第三部

活版の世界



活版印刷機

活版印刷には印刷機が不可欠である。印刷方法の改良と機械の発明は、活字の製造と。ハラレルな関係にある。国内では、木版印刷(整版)の伝統があったためだろうが、駿河版や三代木村嘉平の摺板形式による印刷機が最初期のものとしてあった。こうした手摺りの時代には、活字そのものの硬度が問題にされることもなかったが、幕末にオランダから西洋の平圧式印刷機がもたらされ、それとともに組織だった印刷刊行事業が行われるようになると、活字や印刷機の耐久性、印刷の能率が追求されるようになる。輪転機による大量印刷は、そうした時代の要請に応えるものであり、これが活版印刷の最終形態としてわれわれに残されている。「摺る」から「刷る」へ、印刷道具の進化とともにある印刷形式の変化を見て取ることができる。




68[不掲載]アルビオン型凸版平圧式手動印刷機
明治期
鋼鉄
凸版印刷株式会社蔵

わが国に将来された最初の活版印刷機は、アムステルダムで作られた鋼鉄製の平圧式印刷機であった。これは一八〇〇年にイギリス人スタンホープが開発した印刷機で、その名にちなみ[スタンホープ式」と呼ばれている。本機はグーテンベルクの発明した木製ネジ式印刷機にならった平圧式鋼鉄製印刷機。原型となったのは一八二〇年イギリスのコープが製作したアルビオン・プレスで、その加圧機構に改良が施されている。このタイプの印刷機は明治時代に多数輸入され、国産の同型機種を含め、国内で広く活用された。
69[不掲載]鋼版転写機
昭和期
鋼鉄
凸版印刷株式会社蔵

凹版の多面実用版を造る米国チャップマン社製転写機。鋼版の原板に強い圧力を加え、そこに原版を転写し円鋼版(丸鋼版)を造り、さらにその図柄を平鋼版に多面転写して実用版に加工する。同型機は昭和一五(一九四〇)年頃から効率的な証券実用版製版法として活躍している。凹版印刷は明治初期にイタリアから招かれた銅版彫師キヨソーネが伝えたもので、紙幣、印紙、切手、証券、株券など、精巧な特殊印刷に使われている。
70[不掲載]パントグラフ
昭和期
鋼鉄
凸版印刷株式会社蔵

有価証券などに使う彩紋、文字、図様を、原図から縮小して、針でもって銅板上に描くようにして刻み込む転写機。これと同じ原理を使った作字機械もある。近代の活字の多くは、字母からパントグラフでもって縮小刻字された種字を基にして作られている。ドイツのフリート・クレブス社製。
71 ハイデルベルグKSB印刷機
昭和三五(一九六〇)年
鋼鉄
ヨシダ印刷株式会社寄贈、総合研究博物館蔵

印刷機は版と押板が平らな平圧式、版が平で押板が円筒型をなす円圧式、版と押板のいずれもが円筒形の輪転式の三種に大別される。輪転式印刷機は一八五七年に米国のR・ホー社が開発し、印刷の早さが売り物だった。その後、フランスのマリノニ社がこの機種の改良に成功。それが明治二三(一八九〇)年に日本へもたらされ、印刷局印刷所や新聞各社などで活躍した。ハイデルベルグは戦後の日本に普及したもっともポピュラーな輪転式印刷機の一つである。
72 林栄社活字鋳造機KL
昭和三七(一九六二)年
鋼鉄
ヨシダ印刷株式会社寄贈、総合研究博物館蔵

活字鋳造の機械化は一八三三年に米国で始められた。この回転式活字鋳造機では一時間に万単位の活字を作ることができる。



活字書体見本帖各種

活字書体史を研究するための最もベーシックな資料は、活字メーカーや印刷所の出版した活字見本帖である。フランス王立印刷所の一八四五年版見本帖には漢字・仮名を含む世界各地の文字の活字見本が収録されている。『富多無可思』は日本随一の書体数を誇った関西の雄・青山進行堂の数多い見本帖のなかの白眉と言える。



  国産宋朝体活字について
府川充男


  かつて本邦に宋朝体の国産鋳造活字は存在しなかったが、やがて津田三省堂により宋朝体活字が国産化される。同社による国産宋朝活字の登場を告げる最初の広告は第二次『印刷雑誌』第一四巻第一二号(昭和六年)に掲載された。最初に国産化されたのが長宋体、続いて方体宋朝活字が発売された。やがて森川龍文堂の龍宋体が出て宋朝活字のヴァラエティは一挙に豊かなものとなる(支那には正楷書と並んで真楷書なる書体があったという説もある。佐藤敬之輔『漢字下』[丸善、昭和五一年、文字のデザイン第六巻]に次の文面が見られる。「中国にはこの他に真楷書というのがあったが、日本には輸入されていない。これは龍宋体[中略]に近い書体で、中国から依頼され岩田母型で母型を作ったが、日本では活字になっていない」。ただし、この記事の典拠は明らかでない)。

  第二次『印刷雑誌』第一八巻第四号(昭和一〇年)の特輯「印刷所の顧問」より津田三省堂の項目の一部を引いておこう。
支那中華書局の原字を基として上海芦沢印刷所主芦沢民治氏をして種字を新刻せしめ三省堂に於いて鋳造発売す。既に現在方体は一号以下六号迄、長体は一号以下七号迄(六号無し)各五、六千文字を完成し、初号は共に数十文字を既製し鋭意新刻中にて近くこれが完成を発表さるべく期待さる。
本活字は支那に於いて最も好評を博しゝある中華書局書体の雄健にして典雅、活字面の鮮鋭明確なるは無比にして、しかも原字を凌駕する筆勢を有し、漢書、典籍、書状、名刺等の印刷用として旺然たる利用範囲を拓けり。
  それ迄も宋朝体活字は一部好事家の間で名刺や葉書等に用いられていたというが、それはいずれも支那現地で印刷したものか銀座鳩居堂等で註文を受けて上海の中華書局で印刷したものであった。津田三省堂による国産化以降は書籍に迄大いに宋朝体が用いられるようになった。しかし、津田三省堂は戦火に遭い、同社が戦後再び宋朝体活字を製品化するのは石井茂吉の遺作である写植用長宋体の活字化(ただし石井宋朝体は仮名の出来が悪い為、仮名だけは津田三省堂独自の書風のものを組み合せた)によってであった。石井茂吉の遺作となった石井宋朝体は、右引用に雄健と評された如く勁倔の風気を湛えた中華書局書体とは対蹠的に、如何にも石井らしい淡雅な書風のものであるが、活字化した場合は印圧が加味されて中々の風格を感じさせる。なお戦災を潜って津田以外の活字メーカー数社に戦前の津田宋朝体活字の母型が残された。今日でも入手し得る、日本活字工業等の宋朝体活字は恐らく戦前の津田宋朝体の衣鉢を直裁に継ぐものではないかと思われる。

  さて、小宮山博史氏が嘗て津田伊三郎の息・津田太郎氏に電話で取材されたというメモランダムに基づき、ここで簡単に宋朝体活字国産化に至る過程を整理しておこう。多少の時間的誤差が介在している可能性もあるが、これ迄全く知られておらぬ内容を含んでおり興味深いものがある。
大正十(一九二一)年頃、津田太郎氏は宋朝体活字の種字を購入する目的で上海に渡ったが、無断複製への警戒が極めて厳しく購入に失敗したという。同様の目的で入手法を探っていた会社には築地活版、林栄社、共同印刷、大日本印刷(秀英舎活版製造所のこと?)等があったが、いずれも失敗。昭和四(一九二九)年、津田三省堂は再び宋朝体活字の製造を目指すこととなり、商務印書館、中華書局の宋朝体を比較した上で中華書局の書体の採用に決した(商務印書館の宋朝体活字は森川龍文堂による龍宋体として後日国産化される)。しかしながら相変らず種字入手の見通しは全く立たず、為に津田のエージェントであった上海・芦沢印刷所の芦沢民治が中華書局の彫刻師を買収、長宋の二号・三号・四号・五号の鉛材直刻母型を新たに彫らせることとした(何のことはない、先の広告文面にあった「芦沢民治氏をして種字を新刻せしめ」云々の実態とはこのことであったわけだ。そう言えば正借書活字の国産化に際しても同様に、支那の活字業者をペテンにかけて活字を入手した経緯が伝えられている)。昭和六(一九三一)年、津田三省堂は二号・三号・五号を発売。一号、四号、六号は支那では出来なかった為、その後日本で木に彫刻、仮名は活動写真『忠臣蔵』のタイトルを真似て名古屋の活版彫刻師が彫った。更に昭和七(一九三二)年、方宋の二号・三号・四号・五号・六号を発売し、以降、満洲、南支、広東等にも輸出したという……。
  さて津田三省堂を追尾して森川龍文堂は「龍宋体」を造り出す(挿図1。これまた津田型と同様オリジナルではなく、右の通り商務印書館の宋朝体活字の模製に過ぎない)。同社の活字書体見本帖『和欧文活字と印刷機械』(昭和八年)に掲載されている宋朝体活字の殆どは津田三省堂のもので一一八頁に「新刻中のもの予告」とされているのが龍宋体である(龍宋体の母型は今日、岩田母型大森工場に保存されていて活字も入手可能である)。 なお津田三省堂の宋朝に続いて他社でも支那人彫刻師の手になる宋朝活字が製造された節がある。第二次『印刷雑誌』第一八巻第五号(昭和一〇年)に掲載の「活字及活版印刷動向座談会−活版術将来の見通し」で次のような遣取りが交されている。

挿図1 龍宋体

  なお津田三省堂の宋朝に続いて他社でも支那人彫刻師の手になる宋朝活字が製造された節がある。第二次『印刷雑誌』第一八巻第五号(昭和一〇年)に掲載の「活字及活版印刷動向座談会−活版術将来の見通し」で次のような遣取りが交されている。
和田(単式印刷専務・和田助一)「あの宋朝は一日十五本くらい彫るといふことですが……」
郡山(印刷雑誌・郡山幸男)「あれはこゝに藤田さんが居られますよ。支那で彫つたんですね」
上原(東京築地活版製造所技師・上原龍之助)「私の方の四号は支那で彫つたが、出来はよくないです」
矢野(内閣印刷局・矢野道也)「私の方でもあれは使つてゐるが、どうも字が頼りないところがあるやうですね」
藤田(藤田活版製造所主・藤田茂一郎)「支那人は駄目です。支那人は直截彫と云つて活字の地金でなくては彫れない。黄楊には彫れないので、それで字体が拙くなる。線がスーツと来ないで震えてゐる……」
郡山「なんですか、地金だから欠けるのですか」
藤田「欠けるといふ程のことはなくても、滑らかにいかないで細かく震えるのですね。それで宋朝のやうな書体はごまかしがつくが、明朝は彫れませんね」
  支那人彫刻師の腕の如何はともかく、津田三省堂を追尾して東京築地活版製造所等でも宋朝体活字を製造し始めていたことがここから察せられるが、その実際に用いられた組版の例に私は未だ接し得ていない。

73[不掲載]『王立印刷所活字見本帖』
Spécimen typographiquw de l'imprimerie royale,Paris,1845
一八四五年
パリ、王立印刷所
洋装本、縦四二・二cm、横二九・六cm
個人蔵

一六四〇年に仏国宰相リシュリューの創設した王立印刷所の活字見本帖。印刷されたのはルイ・フィリップ時代。本書はその第九六番本。一八五二年以降、ルイ・ナポレオンの蔵書として装釘されている。内容は外国書体の解説、現行書体の組見本、外国書体の組見本、各種罫線、数式他、モノクロとカラーの飾罫、各種装飾模様・収録書体に関する各種データ。外国書体は三十二文字書体で二十六サイズ百四種に及ぶ。本頁は四〇ポイント漢字活字。一七三二〜四二年、一八一一〜一三年にかけて彫られたもので、ヨーロッパにおける最古の明朝体である。この木活字は王立印刷所の後身である、現在のフランス国立印刷所に保存されている。
74 『東洋活字見本』
Proeuen uan Oostersche Schriften,Amsterdam,s.d.(1909?)
無刊記、一九〇九年(?)
アムステルダム
洋装本、縦三〇・三cm、横二二・〇cm
個人蔵

アムステルダム鋳造所の活字見本帖。無刊記ながら、同鋳造所の出版目録には一九〇九年の刊行とある。本頁は一八五〇年に英華書院が完成させた一三・五ポイント漢字活字と一八四七年にウィーン王立印刷所のA・アウエルが開発した連綿仮名を混植した組見本。一三・五ポイントはオランダに輸入された後、一六ポイントの、ボディに鋳込み直され、一九七〇年頃まで使われていた。連綿活字はウィーンにもはや現存せず、本邦に九本のみ現存する。本書には八、一〇、一二、一六ポイントの片仮名活字の組見本も収録されている。
75 青山進行堂『富多無可思』
明治四二(一九〇九)年
和装本、縦一八・五cm、横一二・五cm明治新聞雑誌文庫蔵(740-A58)

国内随一の書体の品揃えを誇った関西の活字製造所青山進行堂の活字見本帖のうち、もっとも大冊のもの。明朝、ゴチックなど通用の書体から連綿仮名、南海堂書体、纂書、飛白、勘亭流などの変書体まで、膨大な活字の書体見本を収載する。
76 製文堂『秀英舎活字見本帖』
明治四三(一九一〇)年
洋装本、縦二一・九cm、横一四・六cm
個人蔵

秀英舎は明治九(一八七六)年の創業。現在の大日本印刷株式会社の前身である。製文堂は秀英舎の活版製造部門。創業当初は東京築地活版製造所の前身である平野活版より活字を買っていたが、明治一四年から自家鋳造を開始し、明治二二年頃より自社独自の活字書体を手がけ始めた。後に「築地」と並び称せられるまでに書体の完成度を高めていった。本頁は一号と二号の組見本。漢字は築地活版よりやや細く、平仮名は手書きの名残りを強く留めている。
77 東京築地活版製造所印字見本(田中芳男『拾帖』第三一冊より)
和装帖、縦二八・〇cm、横二〇・〇cm
田中文庫、附属図書館蔵(A00−6010)
78 新聞紙型(田中芳男『拾帖』第九五冊より)
和装帖、縦二八・〇cm、横二〇・〇cm
田中文庫、附属図書館蔵(A00−6010)




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