長崎6景

7.御大典記念碑 〜最高のサンプル?〜

(現・長崎市松山町あたり?・・・爆心から150m?)




 10月15日、浦上駅に到着。煙突と鉄骨だけ残った三菱製鋼所の工場跡を見ながらさらに進み、下の川橋を渡る。前方に巨大な石碑がそびえ立っている。長崎の御大典記念碑だ。陸軍中将西島助義の謹言との記述もある。資料を採る様子を写真に撮る。安山岩(And.=andesite)でできた石碑部分と、コンクリート製の台座から、それぞれ試料を採集した。

——「御大典記念碑 西島助義 photo N3 And. 54a、人造石54b」

 渡辺は、長崎被爆調査の初日、浦上駅を降り立ってから下の川橋を経て、まず御大典記念碑に直行している。当時、爆心付近には大きな建造物はなく、砕かれた瓦や木材の破片などの瓦礫が一面に散乱していた。その中で、高さが4m近く(当時)あり、殆ど無傷で残った御大典記念碑がすっくとそびえ立つ姿は、異様だったと思われる。遠くからも目立つこの石碑は、長旅で疲れていながら心機一転、長崎を調査しようと意気込んでいた渡辺の心を捕らえたに違いない。しかも、記念碑の部分は安山岩である。広島の清病院の塀を思い出し、爆心付近での熱線の影響を比較調査するのには最適の試料であると考えたに違いない。

 この碑には、「昭和三年秋日・御大典紀念碑」とあることから、昭和天皇の即位を祝って建設されたものであることがわかる。昭和天皇の即位式は、昭和3年(1928年)11月10日に京都御所で行われた。昭和天皇の即位に際する式典には、大正天皇の崩御後ただちに即位した際の践祚式と、天皇即位を内外に示した即位式があり、即位式は喪が明けた年の大嘗祭と共に「御大典」として国家的に祝賀行事として行われた。その際に、日本各地で御大典記念碑が建設されたのである。また、碑には「陸軍中将従二位勲一等功二級男爵西島助義謹言」という文言もある。西島助義は、日清戦争・日露戦争で活躍した山口県出身の軍人である。

 渡辺が撮影した写真やスケッチを見ると、この記念碑は、もともとは国道に面した場所にあったと思われる。しかし、長崎市に問い合わせても、当時の正確な場所は特定できなかった。現在は、長崎平和記念公園の平和の泉から南東方向に下る細い道のきわに、ひっそりと立っている。足を止めるものも誰もいない。何回目かの調査の際、筆者の前を歩いていた父子連れも、全く気にかけることなく通り過ぎていった。昭和45年(1970年)に松山町の有志によって再建されたそうだが、古色蒼然とした暗い灰色の記念碑に、刻まれた文字が鮮やかな金色に浮き出されており、若干違和感を覚える。

再建された御大典記念碑

 スケッチには、土台の上に熱線によって焼きつけられた陰の方向が「北から西へ13°」の記載があるが、これは南から東へ13°の誤りか、あるいは土台石の面の走向が北から西へ13°という意味で記載したのかもしれない。

 渡辺は石碑と土台から二個ずつ試料を採集しているが、石碑から採集した安山岩試料の表面は著しく熔融している。爆心からの距離がおよそ150mであるので不思議ではないが、平和記念公園に現存する記念碑の安山岩には熔融の跡は全くない。50年の月日のうちに風化して弱くなった熔融部分がそぎ落とされてしまったのか。それとも、再建の際に形を整えたのだろうか。渡辺の試料のみが雨風をしのぎ、被爆当時の様相を伝え続けている。




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