広島6景

6.広島城周辺の軍事施設 〜追体験のできない場所〜

(広島連隊管区司令部:現・中区基町・・・爆心から約790mなど)




 13日。調査の最後に広島城界隈の軍事施設に行く。広島連隊管区司令部では、石垣の粗面にも割れが見られた。花崗岩でできている。

——「広島連隊管区司令部 石垣ノ粗面ニモ splitting ミラル」「granite」

 杉本中佐の像には熱線の照射方向にコゲがある。赤御影石は割れがある。

——「杉本中佐像 照射方向コゲ」「gr. 赤 splitting」

 砂利の珪石は割れが著しい。建物の土台も剥離が見られる。西南角にある瓦は、ややコゲ跡がある。

——「pebble quartzite spli. 著シ」「建物土台モハジケアリ」「瓦 稍コゲ跡アリ 西南角」

 大きさがわかるようにハンマーを置いて、砲兵第五連隊の門柱の写真を撮る。材質は徳山産の花崗岩。熱線の影は北から45°東方向だ。

——「野砲兵庁5連隊門柱 photo H35、H36」「徳山石 方向 N45°E カゲ」

 陸軍病院分院の門の写真を撮る。愛媛郡越智郡産の花崗岩、ヨソクニ石である。今村と門柱も一緒に撮る。絞りを6.3、1/40でシャッターを切った。天気は曇りぎみだ。北から15°東方向で、門の正面の方向と○○が一致する。門の扉は木製で、表面が焦げて木目が顕著に現れている。きっと石によって割れ目が作られてから倒れたのであろう。

——「分病室ノ門 ヨソ石gr. Photo H37」「今村ト門柱 H38」「6.3 1/40 クモリギミ」「N15°E 門ノ正面ノ方向ト○○一致」「門ノ扉木製、表面焦ゲテ木目著シクアラワル」「rock ガ split シテカラ倒レタ」

 日清戦争の記念碑台のところにある小石を写真に撮る。いろいろな種類の石が焼けている。

——「pebble 記念碑台 H39」「各種石ハヤケル」

 渡辺の被爆調査の追体験を試みる上で、もっともイメージがつかめなかったのが軍事施設でのフィールドワークの様子である。西を本川、東と南を市電、北を国電で区切られた広島城を始めとする基町一帯は、戦前はそのほとんどが軍事施設だった。現在は、市民の憩いの場として中央公園に整備されたり、市営のアパートが建ち並んでいたりする。

 広島市は、江戸時代は毛利輝元が築城した広島城を中心とする中国・四国地方随一の城下町であった。が、明治維新の後、広島城には1871年には鎮西鎮台の第一分営がおかれ、1873年には広島鎮台となった。これが全国六師団の一つとして1888年に改組されて第五師団となり、日清戦争、日露戦争、日中戦争などに出兵していった。

 また日清戦争(1894—1895年)時には、連兵場が充実していること、山陽鉄道の西端であること、宇品港の存在などより、広島城に戦争の総司令部である大本営が置かれた。これを機会に広島市内の軍用施設・軍需工場は大幅に拡大され、呉の海軍とあわせて広島湾一帯は軍都といった趣になった。第二次大戦中には本土決戦に備えて中国軍管区司令部と改称され、明治時代の配置を踏襲する形で、歩兵、砲兵、輜重兵の各補充隊や陸軍病院、陸軍幼年学校などが置かれた。

 渡辺は軍事施設の調査を足早にしている。メモ書きも写真も多いが、渡辺の特徴とも言える緻密なスケッチが全くなされていない。調査の最後に来たということは、こちらの軍部で他の研究者や他の班と待ち合わせがあったのかもしれない。前項の広島護国神社での綿密な調査のおかげで時間が押していた渡辺が、限られた時間内に日没などを気にしながら、軍事施設の敷地内を縦横に駆け回って、少しでも多くの試料を見て記録に残そうと奮闘している姿を想像してしまう。

 この後、渡辺は翌日、電車に乗るために広島駅に向かう際に、もう一度清病院の門柱と焼け溶けた塀の上部をカメラに収めて、長崎へと旅立つ。

 




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