過去2万年間の気候変動の復元

シリア・トルコでの現地調査から

鹿島 薫



はじめに
 なぜ、シリア・トルコで調査を進めているのか

 大学生の時から、環境の変動に興味を持ち、勉強を重ねてきた。大学院に進学し、博士論文のテーマを決めるとき、迷わず、過去2万年間をターゲットとした環境変動解明に関する研究に取り組むことにした。日本各地の湖沼や湿原に調査に行っては、泥だらけ、水まみれになりながら、土や水を取って帰ってくる生活の繰り返しに、家族や周囲の方は眉をひそめたものである。「せっかくいい大学にはいったのに…」と。

 しかし、博士論文を書き上げ、九州大学に勤めるようになったころから、環境の変動に関する世間の意識が大きく変わってきたことを実感するようになった。「地球の温暖化」や「エルニーニョ」という用語は、日本のどのような場所でも、シリアの田舎でも常識のひとつとして知られるようになってきている。しかし、その実態が正しく理解されているかという点については、「まだまだ」というレベルであろうと思う。

 初めてトルコに行ったのが1991年であるので、シリア・トルコでの調査は、2007年で18年目となる。毎年、数ヶ月日本を離れているので、妻にも職場でも、あきらめられかけている。なぜ、ここまでシリア・トルコでの調査を継続しているのだろうか。私の博士論文は、日本各地の湖沼・湿原で、過去2万年間に何回も気候や環境の急変動期が存在することを、後述する珪藻分析という手法を用いて明らかとしたものである。この変動が、地球規模のグローバルなものなのか、日本固有のものなのか、これを検証するために、九州大学に赴任後、迷わずシリア・トルコでの調査を始めた。

 ジェット気流という言葉を天気予報などで耳にされたことがあると思う。日本上空を通るこの強い西風は、日本の気候に大きな影響を与えている。地球儀をめぐらしてみると、シリア・トルコは日本とほぼ同緯度にあることに気付くだろう。そして、このジェット気流も両国の上空を通っており、日本における場合と同様に、その気候変化を左右している。これは言い換えると、日本における変動と、シリア・トルコにおける変動が強く関連しているといえる。それを、過去2万年間に遡って実証しようと、調査を始めたのであった(図1)。

図1 シリア・トルコの位置図と同緯度・同縮尺での日本列島
  日本とほぼ同緯度に位置している。ジェット気流の移動などが気候に大きな影響を与えており、
  日本における気候変動と同じセンスで、気候変動が発生していることが分かってきた。

■地球環境の変動に関する基礎
 様々なオーダーでの周期的な変動

氷河時代の発見
 地球の気候や環境は周期的に変動している。そのことが分かったのは、19世紀なかごろにおける氷河時代の発見であった。氷河時代はIce Ageの訳語である。同名のタイトルのアニメが最近、公開されているので、ご記憶にあるかも知れない。ヨーロッパや北アメリカが広域に氷河で覆われていた時代があり、このアニメでは、地球の温暖化に伴って、その氷河が溶けはじめ、氷河が崩壊する過程での出来事が描かれている。

 ここで大事なことは、この氷河に覆われた時代が1回だけではなかったことである。これらの地域では、何回も、氷河に覆われた時期(氷期)と、温暖で氷河が溶けた時期(間氷期)が繰り返していたことが明らかとなった。

 もうひとつ大事なことは、氷河に覆われていなかった地域でも、この氷河の変動に対応するかのように、大規模な環境変動が生じていたことである。多雨期(Pluvial period)と呼ばれるが、北アフリカや中央アジアなど、現在乾燥域となっている地域で、過去に巨大な湖が出現・消滅し、森林が形成されていたのである。氷河の消長に代表される気温の変動のほか、降水量や蒸発散量の変化などによって、その地域の乾燥・湿潤傾向にも大きな変動が生じていたのである。この変化は、シリア・トルコにおいても顕著であったことが、我々の調査からも明らかとなっている。

ミランコヴィッチサイクルと
10万年・4万年・2万年周期の変動

  氷河時代の原因について、最近、ミランコヴィッチサイクルという考え方が一般的となりつつある。ユーゴスラビアの天文学者であったミランコヴィッチは、地球の公転軌道の離心率の変化、地軸の傾きの変化、地軸運動の歳差率の変化に注目し、高緯度地域の夏季の日射量の変動を計算した。そして日射量は、10万年、4万年、2万年という周期の異なる変動が組み合わさっていることを計算で明らかとした。

 ミランコヴィッチの研究は1920年ごろに発表されたものであったが、1970年代以降、海洋や湖沼の掘削調査で得られた新しい気候変動の調査結果と、彼のモデルが良く一致することが明らかとなった。そして地球では、約10万年周期の大きな気候変動(氷期と間氷期の変動)に加え、4万年や2万年周期の気候変動(亜氷期と亜間氷期の変動)が存在することが明らかとなった。

短期間で急激な気候変動の発見
 グリーンランドや南極で氷河のボーリング調査が始まると、ミランコヴィッチサイクルよりも短周期で、しかも規模の大きい変動が発見されるようになってきた。まず発見されたのは、ハインリッヒイベントである。これは氷河の大崩壊がもたらす変動で、この氷山のかけらは、海洋に広域に流れ出て、大気や海洋の循環を変え、一時的に急激な世界的寒冷をもたらすことが明らかとなった。このハインリッヒイベントは1回ではなく、少なくとも6回以上繰り返され、その周期は約8,000年から約1万年となる。

 1990年代に入ると、さらに短い周期の変動が確認されるようになってきた。ダンスガード・オシュガーサイクルと呼ばれるものであり、デンマーク人のダンスガードとスイス人のオシュガーが、氷河コアの酸素安定同位対比の変動から発見したものである。氷期にはその発生頻度が大きくなり、最も寒冷な時代である2万年前から4万年前にかけては、2万年間に10回の変動期が見られた。その平均的な周期は約2,000年となるが、最も急激な場合は200-300年で気候は急変した。それぞれの気候変動イベントでは7℃以上の気温上下が生じることから、地球の気候変化のスピードは、それまでの氷期一間氷期モデルで考えられていたものより、はるかに大きいことが明らかとなった。このダンスガード・オシュガーサイクルの原因については、まだよく分かっていない。氷河の崩壊に加えて、火山噴火など様々な要因が関わっていると考えられている。

■過去2万年間の気候変動
 温暖化する地球、不安定な気候

2万年前から1万年前までの変動
 最後の氷期は2万年前頃に、そのピークを越え、その後は、地球は温暖傾向に向かった。これは主に、ミランコヴィッチサイクルによる、高緯度地方への日射量の増加に対応している。しかし、2万年前以降、気候はゆるやかに変化したのではなく、オールデストドリアス期(約1万8,000年前ごろ)、オールダードリアス期(約1万5,000年前ごろ)、ヤンガードリアス期(約1万2,000年前ごろ)という、少なくとも3回の急激な寒冷イベントが存在した。これらのイベントを引き起こした原因については、さらに検討をする必要が残されているが、温暖化に伴う氷河の融解が大規模な氷河崩壊をもたらし、その結果地球規模で気候が大きく変動したとする可能性が高いと考えられる(前記のアニメはこの事実に基づいている)。

 シリア・トルコでは、この時期の変動は、気温の変動に加えて、乾燥・湿潤の変動が大きいことが、我々のトルコ中部トゥズ湖やコンヤ盆地での研究で明らかとなった。これらの地域では、寒冷な気候であった氷期には、湿潤傾向にあった。そしてトゥズ湖では約1万8,000年前ごろには、現在よりも20-30mも水位が高かったことが、湖でのボーリング調査から明らかとなった。その後、温暖化に伴って、乾燥化に転じ、湖水位は低下を始める。しかし、2回の急激な寒冷イベントに対応する約1万8,000年前ごろ、約1万5,000年前ごろと、約1万2,000年前ごろでは、その時期だけ湖水位は一時的に上昇しているのである。このことは、温暖化途中の3回の急激な寒冷イベントは、これらの地域で短期間の湿潤化をもたらしたことが分かってきた。これは、ミランコヴィッチサイクルとは異なる、より短周期の多雨期(Pluvial period)の発見であった。

新石器時代における変動
 ヤンガードリアス期以降、地球はクライマティック・オプティマムと呼ばれる、温暖で安定的な気候が続いていたと思われてきた。そして、この温暖な気候が、新石器時代という新しい時代、農耕や土器製作という新しい文化技術を育んだと言われていた。しかし、新石器時代中にも大きな気候変動の生じていたことが、最近数年の研究で分かってきた。グリーンランドの氷河のボーリング調査から判明した8,200-8,500年前のこの変動は、その後の調査で、世界各地で一時的な寒冷化をもたらしたことが明らかとなった。この時代は、新石器時代の中ごろにあたり、先土器新石器時代から土器新石器時代へと移り変わる、文化の変換期にあたる。

 この8,200-8,500年前ごろの寒冷期の原因については、まだ検討が続いている。氷床崩壊に伴う大量の氷山の流出が海水温分布を変えて、寒冷化をもたらしたと言われている。さらに、この寒冷化の始まりとボスポラス海峡形成との関連が考えられている。ボスポラス海峡は地中海と黒海をつなぐ海峡であるが、その形成がおよそ8,500年前であることが、最近のエーゲ海などにおける掘削調査で明らかとなってきた。これは地中海と黒海の水位差が引き起こした突発的な地形崩壊であり、海峡形成によって、黒海の水位は一気に上昇すると共に、黒海から低温で塩分の薄い海水が、地中海東部の海面を覆うようになった。この変動は大変大きく、世界の気候変動への影響も大きかったのではないかと推定される。

 シリア・トルコにおける調査で、この時期の変動が最も顕著に現れたのは、シリア北東部のハブール平原における調査であった。新石器時代以前の変動が顕著であったトゥズ湖などトルコ中部では、8,200-8,500年前ごろの大きな変動を確認することができなかった。このように地球規模の気候変動であるにもかかわらず、地域で実際に現れる環境変動には大きな差があることが分かった。なお、ハブール平原での調査については、後段で詳しく述べてゆきたい。

新石器時代以後における変動
 約2万年前から新石器時代まで続いた温暖化傾向は、今から7,000年前頃にそのピークを迎えた。それ以降、変動を繰り返しながら気温はゆっくりと低下してきたと考えられている。シリア・トルコにおける湖沼や湿原における調査では、6,500年前ごろ、4,500年前ごろ、2,200年前ごろ、そして1,000-900年前頃に気候の急変期を確認することができた。同時に行ったエジプト・カルーン湖における調査結果でも、ほぼ同じ時期に急変期が確認され、これらの変動が広域なものであることが確認された。

 ここで面白いことに、トルコにおける変動とエジプトにおける変動とは、時期は一致するものの、乾湿の変動は逆相関となっている。つまり、トルコが乾燥化する時に、エジプトでは湿潤化する傾向が見られる。このような変化は、雨をもたらす前線帯の移動で説明されるが、その詳細については、さらに検討をする必要がある。また、このような地域性は、遺跡の分布や人々の移動などについても、強い影響を与えてきただろうことが推測された。

■ハブール平原での調査から
 ハブール平原の自然

緑の三角地帯
 ハブール平原はシリア北東に位置する。平原の南側を、ジャバル・アブドル・アジズとジャバル・シンジャールという山脈に区切られ、また北はアナトリア高原に面しているため、三角形状の盆地をなしている(図2)。ここには、東京大学によって発掘が進められているテル・セクル・アル・アヘイマル遺跡をはじめとして、多くの遺跡が分布していることで知られている。平原の西の縁をハブール川が流れ、それに面してテル・セクル・アル・アヘイマル遺跡が立地している。また、ジャバル・シンジヤールに接した小さな湖(ハートニエ湖)があり、ここは山地から流れる地下水によって、乾季でも湖水が枯れることはない。この湖で我々は古環境復元のためのボーリング調査を行った。

図2 シリア・トルコおよびハブール平原の地形
  アメリカ地質調査所のホームページからダウンロードした標高地図データをもとに作成した。
  ハブール平原の高原域の南縁に位置している。平原の南側は細長い二つの山脈によって区切られており、盆地状の地形となっている。

 ハブール平原の自然を特徴する言葉として、「緑の三角地帯」という表現を用いた。これを実感したのは、現地調査の前に衛星画像を用いて予察的な読図を行ったときだった。アメリカ合衆国地質調査所のホームページから、Earth Explorerというページに入ることができる(http://edcsns17.cr.usgs.gov/EarthExplorer/)。そこでは簡単な登録をすることによってランドサット画像を無料で閲覧することができる。約3カ月ごとの画像が公開されているので、季節を選んでその変動を見てゆくと、春季にはハブール平原では、一面の耕地によって、緑の大地となっている。これはハブール平原の南側には乾燥地が広がり、緑はユーフラテス川やハブール川などの河道に沿った場所に限られていることと対照的であった。

 ハブール平原には、ハブール川のほか、周囲の山脈からの多数の小河川が分布している。これらの河川は、常に水を湛えているわけではないが、雨季や融雪期における流水や地下水によって、大地を涵養している。もちろん現在の耕地は、近代的な灌漑システムによって支えられているものであるが、平原に立地した多くの遺跡の存在は、灌漑システム以前にも多くの人々をこの水は養ってきたことを示している。この場合、わずかな気候の変動は、人々の生活に大きな影響を与えたことが推定できる。この平原では、水環境の変動に直面しながら、人々は生活してきたのである。

■テル・セクル・アル・アヘイマル遺跡
 川に面した遺跡

 テル・セクル・アル・アヘイマル遺跡はハブール川に面した遺跡である。遺跡の周囲は、川の水を利用した灌漑施設が整備され、遺跡も綿畑に囲まれた豊かな場所に位置している。はじめてこの遺跡を訪れたとき、大きな間違いをしてしまった。現在のハブール川は水量も小さく、水質悪化と水の塩性化がはなはだしい。このため、遺跡の立地の最も基本となる飲用水の起源をハブール川にもとめずに考察を進めていたのである。

 しかし、聞き取りの結果、ハブール川の水量が急激に低下したのは最近のことであり、20-30年前までは水量もはるかに大きく、河川水は飲用に使われていたことが分かった。「トルコ人が上流で水を全部取ってしまったため」ということであったが、もちろんこれだけではなく、近年の地球温暖化に伴う、アナトリア高原における冬季の降雪量の減少が強く関わっている。

 ユーフラテス川やハブール川のような大きな河に面して遺跡が立地することは、雨季や融雪期に洪水の被害を直接受けることを示している。テル・セクル・アル・アヘイマル遺跡もハブール川に面した側面は明らかに河川による侵食を受けた痕跡が見られる。この遺跡は、湿潤化して河川の水量が極端に増加した時も、また乾燥化して河川の水量が減少した時にも、地形的には立地に適してはいない。むしろ湿潤化の過程で、または乾燥化の過程で、水量がほどよい量となる一時期に繁栄したのではないかと考えている。もちろんこの仮説は、今後、考古学者と議論を重ねていかなければいけない点である。