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■精製彩文土器をめぐって
では、当時の人びとの土器に対する概念の変化とはいかなるものであったのだろうか。精製彩文土器のなかには、儀礼との関連が指摘されている事例がある。たとえば、テル・アルパチヤでみつかった墓に副葬されていたハラフ土器には、儀礼のための祀堂を思わせる建物や狩猟の場面など多くの風景が描かれており、この土器が特別な儀礼のための祭祀具であったことを暗示する(Hijara 1978)。また、新石器時代の「舞踊」にかんする資料を集成し考察したガーフィンケルは、サマッラ土器やハラフ土器にしばしば踊る姿を表す文様がみられるとしている。新石器時代において舞踊と饗宴は人間集団の社会的な紐帯を生み出す重要な儀礼であったため、宴で使われる器には踊る人びとの姿が描かれる、というわけである(図5)。とりわけ、サマッラ土器やハラフ土器に特有の「踊る女性たちdancing ladies」と通称される文様は、口縁内面を縁取るように繰り返し施文されており、円を描く土器の口縁は踊り手の連なる集団を、文様の反復は舞踊のリズムと様式化された衣装や動きを、それぞれ象徴しているのだという(Garfinkel 2003)。 その是非はともかくとして、これらの主張は数少ない具象文に注目した結果であって、精製彩文土器に描かれる文様の大部分は幾何学文が占めている事実を看過すべきでない。幾何学文を含めたあらゆる文様を人間集団の表象として、あるいはそれらの文化的な接触の結果として捉える考えかたは、考古学の世界で伝統的に根強い。フェルフーフェンはこれに則りながら、精製彩文土器を歴史的な脈絡の上に位置づけようとしている。土器出現以前の新石器社会では、その統制を維持するための象徴的なシステムとして、復顔頭骨、石彫や塑像、儀礼のための施設といった、集団全体が共有する圧倒的なシンボルの存在があった。しかし、土器が普及する時期には人間集団の小型・分散化が起こり、その流れに対応する新たな象徴的システムの一部とすべく、見映えのする精製彩文土器が隆盛したというのである(Verhoeven 2002)。 いずれにせよ、我われ現代の人間が、遺されたモノから当時の人びとの思想を探っていくのは容易なことではない。しかし、精製彩文土器はうつわとしての実用的な需要からだけでなく、少なくとも彩文の施文を前提に、言うなれば描くために製作されたことは想像に難くない。なぜなら、その器面は暗色系の顔料とは対照的な明色を呈し、頻繁に化粧土がかけられ、丁寧なナデやミガキで平滑にされているからだ。明色系の土器、あるいは丁寧なナデやミガキ調整の土器は古くから存在したが、基本的にそれぞれの分布は地域を違えており、両者を兼ね備えた土器は精製彩文土器の登場までほとんど例をみない。土器製作者が明色系の平滑な器面をつくることは、彩文を描くための「カンバス」を得ることに他ならなかったのであろう。 ちなみに、伝統的にミガキ調整された暗色の器面をもつ土器を製作していた北レヴァントでは、それまで貼付文や押捺文といった、器面に凹凸をつける装飾が盛んであった。しかし、精製彩文土器がわずかながら搬入されるようになると、器面の暗色はなかなか変わらなかったものの、装飾技法には変化が現われる。ただし、彩文が多用されるのではない。当時は黒色や褐色、赤色の顔料だけしか知られておらず、暗色の器面では映えなかったのである。では、どうなったのかといえば、暗文と呼ばれる器面を強く磨いて文様を施す技法が盛行した。筆者はこの変化を精製彩文土器の影響と考えている。土器の作り手たちは器面を明色地に変えてカンバスをつくるのではなく、暗色の地をカンバスとして活かす方法を考えたのではなかろうか(小高2003,2007)。いずれにせよ、凸凹の装飾は廃れて彩文と同じ平面的な装飾が流行し、土器は文様を描くカンバスとなったのだ。 ■彩文土器のその後 前5,000年頃になると、ウバイド後期の土器が北メソポタミアにも拡散し、ハラフ土器に取って代わる。この土器にも多くの彩文が描かれるが、ハラフ土器と比べて胎土が粗く、彩文の文様は簡素で単純なものが増え、概して造りも粗雑である。 テル・カシュカショクⅡではこの時期の墓地がみつかり、副葬品として多くの彩文土器が出土している(Matsutani ed. 1991)。注目すべきは、特定の器形や文様をもつ土器に限って副葬される点である(小泉2001)。また、テル・コサック・シャマリでは土器工房跡や土器の倉庫がみつかっており、当時の土器製作活動の一端が明らかになった(Nishiaki and Matsutani eds. 2001)。興味深いことに、土器倉庫からは同じ彩文をもつ同じ器形の土器が複数出土しており、同時に同じ規格の製品が複数つくられていたことを窺わせる。さらに、彩文土器にたびたびみられる「目の文様」は、北メソポタミアの複数の遺跡で出土している「眼の偶像」との関連において、当時の人びとの精神世界を窺い知るための重要な資料である(小泉2001)。なお、東京大学総合研究博物館はこの時期の彩文土器を多数所蔵している。それらは、テル・サラサートⅡ出土のウバイド後期土器(江上編1958;深井他編1970)(図6)、イラン南西部、タル・イ・ギャプやタル・イ・バクーン出土のウバイド後期に併行する時期の土器(江上・増田編1962;江上・曽野編1962)といった、いずれも同大学による発掘で得られた資料である。
その後、前4千年紀にウバイド土器は消滅し、メソポタミアを中心として「ウルク土器」と呼ばれる新たな土器が拡がる。この土器を標式とするウルク文化はメソポタミア文明の直接的な母胎とされており、分業化・階層化・都市化などが進行し、社会の複雑性が増していく時代であった。土器には依然として彩文も描かれたが、総じて装飾が廃れて無文化が進んでいく。複雑な社会から生まれる需要に対処するためか、カンバスとして彩文を描くための土器よりも、シンプルで大量に製作しやすい土器が好まれたようだ。また、土器以外のさまざまな工芸品の発展は、絵画表現の媒体、あるいは描かれることによって生み出される特別な財としての彩文土器の価値を相対的に低下させたのかもしれない。東京大学による発掘では、テル・サラサートⅡ、テル・カシュカショクⅡ、テル・コサック・シャマリからこの時期の土器が出土している(江上編1958;Matsutani ed. 1991;Nishiaki and Matsutani eds. 2001)。
こうして、先史時代の終焉そして文明の黎明とともに、西アジアの彩文土器は大量生産型の土器のなかに埋もれはじめる。ただし、前3千年紀、南メソポタミアでシュメール文明が誕生する頃には、「スカーレット・ウェア」と呼ばれる赤色顔料に彩られた華美な彩文土器が登場した。またこの時期、シュメールの勢力範囲を外れていた北メソポタミアはニネヴェ5期と呼ばれるが、ここでも多くの特異な彩文土器が製作され、東京大学によるテル・サラサートVの発掘でも多数出土している(深井他編1974)。 その後、前2千年紀に青銅器が普及すると、いよいよ彩文土器は廃れていく。しかし、たとえ多くの土器が無文であっても、完全に姿を消すことはなかったようだ。地域と時代によって流行り廃りがあるにせよ、とりわけ特別な土器には念入りな彩文が施される場合もみられる。西アジアの新石器時代に始まった彩文土器の伝統は、人びとの記憶から決して消え去ることなく連綿と受け継がれていったのである。 |