えられたのかを、である。木子家に残された断片的な講義資料が手がかりであった。歴史はその一部に過ぎない。社寺建築を講義すれば多少なりとも歴史には触れざるを得ないであろう。学者ではない木子に本格的な歴史の講義を期待するのは無理である。木子は歴史については、それまでの国学の成果をそのまま引用している。むしろ注目されるのは住宅の設計製図の課題である。三百坪の邸宅と六十坪の官舎を設計する課題が残されているが、いずれも当時としての現代住宅である。銀行やオフィスビルばかりでなく普通の住宅の設計もまた、すでにこの頃になれば、帝国大学を卒業していく建築家たちには必要とされた知識であろう。宮殿建築家であった木子にとっても住宅建築は専門領域である。確かに木割も規矩も用いているが、いずれも日本建築を設計あるいは分析するすぐれて有効な技術であることに間違いはない。

 木子は明治34年9月まで12年8カ月のあいだ講義を行った。歴史が「日本建築歴史」の名称で独立し、「日本建築構造」「日本建築計画及び製図」と並ぶようになるのは、明治36年からである。しかし歴史が独立しても構造や計画の授業はなくならない。大正10(1921)年にはさらに「社寺建築」が新設されている。

 帝国大学の創立と前後して明治19年4月に造家学会が発足したことは既に述べた。木子は、工学士であることが正会員の原則的な条件とされた学会に、創立後まもない19年9月に正会員として入会した。明治22年1月の帝国大学講師就任より1年半ほど早い。このときの紹介者は、辰野金吾ではない。新家孝正、中村達太郎、河合浩蔵、妻木頼黄の4名である。この造家学会で、日本建築に関する活動をもっとも期待されていたはずの木子は、明治20年代にそれまでの国学の分野の成果を引用して日本建築史関係の講演、記事投稿を行った[13]


3 建築アカデミズムと日本の伝統


 帝国大学に日本建築学の授業が設置されることとなった契機については、辰野金吾と、辰野が英国留学中に師事した建築家ウィリアム・バージェスとの問のエピソードが知られている。すなわち辰野が日本の伝統建築についてバージェスから質問されたが答えられず、彼に諭されて、帰国後帝国大学に日本建築に関する講義を開始したとするものである[14]。辰野が帰国したのは明治16(1883)年である。木子の日本建築学授業は明治22年に始まった。すでに帰国から6年が経過している。

 この6年間のあいだに、伝統に関わるさまざまな動きがあった。欧化主義から国粋主義へ、いわゆる伝統復興の時代である。明治21年に竣工した明治宮殿のことは既に述べた。明治宮殿が完成間近い頃、隣の日比谷を敷地に国会議事堂を含む西洋建築の中央官庁街を実現しようとする計画が進められていた。官庁集中計画と呼ばれている[15]。計画を進めていたのは井上馨である。設計はドイツの建築家エンデとベックマンに依嘱された。条約改正交渉の失敗、井上馨の失脚とともに計画は頓挫したが、その設計の過程で、設計者エンデが和様折衷の国会議事堂案を作成したことはよく知られている。エンデが明治20年に来日した後に作成した計画案である。エンデが来日したとき、日比谷の敷地の隣の皇居では、明治宮殿が引き渡しを目前に控えてすでにその全容を現していたはずである。残されたフェノロサの書簡草稿からは、ちょうどこの頃、フェノロサと岡倉覚三が日本の建築様式のあるべき姿について政府に意見を具申、欧化派と争っていたらしいことが窺われる[16]。そのフェノロサらが開校に努力した東京美術学校では建築装飾を教え、日本式室内装飾が製作され、また輸出された。他にも住宅建築の実例は、社会的にも建築の伝統様式に対するニーズが高かったことを窺わせている。図案科主任教授福地復一は、そうした室内装飾のニーズについて、「欧風の建築は我国風をまぢへ在来の建築、亦明治の新洋式を打建つるに至るは必然の数なり此勢ひに対する建築装飾の図案の要、此に於いてか愈切なり此勢ひに応じ此の勢ひを利導するの目的を以て……」(明治29年)と述べている[17]

 明治20年代の後半に帝国大学を相次いで卒業した伊東忠太、塚本靖、大澤三之助、関野貞や武田五一は、その後しばらくのあいだ代わるがわる帝国大学や東京美術学校の講師、建築雑誌の編集委員を交代で務めている。彼らに、その先輩にあたる帝国大学教授中村達太郎を加えた陣容が、辰野金吾が設計の実務で忙しかった時代に、建築教育と学会活動に専念し、大学と学会で構成される建築のアカデミズムを実質的に支えてきた。そのいずれもが日本建築の伝統と深く関わっている。日本近代の建築学の形成が、帝国大学と造家学会の設立を待って明治20年代に実質的に始まったとするなら、日本近代の建築学はそのかなり早い時期から日本建築の伝統を内部に取りこんでいたことになる。

 宮内庁書陵部に明治宮殿の公式な造営記録が残されている(『皇居御造営誌』)。その展開図に描かれた極彩色の鮮やかで大胆な色と模様の組み合わせには目をみはる。太い骨組みも同様である。その大胆な意匠は、伊東忠太が設計した浅野総一郎邸(明治42年)、今村吉之助が設計した大倉喜八郎邸(明治45年)の建築へとつながる。浅野邸、大倉邸ともモノクロームの写真でしか見たことがないが、それでもその艶やかさは十分に伝わってくる。浅野邸と大倉邸のいずれの建物も、三橋四郎が、『理想の家屋』上巻の「維新後に於ける住宅建築上の大発展と装飾」の項で紹介している(大倉書店、大正2年)。「理想の」というのが面白い。帝国大学を明治26年に卒業した三橋は、伊東忠太の1年後輩である[18]。三橋は、先の二つの住宅について「先づ前述の二大客殿は明治時代に於ける建築理想の一部を代表するものとして私の眼に映じた為めに特に掲載したのである」と述べている。

 明治時代の建築界における伝統とのかかわりを、日本建築史の成立史に重ねてしまうと切り捨てられる部分が多くなる。



【註】

[1]帝国大学・東京帝国大学の変遷に関わる事項、教官の任免に関する事項については、『帝国大学一覧』『東京帝国大学一覧』『東京帝国大学学術大観』『東京大学百年史』の他、以下の資料を参照した。
「関野貞略歴」(『建築雑誌』第605号、昭和10年11月)
「塚本靖略歴」(『建築雑誌』第631号、昭和12年10月)
「中村達太郎略歴」(『建築雑誌』第691号、昭和17年10月)
「伊東忠太略歴」(『建築史研究』第17号、昭和29年10月)
関野貞「建築教育」(『近代日本建築学発達史』丸善、1972年)
河東義之『ジョサイア・コンドル建築図面集I』(中央公論美術出版、1980年)
小野木重勝『日本の建築[明治大正昭和]2 様式の礎』(三省堂、1979年)
藤森照信『日本の建築[明治大正昭和]3 国家のデザイン』(三省堂、1979年)
前野堯・伊藤三千雄『日本の建築[明治大正昭和]8 様式美の挽歌』(三省堂、1982年)
長谷川堯『日本の建築[明治大正昭和]4 議事堂への系譜』(三省堂、1981年)[本文へ戻る]

[2]辰野金吾は、明治18年12月から非職。ジョサイア・コンドルは、明治17年5月工部大学校を任期満了により辞職、帝国大学発足時に改めて講師となったが、明治21年3月には辞職して建築事務所を開いた。[本文へ戻る]

[3]明治26年9月帝国大学の各分科大学に設置された講座制は、造家学科では三講座と定められたが、最初の頃は教官の移動が多く安定していない。第一講座は建築構造、第二講座は建築計画、第三講座は主として建築史を担当した。後述する木子清敬が始めた日本建築学は、講座制成立後は第三講座に含まれた。大正3年に四講座制となり、第三講座は建築構造、建築史は第四講座となった。さらに大正9年に第五講座が新設され、東洋建築史を分担した。

[4]『東京帝国大学学術大観』から「和式建築」の項、また森井健介『師と友——建築をめぐる人々」(鹿島出版会、1967年)。[本文へ戻る]

[5]武田五一「茶室建築に就て」(『建築雑誌』明治32年1月から34年7月の間に11回掲載)など。また横河民輔については「東西美術いずれか勝れる」(明治25年7月造家学会講演、『建築雑誌』第71号、明治25年11月)。[本文へ戻る]

[6]東京美術学校の変遷に関わる事項、教官の任免に関する事項については、『東京芸術大学百年史」の他、註[1]で掲げた履歴関係資料を参照。[本文へ戻る]

[7]伊東忠太「覚え書」(『建築史研究』第17号、昭和29年10月)。[本文へ戻る]

[8]「和式建築の沿革概略」(明治20年1月造家学会講演)、「大日本古代建築沿革」(明治23年11月工学会講演、『建築雑誌』第49号、明治24年1月)、「日本建築用語の来歴」(明治24年6月造家学会講演)など。[本文へ戻る]

[9]木子清敬に関する事項については、都立中央図書館所蔵「木子文庫」資料参照。詳細は筆者学位論文。木子清敬が跡を継いだ木子家は、家伝資料から元禄年間までは遡ることができるが、それ以前については不明。[本文へ戻る]

[10]註[4]参照。[本文へ戻る]

[11]伊東忠太日記『浮世の旅』(伊東祐信氏旧蔵、現日木建築学会蔵)。[本文へ戻る]

[12]昭和11年4月15日口述速記録「法隆寺研究の動機」(『建築史二ノ二』、昭和15年1月)。[本文へ戻る]

[13]「飛雲閣説明」(『建築雑誌」第13号、明治21年1月)、「本朝大内裏の制」(明治23年5月造家学会講演、『建築雑誌』第42号、明治23年6月)、同講演「日本宮殿建築の沿革」(明治23年11月、『建築雑誌』第48号、明治23年12月)、「土木考」(『建築雑誌』明治24年4月から26年8月の間に8回掲載)など。[本文へ戻る]

[14]昭和11年4月15日口述速記録「法隆寺研究の動機」(『建築史二ノ二』、昭和15年1月)、岸田日出刀『建築学者伊東忠太』(乾元社、昭和20年)。[本文へ戻る]

[15]官庁集中計画については、藤森照信『明治の東京計画』(岩波書店、1982年)、堀内正昭『明治のお雇い建築家エンデ&ベックマン』(井上書院、1989年)、藤森照信・堀内正昭「ベックマン『日本旅行記』について」(『建築史学』7号、1986年)、村松貞次郎『お雇い外国人⑮建築・土木』(鹿島出版会、1976年)などを参照。[本文へ戻る]

[16]村形明子『ハーヴァード大学ホートン・ライブラリー蔵アーネスト・F・フェノロサ資料 第一巻』(ミュージアム出版、1982年)。[本文へ戻る]

[17]『東京芸術大学百年史束京美術学校篇第一巻』、460頁。[本文へ戻る]

[18]三橋四郎はまた、『和洋改良大建築学』(全四巻、大倉書店、明治37年—)の著者としても知られている。この建築学の大系書は、三橋の死後も大正12年に改訂増補されて出版、その後も版が重ねられている。[本文へ戻る]



[工科大学造家学科]



113 引手・釘隠コレクション(工科大学造家学科卒業生横河民輔の収集による)
徳川時代初期—大正時代、工学系研究科建築学専攻

横河電機の創設者にして東洋陶磁器の大コレクターとして知られる横河民輔(1864—1945)が、大正13年と15年の二度にわたって大学へ寄贈した貴重なコレクション。横河は明治23年に東京帝国大学工科大学造家学科を卒業し、東京大学講師として鉄骨構造技術の確立に貢献した。総数569点に上る引手と釘隠のコレクションのなかには、天皇家や徳川家の伝来品が含まれている。(西野)


114-3 日本建築雛形「唐招提寺鼓楼模型」
木に彩色他、長48.0cm、幅55.0cm、高52.0cm、工学系研究科建築学専攻

現在、工学系研究科建築学専攻には明治時代から昭和前期までに制作された木造建築の模型が十数点保存されている。かつてはさらに多くの模型があり、専攻内の模型室に保管されていた。しかし昭和30年代以降、学部学生・大学院生の増加や実験施設の増大に伴って、模型群の保管場所の確保が難しくなり、関連機関への寄付によって対応してきた。例えば、大規模な東照宮建築群は東照宮へ、小田原城模型は小田原市へというようにである。今回出展された模型群は、いずれも規模が小さく、保管場所の制約を辛うじて逃れ、現在に伝えられてきたものである。

「旧備品台帳」を見ると、明治期から昭和前期における建築模型の集積状況が良く判る。出展模型以外の代表的なものを示すと、工科大学雛形(明治24年納入、建築は明治21年竣工、本学科教授辰野金吾設計、現存せず)、仮議院玉座雛形(明治24年納入、建築は明治23年竣工)、日本銀行本店模型(明治41年納品、建築は明治29年竣工、本学科教授辰野金吾設計、大正3年、東京高等工業学校に保管転換)、日光東照宮諸建築模型(大正14年、東照宮宮司高松四郎より寄贈、戦後東照宮に寄付、東照宮に現存)、大極殿雛形(明治29年納品、本学科教授伊東忠太設計の平安神宮設計のための雛形、現存)、藤原豊成板殿模型(昭和12年、本学教授関野克復元、現存)などがあり、それらの一部は現存している。

 これらのなかで、大極殿雛形は多くの書籍に「平安宮大極殿」として写真が掲載されているし、また藤原豊成板殿模型も奈良時代の住宅の姿が復元された僅かな例の一つとしてしばしば参照されているように、学術資料としての価値の高いものが含まれている。

 建築模型は大まかに、次のような類型に分けられる。[一]実際に建てられた建築を造る時の設計に際し、構造・デザインのチェックをするための試作模型。[二]建築のある場所に行くことができない人のための展覧用模型。[三]建築の構造・デザイン・技術を建築教育の場で伝えるために用いるための教育用模型。

 また、小規模な五重塔などの小さな建築もしばしば造られたが、これらは実際に宗教的機能などを当初からもっており、「小建築」と言うことはできても、「模型」とは見なしがたい。もちろん、製作技術に違いはないのだが。

[一]の試作模型は古代から制作されていたようで、現在も建築の設計には多く制作されている。建築全体を造ることも、部分を造ることもある。[二]は近世から存在したと想定されるが、近代になってから博覧会の開催に際してかなり大量の模型が制作されたと推定される。建築全体を造ることが多い。近代に入ると建築学の教育現場でかなり多くの模型が制作されたと推定されている。[三]がこれにあたり、その多くは部分模型である。

 法隆寺中門模型[114-1]は「旧備品台帳」によれば、明治36年6月2日に土屋純一から納入されている。価格は71.5円、十分の一模型とある。なお昭和25年10月16日に修理されている。同年から翌年にかけて、土屋純一から室生寺五重塔隅模型(36.11円)・当麻寺東塔隅模型(43.17円)が続いて納められている。土屋純一は関野貞の後任の奈良県技師である。関野が奈良県技師在任時(明治30年—34年)にその右腕として働いていた。関野が東京帝国大学工科大学助教授着任(明治34年)後に、教育・研究資料として制作を依頼したのであろう。なお、関野と土屋は、明治32年の室生寺五重塔半解体修理(監督、関野貞・塚本松治郎)、明治32—34年の法隆寺中門解体修理(監督、土屋純一・塚本松治郎)、明治33—35年の当麻寺東塔解体修理(監督、土屋純一・塚本松治郎)を指導する立場にあって、それぞれの解体修理の成果をこの模型に盛り込んだと思われる。建築修理に際して模型を制作した最も早い時期の例と考えて良い。

 法隆寺中門は、7世紀後半から8世紀初期にかけて再建された、日本最古の建築群である法隆寺西院内部の一つである(澤村仁「法隆寺中門」、『奈良六大寺大観一 法隆寺一』、1972年)。部分模型で、模型の造られている部分は、北東の隅柱間一間四方であって、下層屋根を全部つくり、上層は縁の高欄部だけを造って下層屋根に乗せているだけである。足元は礎石を造らないので、基壇面から柱が直接立ち上がる。下層屋根は垂木を打ち、一部を瓦葺きとして、全ての仕上を造っていない。屋根の作り方を段階的に視覚的に示す方法である。壁は下地を含めて全く造らない。縮尺は十分の一。檜を用い、素木のまま彩色をしない。法隆寺中門は修理工事報告書が出版されておらず、文化庁保管図面にも資料化されていない。奈良県庁に修理前実測図と修理設計図合計59枚が残されているだけであって、明治修理の竣工時の姿を正確に記録する一つの資料といえよう。

 平等院鳳鳳堂模型(部分模型)[114-2]は「旧備品台帳」によれば、明治37年2月、納入高瀬市郎平であり、「鳳鳳堂中部」(107円)と記され、同時に「堂翼廊一部」(103.78円)、「金閣寺三層一部」(94.25円)、「旧小田原城天守閣」(61円)も納入された。納入に関わった高瀬市郎平は不明。なお、明治32—39年に平等院鳳鳳堂半解体修理(監督、亀岡末吉)が、明治36—37年に金閣寺金閣解体修理(監督、武田伍一)が行われており、こちらの模型群も解体修理に関わって造られたらしいと推定される。旧小田原城天守閣模型は、現在小田原市に移管されており、再建小田原城内部に展示されている[三重三階の形を持つ。制作年代は元禄16(1703)年—宝永3(1706)年]。

 平等院鳳凰堂は、1053年、藤原頼通によって建設された浄土教建築の代表的な建築である。我が国で最も有名な建築の一つである。部分模型で、模型の造られている部分は、南東の一部である。東面(正面)は中心軸から南半分で、南面は裳階と母屋内部半間分である。足元は裳階の外側の縁から、上は母屋の屋根の垂木までを造る。柱間装置は扉・壁を造らず、貫だけを通している。垂木は間引いており、天井は母屋内部の折り上げ格子天井の一部まで造る。天井板は置かない。組物・天井の組み方、裳階の取り付け方、裳階中央部の切り上げなどの様子が良く判る。縮尺は十分の一。良く目の通った杉材で、素木のままで彩色しない。

 唐招提寺鼓楼模型[114-3]は「旧備品台帳」によれば、大正6年5月4日に購入された。価格は160円。縮尺は二十分の一。彩色なし。唐招提寺鼓楼は仁治元(1240)年に建立された建築で、和様を基調としながら頭貫など細部に、中世初頭に東大寺再建に用いられた中国的建築様式大仏様を用いている。全体の均衡に緊張感が溢れ、奈良の中世建築の傑作といってよい。全体模型であって、既に解説した模型群とは異なった性格を持つ。制作された経緯、その性格については不明という他はないが、明治43年、ロンドンで開催された日英博覧会に出陳された建築模型のなかに「唐招提寺鐘楼」があって、これが「鼓楼」の誤りであればそれに該当する可能性がある。イギリスに対して、日本の古建築の紹介を行うために制作されたので、全体を造ったのであろう。また東京大学に納入された経緯も明らかでないが、中世建築の模型が少ないので、それを補足するために購入したのであろうか。

 なお、明治43年ロンドンで開催された日英博覧会の際には多くの建築模型が造られ、出陳された。東大寺大仏殿・東西両塔・南大門、東大寺鐘楼、法隆寺金堂、唐招提寺金堂(以上、天沼俊一、加護谷祐太郎の監督)、法隆寺中門、日光陽明門(大江新太郎、竹腰久次郎、奥本吾市の監督)、平等院鳳鳳堂(海野美盛の作成)、東京市の模型(縮尺二千四百分の一)、全市の模型(家屋建築二十棟など)、千代田城、台徳院、大阪市の模型、東京市水道模型がその一部である。東大寺太仏殿・東西両塔・南大門は東大寺大仏殿内に、また日光陽明門は東京大学を経由して日光東照宮に現存する。

 神明造模型(全体模型)[114-4]は「旧備品台帳」によると、昭和12年6月30日に、加納茂一より寄贈されている。見積額3,000円(寄贈されたものでも備品として登録するために見積価格を付ける)。この時、神明造の他、大社造、春日造、流造、八幡造、権現造の模型が同時に加納氏から寄贈されている。すべての模型は全体を造っている。特定の神社名が付されないので、代表的な神社形式の模型を造ったという可能性がある。なお加納氏は、それ以前の昭和4年にも「大雄山最上寺真殿模型」(見積額25,000円)を寄贈している。縮尺は不明、彩色なし。模型は前述のように全体像を示す。神明造は伊勢神宮の本殿(内宮・外宮)に固有の形式であって、他には仁科神明宮(江戸時代前期、国宝)が知られる程度であって、全国的に流布したわけではない。まだ伊勢神宮の造替時にもその図面は公表されない。

 模型の特徴を記すと、堅魚木10本、千木は男木(上部が水平に切れている)。この特徴は内宮(皇大神宮正殿)に見られるものであって、外宮(豊受大神宮)は堅魚木9本、千木は女木(上部が垂直に切れている)、仁科神明宮は堅魚木6本、千木は男木であって、これらとは明らかに異なっている。また、柱の足元には礎石を用いている。伊勢神宮の本殿は掘立柱であり、仁科神明宮は礎石を使っている。床下部は中央部の心御柱を垣で取り囲む。伊勢神宮本殿も同じ形式であるが、仁科神明宮ではそのような施設を設けない。寸法を見ると、正面柱間が心々で各187ミリで、側面が各136ミリとなる。この寸法は仁科神明宮とは対応関係を示さず、また伊勢神宮の公表されている略図とも対応しない。従って、現存する数棟の神明造社殿の特徴を取り混ぜて、それらしい形を造り上げたもの、ということになろうか。

 権現造模型(全体模型)[114-5]もまた神明造模型その他と同時に加納茂一より寄贈されている。見積額は3,800円である。寄贈された経緯は不明である。「旧備品台帳」には「権現造」としか記載されていないが、以前からアメリカ軍の爆撃で焼失した名古屋東照宮の模型ではないか、と推測されていた(大河直躬氏、三浦正幸氏の指摘)。名古屋東照宮は、元和5(1619)年尾張徳川家の当主徳川義直が建立し、名古屋城内三の丸にあったが、明冶10年、場内が名古屋鎮台の所管地となったので、旧藩学明倫堂の後に移築された(愛知県名古屋市西区茶屋町二丁目)。そして、昭和20年5月14日、アメリカ軍の空襲によって焼失した(文化庁編『増訂 戦災等による焼失文化財』建造物篇、臨川書店、1983年)。名古屋東照宮に関しては、『増訂 戦災等による焼失文化財』建造物篇に3頁ほどの解説と10点ほどの写真が掲載されているが、実測図は載っていない。また修理工事報告書や文化庁保存図面もない。もし本模型が名古屋東照宮であるとするならば、失われた建築でしかも図面が無いわけだから、それを知るためのわずかな手掛かりを与えてくれる貴重な模型ということになる。

 まず、前掲の『増訂 戦災等による焼失文化財』建造物篇に所収の解説との異同を確認する。本殿では、名古屋東照宮は縁が正面、両側面の三面にあって、側面の縁の両端に刎高欄を付けるが、模型では背面にも縁を付して、高欄もない。また、正面中央に渡殿から登る木階が六級であるが、模型では五級である(模型内部は一部の造作が造られていて、扉が開くので覗くことができる)。拝殿の背面両端部が格子嵌殺であるのに対し、二枚の蔀になっている。以上が名古屋東照宮と模型の相違点であるが、しかし、他の点においては全く同一の意匠をとる。特に拝殿と渡殿の内法長押上に使われた波模様装飾は非常に特徴的であり、それが一致することは明らかに名古屋東照宮を参照したとしか考えられない。次に、本模型の実測を行なった[参1]。幸い名古屋東照宮造営の翌年元和6年に造営された和歌山東照宮が現存している。それと寸法を比較すると、渡殿の柱間寸法が少し異なる他は、ほとんど一致する計画であることが判る。縮尺も二十分の一と判断できる。なお和歌山東照宮の本殿は四面に縁が回り、脇障子も付いている。


 従って、本模型は、恐らく名古屋東照宮を手本とし、かなり忠実に設計され、しかし一部についてはより一般的な権現造の形に改めたもの、ということになるだろう。このような操作は神明造でみたのと同じ様なものであったと推定される。

 なお、模型群の調査には太田博太郎、大河直躬、三浦正幸、田中晶、角田真弓、清水重敦各氏のご協力を得た。参考にした文献は、西和夫監修『小さな建築—模型のトポロジー』INAX BOOKLET Vol.7 No.2(1987年)。『建築雑誌』277・278・283・289号(1910—11年)。和歌山県文化財研究会編『重要文化財東照宮本殿他三棟保存修理工事報告書』(1981年)。(藤井)


115 工科大学看板
木に漆、明治21(1888)年以降、縦93.0cm、横279.0cm、工学系研究科


116 ジョサイヤ・コンドル設計「鹿鳴館の階段手摺」
明治16(1883)年竣工、木製、工学系研究科建築学専攻

イギリス人建築家ジョサイア・コンドル(1852—1920)は明治10年に来日し、工部大学校造家学科の教師となった。ここから日本の建築教育は本格的に始まる。2年後には辰野金吾・片山東熊・曽禰達蔵ら第一期生を世に送り出した。コンドルは教鞭を執る傍ら、工部省技術官として公共建築物の設計にも次々と携わった。実現させた建物に、上野博物館(明治14年)、鹿鳴館(16年)、東京大学法文科校舎(17年)などがある。これは、鹿鳴館の玄関ホールから舞踏室のある二階へと昇ってゆく階段の一部である。昭和15年、取り壊しのさい、東京帝国大学建築学科によって切り取られ、今日まで保存されてきた。鹿鳴館の名は広く知られているが、具体的な資料に乏しく、他には家具や壁紙や食器などが残されているのみである。(木下)

118 工科大学関連写真資料
工学系研究科建築学専攻


118-2 列品室(鉱物)
縦21.4cm、横27.4cm、「大日本東京神田区小川町鈴木雲」の台紙印刷あり


118-9 列品室[工科大学土木学科(?)]
縦21.4cm、横27.4cm、「大日本東京神田区小川町 鈴木雲」の台紙印刷あり


118-22 旧工部大学校講堂内部(「東京市内建物」)
縦30.0cm、横24.5cm


118-25 旧工部大学校講堂内部螺旋階段(「東京市内建物」)
縦22.8cm、横28.6cn、「明治四十三年十一月撮影」「旧工部大学校」の墨書あり、印「東京帝国大学工科大学建築学教室印」


118-40 旧工部大学校教師館[(?)「東京市内建物」]
縦22.8cm、横28.6cm、縦22.8cm、横28.6cm、「明治四三年十一月撮影」「旧工部大学校」の墨書あり、「よ1十六」、印「東京帝国大学工科大学建築学教室印」



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