人・祖先・動物

新石器時代の西アジアにおける儀礼


■事例分析と解釈
 先土器新石器時代

 はじめに述べたように、先土器新石器時代はPPNAとPPNBに分かれるので、ここでも別々に取り扱うことにする。

PPNA期の儀礼関連遺物と儀礼行為
 PPNAの時期に社会的・象徴/儀礼的に中心的役割を果たしていたのはおそらく住居であり、PPNAの「世帯儀礼」は枚挙にいとまがない。また、野生のウシやオーロックス(Bos primigenius)が、ベンチか壁かどちらかに「埋められる」形で、住居に伴う事例がたびたび見られる(シリア領ユーフラテス川流域のジェルフ・エル・アハマル遺跡とムレイビト遺跡が例として挙げられる[Cauvin 2000:28])。動物の他に、人間/祖先と関わる住居儀礼の証拠もある。たとえば、ジェルフ・エル・アハマルでは、屋外の炉址で人間の頭骨3点が埋められた状態で発見された。頭骨は他のPPNA遺跡(北イラクのケルメズ・デーレ遺跡など)でも住居に埋められる。また、人間の頭蓋と、風変わりな—建築構造に伴わない—土柱も、非日常的な儀礼活動の実態を示す(Watkins 1990)。

 これらの住居に関わる儀礼のほかにも、PPNAの時期には共同体の儀礼行為に関する良好な事例が複数存在する。たとえば、ジェルフ・エル・アハマルでは複数の半地下式の大型円形建物が検出されているが、それらは共用で、多目的(物資貯蔵、会合、儀礼など[Stordeur 2003a])に用いられたようである。そこには、石のベンチと彫刻の施された小壁、そしておそらく壁画がしつらえられていた(図2)。壁画には、三角形と人間、狩猟対象の鳥が描かれていた。完全に消失した別の建物では、腕を広げた首のない人間の骨格が中央の部屋の床から発見された。このような火災と遺体の組み合わせは、建物に意図的に火を点けるような廃絶儀礼が行われたことを示すとみられる(Verhoeven 2000:62)。

 南東アナトリアのギョベクリ・テぺ遺跡で検出されたPPNAないしPPNB前期の層位からも、間違いなく共同体の儀礼行為であったといえるような非常に興味深い証拠が得られている。その証拠というのは、いくつかの土間を伴う石造円形建物であり、そこには多種多様な動物(ヘビ、キツネ、イノシシ、鳥など)描いた巨大なT字形の柱が複数存在する。動物は、ほとんどの場合組み合わせて描かれる(図3)。さらに、人間と動物を描いた大量の石像もある。中には、半人半獣神(たとえば人間の頭をもつ鳥など)も存在する。2003年までに、あわせて39基の石柱と伴う4か所の囲い(「ヘビ柱」建物や「ライオン柱」建物)が原形をとどめて検出された(Schmidt 2003)。この、初期新石器遺跡で最も圧巻でありながら謎めいた物体は、狩猟採集民の共同体儀礼の中心であったと解釈されている(Schmidt 2002)。より具体的にいうと、シュミット(Warburton 2004:185からの引用による)は、ギョベクリ・テペがいわゆる隣保同盟の一部をなしており、祠堂に据えられた人物造形柱は神か祖先かあるいは悪魔を表していて、それが儀礼と崇拝の対象であったと指摘している。

 
図2 シリア北西部、ジェルフ・エル・アハマル遺跡で発見されたPPNAの儀礼・共用建物と推定される遺構(撮影:西秋良宏) 図3 トルコ中南部、ギョベクリ・テぺ遺跡のPPNAに年代づけられる儀礼建物の一つから出土した装飾柱(撮影:西秋良宏)

 東アナトリアのハラン・チェミ遺跡では、2軒の円形建物(AおよびB)が他の建物と比べて際立っていた。それらの円形建物は、他の建物よりも大きく、半地下式の構造をもち、壁沿いに石製ベンチが設けられているという点で、他の建物と差別化されていた。これらの特別な、おそらく共用の建物には、日用品ではなく、銅鉱石など外来品が収納されていた。さらに、円形建物の一つでは、角の付いた雄ウシの頭骨の一部が発見されたが、それはもともと壁に掛けられていたものであろう。また、中央の活動エリアから出土したヒツジの角芯の付いた頭蓋骨3点も、同様に儀礼行為が行われた可能性を強く示唆するものである(Rosenberg and Redding 2000)。

 PPNAの墓制はふつう単独葬で、副葬品を伴わない。また、成人の墓にはふつう頭骨がない。成人の頭骨は多くの場合住居の床下で発見される。たとえば、ムレイビト遺跡(フェイズⅢ)では、女性の頭骨と長骨が小型の盆形を呈する炉の下に埋葬されていた。そして、骨格の残りの部分は、その炉のある住居の外側に葬られた。ジェリコ遺跡では、多数の人間の頭骨が別々に埋められた。ネティヴ・バグダッド遺跡では、破砕された人間頭骨が、住居床面からまとまって検出された。興味深いことに、乳幼児の墓は多くの場合、柱穴や壁の基部に位置する(Kuijt 1996)。

 小像は主に人間を模して造られた。これは、先行するナトゥーフ期(紀元前12,200〜10,500年頃)には動物を模したものが主流であったことと対照的である。南レヴァントでは、動物の造形も幾何学的な造形も欠如している。大多数の研究者、特にコバーンによれば、人間を模した土偶や石偶は、ほとんどの場合、腹部や陰部、胸部を誇張することによって性的能力や多産を強調する形で女性を表現しているようだという。女性が描写されていることは明らかである(たとえば、Cauvin 2000:fig.7.2, fig.8.1)。だが、筆者には、これらの小像の多くは両性的(境界的)な性格を帯び、男根と女根を同時に表現したものであるように思われる(新石器時代の小像の二面性については、Cauvin 2000:fig.6, figs. 8.2-4, fig.13およびKuijt and Chesson 2005を参照されたい)。別の遺跡では、石に刻まれたジグザグ線などの抽象的な彫刻デザインが報告されている(たとえばハラン・チェミ。Rosenberg and Redding 2000: fig.6)。ひときわ目を引くのはジェルフ・エル・アハマルから出土した彫刻石群であり、具象文と抽象文からなる複雑なパターンが見られる(たとえば、ハゲワシ、ヘビ、四足獣、「角芯」、規則的な幾何学文など。Stordeur 2000:fig.10)。

PPNA期の儀礼解釈
 まず、人間の埋葬に関していうと、首のない骨格と(床の上か下から)頭骨が頻繁に発見されることから、この時期に祖先崇拝が社会に深く根ざしていたというのはほぼ確実である。墓がしばしば住居の床下に造られるという事実は、生者と死者の間に強い結びつきがあったことを裏付ける。また、人間と動物の象徴的な関係を示す明らかな事例があり、そのほとんどは埋葬のコンテクストから発見されている。たとえば、イスラエル中部のハトゥーラ遺跡では、成人の頭蓋骨頂部が、ガゼルの角芯と石杵および小石(人間—動物—植物?)、そして野生の雄ウシの頭骨片を伴う成人女性遺体と組み合わさった形で報告されている(Lechevallier and Ronen 1994:27,296)。シリア領ユーフラテス川流域のアブ・フレイラ遺跡ではウシとヤギ・ヒツジ類の骨が故意に人間の墓の中に埋められた(Moore et al.2000)。最近、死者と動物の象徴的関係を示す非常に興味深い証拠が、ジェルフ・エル・アハマルの半地下式共同儀礼施設の一つにしつらえられた装飾付きベンチから得られた。ここでは、狩猟対象の鳥を模しつつ様式化された2本の石柱の間に1枚の石板があって、そこに首のない骨格がはっきりと彫り込まれているのが発見されたのである(Helmer et al. 2004:158)。

 PPNAの建物からオーロックスの頭骨と角芯が見つかることは、雄ウシが象徴として関心を集めていたことを意味する。ジャック・コバーン(Cauvin 1972,2000)によれば、女性の小像と雄ウシは「象徴革命」と「女性と雄ウシを崇拝する新しい宗教」がおこったことを示唆するという。この宗教に関するコバーンの仮説はすでに過去のものとなってしまったが(たとえばHodder 2001を参照)、人々が家畜化されていない雄ウシに日常的コンテクスト(住居)における象徴上の中心的な役割を与えたというコバーンの主張は正しかった。したがって、ここにもまた、まったく異なる構成要素、すなわち人間と住居、雄ウシの間の(境界的な)関係を示す証拠が存在するのである。たとえば、ギョベクリ・テペには、(柱に刻まれたものを見ると)多種多様な動物の間の関係を示す証拠だけでなく、それらと半人半獣神の間の関係を示す証拠も存在する。さらに、ハラン・チェミの彫刻付き石杵に見られるように、動植物が象徴性を有する証拠もある。これらの石杵に描かれたオーロックスの頭骨と角芯は儀礼上重要な意味を持っていたはずで、そうだとすればこのような力強い獣を仕留めること(の危険性)を含意する。オーロックスの頭骨は、住居内に置かれるか、時には隠されることすらあり、隠匿すべきものという性格を帯びている。このことは、世帯レベルが儀礼に重要な意味をもっていたことを示唆するのかもしれない。

 上記で提示したような、男性と女性を同時に表現するという、人間の小像の有する境界的な性質は、新しい象徴的関係を示唆するように思われる。この点ついては多くの研究者が論じているが、中でもブラッドリー(Bradley 2001)が指摘した通り、人間と動物のアイデンティティーの融合は、世界の他の数多くの地域でも農耕が始まる前に存在した特徴である。おそらく、このことは人間が自分たちを取り巻く環境(集落、植物など)を徐々に変えていくという文脈で考えれば驚くことではない。

 以上をまとめると、PPNAの時期には象徴性を示すいくつかのドラマチックな事例があり、それらは祖先・雄ウシ・「共用建物」・住居を伴う。象徴体系は特に生ける者と死せる者の関係に焦点を当てるものであった。儀礼に関する全体論的な展望に基づくと、これらの儀礼は事物同士の関係に影響を与えること、すなわち「社会—宇宙のユニバースを構成している関係に沿った事物の循環」(Barraud and Platenkamp 1990)に影響を及ぼすことに成功したのである。

PPNB期の儀礼関連遺物と儀礼行為
 よく知られているように、レヴァントのアイン・ガザル、イェリコ、クファル・ハホレシュ、シリアのジャアデ、南東アナトリアのネワル・チョリ、チャヨニュ、ギョベクリ・テペなど、PPNB(特にPPNB中期以降)の遺跡からは、儀礼行為の証拠となる非常に見事な文物が得られている(Verhoeven 2002a)。レヴァント、シリア、南東アナトリアにおけるPPNB儀礼の証拠を、表1にまとめておく。この表がそうであるように、この一覧表の枠内ですべての対象遺跡を網羅するのは不可能なので、ここではPPNBの儀礼の様相が最も面白い遺跡の一つ、ヨルダンのアイン・ガザル遺跡を取り上げることにする。この遺跡は、PPNBの儀礼の性格を代表するものである。

表1 PPNBの儀礼行為の証拠

 アイン・ガザル遺跡はヨルダンのアンマン東部地区に所在し、ワディ・ザルカの縁辺に位置する2つの丘陵に立地する。遺跡には、PPNB中期・後期および先土器新石器時代C期(PPNC)の居住痕跡に加え、土器新石器時代のヤルムーク文化の居住痕跡も存在する。本稿ではPPNBおよびPPNCの居住痕跡についてのみ取り扱うことにするが、この時期は紀元前8,200年から6,500年頃に年代づけられる。この遺跡は、12〜13ヘクタールを測る「巨大遺跡(メガサイト)」であり、西アジアで最大級のPPNB遺跡の一つである。発掘調査は、4つの発掘区、すなわち中央区・南区・北区・東区を設定して行われた。これらの区域を合算すると、調査面積は約2,355平方メートルである。

 ローレフソンは、アイン・ガザル遺跡に関する数々の重要な論考の中で、この遺跡のおける儀礼を取り扱ってきた(Rollefson 1983,1986,1998,2000)。氏は儀礼関連遺物をいくつかの「類型」、すなわち儀礼用建物(儀礼施設、神殿、特別建物、祠堂とも呼ばれる)、石灰塗り立像ならびに半身像、頭骨集積、漆喰塗り人間頭骨、人物ならびに動物小像に区分する。これより、各類型について手短に論じる。まず、儀礼用建物から始めよう。

 儀礼用建物は、明らかに日常生活用の建築とは異なり、漆喰塗りの炉や盆、祭壇といった特別な「インテリア」(PPNB後期特別建物、PPNC特別建物、教堂形建物)や、床下水路(円形建物)、絵画(教堂形建物)を有するという特徴がある。儀礼用建物はすこぶる清潔に保たれており、床面からは何も出土しなかった。

 儀礼関連遺物と推定される第二の類型は、非常に見事である。この類型は、2つの集積からなるが、そこにはそれぞれ26点(1号集積)と7点(2号集積)の大型人物形象立像が納められており、その中には石灰塗り造形による双頭の半身像も含まれる(本稿図4およびSalje 2004)。2つの集積はPPNB中期の堆積に由来し、どちらも立像が埋められるよりもはるか前に廃絶された住居の床下から発見された。

 PPNBの埋葬は約120例記録されている。この中には、(1)床下または中庭から見つかる、首の切り離された伸展葬、(2)中庭から見つかる、頭骨が切り離されない屈葬、(3)乳幼児、(4)頭骨埋葬という4つの埋葬形態を識別することができる。このうち主体を占めるのは第一の類型である。PPNB中期のコンテクストからは12点の人間頭骨が個別に出土したが、それらの中には成人もあれば子供もある。頭骨のうち1点は住居床面から発見されたが、それ以外は住居床面もしくは中庭に掘り込まれた土坑の中から見つかった。このほか、頭骨に漆喰を塗ったものが3点出土した。

 PPNB中期の堆積からは、約150点の動物小像と、約40点の人物土偶(そのほとんどは女性)が出土した(McAdam 1997:136)。種の同定された動物小像のうち、90%以上をウシが占め、その他にヒツジ/ヤギとウマ類も造形されている。興味深いことに、ウシ形小像のうち2点の胴部にはフリントの細石刃が刺さっていた。人物小像の大部分は首なしで、それらはアイン・ガザル出土の遺体とちょうど同じように、首を切り離されていたと考えることができる。2点の「殺された」ウシ小像に加えて、ある土坑から見つかったすべての小像は、住居外の廃棄物堆積か、または廃絶された住居の覆土に由来する。