ヒルゲンドルフと日本の魚類学


矢島道子 東京成徳大学高等学校



1 はじめに


 ヒルゲンドルフ(F.M.Hilgendorf)はイギリスの蒸気船マドラス号で明治6(1873)年3月2日横浜に着き、明治9年10月24日まで滞日した。ヒルゲンドルフが33歳から36歳の時であった。ヒルゲンドルフは東京医学校の教師として、そして、研究者として確実に日本に足跡を残していった。にもかかわらず、彼については日本でも本国ドイツでもほとんど知られていない。ヒルゲンドルフの生涯、業績を掘り起こして、今日におけるヒルゲンドルフの意義を探っていきたい。


2 ヒルゲンドルフの生涯


i 来日前のヒルゲンドルフ

 フランツ・マルチン・ヒルゲンドルフ[挿図1]は1839年12月5日、ドイツのマルクブランデンブルクのノイダム(現ポーランドのデンブノ)で商人の家の三男として生まれた。1851年10月1日(11歳)からは隣町のケーニヒスベルク(現ポーランドのホイナ)のギムナジウムに通い、1854年にはベルリンのグラウエン・クロスターのギムナジウムに移った。1859年9月28日優秀な成績で卒業した。


 1859年(19歳)、ヒルゲンドルフは語源学を学ぶためベルリン大学に入学した[挿図2]。ベルリンで2年間を過ごしているうちに自然科学に興味が移っていった。62年チュービンゲン大学へ行き、巻貝化石を研究した。63年学位論文『シュタインハイムの淡水成石灰」[Hilgendorf 1863]で博士号を取得した。各地層から出てくる巻貝化石の形態変化を進化として解釈したものである。


 彼はベルリン大学に戻って研究を続けた。最初は巻貝化石の形態変化の原因を有機化学的に探るために、研究室で実験にいそしんだ。そのうちに、魚類学の大家であるぺータース(W.K.Peters)教授の薦めもあり、動物学の方へ研究を向けるようになった。1863年の10月から67年の1月までヒルゲンドルフは、ベルリン動物学博物館(現フンボルト大学自然史博物館)で研究補助員をした。ここで、魚標本の調査の方法、標本の管理の仕方、そして標本の大切さを、ぺータース教授からみっちり仕込まれた。

 1868年28歳の若さでハンブルク動物園の園長となり、水族館の管理も任された。71年4月からドレスデン公立レオポルド・カロリン・ドイツ自然科学院の図書館長に就任した。ドレスデン高等工業学校(現ドレスデン工科大学)の私講師にもなり、生物学を講義した。その学生の一人に日本の地質学の父ナウマン(E.Naumann)がいた。

 ドレスデン勤務中に日本行きの話が舞い込んできた。ヒルゲンドルフはぺータース教授宛に、日本行きを大変楽しみにしているという手紙を送っている。

ii 御雇外国人教師ヒルゲンドルフ

 明治政府は明治2(1869)年、医学教育にドイツ医学採用の方針を打ち出し、明治4年7月、ホフマン(T.E.Hoffmann)と、ミュルレル(B.L.Müller)がドイツからやってきた。ホフマンと、ミュルレルは、近代的な医学教育のためには基礎科学教育が重要であると提言した。この提言に基づき、ヒルゲンドルフ、コッヒウス(H.Cochius)、フンク(H.Funk)が、東京医学校のそれぞれ、数学と博物学の、理化学の、ドイツ語とラテン語の教師として明治6年3月来日した。解剖学教師デーニッツ(W.Dönitz)も同年7月には来日した。

 時代は江戸から明治に変わり、明治政府は多方面にわたって新しい方針を打ち出していった。医学教育については、医学校、大学東校、東校、第一学区医学校(明治5年)、東京医学校(明治7年)と名称を変えながら、機構を整備して、明治10年に現東京大学の敷地(本郷)内に東京帝国大学医学部を創立した。

 ヒルゲンドルフの給料は三百元(後に四百元)と高かったが、博物学、植物学、顕微鏡用法、理学階梯、数学、幾何学、ドイツ学、地理学等の講義を、多いときには週24時間も行わなければならなかった。幸いなことにドイツ語がよくできる松原新之助が起居をともにして、よく助けてくれた。

 東京医学校は和泉橋橋詰藤堂和泉守の屋敷(現在JR秋葉原駅東口近く)にあった。医学生の多くは邸内に寄宿していた。ヒルゲンドルフは本郷加賀屋敷(現東京大学)内の御雇外人教師館から毎日ここへ通った。『ベルツの日記』によれば、明治9年に来日したベルツ(E.Bälz)は、当初ヒルゲンドルフ邸に身を寄せていたという。

 また、ヒルゲンドルフは魚河岸へ朝早く足繁く通い、魚の観察をしていた。休暇には函館、日光、箱根、仙台、秋田、千葉等に旅行し、多くの魚を採集した。明治7(1874)年夏、北海道へ旅行し、ハーバー事件と遭遇した。ハーバー事件とは、明治7年8月11日、北海道、函館でドイツ国領事ハーバー(L.Haber ノーベル化学賞を受賞したフリッツ・ハーバーの叔父)が、旧秋田藩士田崎秀親の凶刃に倒れた事件である。ヒルゲンドルフもあわや一命を落とすところであった。

 ヒルゲンドルフの試料採集は、特定の地域に限らず、住居である加賀屋敷の中、上野の寺、不忍池、浅草の寺、深川の寺と、どこでもおもしろい生物をみつけると採集した。採集にはとても熱心で、江ノ島沖の採集では、途中で暴風に出会い、船頭たちは直ちに引き返そうとしたが、ヒルゲンドルフは採集が大事であると船頭たちを説得し、みごとにホッスガイを入手できたこともあったという。

 明治6(1873)年3月22日にドイツ東亜博物学民族学協会は発会した。在留ドイツ系外国人が月一回例会を持ち、情報交換し、会誌を発行する会である。会長はブラント(M.von Brandt)駐日ドイツ全権公使、副会長ミュルレル、書記はヒルゲンドルフとケンパーマン(P.Kempermann)、図書はコッヒウス、会計はマメルスドルフ(F.Mammelsdorff)という構成である。

 ヒルゲンドルフは会の運営に関わると同時に、活発に研究報告をしている。10篇の論文を発表し14回講演している。生物に関する内容が多いが、次のようなものもある。東天に見られた異常な現象に関する論文、竜の玉についての講演、品川で発見した化石は洪積世のものであるという講演、江ノ島の地質についての講演。

 明治8年4月、イギリスの調査船チャレンジャー号が日本に寄港した。チャレンジャー号に乗り組んでいたドイツ人研究者ヴィレメース=ズーム(R.von Willemoes-Suhm)はヒルゲンドルフを訪問し、横浜でドック入りをしている間の6月12日にOAG横浜例会で講演を行った。

 フンボルト大学自然史博物館にあるヒルゲンドルフのファイルには、日本から持ち帰った文書類がいろいろ残っている。そこから、明治の初めの日本人の生活を覗くことができる。ヒルゲンドルフはOAGで精力的に活動するとともに、イギリス系外国人の日本アジア協会とも活発に交流したと思われる。開成学校の化学教師であるアトキンソン(R.W.Atkinson)の日本アジア協会での講演の案内状がヒルゲンドルフのところに届いている。

 ヒルゲンドルフは、剛毅、気軽、無頓着の人だったと伝わっている。他人の手を煩わせないようにと、料理もほとんど自分でした。また衣服などは、他人に礼を欠いてはいけないけれど清潔であればいいと、あまりかまわなかったという。

iii 離日後のヒルゲンドルフ

 ヒルゲンドルフはドイツヘ帰ると早速、古巣のベルリン動物学博物館に戻った。1877年から蠕虫類部門と甲殻類部門の助手になり、80年からは両部門の主事となった。さらに83年には魚類部門でも主事となり、三部門で忙しく働いた。87年に蠕虫類部門の主事を辞し、96年には甲殻類部門の主事を退くことができ、魚類部門の研究に集中することができた。93年には教授の称号を得た。

 ヒルゲンドルフは生涯で『シュタインハイムの淡水成石灰』に含まれてる化石について9篇、魚類について42篇、甲殻類について23篇、その他の生物の記載が42篇の論文を書いた。彼がベルリン動物学博物館で整理した標本は、甲殻類が1万弱、魚類は1万6千を越える。ベルリン動物学博物館の記載台帳には、自身の手で多くの書き込みがなされている。

 1880年10月19日に、40歳で結婚して、二男一女をもうけた。晩年胃病に悩みながらも、研究にいそしんだ。1904年7月5日、ベルリン動物学博物館にほど近い、閑静な住宅街であるクラウディウス通りの自宅で亡くなった。享年64歳であった。


3 ヒルゲンドルフの業績


i ヒルゲンドルフと日本の魚学

 ヒルゲンドルフは日本の魚類について、4新属新種及び2新亜属新種を含む36新種を11篇の論文に発表している。4新属のうち、ギス、アカザ、シロウオの3属名は現在も有効である。ヒルゲンドルフの命名した36種の種名中には、ブラント、ハーバー、ぺータース、そして松原、天皇(ミカドと表現して)への献名がある。また、ギスとイシナギはそのまま種名になっている。ヒルゲンドルフが扱った魚類の多くは、ごく普通に魚屋で買って食べることができるものである。また、ハゼの仲間を比較的多く取り扱っている。

 ヒルゲンドルフが滞日中に書いた2篇の論文は、ヒルゲンドルフの長い魚類研究人生の最初の論文である。OAG会誌に載せた明治8(1875)年のタラの論文と、明治9年のサケのなかまについて書いた論文である。タラの論文では、名称について、ヘボン(J.C.Hepburn)の辞書を参考にしている。分類学的記載の部分では、『和漢三才図会』と、ギュンター[Günter 1859—1870]やブレーカー[Bleeker 1862—1877]の論文と比較検討している。サケの論文では、パラス[Pallas 1831]、ギュンター[Günter 1859—1870]、シュレーゲル[Temmink and Schlegel 1843—1850]、ブレフールト[Brevoort 1856]、そして、『和漢三才図会』、栗本舟洲の『皇和魚譜』、伊藤圭介の『日本産物志』と比較検討して、日本のサケの仲間を8種(3新種を含む)を記載している。

 ヒルゲンドルフは日本に来て、西洋のリンネ以来の分類学と、日本の博物学を大切にしながら、魚類の分類学的研究を行ったといえる。ヒルゲンドルフの記載した魚類は、日本の魚類を研究するときには避けて通れないものであり、現在でも、たとえば、分類学的所属に疑問のあるユメカジカについて研究されている。

 明治13(1880)年に、ベルリンで行われた万国漁業博覧会において、ヒルゲンドルフは日本からの出品の担当者となり、その博覧会のために渡欧した松原新之助と一緒に、日本の出品が素晴らしいものになるように努力を惜しまなかった。このうち125種類の魚の乾燥標本が、フンボルト大学自然史博物館に保存されている。

 ヒルゲンドルフは自分が担当した『ドイツ自然史科学年報』において、日本及びアジアの魚類学を積極的に紹介した。ヨーロッパの研究者は、日本及びアジアの魚類学研究の窓口として、この報告をよく参考にしていた。ベルリンで発行されている『ドイツ自然史科学年報』の魚類部門の編集を1883年から92年まで担当し、甲殻類部門は1887年から94年まで担当した。

『勇魚取絵詞』上下は、天保3(1832)年に書かれた和書である。ヒルゲンドルフはこれをドイツに持ち帰り、メービウス(K.Moebius)が、その一部を東洋学研究所の日本語教授ランケの助力を受けてドイツ語訳し、1893年と94年に出版した。上野益三によれば、明治前のわが国の博物学書で、海外でそれぞれの国の言葉によって詳細に紹介されたのは、『花彙』の仏訳とこの『勇魚取絵詞』の独文抄訳であるという[上野1986]。

ii ヒルゲンドルフと日本の生物学(魚類以外)

 ヒルゲンドルフは、滞日時代、さまざまな生物に興味を持ち、講義の合間をぬって精力的に採集した。来日してすぐ、明治6(1873年4月、浅草寺の見世物小屋のスルメイカに興味を持ち、スルメイカの論文をまず書いた。奄美大島のヘビを博覧会でみつけ、新しい知見として報告した。これらはほんの一例であり、ヒルゲンドルフの報告は、動物植物を問わず、さまざまな分野に広がっている。

 日本の生物は、ヨーロッパの生物と異なるものが多いので、新種となる可能性が高いが、日本では、西洋の文献があまり手に入らないので、確認することができない。そのかわりに、日本で容易に入手できる『本草綱目』や『和漢三才図会』等を参考にしながらも、検討の余地が多いと考え、ほとんどの知見は予報としてのみ報告している。

[子嚢菌類]明治8年バッカク(麦角)の報告。
[海綿動物]明治7年ホッスガイ(ガラスカイメン)と淡水カイメンを報告。淡水カイメンのほうは、明治15年に Spongilla fluviatilis var. japonica として記載報告。
[外肛動物]明治7年、ハネコケムシについて報告。同時にアメーバとタイヨウチュウの確認を記述。
[軟体動物、巻貝類]在日中、江ノ島の土産物屋でオキナエビスをみつけ、1877年に Pleurotomaria Beyrichii 新種として報告した。

 ヒルゲンドルフは、学位論文で陸生の巻貝であるヒラマキミズマイマイ類を取り扱ったため、陸貝への関心が深く、日本の陸生巻貝についても多くを採集した。帰独後、マルテンス(E.von Martens)等によって記載、報告された。
[軟体動物、イカ類]明治6年スルメイカについて報告し、1880年にこれを Megateuhus Martensii 新属新種として報告している。
[星口動物]明治7年ホシムシの採集を報告。
[節足動物、甲殻類]エビやカニのように目につく甲殻類は、シーボルト等によって古くから研究されているが、めだたない小さな日本の甲殻類の研究はヒルゲンドルフに始まったといってもよいと思われる。ヒラタウミセミ(Leptoshaeroma gottschei Hilgendorf, 1885)、ミズムシ(Asellus? hilgendorfii Bovalius, 1886)、ハリダシクーマ(Eocuma hilgendorfi Marcusen, 1894)等について研究している。江ノ島沖と函館湾でヒルゲンドルフが採集した試料について、ミュルレル(G.W.Müller)が、1890年、ウミホタル等を記載している。
[節足動物、昆虫類]明治8年クスサン(ゲンジキムシ)(Dictyo-placa)について論文を書いた。
[脊椎動物]ヒルゲンドルフは多くの両生類標本を採集していて、帰独後、1880年に日本の両生類について20種を報告している。

 明治9(1876)年「日本産ヘビ類」という論文を発表し、1880年に2新種を報告している。モグラの眼について明治6年短報を寄せている。明治7年日本のネズミについて報告している。同年のニホンカモシカを解剖し、その結果を報告している。明治6年日本人の顧骨の下位に付帯する部分をOs japonicum(日本人の骨)と命名する。

 ヒルゲンドルフの研究対象、採集対象生物の範囲は広く、さまざまな分類群にわたって16種以上の生物にヒルゲンドルフの名前が献名されている。

ヒルゲンドルフコウガイビル Bipalium hilgendorfi (von Graff,1899)扁形動物、渦虫類
ウスコケヒザラガイ Notoplax (N.) hilgendorfi Thiele, 1909 軟体動物、ヒザラガイ類
ヒメベッコウガイの一種、“Discoconulus” hilgendorfi (Reinhardt, 1877)軟体動物、巻貝類
オオナミギセル Stereophaedusa japonica hilgendorfi (Martens, 1877)軟体動物、巻貝類
ヒルゲンドルフマイマイ Trishoplita hilgendorfi (Kobelt, 1879)軟体動物、巻貝類
タケノコボタル Baryspira hilgendorfi (von Martens, 1897)軟体動物、巻貝類
ツノキフデ Benthovoluta hilgendorfi (von Martens, 1897)軟体動物、巻貝類
オリイレクチキレモドキ Odostomia (Michaelsen) hilgendorfi (Clessin, 1900)軟体動物、巻貝類
ヒトツモンミミズ Pheretima hilgendorfi (Michaelsen)環形動物、ミミズ類
ウミホタル Vargula hilgendorfii (G.W.Müller, 1890)節足動物、甲殻類
Cyclasterope hilgendorfii (G.W.Müller, 1890)和名なし 節足動物、甲殻類
ミズムシ Asellus hilgendorfii Bovalius, 1886 節足動物、甲殻類
ハリダシクーマ Eocuma hilgendorfi Marcusen, 1894 節足動物、甲殻類
シマウミグモ Ammothea hilgendorfi 節足動物、ウミグモ類
ユメカサゴ Helicolenus hilgendorfi (Steindacher & Doederlein, 1884)脊椎動物、魚類
テングコウモリ Munina leucogaster hilgendorfi (Peters, 1880)脊椎動物、哺乳類

iii アイヌについての研究

 当時のヨーロッパでは、日本のアイヌに対して関心が高く、日本に来たヨーロッパ人は精力的にアイヌを研究した。戦争を繰り返してきたヨーロッパの歴史に対して、日本の北方には、決して戦いをしない民族であるアイヌがいることは、ヨーロッパではよく知られていた。

 ヒルゲンドルフは、明治8年のOAG会誌でアイヌの毛髪の断面を、日本人、ヨーロッパ人、黒人のものと比較している[挿図3]。また、同年のOAG横浜例会では、北海道で見聞した熊祭りの様子をくわしく報告している。明治7年には東京医学校の同僚である解剖学教師デーニッツと共同研究で、アイヌの青年の骨格、皮膚の色、毛の生育状態等も調査している。その論文には、ヒルゲンドルフの手になる、OAGにあったアイヌの頭蓋骨のスケッチが載っている[挿図4]。


iv ヒルゲンドルフと進化論

『種の起源』(1859年)のドイツ語訳は1860年にいち早く出版され、多くの人々に強い衡撃を与えた。ヒルゲンドルフは、この時21歳で、ベルリン大学の学生であった。彼はダーウィンの進化論に強い影響を受けた。化石の進化を研究しようと、1862年チュービンゲン大学のクヴェンシュテット(F.A.Quenstedt)教授のもとへ行った。南ドイツ、シュタインハイムのヒラマキミズマイマイ(Planorbis multiformis)という小さな(直径5ミリ程度)巻貝化石を研究し、1863年博士論文を書く[挿図5]。第三紀中新世巻貝化石の層準による形態変化を克明に記載した後、これを解釈するにあたって、ダーウィンの進化論を導入することを明言して進化系列を編んだ。


 ヒルゲンドルフはチュービンゲンからベルリンヘ戻り魚類分類学に転身するが、生涯の最後までシュタインハイムの化石の進化系列について研究し、自己の研究の正当性を主張し続けた。ヒルゲンドルフは日本からもシュタインハイムの化石についてベルリンヘ投稿している。東京医学校でヒルゲンドルフはダーウィンの進化論を講義し、自分のシュタインハイムの化石の進化系列を紹介している。森鴎外が講義ノートをつけていたのでわかったことである[挿図6、7]。ヒルゲンドルフの日本での講義は、モースの進化論の講義よりも前である。この経緯はヒルゲンドルフの弟子松原新之助が著書『生物新論』の中でも述べている[松原1879]。

挿図6 森鴎外の講義ノートより「ヒルゲンドルフの博物学」、文京区立鴎外記念本郷図書館蔵
挿図7 森鴎外の講義ノートより「進化論の講義」、文京区立鴎外記念本郷図書館蔵

 ヒルゲンドルフは江ノ島の土産物屋でオキナエビスをみつけ、1877年 Pleurotomaria Beyrichii 新種として報告した。現生のオキナエビスについては西インド諸島で発見された報告が、1855年と61年にあり、ヒルゲンドルフの報告は世界で3番目である。古生代の形態的特徴を持っているため、初めて、オキナエビスを「生きている化石」と呼んだ。ちなみに「生きている化石」という言葉は、ダーウィンの『種の起源』で初めて使われた[挿図8]。


 ヒルゲンドルフが化石にダーウィンの進化論を導入したことが明らかになり、アメリカのハイアット(A.Hyatt)等から、当時ドイツの古生物学界で権威を持っていたヴュルツブルク大学のザントベルガー(C.L.F.Sandberger)教授のもとへ質問が殺到した。ザントベルガー教授は、種が進化することなど考えられないとしてヒルゲンドルフを攻撃し、1873年から長期間の論争を巻き起こした。クヴェンシュテット教授も、ヒルゲンドルフの指導教官であるにもかかわらず、最終的に「これはまやかしである」とヒルゲンドルフの業績を否定した。クヴェンシュテット教授は、当時アンモナイト研究の大家であった。

 離日後、ヒルゲンドルフはシュタインハイム論争を再開する。ヒルゲンドルフの進化系列は論争と共に少しずつ変化していくが、基本的には変わらない。彼は新しい進化系列を提唱する前には必ず現地調査を行っている。常に丁寧な調査を行い、露頭でのスケッチ、写真等、多くのものがフンボルト大学自然史博物館に保存されている。論争は1877年のミュンヘン会議で山場を迎える。ヒルゲンドルフは巻貝化石標本を直接会議場に持ち込み、参加者の圧倒的な賛同を得た。ヒルゲンドルフは生涯で3枚の進化系統樹を描いているが、最後の系統樹を発表した『コスモス』誌はドイツのダーウィンとヘッケル賛同者が集まって創刊した雑誌であり、ダーウィン自身も小論を投稿している。

 ダーウィンが『種の起源』第六版で、ヒルゲンドルフの進化系列を取り上げたにもかかわらず、ヒルゲンドルフの業績はドイツでも全く顧みられていなかった。1983年、チュービンゲン大学のライフ教授が、大学の標本室の奥深くで眠っていたヒルゲンドルフの学位論文用の標本類を偶然発見し、それを公表してから、少しずつヒルゲンドルフの業績が明らかになってきた。ライフ教授は、ドイツの20世紀の偉大な古生物学者シンデボルフの教科書(1950年)の英語訳のあとがきで、ヒルゲンドルフを「古生物学に進化の概念を最初に持ち込んだ人」として高く評価している。



【参考文献】

Bleeker, P., 1862-1877. Atlas ichthyologique des Indies orientales Néerlandaises, 9 vols. Amsterdam.
Brevoort, J. C., 1856. Notes on some figures of Japanese fish taken from recent specimens by the artists of the U. S. Japan expedition.
Narrative Commondore M. C. Perry's Expedition to Japan, v.2, pp.255-288.
Doenitz, W., 1874. Bemerkungen ueber Aino's. Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.6, pp.61-67, 3 fig.
Günther, A., 1859-1870. Catalogue of the fishes in the British Museum. 8 vols.
Hilgendorf, F., 1863. Beiträge zur Kenntnis des Süßwasserkalkes von Steinheim. 42 p., unpublished Ph. D. thesis, Philosophical Fac., Univ. Tübingen.
Hilgendorf, F., 1866. Planorbis multlformis im Steinheimer Süßwasserkalk. Ein Beispiel von Gestaltveränderung im Laufe der Zeit. 36 p., Berlin (Buchhandlung von W. Weber).
Hilgendorf, F., 1885. Eine neue Isopoden-Gattung Leptosphaeroma, aus Süd-Japan. Sitz. ber. Ges. naturf. Freunde Berlile, pp.185-187.
Hilgendorf, F., 1893. Bemerkungen über zwei Isopoden, die japanische Süßwasser-Assel und eine neue Munna-Art. Sitz. ber. Ges. naturf. Freunde Berlin, pp.1-4.
Hilgendorf, F,, 1894. Ein neues Cumaceen-Genus Eocuma, Fam. Cumadae, aus Japan. (Mittlg. von Marcusen). Sitz. ber. Ges. naturf. Freupide Berlin, pp.170,171.
Hilgendorf, F., 1894. Ergänzungen betreffend die Eocuma hilgendorfi Marcusen. Sitz. ber. Ges. naturf. Freuude Berlin, pp.171,172.
Hilgendorf, F., 1873. Ein großer japanischer Dintenfisch (Ommastrephes). Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.1, p.21.
Hilgendorf, F., 1873. Vorläufige Notiz über Talpa mogura (Schleg). Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.1, p.25.
Hilgendorf, F., 1873. Über das Os japonicum. Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.3, p.1.
Hilgendorf, F., 1874. Auffällige Gegendammerung. Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.5, p.39.
Hilgendorf, F., 1874. Bemerkungen über die japanische Antilope. Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.5, pp.37,38.
Hilgendorf, F., 1874. Japanische Süßwasser-Moostierchen. Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.6, p.68, 3 fig.
Hilgendorf, F., 1875. Bemerkungen über die Behaarung der Aino' s-Fortsetzung zu Bemerkungen über Ainos von Prof. W. Doenitz im6. Heft dieser Mitteilungen. Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.7, pp.11-13, 1 table.
Hilgendorf, F., 1876. Der Kampferspinner (Genziki-Mushi). Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.9, pp.56-58.
Hilgendorf, F., 1876. Die japanischen Schlangen. Mitt. deutsch. Ges. f. Natur u. Völkerkunde Ostasiens, no.10, pp.29-34.
Hilgendorf, F., 1877. Vorlegung eines von ihm in Japan gesammelten Exemplares einer Pleurotomaria. Sitz. ber. Ges. naturf. Freunde Berlile, pp.72,73.
Hilgendorf, F., 1879. Das Os japonicum betreffend. Archiv f. pathol. Anatomie und Physiologie u. f. klinische Medizin, v.78 Berlin, pp.190-194.
Hilgendorf, F., 1880, Über Megateuthis Martensii n. g. n. sp., einen riesigen Dinten-fisch aus Japan. Sitz. ber. Ges. naturf. Freunde Berlin, pp.65-67.
Hilgendorf, F., 1880. Bemerkungen über die von ihm in Japan gesammelten Amphibien nebst Beschreibungen zweier neuer Schlangenarten. Sitz. ber. Ges. naturf. Freuude Berlin, pp.111-121.
Hilgendorf, F., 1882. Spongilla fluviatilis Lieberk. var. japonica. Sitz. ber. Ges. naturf. Freunde Berlin, p.26.
Martens, E. von., 1877. Eine Uebersicht uber die von den Herren Dr. Fr. Hilgendorf und Dr. W. Dönitz in Japan gesammelten Binnenmolluken. Sitz. ber. Ges. naturf. Freuude Berlin, 1877, pp.97-123.
Möbius. K., 1893. Ueber den Fang und die Verwerthung der Walfische in Japan. Sits. Kön. preus. Akad. Wiss. Berlin, pp.1053-1072.
Möbius, K, 1894. Ueber den Fang und die Verwerthung der Walfische in Japan., Mitt. Sekt. Küst. Goch. Fisch., no.7, pp.1-22.
Müller, G. W., 1890, Neue Cypridiniden. Zool. Jahrb. System., v.5, pp.211-252.
Pallas. P., 1831. Zoographia Rosso-Asiatica sistens omnium animalium in exyenso Imperio Rossico et adjacentibus maribus observatorum recensionem demicila, mores et descriptiones, anatomen atque icones plurimorum, 3 vols., pp.57-427. Petropoli.
Reif, W.-E., 1993. Afterwords. In Schaefer, J. [tr.] and W.-E. Reif [ed.] Schindewolf, O. H. Basic questions in paleontology. Geologic time, organic evolution, and biological systematics. 467 p., the University of Chicago Press, Chicago and london.
Temminck, C. J. and H. Schlegel, 1843-1850. Pisces. In Fauna Japonica.
Weltner, W., 1906. Franz Hilgendorf. Archiv für Naturgeschichte, v.72, no. 1,12 p.
磯野直秀「お雇いドイツ人博物学教師」、『慶應義塾大学日吉紀要・自然科学』2号、1968年、24—47頁。
磯野直秀「お雇いドイツ人博物学教授たち」、『近代日本生物学者小伝』、平河出版社、1988年、69—76頁。
上野益三「フランツ・マルティン・ヒルゲンドルフ」、『お雇い外国人——自然科学』、鹿島出版会、1968年、100—112頁。
上野益三「ヒルゲンドルフ東大で博物学を最初に教えた外国人」、『博物学者列伝』、八坂書房、1991年、343—351頁。
上野益三、「『勇魚絵詞』の独文抄訳」、『草を手にした肖像画』、八坂書房、1986年、108—112頁。
朴澤三二「フランツ・ヒルゲンドルフ(Franz Hilgendorf)」、『動物学雑誌』第27巻、1915年、17—20頁。
松原新之助『生物新論』、晩翠堂、1879年、17頁。
松原新之助「ヒルゲンドルフ先生」、『動物学雑誌』第27巻、1915年、449—445頁。



前頁へ   |   表紙に戻る   |   次頁へ