第三部

活版の世界



  イギリス東インド会社印刷所の活字書体
  ロンドン伝道会(London Missionary Society)が中国に最初に派遣したロバート・モリソン(Robert Morrison/礼遜)が編纂し、マカオのイギリス東インド会社印刷所(Honorable East India Campany's Press)でトムズ(P.P.Thomas)が印刷した辞書A Dictionary of the Thomas Language(三部六巻)には四種類の彫刻活字が使われている。

  この四種類の彫刻活字は、最初に刊行された『字典』(Chinese and English, Arranged According to the Radicals(一八一五年)第一巻にすべてが出現する。

(一)二二フルニエ・ポイント彫刻活字(挿図39)
一頁から始まる『字典』本文の「一」部から「ム」部までを組む。
(二)一八フルニエ・ポイント正体彫刻活字(挿図40)
表題紙の前に挟みこんである八頁のDIALOGUEとINTRODUCTIONの本文中および二百十四部首一覧表に使用。
(三)一六フルニエ・ポイント長体彫刻活字(挿図41)
『字典』三三七頁の「又」部から使われ、『字典』第二巻(一八二二年)、第三巻(一八二三年)、第二部『五車韻府』第一巻(一八一九年)、第二巻(一八二〇年)、第三部、English and Chinese(一八二二年)もすべてこのやや太めの長体活字で漢字部分を組んでいる。また一八三二年五月広東で創刊された月刊誌(Chinese Repository)の本文中の漢字部分もこの活字である。
(四)一四または一六フルニエ・ポイントと思われる長体の彫刻活字(挿図42)

  INTRODUCTON中の註記部分の漢字百九十四字にのみ使われている。

挿図39 イギリス東インド会社印刷所の二二ポイント彫刻活字(A Dictionary of the Chinese Language,1815より)

挿図40 イギリス東インド会社印刷所の一八ポイント彫刻活字

挿図41 イギリス東インド会社印刷所の一六ポイント彫刻活字

挿図42 イギリス東インド会社印刷所の一四または一六ポイントの彫刻活字

  印刷史あるいは活字史でこのモリソンの辞典に言及するとき、原本にあたらず先人の論考をそのまま使う人が多く、時に大きな誤りをひきおこす。もっとも多い例はこの、A Dictionary of Chinese Languageに使われている彫刻活字を一六ポイント一種と記述することで、その典拠は川田久長執筆の「邦文活字小史」(季刊『プリント』一号、印刷出版研究所、一九六二年三月刊)であろう。川田はその中で全六巻の辞典のうち第三部の『英華辞典』一冊を架蔵していること、そこに使われているのは錫の駒に彫刻された約一六ポイント大の明朝体活字であると述べている。川田の文章は正しい。それを後の人が引用するとき、本来『英華辞典』一冊だけを論じたものが、全六巻すべてのこの活字であると勝手に思い込み、書いてしまうことが問題である。

  これらの彫刻活字は一八五六年の火災で破壊された(季刊『印刷史研究』第二号、鈴木広光「中国プロテスタント活版印刷資料訳稿(上)」、一九九六年六月刊参照)。


  イギリス製鋳造活字書体二種
  詳細は不明であるが、一九世紀の早い時期にイギリスでパンチ母型から鋳造された二種類の明朝体活字が作られた。 一つは活字鋳造業者ヴィンセント・フィギンズ(Vincent Figgins)によって彫刻されたもので、イギリス東インド会社印刷所のトムズの指示による。武蔵野美術大学教授後藤吉郎氏がイギリスのセント・ブライド印刷図書館(St.Bride Printing Institute Library)で発見された刷り見本には、一八二六年一月に彫刻されたとある。

  他の一つは、ロンドンのワッツ(W.Watts)が一八四五年に印刷した『路加伝福音書、使徒行博』(Gospel of St.Luke,and The Act of the Apostles)に使われている活字である(挿図43、44)。発行は英番聖書公会(British and Foreign Bible Society)でそのサイズは一六フルニエ・ポイントであり、一部の字には四声記号が付いている。このワッツの活字については現在のところその製作に関わる何の資料も持っていない。

挿図43 『路加伝福音書』扉、一八四五年 挿図44 ワッツの一六ポイント鋳造活字


  美華書館の活字書体
  ヨーロッパで開発されたいくつかの明朝体を見てきたが、これで全部というわけではなく、もっと多くの彫刻活字や鋳造活字が存在していたと思われる。試行錯誤を繰りかえして獲得した技術的裏付けがあってはじめて、優れた活字書体がそののち開発されるのである。美華書館の書体はそれらの集大成されたものと見ることができる。
(一)二四フルニエ・ポイント(Double Pica)
ロンドン伝道会のサミュエル・ダイヤー(Samuel Dyer)が一八三三年頃から制作していたものである。Chinese Repository第二〇巻第五号(一八五一年五月)二八二頁ART.IIによれば、いろいろの障害のため一八四二年頃にやっと聖書や小冊子が印刷できる文字種が揃ったという。ダイヤーは翌四三年一〇月に亡くなるが、その時までにできていた文字種は千八百四十五字であると、Chinese Repository第一四巻第三号(一八四五年三月)には組見本(挿図45)を掲載し解説している。この大型・活字はダイヤーの没後同じロンドン伝道会宣教師であるアレクサンダー・ストロナック(Alexander Stronach)に引き継がれ、一八四五年一月には新しい三百七十個の母型とパンチ父型千二百二十六個が増え、総計三千四十一字になったと、前出 Chinese Repository 第三号にはある。ダイヤーとストロナックの文字種を合計すると三千四百四十一字になり、記事中の総計とは合わないので誤記かもしれない。

挿図45 ダイヤーとコールの二四ポイント鋳造活字組見本
(Chinese Repository, Vol.14, No.3, 1845より)

   この大型活字についての活字見本帳(Specimen of Chinese Type, made by the London Missionary Society)が、一八四九年香港の英華書院よりリチャード・コール(Richard Cole)の著作として刊行されている。リチャード・コールはマカオのアメリカ長老会印刷所華英校書房に一八四四年着任したが、一八四七年八月辞任し香港のロンドン伝道会印刷所英華書院に転じ、活字制作および印刷管理を担当することになった。前出の Chinese Repositoryo 第二〇巻第五号ART.IV-IIには、コールは、
「ダイア氏によって始められた二つのフォントを引き継いで完成させるためにロンドン伝道会に雇われたのである。そして彼の仕事は現段階において、各フォント約四七〇〇字にまで達している。ダイア氏の大型フォント(引用者註、二四ポイント活字を指す)の幾つかは均整がとれていなかったので、彫り直された。一方、既に作られた小型のパンチ父型(引用者註、一三・五ポイント活字を指す)も使用できるのはほんの一部分だったので、この美しい活字のフォントは全て、コール氏独自の技術と美的センスの賜物といえる」(鈴木広光氏訳。「中国プロテスタント活版印刷史料訳稿(下)」『印刷史研究』第三号、一九九六年九月刊)
と、コールの業績を称賛している。

  この二四ポイントを使った早い時期の印刷物としては、『聖経史記』(上海墨海書館、一八四六年刊)(挿図46)があり、これはコールが英華書院に着任する一年前の刊行である。印刷面を見ると、字種が足りずに木活字(あるいは彫刻活字か?)でかなりの字を補充しており、それも明朝体であったり楷書体であったりして一定していない。

  挿図47はこの二四ポイントの見本一葉だが正確な刊行年および原型は不明である。上部に誰の筆跡かわからないが手書きで"Metal type from Rev S Dyper Malacca 1837"とあるところを見ると最初期の見本の一つとみなすことができるかもしれない。

挿図46 『聖経史記』上海墨海書館、
一八四六年(二四ポイント)
挿図47 二四ポイント組見本一葉(発行年不明)

  この項の冒頭に、ダイヤーが大型活字のパンチ父型を彫りはじめたのは一八三三年と記したが、これは Chinese Repository 第二巻第一〇号(一八三四年二月)に掲載されている「一八三三年十月三十一日ペナンにてサミュエル・ダイア」の報告「これまで約四〇〇ルピーが出資され、二〇〇近いパンチが彫られました」(前出鈴木氏訳「訳稿(上)」)によったが、本格的な作制は一八三五年マラッカの英華学堂に移ってからであろう。制作開始年についてサミュエル・ウェルズ・ウイリアムズ(Samuel Wells Williams)が Chinese Recorder 第六巻第一号二二頁「中国語印刷のための活字」(一八七五年一月二月、上海美華書館刊)で、
  「(一八三四年頃)シンガポールのS・ダイヤー師はパンチ父型の彫刻を試みていた。ダイヤーは実際の印刷技術者ではなく、数々の苦労があったが、一八三八年から技術を学び、時間がかかったが活字を完成することができた。彼は一八四五個のパンチ父型を彫刻するまで作業を続けた」
としていることなどを考えると、一八三五年から一八三八年にかけてのいずれかの年に本格的に始められたと思われる。前出の一葉の組見本にある手書きの「マラッカ一八三七」は案外制作年を指しているのかもしれない。

(二)二二フルニエ・ポイント(Double Small Pica)
  挿図15に見るように同治七(一八六八、明治元)年の時点で上海美華書館が所有する二二ポイント活字(二号)は二種類である。

  前出 Chinese Recorder 第六巻第一号に掲載されたS・W・ウイリアムズの「中国語印刷のための活字」に、
  「ダイヤー氏が亡くなったとき(引用者註、一八四三年)、その二つのフォント(引用者註、二四、一三・五ポイント)がすぐに完成する見込みはなかった。そんなときバイエルハウスA.Beyerhaus氏という新しい協力者がベルリンに現われ、中国ミッションに対する援助を申し出た。彼はダイヤー氏の二種類のフォントの中間のサイズMedium sizeの分合活字を作った。その単体および分合活字の見本は、ルグラン氏がパリで制作した分合活字(引用者註、一六ポイント活字次項参照)よりも、はるかに優雅な姿形であることを示している。(略)一八四五年十月にアメリカに行ったときに、ニューヨークのプレスビテリアン・ミッションボードの書記ウォルター・ラウリー(Walter Lowrie)と協議したところ、彼はベルリンで彫刻する約三二〇〇個のパンチ父型の半分の費用を払うことに同意した。この費用の残り半分を負担するために、私は中国についての多くの講演を各地でおこなった。この講演は後に加筆訂正をして『中国総論』(The Middle Kingdom,1883,NEW-YORK)というタイトルで出版された。このフォントの制作は非常にゆっくりと進行し、一八五九年にやっと母型が中国に到着した」
とある。この記事をまとめれば次のようになる。
(一) ダイヤー没後、ベルリンのバイエルハウスがダイヤーの二四ポイントと一三・五ポイントの間のサイズの活字を作ることになった。
(二) それは分合活字のシステムを使う。
(三) 制作開始は一八四五年以降らしい。
(四) 約三千二百字の制作費はプレスビテリアン・ミッションとウイリアムズが折半する。
(五) 遅れに遅れて一八五九年に完成した。
(六) 姿形は同じ分合活字のシステムを使うルグランのもの(一六ポイント)より優れている。

  この二二ポイント分合活字の見本帳(List of Chinese Characters formed by the Combination of Divisible Type of the Berlin Font used at the Shanghai Mission Press of the Board of Foreign Mission of the Presbyterian Church in the United States of America.)が上海美華書館のウィリアム・ガンブルの著作物として一八六二年に刊行されている(Memorials of Protestant Missionaries to the chinese 一八六七年刊による)。この見本帳については未見である。アメリカ議会図書館には収蔵されているが、劣化が激しいのかコピーもマイクロフィルムも不可ということになっている。

  バイエルハウスについては、日本では資料がなくその実態は不明である。“Exhibition of the Works of Industry of All Nations 1851”の公式記録(一八五二年刊)の中に、バイエルハウス(Auguste Beyerhaus)の分合活字の記述があり、それによれば(一)組合わせ可能な千二百個のパンチ母型、(二)単体の二千八百字、(三)その他の百五字があり、それらによって二万五千字の異なった文字を作ることができると書かれている。

  ウィリアムスが言うように、この活字母型が寧波の長老会印刷所華花聖経書房に届いたのは一八五九年で、この活字を使った早い時期の印刷物として『三要録』(一八五九年刊。寧波華花印書房印送とある)(挿図48)を掲げておく。一八五八年以前の使用例は管見に入らない。

挿図48 『三要録』寧波華花聖経書房、一八五九年(二二ポイント分合活字)

  矢作勝美氏は労作『明朝活字』(平凡社、一九七六年刊一の中で、使用例として一八六三年刊『舊約全書』(美華書館)の例言をあげ、「書体の特徴その他からおして、ダイアの打込み母型をもとにして作られたコールの活字とみてまちがいないだろう」と述べているが(同書八二頁、「明朝活字の源流中国・美華書館」)、これは間違いで正しくはバイエルハウスが分合活字システムによって作った二二ポイント活字である。

  もう一つの二二ポイントは挿図17に示した『耶降世傳』の第四一丁目から使われているもので、明朝体活字として完成度の高いものである。これはウィリアム・ガンブルが採用した、木彫種字による電胎母型法で鋳造されたものであるが、制作開始年と完成年は残念ながらわかっていない。この活字を使った美華書館の印刷物で確認できたもっとも古いものは一八六九年で(『天路歴程』で確認)、前年の六八年には使用例がないことから一八六九年に完成したと考えてもよいだろう。一八七〇年刊の『耶降世傳』以降バイエルハウスのパンチ母型による活字は、美華書館の印刷物には使われていない。

  美華書館の活字を導入した日本では、上記二種類の二二ポイント活字の同一頁内での混用が見られる。それは明治五一一八七二一年京都文求堂の刊行した『史論』(挿図28)で、これはガンブルが明治二(一八六九)年に舶載してきた二二ポイントが電胎母型から鋳造された新しいものだけではないことを示している。


(三)一六フルニエ・ポイント(Two-line Brevier)
  フランス王立印刷所の活字彫刻師マルスラン・ルグラン(Marcellin Legrand)が分合活字の方法を使ってパンチ父型を彫り、母型材に打ちこんで母型を作りそこから鋳造した活字である。

  この活字について Chinese Repository 第三巻第一一号(一八三五年三月)は"ART.V.Chinese Metallic types: Proposals for casting a font of Chinese types by means of steel punches in Paris; attempt made in Boston to stereotype from wooden blocks"と題して報告している。

  「ポティエ氏によって制作された金属活字についての情報は、最近パリで刊行された内容見本に拠っている。この内容見本に掲載されている活字見本から、ダイア氏作制のものより活字のボディが小さく、フェイスも硬く不自然であることが分かるが、これまでに見たヨーロッパ製の活字のなかでは、明らかに最も良い出来である」(前出鈴木氏訳「訳稿(下)」)

  右の文中の内容見本にある解説には、
「亜細亜協会会員のポティエ氏は、中国の代表的な哲学者の翻訳を対頁に原文を付して印刷したいという構想を持っていました。そして、孔子や老子の政治・道徳・哲学の著作の版に、彼が言うところの「現在ヨーロッパで得られる活版印刷技術のすべて」を注ぎ込みたいと考えて、パリで最も腕利きの活字彫刻師の一人であるマルセラン・ルグラン氏に依頼したのです。彼は学問に興味があったので、常用漢字二千字のフォントのパンチを彫刻することを快諾しました」(前出鈴木氏訳「訳稿(下)」)と書かれている。

  鈴木広光氏はこの"ART.V.Chinese metallic types..."を翻訳するにあたって、メドハースト(William Henry Medhurst)のChina; Its State and Prespects に引用されているルグランの漢字見本の序文を紹介しているので、その一部を抜く。

  「ポティエ氏の指導のもと(彼はモデルの選択にあたって、親切に手助けしてくれたのですが)、私はこの問題を解決し、金属に彫刻する仕事を行い、この最も困難な言語のフォントを鋳造することができたと信じています。漢字の大部分は、観念と音を表す二つの要素から成り立っています。これらの二つの要素を組合せることによって、パンチの数をかなり減らすことができ、しかも記号の分類と構成が可能な限り単純になっている一方で、『康煕字典』に登載された全ての文字を作り出すことができたことは、まさに注目すべき成果であるといえるでしょう」

  東洋学者ポティエ(Jean Pierre Guillaume は、一八三三年に老子の『道徳経』の中仏対訳を計画し、その活字彫刻をルグランに依頼したのである。ルグランは彫刻字数を極力おさえる分合活字の方法を採用しパンチ父型を彫っていった。分合は左右又は上下の組み合わせで、その幅は三分の一と三分の二の二種類である。この活字に対する前記の賞賛は誉めすぎで、組み合わせによる姿形の崩れは致命的で、特に上下合成においてその欠陥が強く出た。

  ルグランのこの活字を使ったポティエの著書として最初に出版されたのは『大學』(Le táhio, ou la grande ètude)(挿図49)で一八七三年、『道徳経』は一八四二年に刊行されている。

  この活字がアメリカ長老会印刷所に導入された時期はいつであろうか。中国印刷史の泰斗張秀民氏は自著『中国印刷史』(上海人民出版社、一九八九年刊)の中で、
  「美国長老会対這付活字很興趣、在一八三六年花五千多元、定購了一套三千个字模、送到澳門長老会印刷所、印教会書」(五八三頁)と書いている。この記述の根拠になった原資料が何であるか書かれていないの事実関係は確認できないが、長老会は一八三六年に一組三千字を五千余元で購入し、マカオの長老会印刷所に送り聖書などを印刷したという。この文章では「いつマカオに送ったか」がわからない。長老会印刷所がマカオへ進出したのは一八四四年二月であることから、ルグランの分合活字がマカオに到着したのはこの年であろう。

挿図49 『大學』(Le táhio, ou la grande ètude)G.Pauthier, 1837(一六ポイント分合活字)

  The Mission Press in China によれば、一八四四年二月二三日初代責任者リチャード・コールが印刷機とともにマカオに到着、つづいて四月一日にはアメリカから三百二十三個の母型が運ばれてきた。この母型は分合活字のものであろうか。

  Chinese Repository 第一四巻第三号(一八四五年三月)ART.IVには、この活字が長老会に導入された経緯について次のように書かれている。

  十年前パリの何人かの中国学者が文字を分割するという計画を案出した。この方法によれば、大量で不便な活字を必要とせずに、如何なる中国語著作でも印刷できるというのである。当時中国伝道を意図していた米国長老会の海外伝道部は、母型の一組を入手し、この計画が実行可能であるかを実地にテストすることを決定した。数年間の苦労の末(大部分は伝道部の通信・文書係によって行なわれたものであるが)、計画がかなりの程度熟してきたところで、印刷機と母型が今年、中国にもたらされた。そして活字が鋳造され、印刷所では中国語または英語で印刷を行う準備が整ったのである」(前出鈴木氏訳「訳稿(下)」)

  マカオの華英校書房はこの年分合活字の見本帳二冊を刊行し、Chinese Repository の言うようにすっかり準備が整ったことを示している。
(一) Specimen of Chinese type belonging to the Chinese mission of Foreign Mission of the Presbyterian Church in the U.S.A (中国名『新鑄華英鉛印』)(挿図50)
(二) Characters Formed by the Divisible Type Belonging to the Chinese Mission of the Board of Foreign Mission of the Presbyterian Church in the United States of America (挿図51)
挿図50 華英校書房刊一六ポイント分合活字システム見本 挿図51 華英校書房刊一六ポイント分合活字総数見本

前者見本帳はMemorials of Protestant Missionaries to the Chinese によればラウリーの著作となっているが、後者については記述がない。鈴木広光氏によれば、初代責任者として着任したコールはこのとき英文印刷の経験はあったが、中国語の知識は皆無であったことから、ラウリーが制作の中心になったとみるのが妥当であろうとしており、私もこの見解に従いラウリーの著作としておく。

  Specimen of Chinese type... は中国科学院自然科学史研究所の韓博士によって、中国国家図書館(北京図書館)のマイクロフィルムの中から発見された。本書の構成は解説・活字ケース配置案・部首一覧・部首別単体活字一覧・分合活字一覧・組見本とその英訳で四十一頁である。収録されている活字は、
(一) 部首別に分類された単体活字−千九百六十三字
(二) 分合活字(左右合成)−三分の一幅九十八種、三分の二幅千三百十七種。合計千四百十五種。
(三) 分合活字(上下合成)−三分の一幅五十種、三分の二幅四百七十四種。合計五百二十四種。総計で三千九百二本となる。


  分合活字を組み合わせてできる文字は(単体活字の千九百六十三字を含めて)、もう一方の見本帳(Character Formed...)に示されている。それは康煕字典の二百十四部首に分類され、総数は二万二千八百四十一字であるが、後に九百十七字が追加され、最終的には二万三千七百五十八字という膨大な字数となっている。

  この一六ポイント分合活字の最大の欠点は合成による姿形の崩れで、サミュエル・ウィリアムスはChinese Recorder 第六巻(一八七五年一月〜二月)の“Movable Type for Printing Chinese ”に次のように書いている。

  「この活字は外国人技術者が苦労して作ったものであるから、中国人の好みに合わなかったとしても驚ろくにあたらない。画線が細すぎ、終筆が小さなハネで終わることが多く、毛筆で書かれた文字とは異なる形をしている。また、例えば「材」のように偏と同じ大きさの三画の労を組み合わせた場合、文字各部のバランスの崩れが生じるし、二十(ママ)画の「」などでは心地よくなくあまり使われなかった。合成による姿形の崩れは「」や「」など上下合成の文字でさらに大きくなった。このようなバランスの崩れた文字が多いと、ページ全体の美しさが損われてしまう。しかし、条件つきではあるが、この合成による方法は便利であった」(挿図52)

  この分合活字は、中国内ではアメリカ長老会印刷所の印刷物だけに見られ、ロンドン伝道会印刷所では使われていない。

  なお、ルグランは一八五九年パリでこの一六ポイント分合活字の見本帳を出版している。中国名『新刻聚珍漢活字』Speécimen de Caracteères Chinois がそれである(挿図53)。

挿図52 分合活字の説明(Chinese Recorder, Vol.VI January-February, 1875. American Presbyterian mission Press より) 挿図53 『鋼新刻聚珍漢活字』Speécimen de Calacteères Chinois, Marcellin Legrand, 1859(一六ポイント分合活字見本帳)



(四)一三・五フルニエ・ポイント(Three-line Diamond)
  二四ポイント(Double Pica)と同様、ダイヤーによって着手されコールによって完成したものである。

  Chinese Repository 第二〇巻第五号ART.
IV-IIの標題“Specimen of the three-line diamond Chinese type made by the London Missionary Society”は、コールによって刊行された一三・五ポイントの見本帳のタイトルであり、前記二四ポイントの項に引用したように、コールの技術と美的センスがあってはじめて美しい姿形にまとめることができた、とサミュエル・ウィリアムスは記している(挿図54)。この書体は既存のものにくらべてより小型のサイズでありながら、明朝体としての定型化や完成度は群を抜いており、中国人も充分納得できるできばえになっている。

挿図54 ダイヤーとコールの一三・五ポイント組見本
(Chinese Responsibility, Vol.20, No.5, 1851より)

  なお、矢作勝美氏は『明朝活字』の中でこの活字について発行所・発行年不明の『旧約全書』を図示し、次のように述べている(八三頁)。

  「ここに使用されている四号明朝は二種類ある。その一つは太めの粗雑な書体で、量的にはこちらが多く使用されている。もう一つは、打込み母型による鮮鋭な書体で、量的には太めのものより少ない。後者はあきらかにさきの二号明朝と同じ系統の書体であり、コールのそれであるといっても誤りではないだろう」

  矢作説ではコールの四号(一三・五ポイント)は二種類あるとしているが、その根拠は印刷面のムラからの推論によっているようであり、同字での厳密な比較検討はなされていないようである。矢作氏が図示した『旧約全書」(図版説明では発行所が美華書館となっている)は、多分一八五九年に上海墨海書館が刊行した三巻本の『舊約全書』であろう。いくつかの不足字を彫刻活字で補ってはいるが二書体は存在しない。太めの粗雑な書体と鮮鋭な書体という分類はきわめて安易な推論である。

  この一三・五ポイント活字は、オランダの日本語学者ヨハン・ホフマン(Johann Joseph Hoffmann)の提案で香港英華書院からオランダ政府が購入し、一八五八年一二月に到着、アムステルダム活字鋳造所(Lettergieterij “Amsterdam”)が電胎法で複製・鋳造、一八六〇年に見本帳(Catalogus van Chinesche Matrijzen en Drukletters)を刊行している(挿図55)。この見本帳には解説はなく、康煕字典の二百十四部首で分類し、各部首内では画数順で配列してある。収録字数は部首用活字、四声記号をつけた「聲圏字」を含めて五千五百八十一字を数える。
挿図55 Catalogus van Chinesche Matrijzen en Drukletters, Lettergieterij “Amsterdam”
1860(オランダに渡った一三・五ポイントの活字見本帳)

  なお、この見本帳に先立って一八五九年一月ホフマンは『漢字活字一組の校正刷り』(Proefdruk van een stel Chinesche Drukletters)を刊行している。この校正刷りを鈴木広光氏が東洋文庫の蔵書の中から発見されたが、同文庫本には多くの書きこみ・追加訂正があり、同書扉右上にはペン書きでHoffmannと書かれており、あるいはホフマンの自筆校正本である可能性が高いという(挿図56)。
挿図56 オランダに渡った一三・五ポイントの校正刷
Proefdruk van een stel Chinesche Drukletters, 1859(東洋文庫蔵)

  オランダにおける一三・五ポイント活字の見本帳は前記一八六〇年を初版として、一八六四年に五十部印刷された第二版(収録字数六千五百八十一字)、ライデンの印刷会社ブリル(E. J. Brill)が政府所有の漢字印刷会社を買収した翌年の一八七六年に第三版(収録字数七千六百九十五字)を刊行し、以降一八八一年から一年おきに、一八八六年からは二年おきで一八九一年までサプリメントを発行し、総字数は九千十六字にまで増加していく。

  九千字を越えるこの活字は、ブリル社の一九七〇年見本帳(Specimen of type Face)に依然として掲載されており、一八五〇年にコールによって見本帳が刊行されて以来、百二十年以上にわたって使われ続けた最も息の長い書体と言うことができる。ブリル社はこののち漢字活字を株式会社モトヤの明朝体に切り換え、この活字を廃棄処分にしたが、その一部が古書肆を通じて日本にもたらされた。

  一九世紀にヨーロッパ人によって開発された漢字あるいは仮名活字が現在まで残ることは稀である。日本国内にはウィーン王立印刷所のアロイス・アウエル(Alois Auer)が、柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』翻刻(一八四七年刊)のために作った連綿風の仮名活字九本が二つの大学図書館に現存するだけであった。それゆえコールの作った一三・五ポイント活字のオランダでの複製品が日本国内に大量に存在することは、活字書体史上特筆すべきことである。

  この活字の大きさは実測値で六〜六・〇五ミリであることから、一六ディドー・ポイント(一ポイント〇・三七五九ミリ)に相当し、本来の大きさよりも一・三二ミリ大きいサイズに鋳込んでいる。オランダではこの他に一四ディドー・ポイント(五・二六ミリ)に鋳込んだものもあり、これはアムステルダム活字鋳造所の一九〇九年版見本帳(Proeven van Oostersche Schrzften)に掲載されている。

  漢字が読めない植字工のために、この活字の背に康煕字典部首番号と画数が鋳造されている。例えば「禮」は「111−13」という数字が鋳造されているが、113は「示」偏の部首番号であり、次の13は部首を除いた旁の画数である。

  「113−13」という分類番号を与えられている文字は一八七六年版見本帳では「禮」一字だけであるから、容易に探し出すことができ、またこの番号の鋳造してある側面はどの文字も上辺であることから、上下の識別もでき転倒を防ぐことができるのである(挿図57)。
挿図57 オランダより日本に回収された一三・五ポイント活字


(五)一一フルニエ・ポイント(Small Pica)
  ウィリアム・ガンブルのアイディアで木彫種字を使って電胎法で母型を作り、そこから鋳造した活字である。

  The Mission Press in China によれば、ガンブルがこのアイディアを出したのは一八六〇年で、それまでの文字を鋼鉄へ凸刻する方法にくらべて、はるかに彫りやすい黄楊材への凸刻は、絶えず困難がつきまとった複雑な漢字種字の彫刻を容易にし、かつ姿形の完成度を高めることに成功したのである。そしてもう一つの利点が活字の小型化であった。

  この一一ポイント明朝体こそ、今までに作られた各種の明朝体を集大成し、そして現在につながる次世代の明朝体の出発点ともなった画期的な書体ということができる。ガンブルがこのアイディアに基づいて彫刻作業を始めた日時は残念ながら記録がない。一八六〇年一二月に長老会印刷所華花聖経書房は寧波より上海に移転し美華書館と改称する。寧波で彫刻は開始されたのか、あるいは上海に移ってから始められたのか。

  活字彫刻はただやみくもに好きな字から彫っていけば良いというわけではない。そこには当然ながら必要な文字種のデータがあってはじめて作業が可能になる。ガンブルはどうしたか。

  Memories of Protestant Missionaries to the Chinese に収録されているガンブルの著作としてTwo List of Selected Characters. containing all in the Bible and Twentyが一八六一年に刊行されている(挿図58)。これは美華書館が刊行した一冊の聖書と二十七冊のその他の書籍に使われている漢字を、二人の中国人学者を雇って各々二年の期限を限って調べさせた報告書である。ガンブルが寧波の華花聖経書房に着任したの一八五八年一〇月であるから、この使用頻度調査は着任して間もないときに開始されたのでなければ、二年の調査期間を含めて一八六一年には報告書を刊行できないであろう。

挿図58 ガンブルによる使用頻度調査報告書、
一八六五年再販(中国科学院韓氏提供)

  合計二十八冊の書籍に使われている漢字総数は百十六万六千三百三十五字であるが、出現する文字種は五千百五十字にすぎないことがつきとめられた。この五千百五十字以外にロンドン伝道会の書体リストにある八百五十字を加えて、六千字を一書体の必要字数と決めたのである(後に六千六百四十字となった)。

  中国人学者による調査報告書を受けとってから彫刻は開始されたはずで、その時期は一八六一年と考えてよい。ではこの一一ポイント明朝体六千字が使用できるようになったのはいつか。これも残念ながら記録されていないようである。印刷物から追ってみると、確認できた最も古い使用例は山梨英和短期大学図書館門脇文庫蔵の『舊約全書』一八六四年刊である。六千字の種字彫刻と電胎法での母型製作、鋳造を考えればその製作期間は二年ほどであろうか。

  この一一ポイントが完成して後、同じ種字彫刻者は前述の二二ポイントの木彫に入ったと思われる。二書体が同一彫刻師であるという記録はないが、両者の書体デザインはその特長がよく似ており私は同一人物によって彫られたと考えている。

  ガンブルはこの六千字を「常用」「備え用」「稀用」の三種に分け、ケースに整理した。その配置は正面に横四ケース縦六ケースの合計二十四ケース、これを三段に分け中段八ケースに常用を、上段および下段のそれぞれ八ケースに「備え用」を配置し、「稀用」は脇のケースに分類・収容してある。このケースは張秀民氏によれば「元宝式活字ケース架」と言われているもので、俗に「三角ケース架」あるい「升ケース架」とも呼ばれるそうである。挿図59は美華書館の植字室の写真であるが、このケースの配置が良くわかるだろう。この写真はThe Chinese Revolution (Arthur J. Brown, 1912)に収録されているが、場所その他何の説明もない。しかし一九一二年という時期を考えれば北四川路に新築した美華書館の印刷工場内での撮影ではないか。

挿図59 上海美華書館漢字活字植字室風景
(The Chinese Revolution, A.J. Brown, 1912により複写)

  なお漢字使用字種の調査はすでにダイヤーがおこなっており、一八三四年マラッカの英華書院で』A Selectioin of Three thousaud Characters being the most important in the Chinese languageを刊行している(挿図60)。このダイヤーの調査についてはChinese Repository第一巻第一〇号(一八三三年二月)にブリッジマン(Elijah Coleman Bridgman)が次のように伝えている。

  「彼は、歴史や道徳、また中国人の著作やキリスト教徒のものなど十四の中文著作で用いられている文字の相対数を計算し、新しいフォントにおける各文字の比率を割り出したようである」(鈴木氏訳「訳稿(上)」)
この調査も二年以上の時間を費やしたようである。

挿図60 ダイヤーの使用字種調査報告書、
一八三四年 (中国科学院韓氏提供)



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