人・祖先・動物

新石器時代の西アジアにおける儀礼


PPNB期の儀礼体系
図4 ヨルダン北西部、アイン・ガザル遺跡から出土したPPNBの漆喰塗り立像(撮影:G.O.ローレフソン)
 筆者はこれまでに、アイン・ガザル遺跡をはじめとするレヴァントと南東アナトリアの重要な「儀礼遺跡」における儀礼の分析に基づいて、PPNBの儀礼とイデオロギーが4つの基本的な「構造化原理」によって特徴づけられていたことを指摘した(Verhoeven 2002a)。まず、PPNBの儀礼の多くが公の場で見せるもの(儀礼建物、立像、仮面、石柱)を特徴とするらしいという観察結果は、「共同体指向性(コミュナリティー)」という言葉に集約される。非常に目に付きやすく、力強く感情に訴えかける象徴図3、4および6)を使うことは、「明示的な象徴性」を示す。たとえば彫像や墓のコンテクストに見られる「人間と動物の連関」は、人間が動物と物理的・象徴的に結びついていたことを意味する(表2)。豊饒(つまり土壌の肥沃さと出産)は主として「活力(バイタリティー)」という概念に集約され、これには性的能力が関係する。さらに、豊饒は「生命力」をも意味し、その力は基本的に(人間だけでなく動物の)頭に宿ると考えられる。

 筆者は、これらの4つの原理を、先に述べた儀礼の三類型、すなわち個人単位、世帯単位、そして「公の」儀礼と組み合わせることによって、PPNBの「儀礼体系」を明らかにした図5)。

 個人単位の儀礼ないしまじないは、おそらく人物および動物小像によって表現された。それらの儀礼は共同体指向性・明示的な象徴性・人間と動物の連関の概念とは無関係だが、活力(特に多産と生命力とは関係があるように思われる。特殊な儀礼遺跡(クファル・ハホレシュやギョベクリ・テペ)で私的な儀礼が重要だったとは考えにくいが、アイン・ガザルやネワル・チョリ、チャヨニュといった儀礼遺跡では、私的な儀礼が住居や中庭など日常的なコンテクストで行われた可能性が高い。
  世帯単位の儀礼は、日常的なコンテクストの中の墓と頭骨集積、漆喰塗り頭骨、動物の角、そしておそらく小像が証拠となる。これらの儀礼においては、主として死の概念に関連して、明示的な象徴性、活力、人間と動物の連関が重要な意味を有する。これも、アイン・ガザルやネワル・チョリ、チャヨニュといった大遺跡で行われたにちがいないが、比較的小さな特殊儀礼遺跡では行われなかった可能性が高い。

表2 レヴァントと南東アナトリアの主要PPNB遺跡における象徴上の人間と動物の連関

 「公の」儀礼(ただし、おそらく共同体全体を巻き込むものではなかった)は、共同体指向性、明示的な象徴性、活力、人間と動物の連関という概念のすべてを含んでいた。それらの儀礼はアイン・ガザルやネワル・チョリ、チャヨニュで見つかったような儀礼建物と直接関係するものであった。クファル・ハホレシュ(「墓地遺跡」の意)やギョベクリ・テペ(「儀礼建物のある遺跡」)もまた、おそらくは公的儀礼の中心であった。

図5 PPNBの儀礼モデル

新石器時代の頭骨崇拝
  おそらく、新石器時代の儀礼の中で最も興味をかきたてる側面の一つが、人間の頭骨の加工・装飾・崇敬、すなわち頭骨崇拝である(Bienert 1991, Kuijt 2000)。特に興味をひくのは、イスラエルのイェリコやクファル・ハホレシュ、そして(ごく最近)シリアのアスワド(図6)。またStordeur 2003bを参照されたい)で発見されたような漆喰を塗られて彩色を施された頭骨である。頭骨崇拝はすでにナトゥーフ期には始まっていたが、特に先土器新石器時代B中期(紀元前8,000〜7,500年頃)に盛んに行われた。

 人間の頭骨の「ライフサイクル」という観点からすると、頭骨崇拝は一般的に、(1)遺体を埋葬し(通常は住居の床下になされる)、(2)(1年ほど後に)墓を開けて頭骨を取り外し、(3)おそらく装飾する頭骨を選んで、(4)保管と展示を行い、(5)最後に二次葬、というサイクルからなる。

図6 イスラエル中部、イェリコ遺跡から出土したPPNBの漆喰塗り頭骨(Pictures of Record社)

 頭骨崇拝の最も良好な事例が先土器新石器時代B中期に見られることは確かだが、土器新石器時代にも頭骨崇拝が一定の役割を果たしていたことを示す証拠が数多く存在する。特に、ハラフ文化(紀元前5,900〜5,300年頃)には頭骨崇拝の証拠があり、その事例としては、イラク北部に所在する2つの遺跡例、すなわちアルパチヤ遺跡の土器の内部に葬られた頭骨(Hijara 1978)とヤリム・テペ遺跡2号丘の頭骨埋葬(Merpert and Munchaev 1993)が挙げられる。アナトリア中南部のドムズテペ遺跡では、少なくとも35点の人間の頭骨がいわゆる「死の穴(デスピット)」に埋められた(Carter et al. 2003)。

 よく知られているように、研究者たちはたいていこのような頭骨に対する操作を祖先崇拝と解釈する。しかし、祖先が重要な役割を果たしたことは明らかだとしても、特に重要な意味をもっていたのは人間の頭と関係する超自然的な力であったにちがいないという主張もなされている(Verhoeven 2002a)。実際、(動物と人間両方の)頭骨操作に関する民族誌の事例はほぼすべて、この見方を支持する。(Caille and Sauvage eds.1999)。

 より一般的にいえば、非常に特徴的なPPNBの儀礼における象徴性はどうやら、人間世界を操作するために、儀礼における立居振舞いと超自然的世界に影響を及ぼしたいという願望の表れであった。(1)床下埋葬と(2)(漆喰の塗られた)人間頭骨の操作、(3)公の場での儀礼、(4)明示される象徴的な人間と動物の連関が、いずれも長い伝統に根ざしつつ共通して見られることは、西アジアの先史時代においてきわめて重要な意味をもつのである。

PPNB期の儀礼解釈
 全体論的な関係に関していえば、明示的にあらわれる象徴的な人間と動物の連関は、これまでは想定されていなかった「自然」と「文化」の関わり合いを示唆するものであり、非常に興味深い。この点において興味をひくのはクファル・ハホレシュにおける頭骨操作の連関である。この遺跡には「ウシの穴(ボスピット)」という遺構があって、そこでは首を取られた人間の骨格が、野生の雄ウシの首なし遺体を伴う形で検出されており、同じく頭のないガゼル1体が、漆喰塗り人間頭骨に伴う形で埋葬されていた(Horwitz and Goring-Morris 2004)。いわゆるPPNBの頭骨崇拝が、人間の頭骨を展示・集積して時には装飾することによって特徴づけられるのは確かだが、それは伝統的に推定されてきたような祖先崇拝以上の何かを含意しているように思われる。こう考える理由は以下の二点である。第一に、さまざまな年齢に属する個人の頭骨が用いられた。さらにいえば、漆喰塗り頭骨にされる人物は老若男女を問わない(Bonogofsky 2001)。第二に、世界の多くの文化において、頭骨が生命力や繁殖力およびそれらに関連する諸概念を想起させるような強力な象徴性を帯びた儀礼用具と見なされていることは、人類学のデータから明らかである。

 したがって、筆者は、PPNBにはおそらく祖先が神話上の人物として崇拝されていたが、人間の頭骨が(漆喰を塗られるにせよ塗られないにせよ)特に崇敬を集めていたと考える。その理由は、頭に生命力が宿っており、それを(耕地と家畜動物、女性にとっての)繁殖力と豊かな暮らしの保証に用いることができたからである。さらにいえば、文化上の英雄(狩猟の名人?)と見なされた人物は、祖先と同じように、その頭骨が特別な処遇のために選ばれたのかもしれない。生命力と祖先および英雄の崇拝は排他的なものではない。そうではなくて、英雄の崇拝は生命力の諸側面を反映するものだったのである。ただし、クファル・ハホレシュで発見された証拠によれば、PPNBの頭骨操作には動物形象というもうひとつの次元があったらしく、それもまた全体論的な関係を示すものである。

■事例分析と解釈
 土器新石器時代

 土器新石器時代の儀礼に関する証拠は、PPNBの伝統が継続していることを示している。トルコ中南部に所在する土器新石器時代後期(ハラフ後期)のドムズテペ遺跡では、いわゆる死の穴で、35〜40人分の頭骨と動物骨が複雑なパターンでもって堆積している証拠が得られた。頭骨の一部は、おそらく脳髄にアクセスするために骨が故意に取り外されていることを示唆する。この他に、独立した(おそらく籠に入れられた)頭骨埋葬が発見された(Carter et al. 2003)。興味深いことに、それらの骨は首のない人物石偶(おそらく女性)多数と、一点の両性具有小像を伴っていた(Carter et al. 2003:figs.12,15)。頭を外された骨格と頭骨の埋葬はイラク北部のアルパチヤやヤリム・テペ2号丘といった他の後期新石器時代遺跡でも検出された。死の穴から示唆される共同体の儀礼は、シリア北部の土器新石器時代遺跡であるテル・サビ・アビヤド1号丘でも一定の役割を果たしており、そこでは集落の大火災を伴う廃絶儀礼が共同体全体を巻き込んで行われた(Verhoeven 2000)。そして、当然のことながら、たとえば男性と女性、生と死、家畜/栽培と野生の間に生じる象徴的関係の錯綜したネットワーク(Hodder 2006)を示す第一の事例として、ここでアナトリアのチャタルヒュユク遺跡の名を挙げておくべきである。

 しかし、これらの事例があるにも関わらず、PPNBと土器新石器時代を全体として比較すると、儀礼の様相はかなり異なっている。PPNB、そして小規模ではあるがPPNAにも見られるようなドラマチックな儀礼の証拠は、土器新石器時代にはほとんどない。実際、墓と小像(図7)を別にすれば、儀礼行為を示す明確な証拠は数例に限られる。さらに、住居の象徴的ないし儀礼上の地位も低下する。たとえば、住居が(牛角などで)飾り立てられることはまれになり、墓は家内的なコンテクストの外部に作られるのが普通になる。全体的に見て、土器新石器時代の儀礼は、「日常(ケ)性」という言葉によって特徴づけられるような、家内的、隠匿的、私的な類の儀礼行為であり、おそらく個人ないし世帯と関係するものであった(Verhoeven 2002b)。

図7 シリア、テル・カシュカショク遺跡2号丘から出土した土器新石器時代の人物土偶
(a)正面(b)側面(Matsutani ed. 1991:Pl.19-4)
 
a b

 先土器新石器時代と土器新石器時代で儀礼行為に変化が見られる理由を理解するのはいまだに困難である。その理由はおそらくドメスティケーション、すなわち植物栽培と動物飼養、村落生活、そして大量の物品生産体制の最高度の「完成形」がある程度土器新石器時代に確立したことと関係があるはずである。ここにおいて、社会—宇宙の相互関係を徹底的に操作する必要性は少なくなった。しかしながら、ドムズテペの死の穴から出土した首のない小像と頭骨、男性/女性の小像は、象徴的・全体論的な連関にさまざまな形があったことを示唆する。儀礼と象徴体系の証拠から、先行する時期に存在したと見られる全体論的関係は、土器新石器時代には重要性を大きく失ったか、または異なる秩序に基づいていたようである。

近藤康久訳