植物園と植物の種多様性の維持
世界の植物園とその役割

岩槻邦男


植物園と植物多様性の保全
 植物園は動物園と違って、今でも英語ではBotanical Gardensと呼ばれている。最近数十年において、生物多様性の研究が相対的に低調であった時期においても、植物園は、少なくとも欧米においては、研究の一つの中心としての位置を維持し続けていたし、そのための、up-to-dateの系統保存活動にも、それなりに貢献できていた。日本においては、ある時期、植物園を生かした研究教育活動が下火になったことがあった。しかし、その間も、植物園としての基本的な業務が維持されてきたことは忘れてはならないことである。

 研究基盤としての植物園の系統保存は、多様な植物群の代表をいつでも容易に入手できる姿で維持される。それに加えて、十数年前から、絶滅危惧種と植物園との関わりが、社会的な関心も含めて取り上げられるようになってきた。野生状態で生きていけなくなった植物は、もはや進化の過程から追放されたようなものであるが、それでも、遺伝子資源としての意義からいうと、植物園等の施設で保全されていることが、重要な意味をもつ。イチョウは野生状態では絶滅したものと推定されるが、社寺林などで人が栽培していたために、今も生きた株を確保しており、精子の発見など、生物学的に大切な材料として確保さ、れているほか、街路樹としてもっとも多くの数使われるとか、薬としての効用がここへ来て活用されるとか、遺伝子資源としての利用が可能になっている。

 欧米の先進国などでは、植物園等の系統保存として、(一)系統群を代表する植物を常に保有する(分類標本園など、社会教育の施設と連動させることがある一。(二)遺伝子資源としての系統保存は、広大な面積に、数株以上の個体数を維持するかたちの新しい施設を設ける。(三)種子・胞子などの形態での系統保存を含め、新技術を駆使した取り組みがはかられている。(四)絶滅危惧種については、施設内確保に相当の力が入れられ、保全生物学の研究にも新展開が見られる。小石川植物園でも、これらのいずれにも取り組みは試みられたものの、キュー植物園とくらべると、二五分の一の人員、五〇分の一の経費では、対等の勝負にはならず、既存の施設の維持が精一杯で、ほとんどの部分で豊かな稔りが得られないでいる。




日本の植物園の果している役割
 日本の植物園には公立のものが多く、市民向けのサービスを求められるが、研究教育の機能は期待されないものが多い。しかし、絶滅危倶種に象徴される生物多様性滅失の危機は、遺伝子資源の面からも、環境問題としても、現在では社会教育の課題としても極めて重要なものである。社団法人日本植物園協会でも、この課題についての個々の植物園の取り組みを期待し、大会や協会誌、ニュースレターなどを通じて絶滅危惧種に関するキャンペーンを活発に行った。また、毎年東京で植物園展を開催することにより、協会としてこの問題に取り組んでいる。

 これらの活動を通じて、植物園が協会として社会に対して一定の働きかけをしている上に、植物園関係者の意識が高められ、国公立園だけでなく、本来利潤の追求が必要な私立園においてもこの種の活動に主導的な役割を果たすところが増えてきた。絶滅危惧種の保全を通じて、生物多様性の持続的な利用を図るためには、生物多様性は野生の状態で保全されるべきものであり、そのために、植物園が一定の役割を果たすことは、現在が強く期待するところであり、現に日本の植物園も、それに対応する働きを示しているところである。

 欧米の先進国などでは、植物園等の系統保存として、(一)系統群を代表する植物を常に保有する(分類標本園など、社会教育の施設と連動させることがある一。(二)遺伝子資源としての系統保存は、広大な面積に、数株以上の個体数を維持するかたちの新しい施設を設ける。(三)種子・胞子などの形態での系統保存を含め、新技術を駆使した取り組みがはかられている。(四)絶滅危惧種については、施設内確保に相当の力が入れられ、保全生物学の研究にも新展開が見られる。小石川植物園でも、これらのいずれにも取り組みは試みられたものの、キュー植物園とくらべると、二五分の一の人員、五〇分の一の経費では、対等の勝負にはならず、既存の施設の維持が精一杯で、ほとんどの部分で豊かな稔りが得られないでいる。




植物園における絶滅危惧種の施設内保全
 危ない植物を、緊急避難のかたちで植物園等施設に保存しておこうという考えは極めて常識的なものである。しかしそのような事業は、個々の植物園で完結するものではない。第一に、たった一ヵ所に栽培しておいたのでは、何かの事情でそこで枯死してしまうと、地球上から一切なくなってしまうことになる。そこで、保険のために、二ヵ所以上の施設で栽培しておくことが期待される。そのために、植物園の間で、保有している絶滅危惧種のリストを交換し、保有株の交換を行って、複数の施設で栽培が行われるよう手配する。第二に、成体の施設内栽培のみでなく、種子や胞子など休眠中の繁殖体のかたちでの保存や、組織、細胞、さらにはDNAなどの状態での保存の研究が進められる。多様な種についての保存法の検討は、限られた施設だけでは困難で、さまざまの植物園がそれぞれの施設の特性を生かしながら、必要な材料の保全の研究を進めるのが効率的である。このための情報交換も肝要である。

 これらの事業に対応するために、植物園は国際的な機構を有効に利用するよう務めている。国際科学連合ICSUの下部機構に国際生物学連合IUBSがあるが、このIUBS傘下に国際植物園連合IABGがある。この連合では、植物園に関するあらゆることの情報交換などを図ろうとするので、この種の連合が経済的にも、人的にも余裕のないものだけに、成果は遅々として進んでいないのが現状である。辛うじて、地域連合をつくり、せめて地域ごとの活動に成果を求めているが、アジア地域連合も、現状では、基本的な情報交流さえ限られた人々のボランタリーな貢献に期待せざるを得ない。

 絶滅危惧種に対応すべき植物園等施設の役割の緊急な状況からいって、IABGの対応だけでは不完全であるということから、この問題に特異的に対応する機構として、イギリスに本部は置くものの国際的な活動をする植物保全植物園国際機構BGCIが、一〇年ほど前に結成された。事務局をロンドン郊外のキューに置き、積極的に募金活動を行って、財政基盤を確かにし、専従職員を置いて、活発な保全活動に実績を上げてきた。開発途上国の植物園への、この課題に関する補助など、一定の成果を収めている。

 日本の植物園の国際協力には一定の評価が与えられている。そのこともあって、IABGの会長に選出された筆者の任期はまだ残っていて、日本の協会の協力を得ながら活動は続けている。また、BGCIには日本の植物園の協力はそれほど大きくないが、筆者は理事の一人に指名されており、活動に協力している。いずれも、一番近い任期の交代の時に代わっていただきたいと思っているが、日本からの協力には期待が大きい。ただし、奇妙なことであるが、この種の事業については、日本からの財政的貢献はほとんどなく、ボランタリーに汗をかく協力しかできていない。日本の植物園の置かれている状況を正確に反映したものといえよう。




植物園に期待されること
 生物の種多様性の研究の必要なことは、社会的なインパクトは別として、生物学の分野でも徐々に理解されるようになってきた。しかし、どのように研究を進めるかについては一般的な合意があるわけではない。

 生物全体でいえば、まだ、どこにどんな生物が生きているのかの基礎調査に大変な努力が求められている。植物についていえば、しかし、植物相の記相でさえも、むしろ種の構造の研究と相関させないと分からないという状況にまで来ている。分子レベルの技術も踏まえて、種の遺伝子構成の解明が、種の構造を追究するに当たっての課題となっているということである。だから、種多様性の研究がバイオシステマティクスといわれはじめた頃からすでに、生きた研究材料が常に手近に準備されていることが必要となっているのである。種多様性の基礎的な研究は、植物園のような施設で、生きた状態で維持されている材料による解析を一つの条件としているのである。もちろん、実験室の中の解析だけでなく、自生地における観察と解析を必要とすることはいうまでもないが、それだけで形質の解析が完結するとは期待できないのである。

 種が分化するに当たって何が生じるか、分化の機構の解明にあたっては、さらに、実験的な解析を必要とすることだから、植物園のように、生きた植物を研究材料として扱えるところが研究の場として不可欠であるということになる。今後、植物学の研究にとって、植物園は重要な拠点であることが理解されるようになることだろう。

 植物学の基礎的研究だけでなく、植物園は、社会的な要請との接点としても今後ますます重要な拠点となることだろう。生物多様性と人の生活との関連は、遺伝子資源と環境との関わりだけでも、研究者だけでなく、すべての人の理解を得て社会的課題として解決の手段を求めていくべきことだろう。そのための社会教育の場として、植物園の果たすべき役割は大きい。絶滅危惧種を指標とする生物多様性の滅失の危機については、保全生物学の研究の場としても、また、植物園は重要な働きが期待される。かつて、保全というような哲学を表に出さなくても、門の階級でただ一種生き続けてきたイチョウを施設内で保全してきた先祖の英知を見習うべきである。そして、人の文化がここまで高められてきた現在、保全や系統の維持のためには、研究的側面だけではなく教育的側面が不可欠であるということに、改めてもう一度触れる必要は無いだろう。    (いわつき くにお)



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