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韓国、珍島の農村調査

伊藤 亞人


写真1
写真1 旧正月の十五夜には村の人たちが満月の下で村の楽器にあわせて踊り歩き回る(1973年撮影、珍島)
写真2
写真2 相互扶助「契」による結婚式のための餅作り(1972年撮影、珍島)
写真3
写真3 穀物貯蔵用の甕(1972年撮影、珍島)
私の韓国での現地調査は71年の済州島の農村調査に始まるが、72年の夏に着手した全羅南道の珍島での調査は今も続いている。その時すでに教養学部の助手であった私に対し、長い時には6〜7か月ずつ、或いは1〜3か月ずつほぼ毎年のように出張を認めてくれた教室の理解によって、日本人として韓国での戦後最初の文化人類学の本格的調査に着手できたのは幸運であった。当時は韓国における長期の現地調査に対する研究助成のようなものもなかったし、政情も多少不安だったためかともかく公用旅券が必要だといわれて大学の庶務に対しては某財団名で架空の証明書を作って提出した覚えもある。しかしそれがかえって幸いして、あまり拘束されずに自分流に自由にできたように思われる。

現地に住み込む前にソウルで語学研修を受けた2か月間、できるだけ貧しい生活に慣れておこうとしてスラムのような不法住宅地区に住み込んだのも良い経験となった。その時隣の部屋にいたコロンビア大学の大学院生が現在スミソニアン博物館のキュレーターをしているケンドールである。

当時は先行研究といえるほどのものもほとんどなかったため、かつての京城帝国大学の秋葉隆教授の研究や民俗学の報告を手掛かりとするよりほかなかった。したがって、調査といってもほとんど手探りで始めたといってもよい。とにかく最初の調査なので、農村社会の基礎的なことから始める必要があったので、調査地にはできるだけ戦乱の影響が少ない民俗的な習慣も豊かな地方を選ぼうとしていた。またかつての士族(両班)の堅苦しい村や山間部の寒い村も避けたかった。私が選んだ珍島の農村ばかりでなく当時の韓国の農村はまだほとんどの村に電気が入っていなかったし道路事情もひどかったため、月の出ない夜などは村に辿り着くのも大変だった。村の側でも戦後はじめてやって来た日本の若者を受け入れるかどうかで随分もめていた。村の生活は今では想像できないほど貧しかったが皆たいへん親切にしてくれた。村の人は食べ物をふだん市場で買うということもなく、祖先の祭りの日が魚や豚肉に出会える数少ない機会であった。私が村に入って間もなくソウルで戒厳令が敷かれた時にも、大人は皆農作業に追われていたため、私が日本の放送で知るまで村の人は誰も気付かなかったほどである。政治的にもなかなか厳しく、見知らぬ異人が歩いているだけで間諜ではないかと警察に申告されかねない時代だった。情報課の人も時折やって来てその度に村の人たちにも迷惑をかけたようにおもう。

それ以来、私が手がけたきた調査は、村の歴史、住居と家族(チプ)の構成、本分家関係、親族(門中)組織、祖先祭祀、民俗信仰と家庭儀礼、農業と労働交換(プマシ)、契などの相互扶助、家屋・農機具・甕などの物質文化、村の組織と儀礼、日本統治時代の農村振興運動、セマウル運動、書堂教育、民間仏教、巫俗儀礼、道教の経文師、風水などであり、近年は調査拠点を町(邑)に移して関心も氏族間の関係、地方自治化、地方の祝祭と文化行政、都市化、住民の運動、同郷組織などに広がっている。

このように30年近くも一つの地に拠点を据えて調査研究を続けることができたのは、現地の人達の理解と協力なくしては考えられないことである。特に私の場合、研究の目的と手法をほとんど完全に理解する友人に出会えたことが何よりも大きい。72年に初めて出会って以来、私は邑にいる時はいつも毎晩遅くまで彼から珍島について実に興味深いそして人間味あふれる話を聞いてきた。今では彼自身も類稀な地元の研究者として韓国の研究者の間でも知られるようになっており、今年はソウル大学の友人が中心となって彼と連絡をとりあって珍島に関する国際シンポジウムが予定されている。

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(大学院総合文化研究科教授/本館文化人類部門主任)

  

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Ouroboros 第10号
東京大学総合研究博物館ニュース
発行日:平成12年2月29日
編者:西秋良宏/発行者:川口昭彦/編集:東京大学総合研究博物館