第二部

活字の世界



48 馬場佐十郎編著『蘭語訳撰』(全五冊)
Nieuw versameld en hollandsch WOORDENBOEK. Door den vorst van het landschap Nakats, Minamoto Masataka. 5 Deels, gedrukt bij zijn dienaar Kamiya Filotosi, 1810
文化七(一八一〇)年
中津藩主奥平昌高(裳亭)編、神谷弘孝印刻、「元祖彫工師小林冬渓」刻
縦二六・〇cm、横一七・六cm
附属図書館蔵(A100-983)

日蘭対訳辞書として国内最初の刊本であり、『中津辞書』とも通称される。収録語数は約七千で、古い節用集の形式に倣いイロハ順の十九部門からなる。匡郭と訳語は整版、蘭語と部門名は木刻活字の二度摺り。名雲純一氏によると、初めに匡郭だけ摺り、蘭語活字と門語活字(ほとんどが二字の連続)とを混用して植字し、蘭語の整版も同時に摺った上で、蘭語と訳語の訂正補充を木刻活字で後擦りするという、入念で珍しい版式からなるという。包み背装で、糸の代わりに錨を打ち、三カ所を留め、表紙右端に細い竹を通すという体裁もユニークである。印行を命じた中津藩主奥平昌高は、「蘭癖大名」の異名を取るほど蘭学に熱心であった。



大鳥圭介製鋳造金属活字

大鳥圭介は安政四(一八五七)年頃から万延元(一八六〇)年頃にかけ、錫と亜鉛、さらにはアンチモンを混ぜた独自の合金で明朝体に類似した漢字、平仮名、片仮名の活字を鋳造し、「築城典刑」他の、主として西洋兵学の翻訳書の印行に寄与した。




49 吉母波百児著『築城典刑』(全六冊)
万延元(一八六〇)年
大鳥圭介訳、縄武館版、和装本
縦一八・二cm、横一〇・七cm
静岡県立図書館葵文庫蔵

吉母波百児はオランダの兵学教官。芝新銭座の縄武館は、江川太郎左衛門英龍の功に対して幕府が英龍の子、大郎左衛門鋭敏に与えた砲術演習場、別名江川塾のこと。本書初版刊行当時、大鳥は同館の翻訳担当教官で、後に陸軍所に勤めた。凡例に「錫造ノ活字新鋳其未完備セサルヲ以テ今姑ク之ヲ植テ」とあることから、できたての大鳥製活字(漢字・仮名)で刷られた最初の印行物であることがわかる。後印版、覆刻版、翻刻版など異版も多い。

50 『歩兵制律』(全一冊)
元治二(一八六五)年
川本清一訳、幕府陸軍所官版、和装本
縦一八・二cm、横一〇・七cm
個人蔵

大鳥活字を用いた縄武館、陸軍所の刊行物は十数点二十数冊に及ぶが、漢字平仮名交じりの本文組版は本書のみ。



本木昌造製金属活字

本木永久(昌造)は長崎の伝習所で活字判摺立取扱掛として『和蘭文典成句論」(安政三年)他の、いわゆる「長崎版」の印行に関わったとされる。他に長崎民間版として、『和英商質対話集」、『蕃語小引』、『空蝉艸紙』の三書四冊が彼の手になるものらしい。中国上海の印刷出版会社美華書館を率いた米国人W・ガンブルより、長崎製鉄所の活版伝習所で電胎法を学んだ本木昌造は、明治二(一八六九)年から明治三(一八七〇)年にかけ、美華書館風の明朝体漢字、平仮名の鉛合金活字を開発し、それらを初号から五号まで揃えることでもって、国内の本格的な活版印刷出版事業に寄与した。そのために、「近代活版印刷の父」と目される。




51a 明朝体活字原版
安政四(一八五七)年ないし五(一八五八)年頃
鋼鉄
「秩字」縦一・〇四cm、横〇・九七cm、厚二・四〇cm
「太字」縦一・五一cm、横一・五一cm、厚三・四〇cm
野村宗十郎寄贈、東京国立博物館蔵(1794)

51b 明朝体活字原版
安政四(一八五七)年ないし五(一八五八)年頃
真鍮
「版字」縦〇・七七cm、横〇・七七cm、厚二・八九cm
「銀字」縦〇・七六cm、横〇・七七cm、厚三・〇〇cm
野村宗十郎寄贈、東京国立博物館蔵(1795)

51c 明朝体活字母型
安政四(一八五七)年ないし五(一八五八)年頃鋼鉄
「仁字」縦四・二四cm、横一・八〇cm、厚〇・八五cm
「譜字」縦三・三三cm、横〇・九六cm、厚〇・六〇cm
野村宗十郎寄贈、東京国立博物館蔵(1796)

明治三四(一九〇一)年一一月に東京築地活版製造所の支配人であった野村宗十郎より東博に寄贈されたもの。「安政年間の作」とされているが、これらを使用した出版物はいまだ知られていない。「版字」および「銀字」の字体は、小宮山博史の見るところによると、『蕃語小引』の漢字活字に相通ずるという。母型は電胎法によって作られており、本木がこの方法をガンブルから学んだ明治二(一八六九)年以降のものと考えるべきだろう。

52a 金属製三号大電胎母型・父型・鋳型
安政年間(一八五四〜六〇)
木、木箱縦二〇・〇cm、横三〇・〇cm、厚七・〇cm
長崎諏訪の社文学館蔵

52b[不掲載]
三号大木製種字
安政年間(一八五四〜六〇)
金属、木箱縦二〇・〇cm、横三〇・〇cm、厚七・〇cm
長崎諏訪の社文学館蔵

本木昌造が創設した長崎新町活版所の関係者のひとり、喜多庄太郎が大正一四(一九二五)年に諏訪神社に寄贈したもの。初号活字用鋳型、三号活字用鋳型、電胎母型、母型用マテ材等の他に、木箱で三箱にも及ぶ、総計三千二百五十九本もの木活字が残されている。これらの木活字は新町活版所最初期に製造された三号楷書体の種字であったと考えられる。

53 塩田幸八出版『和英商頁対話集』(全一冊)
A new Familial Phrase of the English and Jpanese Languages, General Use for the Merchant of the Both Countries, fiest parts.
安政六(一八五九)年一二月
長崎版、和装本
匡郭縦一一・二cm、横一五・四cm
名雲書店蔵

塩田幸八が出版名義人となり長崎で刊行された。著者は本木昌造。序文と訳語は整版、他は鋳造金属活字。まず活版、次に整版の二度刷りであることは、一部に訳語と欧文との重なりのあることから判る。欧文活字は本木が試行錯誤して創り出したものだろう。字体は縦横の線に肥痩のないダブル・パイカ大活字風で、後年のタイプライターの活字フェイスに通じる。現存の確認されている本木関係印刷物のうち、本木自製の鋳造活字を用いた最古の書物。

54 増永文治・内田作五郎出版『蕃語小引数量篇』(初編二巻のうち下巻)
Japanese Translation of the English and Dutch, with pronounciation: Japanese Vertaling van het Engelsche en Nederduitche. Met Uitspraak
万延元(一八六〇)年一〇月
和装本
匡郭縦一五・六cm、横一一・四cm
名雲書店蔵

現存の確認されているもの僅かに四部、上巻は京都府立西京商業高校図書館蔵の一本しか知られていない。下巻奥付には木版で「長崎麹屋町、書肆、増永文治」とある。長崎の増永文治と内田作五郎が出版名義人であった。本木昌造の関与はほぼ確実で、著者も本木本人であったと考えられる。欧文と漢字はすべて鋳造活字である。上巻の凡例末に「原語訳字共ニ活字ヲ用フ今新ニ製スル所ニシテ未タ精ニ至ラス覧者ノ寛怒ヲ希フ萬円庚申九月」とあり、本木自製の鋳造活字の組み合わせのみによって成った最初の書物と考えられる。

55a 『和蘭文典成句論』(全一冊)
Syntaxis, of Woordvoeging door de maatschappij Taal, uitgegeven door de maatschappij Leiden,1810
安政三(一八五六)年
長崎官版、洋装本
洋学文庫、早稲田大学図書館蔵

蘭語の文法書の翻刻版で安政三(一八五三)年長崎刊行の官版は、邦人の手になる鋳造活字(欧文)による最初の印刷物と見なされる。本書をはじめとして一八五〇年代に長崎の活字摺立所で印刷された蘭文組版の官版数点をとくに「長崎版」と呼ぶ。
ベース・ラインの不揃いをはじめとして活字の造作は相当に拙劣である。

55b 『和蘭文典前後』(全一冊)
Grammatica of Nederduitsche Spraakkunst, Uitgegeven door de Maatschappij: Tot Nut van 't Algemeen. Tweede Druk, Leyden, 1822; Syntaxis of Woordvoeging der Nederduitsche Taal, uitgegeven door de maatschappij. Leiden, 1810
天保一三(一八四二)年九月、作州箕作氏蔵版
安政四(一八五七)年覆刻
山城屋覆刻、洋装本、縦二五・三cm、横一七・八cm
附属図書館蔵(D330-48)

箕作氏蔵版は整版(木版)による印行本。

55c 『和蘭文典後編成句論』(全一冊)
Syntaxis, of Woordvoeging der Nederduitsche Taal, uitgegeven door de maatschappij. Leiden, 1810
嘉永元(一八四八)年、作州箕作氏蔵版
安政四(一八五七)年覆刻
山城屋覆刻、和装本、縦二六・三cm、横一八・三cm
附属図書館蔵(D330-7)

箕作氏蔵版は整版(木版)による印行本。



明治初期本木系金属活字

本木昌造とともに長崎製鉄所でガンブルから電胎法を学んだ者たちは、その後長崎で本木が開いた崎陽新塾(のちに新街私塾から新町活版所となる)と、東京の工部省勧工寮活字局の二カ所を拠点に活動を続ける。明治三(一八七〇)年には本木が二号と四号の明朝体活字を開発。さらに小幡正蔵、平野富二が東京へ派遣され、後者は明治五(一八七二)年夏に崎陽新塾出張平野活版製造所(後の東京築地活版製造所)を開設し、明治一桁台後半から本木活字を一挙に普及させる。




56a 『東京日日新聞』第一号
明治五(一八七二)年二月二一日
日報社
紙、整版、縦二九・五cm、横四四・五cm
明治新聞雑誌文庫蔵(S1-N10/Z19-2-1)

56b 『東京日日新聞』第二号
明治五(一八七二)年二月二二日
日報社
紙、金属活字版、縦二九・五cm、横四四・五cm
明治新聞雑誌文庫蔵(S1-N10/Z19-2-1)

56c 『東京日日新聞』第一四号
明治五(一八七二)年四月一一日
日報会社
紙、活字版、縦二九・五cm、横四四・五cm
明治新聞雑誌文庫蔵(S1-N10/Z19-2-1)

56d 『東京日日新聞』第二一号
明治五(一八七二)年四月一九日
日報会社
紙、活字版、縦二九・五cm、横四四・五cm
明治新聞雑誌文庫蔵(S1-N10/Z19-2-1)

56e[不掲載]
『東京日日新聞』五三九号
明治六(一八七三)年一一月二二日
日報会社
紙、勧工寮活版、縦二九・五cm、横四四・五cm
個人蔵

56f[不掲載]
『東京日日新聞』五四〇号
明治六(一八七三)年一一月二四日
日報会社
紙、平野活版、縦二九・五cm、横四四・五cm
個人蔵

『東京日日新聞』は活版によって新聞を印刷する計画を持っていた。しかし、創刊号は木版による。『毎日新聞百年史』によると、照降町の蛭子屋に上海製活字が、本町二丁目の瑞穂屋に印刷機がそれぞれあり、それらを使って印刷を目論んだものの活字が足りず、木版摺りとなったのではないかという。第二号から活版に変わるが、やはり漢字が揃わず第一二号から木版摺りに逆戻り。木活字を経て再び金属活字に帰るのは第三〇四号(明治六年三月二日)からである。
  第五三九号(明治六年一一月二二日)は勧工寮の活字で組まれた最後の紙面。第五四〇号(同年一一月二四日)は平野活版の活字で組まれた最初の紙面。勧工寮の活字も平野活版のそれも元は同じ上海美華書館の五号活字である。明治二年一一月から翌年四月にかけW・ガンブルを招き長崎製鉄所内で行われた活字製造等の講習に参加した人々が、一方は本木昌造の新街私塾活字製造所に行き、もう一方はそのまま残り活字製造を続けた。本木の活字製造所は平野活版と名を変え、東京に進出。後にこれが東京築地活版製造所となる。製鉄所内に残ったものは工部省勧工寮活字局となり、現在の大蔵省印刷局の前身となった。『毎日新聞百年史』の「技術編」を執筆した古川恒によれば、勧工寮の活字には少なくとも三種の書体が混在する上、寸法にも違いがあったという。そうした折りに、平野活版所の活字の美しさを発見。また、平野側が活字を直接東京日日新聞に売る意志のあることがわかり、五四〇号よりすべての活字を平野製に切替えたという。
  『東京日日新聞』は第一一八号(明治五年七月二日)から第三〇三号(明治六年二月末日)まで木活字で印刷されている。この木活字時代の第二三二号(明治五年一一月九日、一八七二年一二月九日)は太陰暦から太陽暦への改暦号に当たり、三段組の上段全部がその告知に充てられている。『毎日新聞百年史』によると、この号は二日間で二万五千部を売ったという。これにより『東京日日新聞』は発行部数を伸ばした。その結果、請負制の印刷に問題が生じ出し、工場直営の印刷に切替えると同時に、活字を木活字から勧工寮製の金属活字に切替えることになった。

57< 佐藤信淵著『培養秘録』(四巻補遺二巻の全四冊)
無刊記、文化一四(一八一八)年自序
山口県聚珍堂版二号大活字版、和装本
縦二二・七cm、横一五・〇cm
個人蔵

二号活字の組版。ここに使われている二号は明治二(一八六九)年頃上海美華書館が木彫種字・電胎母型で作ったものを原型とする。一緒に組まれている仮名文字は、長崎の崎陽新塾活字製造所が独自に作ったもの。本邦の最初期の明朝体漢字はすべて上海美華書館の複製品であったが、仮名については独自に開発する他なかった。明治五(一八七二)年に発表された日本最初の活字見本には仮名は掲載されていないが、解説部分に四号の日本独自の仮名が使われている。明治初期の活字印刷本には四号ないし二号の使われていることが多い。



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