パイロテクノロジーのはじまり

先史西アジアの石灰・石膏プラスター工業


■白色容器は土器の祖型か?

 石灰・石膏プラスター工芸の中でもっとも重要な位置をしめるのは、先にもふれたように土器の起源と目される白色容器にかんするものだ。これまでの研究略史と現在の研究状況がどのようになっているか簡単にふれてみたい。

 白色容器を土器の起源とみなした最初の言説は、1971年のフライアーマン論文(Frierman 1971)によるとするのが一般的だ。その後、この仮説は西アジアでの土器出現を議論する際、しばしば言及されていくことになる。最近の西アジアにおける土器の起源にかんする論文(たとえば Moore 1995;Rice 1999;Tite 1999など)でもしばしば肯定的に引用されているから、その見解は定着しているようにみえる。

 ただ、フライアーマンの論文を丹念に読み返すと、かれが必ずしも白色容器そのものに土器の起源を見いだそうとしているのではないことに気づく。むしろ高温焼成を必要とする石灰プラスター生産によって達成された火を制御する技術(=パイロテクノロジー)の発展が、土器の出現の契機となったことを強調しているにすぎないように読み取れる。

 この論文を引用して白色容器が土器の起源であることが半ば定説のように繰り返される経緯について、詳しいことはわからない。ひとつはフライアーマン論文のタイトルが「石灰焼き—土器の先駆け—」"Lime burning as the precursor of fired ceramics"という印象的なものだったこともあるかも知れない。ただ、もうひとつ指摘しておきたいのは、白色容器にかんする考古学者の認識の問題である。というのも、白色容器が考古学的に初めて記載されはじめた20世紀半ば頃には、プラスター製の容器というより白地の粘土を用いて製作された土器、と見なされていたきらいもあるから(たとえばvan Liere and Contenson 1963など)、当時から研究者間で白色容器と土器にかなり密接した関係性を見いだそうとしていた雰囲気があったのかも知れない。

 一般にはひろく受け入れられているようにうつる白色容器=土器の祖型説だが、いくつかの反論もある。フランス系の研究者にその傾向が特に顕著だ。たとえば、シリア内陸部、エル・コウムEl Kowm 2号丘出土の白色容器資料を分析したC.マレシャル(Marechal 1982)は、土器製作との工程の違いを強調する。白色容器がプラスターという素材獲得の段階で焼成を必要とするのに対し、土器は容器としての成形が整えられた後、耐久性ないし耐水性を獲得するために焼成という工程が踏まれる。つまり、いずれの容器製作においても同じ焼成という手順を経ながらも、その目的は全く異なっているため、両者には直接の技術的類縁性は低いと見積もっているということだろう。おなじく、シリア東部、テル・ボクラスTell Bouqras遺跡出土の資料を分析したM.ルミエールも同様の立場をとっているようだ(Le Miere 1983)。

 このように、いまだ専門家の間で確固たる評価が定まっていない背景には、1990年代以降、良質な資料に恵まれなかったことがある。しかし、本展示でも紹介されているシリア北東部、テル・セクル・アル・アヘイマルTell Seker al-Aheimar遺跡出土の白色容器標本は、ながらく議論が続いていたこの懸案に取り組むのに格好の資料である。これまでに例をみない数千点にのぼる良好な資料が得られているためである。また、同遺跡では当該地域最古級の土器が出土しているから(本書所収のルミエール輪文、またはNisiaki and Le Miere 2005)、土器と白色容器の関孫をさぐる上で絶好の機会が与えられたわけだ。

 まだ限定的な資料の分析にとどまっているが、セクル・アル・アヘイマルでの白色容器と土器の関係は徐々に明らかになりつつある(kume 2005)。最も簡便に両者の関係を示すのは、白色容器のレベル別出現頻度だ(図8)。出土した白色容器標本は、士器の出現後に出土数が増加することが鮮やかに示されている。手元にあるデータは、白色容器と土器の関係は系譜的というより相関的にとらえうることを示している。

図8 セクル・アル・アヘイマルC区(2003-2004)出土の白色容器の層位別出現頻度(Kume 2005)

 実はこの見方は特に目新しいものではない。土器出現以降の遺跡に白色容器が多く出現することは、すでに三宅裕(1994)が指摘していた。またシリア内陸部、テル・エル・コウムTell el Kowm 1号丘を発掘したR.H.ドーンマン(Dornemann 1986)も白色容器と土器は相互補完的役割を果たしていたと推測している。同様の想定は、最近良好な白色容器資料を提供しつつあるシリア北部のテル・サビ・アビヤドTell Sabi Abyad遺跡からも提出されているから(Akkermans et al. 2006)、少なくともシリア内陸部から北方にかけての地域では、事情は同じだったらしいことがうかがえる。

 さらに、白色容器と土器製作が特定の村落間で分業されていたことを暗示する研究者もいる。シリア北東部のテル・ボエイドTell Boueid Ⅱ号丘の白色容器標本の研究を実施したA.スレイマンとO.ニューウェンハイス(Suleiman and Nieuwenhuyse 2002)は、豊富な土器資料の出土にもかかわらず、土器製作の証拠が極あて希薄なことから、同遺跡の居住者は白色容器の製作に専念しており、土器はほかの遺跡から搬入された可能性があることを示唆している。

 このように最近の研究では、白色容器が土器の祖型であるという見方はやや劣勢のようだ。ただ、私見では土器の系譜を白色容器に求める見方を捨てきれないでいる。少なくとも、白色容器が土器に先行するという事実は、わたしが担当しているテル・セクル・アル・アヘイマル出土標本の場合でも明らかだし、形態・機能的親縁性を有する両者に、何らかのかかわり合いを認めたいからだ。今後の研究では、白色容器と土器の原料調達、素材調整、成形技法、形態、機能といったよりミクロな視点での比較が功を奏しそうである。くわえて、白色容器や土器を単体の遺物としてとらえず、建材を含めたプラスター工業全体、あるいはレンガやピゼといった粘土を用いる建築技術との脈絡の中で、白色容器および土器を位置づけていくことによってみえてくるものもありそうに思える。

■石灰・石膏プラスター工業の過去と現在

 1990年代初頭の西アジア先史学界において、石灰・石膏プラスター工業はやや特異な注目のされ方をした存在だった。プラスター工業が先史時代の環境破壊を引き起こしたひとつの要因と目されたためである(Rollefson and Kohler-Rollefson 1989)。これはとりわけ南レヴァント地方の石灰プラスター地域から得られたモデルだが、石灰プラスターの大量生産にともなう過剰な燃料採取が森林資源の劣化を招いた、というシナリオであった。この仮説は、8,000年前頃西アジア各地で認められる遺跡の立地や規模の改変・縮小現象をうまく説明したため、ひろく受け入れられたようだ。

 しかし、最近の研究では、この現象自体を見直そうという動きがある。手元に具体的データがあるわけではないが、石灰プラスター工業が周囲の景観にどのようなインパクトを与えたかについても、もう一度吟味していいのではないかと感じている。このように考えはじめたのは、シリア各地の農村で現代の石膏プラスター工業を観察してからだ。わたしがみたシリアのプラスター工業は、ゆたかな生態的知識と経験に基づいたもので、環境破壊とはほど遠いものにみえた。

 最近、ひとつの新聞記事が目にとまった。ある大手ゼネコンが耐用年数100年を超える長寿命化コンクリートを開発した、というものである。主要紙で「寿命1万年」の「夢のコンクリート」と報じられたから、ご存じの方もあるかも知れない。プレス用リーフレット(鹿島技術研究所2006)によれば、古代ローマや中国の先史遺跡から発掘されたプラスターをヒントに研究が着手されたという。遺跡から発掘された精緻で堅固なプラスター床面は、現代の技術者をも魅了したらしい。

 残念ながら、開発者は西アジアの出土例には目を配ってくれなかったようだが、わたしは今でもシリアのセクル・アル・アヘイマル村で、9,000年間土に埋もれていたプラスター床面を初めて発掘した時の光景をおぼえている。それはまるで、つい最近塗り替えられたばかりの床のように、しずかに整然とひろがっていた。だから、新聞の見出しがうたう「寿命1万年」はけっして「夢」ではないことを、考古学にたずさわるものはすでに知っている。

 さて、今回の展示ではドメスティケーションが主要テーマとなっていることを考えていたら、先史時代におけるパイロテクノロジーとは火力を用いた自然のドメスティケーション過程と言いかえてもよい、とようやく気がついた。ここで主にとりあつかったプラスター工業技術は、原料の石灰や石膏という天然資源に熱による変形を加えて利用するものであった。また現代シリアのプラスター生産にかんする民族誌から観察される資源開発は、自然への広範な在来知識によって支えられていた。このようにプラスターという工芸技術の発展も、動植物の習性をたくみに観察・利用した家畜化・栽培化過程とまさにパラレルな関係にあるようにみえる。

 しかし、先にふれたように現代産業としての石膏プラスター工業は、重化学工業副産物の化学石膏が主だし、シリアの農村で観察されたような、一見単純なようにみえるが実は豊富な自然の知識に基づく石膏工業ももはやみられなくなるかも知れない。近代以降、技術革新によって突き進められた技術のグローバル化は、人間と道具と自然の乖離を蓍しく助長した。みずからの見識のなさを示すようだし、下世話なたとえでもあるから恥ずかしいが、わたしにはなぜ携帯電話が世界中で通じるのかいまもってわからない。ただ、最先端コンクリートを開発するのに(人間と道具と自然がまだひとつの線でつながっていた頃の)「古代コンクリートを参考にした」という技術者の言葉が、わたしには印象深くうつった。