シーボルトの21世紀

Philipp Franz von Siebold in the 21st century

大 場 秀 章
Hideaki Ohba

「シーボルトの21世紀」とはいささか奇異な感じがしないでもない.日本ではシーボルトという名前を聞いたことのない人はいないくらい,シーボルトは有名人になっている.江戸時代の日本に近代的な医学を伝えたこと,禁制の地図を持ち出し国外追放になったシーボルト事件のことがとくに有名だ.医者として開業経験もあるシーボルトは,確かに日本人に西洋の医学を伝授し,西洋医学の素晴らしさを印象付けた.しかし,彼はこのことのために情熱を燃やして来日したのではないことは存外知られていない.

禁制の地図持ちだしの嫌疑により,国外追放になったことが示しているように,彼は「日本の動・植物界と鉱物界の希少な品々について紹介し,日本人自身の心情の傾向や特性を探求し,また「当地において効果的で得るところの多い自然調査を実施する」という特殊な任務のためにオランダ政府から日本に派遣されてきた人物なのである.

シーボルトは先駆的な植民地科学者であったということができる.彼はこういう職業にふさわしい知識と技術を身につけていたばかりか,彼自身こうした仕事に従事したいという野心さえ抱いていた.日本の自然・文化を単に情報だけによらず,物証的に研究するとなると,シーボルトが収集したコレクションを学術標本に整理し,保管するオランダの国立自然史博物館(ナチュラリス),オランダ国立大学植物学博物館ライデン大学分館そしてオランダ国立民族学博物館の収蔵標本を利用することなしに新しい研究を展開することは考えられない.今後ともシーボルト・コレクションの学術的価値は高まりこそすれ,減じることはないのである.

「持続的地球共生」を人類生存の指針とする今世紀において,自然の詳細な解析とその結果にもとづく資源戦略の重要性はますます高まっていくにちがいない.日本についていえばその原点を築いたといってもよいシーボルトの活動を振り返り,再評価を通じ,新しいシーボルト像を探ってみようとするのが本特別展「シーボルトの21世紀」展のねらいでもある.

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(Philipp Franz von Siebold, 1796年〜1866年)
川原慶賀作。長崎県立長崎図書館所蔵
 

シーボルトの生涯

シーボルトが生まれたのは,活動の中心となったオランダではなく,オランダとは直接的には関係のないドイツの地方都市,ヴュルツブルクである.つまりシーボルトは生粋のドイツ人なのだ.ライン川の一支流マイン川の浅瀬に発達したこの町は,バイエルン州北西部に古くから都市として栄え,フランケン地方の文化の中心地として,また南北と東西に走る中世以来の重要な通商路の交差する地点でもあるため商業も発展していた.とくにこの一帯はそこから南部へ向かうイタリアとの通商路として栄えた.ヴュルツブルク以南には今でも中世の面影を残す町が連なり,日本ではロマンチック街道と呼ばれている.また,神聖ローマ帝国の一部であったヴュルツブルクには司教座が置かれ,司教を領主とするカトリック文化の中心地でもあった.

第二次世界大戦はこの町の82%を破壊したが,いまはほぼかつてのままに復旧された.市の中心部には18世紀の著名な建築家バルターザー・ノイマンによって建てられた領主大司教の居城 (Residenz) や1696年頃に建てられた元はシーボルトが学んだヴュルツブルク大学の協会であったノイバウ教会 (Neubaukirche) など,おびただしい古い建造物が林立する.

私の手元にウィーンの画商ハースフルターによるルドルフ・アルト (Rudolf Alt) の絵画作品について1991年に行われたオークション用図録がある.1812年に生まれたルドルフは父ヤコブの工房で働いていたが,後に写実的風景画家として名をあげた人物である.その図録には彼が1836年頃から描いたウィーン市内の建物や市街の風景画が数多く載っているのだが,画中の馬車を路面電車や自動車に代えれば,その建物も市中のたたずまいも今とかわりのないことに気づかされる.

おそらくヴュルツブルクもシーボルトが生まれ,ここで学んだ頃と大きな隔たりのないまま今日にいたっていると思われるのだ.シーボルトが日本でも,町を,人をみる目は,この町で培われたはずである.その意味で彼の日本とその自然・文化を見る目の基底には常にヴュルツブルクがあるといえるだろう.

シーボルト家は中部ドイツ出身の名門で,一門には学才に秀でた人物が多く,とくに医者や医学教授を多数輩出している.彼自身の家系も祖父の代から貴族に列せられて,父クリストフはヴュルツブルクの大学教授で,ユーリウス病院の第一医師であった.日本に西洋文明を伝え,日本の自然と文化に関わる膨大なコレクションをつくり上げた,この先駆的植民地科学者シーボルトは,フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz [Barlthasar] von Siebold)といい,ヴュルツブルクに1796(寛政8)年に生まれ,カトリック教徒として,地元の大聖堂で洗礼を受けた.しかし,シーボルトは不幸にして2歳のとき父を失った.9歳になったとき,母アポロニアはシーボルトを伴い,市の南西部に位置する田舎町,ハイディングスフェルトに移り住んだ.シーボルトはヴュルツブルクの高等学校に入学する13歳までこの地で過した.

ヴュルツブルクでは,父の友人でもあり博物学に造詣の深かった,解剖学と生理学を専門とするイグナーツ・デリンガー (Ignaz Dölinger) 教授の家に下宿していた.高校を卒業すると同時に大学に進み医学を学んだ.1820年に優秀な成績で大学を卒業すると,母が住み,彼自信も一時期を過ごしたことのある田舎町,ハイディングスフェルトにて,医者として開業した.

シーボルトの日本滞在中のことやその後の活躍については別に記すことにしたい.また彼の生涯は図1の年表にまとめた.ところで,シーボルトが長崎を離れたのは1829年12月になってからであった.

帰国後のシーボルトの半生は,日本でのコレクションの研究と日本についての専門家,ロビーイストにあったといわれているが,私はこれに園芸事業を加えたい.というよりも,帰国後のシーボルトは日本の植物を研究し,それをヨーロッパ全土の園芸に供給し,広めるために多くの時間を割いたといってよいのではないだろうか.

シーボルトは1816年3月,バイエルン王国で貴族階級に登録されていたが,さらに1842年にオランダのハーグでヨンクヘールの称号を授かり,貴族に列せられることになった.帰国後15年が過ぎた,1845年7月10日にシーボルトはヘレーネ・フォン・ガーゲルンとベルリンで結婚し,後に3男2女を授かった.

こうしてヨーロッパでも仕事が軌道に乗り,また新たな家庭を築いたにもかかわらず,シーボルトは一貫して日本に帰ることに希望を抱いていた,といわれている.その理由は本当のところ謎というべきだと私はみるが,とくに1855年になって徳川幕府が彼の日本追放を取り消す決定をした後,日本再訪の希望を現実のものとするため,シーボルトは各方面にかなり強引ともいえる打診をしている.

だが,公式の立場での日本再訪は実現せず,オランダ貿易会社という私企業の顧問の資格で,1859年から62年まで,やっと待望の日本再訪が実現した.1859年にシーボルトは長男アレクサンダーを伴い,懐かしい長崎に再上陸し,娘の稲にも会うことができた.追放の処分を受け,離日したときの稲はわずか3歳の幼児であったが,いまや彼女は33歳となり,1852年には石井宗謙との間にシーボルトにとって孫に当たるたかが生まれていた.再会に際してシーボルトは何を考え,あるいは想ったことだろう.それを伝えるものは何も残されてはいない.

再来日したシーボルトは,1861年には幕府の顧問となり,江戸に移ったが,日本人のために西洋国家に不利なことをしたかどで,オランダ総領事の反目をかった.彼は多くの失望と幻滅を味わい,1862年4月末には日本を離れ,オランダへ帰った.国内はもとより,欧米列強の利権も錯綜し,日本は過渡期特有の騒然とした困難な状況にあった.それ自体がシーボルトが期待し,想い描いた日本とはかなり異なるものだったのではなかっただろうか.

失意の帰国を余儀なくされたシーボルトは,1863年にオランダ陸軍から少将の地位をもらって退職し,1864年に生まれ故郷のヴュルツブルクに帰った.落胆はそれを乗り切る勇気を超えたものだったのであろう.2年後の1866年10月18日,シーボルトはミュンヘンでその70年に及んだ生涯を閉じたのである.69年 (明治2) には薄幸の妻,滝 (其扇) もシーボルトの後を追うようにして亡くなった.一方,ガーゲルン夫人は1877年まで生を全うした.といっても,まだ57歳の若さであった.

マリエンブルク城から眺むヴュルツブルク市内.
マリエンブルク城から眺むヴュルツブルク市内.
 

東インドの自然史研究への期待

ドイツ・ヘッセン州在住のシーボルトの末裔フォン・ブランデンシュタイン家が所蔵するシーボルト関係書簡類を精力的に研究している宮坂正英は,書簡の精読からシーボルトが大学卒業の翌年に当たる1821年に,海外での自然史科学 (=博物学) の調査研究に出かける決意を固め,計画を具体化させていったと書いている(宮坂,2000年).

シーボルトはその計画を現実のものとするため,親類縁者ならびに学生時代から築き上げてきた科学者・医者との交友関係を利用して,オランダの東インド研究者に接近を試みた.当時,オランダにはドイツ出身の自然史の分野の研究者が少なくなかったのである.シーボルトが頼りとした人達のなかでも重要な人物は,先のデリンガー教授及び,ヴュルツブルク在職中にはデリンガー教授宅をもしばしば訪問したクリスチャン・ゴットフリート・ネース・フォン・エーゼンベック (Christian Gottfried [Daniel] Nees von Esenbeck) である.

フランクフルト・アム・マインに滞在中にシーボルトは,動物学者でオランダのライデンにある王立自然史博物館の館長であるコンラート・ヤコブ・テミンク (Conraad Jacob Temminck) に手紙を出し,自らが置かれている環境や研究計画などを書いた.テミンクは博物館長として,東インドへの研究者の派遣,この地域からの標本の収集と研究に深く関わっていた.

宮坂 (2000年) は,シーボルトはこの手紙に加え,デリンガーやエーゼンベック兄弟からの推薦をも受けて,東インドへの渡航の希望を伝えたのではないかと推測している.シーボルトが知遇をえて親しい関係にあったゴットフリート・ネース・フォン・エーゼンベックには弟がいた.彼フィードリッヒ (Theodor Friedrich [Ludwig] Nees von Esenbeck) もまた植物学,薬学を専門とする学者であったが,オランダとの関係でいえばシーボルトにとって大変重要な人物であった.というのも,フィードリッヒは1817年から1819年にかけての3年間,ライデン大学の植物園の助手 (inspector) を務め,オランダの学界の事情に通じているだけでなく,知人も多かったのである.

 

特別の任務を帯びて日本に派遣される医師

シーボルトは,自分が名門の貴族の出だという誇りと自尊心が強かったといわれている.それが彼をして一生を町の開業医として終わることを許さなかったのだろう.東インドに渡りその地の動物・植物を研究することを考えさせたのも,こうした性格の延長上にあるものと解してよさそうだ.シーボルトは国家に雇用された研究者でなくとも,たとえ市中の医者としてでも東インドに行くつもりだったと思われる.

残された母アポロニアや伯父ヨーゼフ・ロツからの書簡はこうした経済基盤の弱い植民地への渡航に反対するものだった.とくにロツはシーボルトがはやく博士論文を書き,私講師に応募することを望んでいたのである.シーボルトの性格や希望を知った伯父のひとり,アダム・エリアス・フォン・シーボルトは,一族の旧友で当時オランダ陸海軍軍医総監兼国王ウィレム一世侍医でもあるフランツ・ヨゼフ・ハルバウル(Franz Joseph Harbaur)にシーボルトの就職について斡旋を依頼した.

ハルバウルは,オランダ領東インド陸軍勤務の外科軍医少佐という,破格な待遇といってよい職をシーボルトに斡旋した.こうしてシーボルトはオランダ東インド植民地との関係をつかむ契機を得たのである.

ヴュルツブルクを治めていたバイエルン国王は,彼の名誉ある家系に免じて,シーボルトの他国勤務に対して国籍変更なしに学術旅行目的の旅券を交付した.赴任前にヨーロッパの学会との緊密な関係をもつことを望んでいたシーボルトは,1822年7月にヴュルツブルクを出発すると,諸都市を訪ね,いくつものアカデミーや学会の会員資格を手に入れた.なかでもシーボルトがとくに望んだのは,当時もっとも名高かった帝室カール・レオポルト自然科学者アカデミーへの入会であり,ボンにいた植物学者エーゼンベックの援助によりこれを許可されている.

エーゼンベクとシーボルトの親密な関係はその後も続く.シーボルトは日本からもエーゼンベックに手紙を送っている.また,シーボルト自身による唯一の植物分類学の論文である日本のアジサイ属についての論文(1829年)を発表したのはこの学会誌であった.

シーボルトはハルバウルの尽力で,軍医将校という,社会的にも経済的にも彼が当初もくろんでいたよりも確固たる基盤の上に立って,オランダの東インド植民地に向かうことになった.1822年9月にシーボルトらを乗せ,オランダのロッテルダムを出航したフリゲート艦「ヨンゲ・アドリアナ号」はおよそ5ヶ月でジャワ島のバタヴィアに到着した.

出航に先立ち,1822年7月22日にオランダのハーグから,恩師デリンガー教授に宛てたシーボルトの書簡は興味深い.要点を紹介すると,テミンクがジャワの自然史研究をしているラインハルトに,シーボルトのことを照合し,ケテルの後任として推そうと約束したが,外科医少佐になった時点で「もうあまりその気がない」ことを書き,さらにその地位を得ることで「しばらくして東インド医学総督のポストを請求するのも当然となりますし,また何らかの十分な理由があればいつでも好きな時にオランダに帰ることができるのですから.もしかすると,当地の収入で数ヶ月間パリに滞在することになるかもしれません」ともいっている.また,「私は執刀医として働くことになりますので,解剖学用銅板図 (ein Kupferwerk für Anatomie) を手に入れたい」と,デリンガー教授にその送付を所望している (宮坂ら,2002年).

この手紙が書かれた1822年7月の時点では,シーボルトに日本あるいは日本に行って研究するという考えがあったとは考えられない.宮坂 (2000年) も書いているが,シーボルトが日本に行き,自然史の研究をしようと決心するのはバタヴィア滞在中であっただろう.カペレン男爵に推されたことがその動機といってよいのではないだろうか.

 

シーボルト来日の頃の日本

シーボルトの初来日は文政6年(1823)から文政12年(1829)の7年間にわたるものである.

江戸時代この時期は化政年間と呼ばれ,江戸時代におけるひとつの文化的な爛熟期であった.政治的にも一種の小康状態にあり,健康・医学に対する関心も高かった.伊能忠敬,上田秋成,十返舎一九,小林一茶,歌川豊国など多数の文化人が活躍し,医学や自然,天体,暦などについて深い関心を寄せる学究肌の人物も多かった.

シーボルトの来日のほぼ100年前である.享保5年(1720)に8代将軍吉宗は,キリスト教以外のオランダ書の輸入を解禁した.これ以降,オランダを経由して多くの学術書が渡来し,紹介され,さらに少数ではあるが『解体新書』(1774年刊)のように日本語に翻訳されたものもあった.とくに医学では,吉宗の学術書輸入解禁後にそれまでの主流であった漢方医に対して,従来未知数の西洋式の医学への関心が急速に高まりをみせていたのである.西洋式の医療を行う医師が急増し,彼らは蘭方医と呼ばれた.また,医学以外の学問に対しても興味を示す人々も少なくなかった.とくに薬のもととなる植物・動物学や天文学・暦学にその傾向が強かった.

植物学についていうと,この当時の研究は医学・薬学と関係の深い本草学に付随するものであったが,その中心的役割を果たしていたのが,中国の明時代に李時珍が著した『本草綱目』である.文化6年(1809)に81歳で亡くなった小野蘭山は,『本草綱目』を解説し,かつ類似する日本の植物との異同を論じた名著『本草綱目啓蒙』の著者であり,日本での本草学を完成させた人物であった.蘭山の弟子や彼の影響を受けた本草家が,シーボルトが来日した化政年間に多数活躍していた.

日本で最初の植物図鑑といってよい岩崎灌園の『本草図譜』が完成したのもこの時代である.灌園も蘭山の学閥に連なる本草学者のひとりであった.蘭学者,宇田川榕菴は,シーボルトが来日する直前の文政5年(1822)に『菩多尼訶経』を著した.これは,お経のかたちを借りて植物学(菩多尼訶=botanica)を概説した,日本で最初の植物学の教科書である.榕菴のこの著作が示すように,当時の医者・学究者には医学のような実学に止まらず,植物学など純粋科学に対しても興味をつのらせていたことがわかる.

このように化政年間には日本でも学術に関心を抱く人々が出現し,彼らの多くは相互に親密な交流を開始していた.むろん当時の日本には学会のようなアカデミーの組織は存在しなかったが,師弟関係,職場あるいは同好会的な集まりを通して,学者間の交流が進められていた.本草学はその中心的な課題のひとつであったが,ヨーロッパの影響もあってその中から植物学が芽ばえつつあった.

したがって,当時のヨーロッパとの唯一の窓口であるオランダと,そこに通じる窓口のある長崎は,学術への参加やそれを愛好する人々にとって特別な町に映えた.事実,長崎には日本の他の地にはない情緒があった.出島に幽閉されているとはいえ,市民はオランダ人や彼らの連れてきた国外の人々を垣間見る機会もあった.オランダから渡った文物もどこよりも豊富であったのはいうまでもない.蘭癖と呼ばれたオランダかぶれも武士階級にとどまらず,工商の階級にも多くいたにちがいない.オランダから輸入される書籍を読み,ヨーロッパからの知識の吸収に努めようとする人々,そして何よりも医学のような実地をともなう学問では,直接に学べるオランダ人の師が渇望されたのである.

 

シーボルト来日の頃のオランダ

オランダは16世紀から17世紀前半にかけて新しい航路の開拓と確実な航海術により,それまでのスペイン,ポルトガルに代わって世界貿易での支配権を握るヨーロッパの列強国のひとつとなった.いまはベルギーの首都となっているブリュッセルのギルドホールとその広場を囲む絢爛豪華な建物はその頃のオランダの反映ぶりを示していよう.しかし,1651年から始まったイギリスとの制海権をめぐる戦争以降は,オランダの反映にもかげりを生じるようになった.

とくに,シーボルトが来日した1823(文政6)年前後のヨーロッパはたいへんな激動期であった.オランダは,フランス革命とそれに続くナポレオンの台頭の時代,フランスさらにはイギリスに占領されてしまう.海外領土もフランス・イギリスの支配下にあった時期,ときの出島商館長ヅーフの努力で,出島だけにはオランダ国旗が掲揚され続けていたといわれている.

1813年にナポレオンがライプチッヒの戦いに敗れると,オランダ全土に反フランス運動が起き,イギリスに亡命中に死去したウィレム五世の子,ウィレム六世が帰国し,新たにネーデルランド連合王国国王ウィレム一世として即位した.こうして,独立を回復したオランダは,1814年に英蘭条約締結によって,イギリスから売買の形式で日本との貿易を中国とともに独占していた,オランダ領東インドの統治権を譲り受けた.

オランダはこの機会に国家財政の立て直しを図るため,東インド会社時代に貿易の純益がもっとも大きかった日本との関係を一層深めることに力をいれることを画策した.学術の振興にも強い関心のあった,ときのオランダ東インド総督ファン・デル・カペレン男爵 (Goderd Alexander Gerard Philip van der Capellen) は,多分に独自の考えの一環として日本の歴史,国土,社会制度,物産などについての総合的な自然科学的調査を行う方針を固めていた.

これは,対日貿易の振興に向けての一種の‘対策’でもあるとカペレンは考えた.日本側のオランダに対する受けを良くするための,日本への文化的貢献を考えるのはイギリスやフランスでは当然の考え方であったが,オランダがこれまでこのようなことを実行してきたとはいえない.その対象として,カペレンは医学と博物学の振興に力を入れる政策を打ち出した.

西洋医学,すでに指摘したように漢方主流の当時の日本で渇望されていた,ヨーロッパの新しい医学の知識や技術の移入と教授への的確な対応といえる.また,本草学の一部は自然史研究すなわち博物学へと転換しつつあった.同じ傾向と発展がヨーロッパにもあり,彼らにとっては経験済みのことが日本でも進んでいると理解できただろう.

一方,植民地の博物学研究は宗主国の義務と当時のヨーロッパでは見なされていたのである.オランダも遅ればせながら,こうしたヨーロッパの慣習につき従う道を選んだといえる.

総督のファン・デル・カペレンの目に止まるところとなったシーボルトは,バタヴィア芸術科学協会員に任命され,前に述べた特別の任務を担って日本の長崎出島のオランダ商館に派遣される医師に,抜擢されたのである.

この職はそれまではせいぜい10人ほどの同国人の健康管理をしていればよい閑職だった.その職名も「国家の施策にもとづく特別な指令のもとに行動する特殊な任務をおびた職」へと転じたのである.

宇田川榕菴(1798年〜1846年)
宇田川榕菴(1798年〜1846年)
シーボルトと同時代を生きた. 日本で最初の植物学教科書を著した.
 

来日に向けての周到な準備

日本の学術研究推進の立役者といってよいカペレンは,シーボルトに日本でのあらゆる種類の学術調査の権限を与え,総督府がこれに要する経費を負担すること,収集した資料の所有権はオランダ政府にあることについての契約をシーボルトとの間に結んだ.「この国における自然科学的調査の使命を帯びた外科少佐ドクトル・フォン・シーボルト」(De chirurgijn Majoor, belast met het Naturkundig onderzoek in dit Rijk. Dr. von Siebold)などという,シーボルトが日本で用いた肩書きは,この契約にもとづく半ば公式のものであり,総督府にこれに類する肩書きで記された報告類が多数残っている.

「小生は新たに抜擢された駐在官の侍医,かつ自然研究者として日本へまいります.小生の望んだものはうまくゆきました.小生を待つものは死か,それとも幸せな栄誉ある生活か.」

この一文は,いまのジャワ島から日本に向けて出発するシーボルトが故国の伯父宛に書いた手紙の一節だが,風だけが頼りであった当時の航海,海賊の出没,厳格な鎖国など,シーボルトの日本への旅行には多くの危険がともなっていた.この手紙は,そうした危険をあえて冒してまでも,シーボルトはこの旅行に期待する何かを抱いていたことを示している.一時は執刀医として,行く末は東インド医学総督になることさえ望んでいたシーボルトである.日本に行くこと自体,彼にとっては大きな心変りであるはずだ.シーボルトが日本に期待したものは何だったのだろうか.

すでに記したように,これまでのシーボルト研究では,シーボルトが自らの意思で日本に来るために東インド勤務を選択したことを証拠付ける資料は見つかっていないのだ.カペレンの知遇を得,彼は説得され日本に行くことを承知したと私には思えてならない.後に日本学の始祖となり,日本の植物学と日本植物の園芸化とヨーロッパへの紹介に大なる業績を残したシーボルト誕生の契機は,他力本願的なものだったかも知れないのである.

シーボルトは当時としては計算高い抜け目のない青年だったと思われる.いくぶん滑稽なところさえあるといってもよい.彼はどうすれば鎖国下にある日本から最大限の資料と情報を入手できるかを周到に考え,それを実行に移していったといえる.最先端の西洋医学の知識と技術の伝授は,必要な資料と情報収集にとって,最大の武器になることを知って行動したのはいうまでもない.まずシーボルトは日本人の間で関心の高い西洋医学に関して,それまでに習得した最新の医学知識と技術を伝授することで彼らとの交流を深めていった.交流を深めていく中で,彼らから資料や情報を得ようとを考えたわけである.これは鎖国下で行動がきびしく制約された日本で,必要かつ質の高い資料・情報を得るのにもっとも効果的な方法であっただろう.巧妙に隠匿された真の目的に気付いた日本人はいたかも知れない.しかし,気付いたところでそれはとくに問題ともならなかっただろう.日本ではわずかに葵の紋章の付いた衣裳や器物,それに地図などが持ち出されるのを禁じられているだけだった.多くの重要な資料・情報の持ち出しに関しては日本人も当の幕府も何も問題は感じていなかった.

当時の日本人にとってシーボルトは西洋を代表する人物であったといってよい.シーボルト即ち西洋であったのである.シーボルトが文物・情報収集の手段とした医学やその他の自然史科学で披瀝した新知識と実際,教授法など,もともと新しがりやの日本人にとって何もかもが斬新であった.シーボルトには手段に過ぎなかった西洋文明の日本への伝達は,日本人の関心を引くうえで予想以上の効果をあげたのである.それまでの誰よりもシーボルトは日本への西洋文明の伝達者として成功した.

ただし,こうした蘭学の伝授が暗黙下に認められることになったのは,シーボルト自身というより,このカペレンの意図やシーボルトの役割を認識していた商館長シュトューラー (Johann Wilhem de Sturler),さらには日蘭間の友好に努めた前任者のブロムホフ (Jan Cock Blomhoff) の努力に負うところが大きい.とくに,シーボルトがオランダ人に居留が義務付けられていた出島の外にある鳴滝に私塾を設けることができたのは特例中の特例であったといえる.ただ,幕府がこの種の特例を認めたのはシーボルトに関してが最初ではなく,先例はある.注文したペルシャ馬をケイゼルという馬術教師が江戸まで連れて行き,しばらく江戸にとどまり調教にあたったのがそれだ.

シーボルトは彼に与えられた目的を果たすべく懸命に務めたのは,確かなことといえる.というよりも目的達成をあまりにも期するがゆえに,彼を支援してきた人々を含め周囲の人々との間に摩擦を生じ,多くの人々に尊大な印象を与えることになった.また契約の履行でも齟齬があった.一例をあげると,シーボルトの調査に協力的であったテミンクは内務省文部局長エウェイクに手紙で,すべての博物収集品はオランダ政府の所有に帰するという条件に反して,シーボルトがその一部をドイツの研究者に送ったことを抗議している(永績,1982年).

コレクションが充実してくるとともに,コレクションについてのシーボルトの私有意識も高まってきたと考えられる.自分の帰国に際してジャワ号に積込んだ70箱以上の標本を「昨年自分の勘定で集め,政府に提供する珍奇な博物」または「学術研究のため自分の費用で集め,仮に王立博物館に送るもの」とした,などと書き送っているのもそうしたことの現れである(永績,1982年).

シーボルトはこれより先,コルネリス・ハウトマン号では89箱の標本類を送っている.テミンクはこれらの標本がミュンヘンに持ち去られるのではないかとの心配から,特別な措置によりオランダの博物館が入手するための手筈がとられたのである.こうした動きはシーボルトのコレクションが研究者,とくにオランダの研究者に大いに注目されていたことを示していよう.

こうした悶着はさておき,シーボルト自身は帰国後,日本での学術研究の成果を刊行すべく努めた.ただコレクションを分析しなくては出版できない植物や動物の分類についての論文を書くことはできなかった.その礎となる解剖や類似種との比較,関連文献の渉猟などには莫大な時間が必要であるが,シーボルトにはそれをする時間の余裕はなかったためである.さしあたって収集した文献やメモによって原稿をまとめることのできる江戸参府紀行,日本の歴史,民俗,風習,文物をまとめた『日本』の執筆にとりかかったのは賢明な判断であった.『日本』は彼の著した唯一のまとまった成果であり,当時のヨーロッパの人々にはかり知れない影響を及ぼした.

 

シーボルトによるヨーロッパへの日本紹介

シーボルトは帰国後,彼の日本での収集品のほとんどが保管されることになったオランダのライデンに住居を構えた.紆余曲折はあったもののジャワ号で運んだコレクションは彼が希望した通りオランダ政府により買い上げられ,彼自身は引き続き東インド軍医少佐に任命された.これは第一に日本での調査の成果を出版するためであった.

ところで,シーボルトが日本に伝えた西洋の文明,とくに医学については日本の研究者によってこれまで多くの事実が記述され,その意義・後世への影響などが詳しく研究されてきた.しかし,シーボルトがヨーロッパにもち帰った日本のコレクションがヨーロッパの人々に及ぼした影響について,日本ではこれまでふれる機会が少なかったように思われる.

近年になり,石山禎一を中心とするグループは彼がヨーロッパにもち帰った日本植物や園芸植物による園芸振興,とくに王立園芸振興協会の活動とその内容について詳しい紹介を行い,日本の植物をヨーロッパの庭園の変革に役立てたいとするシーボルトの帰国後の活動について詳しい研究を行っている(石山,1988年).これとは別に『花の男,シーボルト』を書き,私もシーボルトの園芸への取り組み,移入した植物の紹介を合わせ,その意味を考察した(大場,2001年).

日本への派遣に当たり,日本の自然史ならびに日本人とその文化を調べることを命じられていたシーボルトは,もちろん博物研究の一環として,民族学的な研究とそれに関連する資料の収集に多大の関心を寄せていたと想像される.しかし,来日後4年目になる1826年まで,民族学に関係する資料の収集の方針や計画はもちろん,積極的な収集活動はほとんどなされていないのは興味深い.無論,機会があれば民族学の資料の収集にも気をくばり,そうしたものを購入したりはしていただろうが,それはあくまで散発的なものであった.

民族学的な研究と必要な資料収集が具体化されるのは江戸参府に随行することになった1826年であることが,彼がオランダの文部大臣宛に出した1831年3月の手紙の述べられている.

その手紙でシーボルトは「日本に居住した最初の年は自然史の標本を採集することと,日本に関する文献の調査に専念し,後になって,とくに1826年に江戸へ旅行する機会に日本の民族学に関係する資料の収集を包括的に進めることになった.そうして,1827年までにはこのコレクションの価格は2万ギルダー以上に達した」と述べている.

こうして1826年以降,シーボルトは民族学に関係すると彼が考えた資料の収集を積極的に行っている.シーボルトは日常生活用品を芸術的な価値のあるなしにかかわらず収集し,それぞれの品々の役目や使い方を丹念に記録したのである.彼は現在の民族学研究者がそうであるように収集家であると同時に収拾したものについての鋭い観察者でもあったことは注目すべき点である.シーボルトがこうした方法で民族資料の収集に当たったことは,別章で紹介するが,シーボルトの体系的網羅的民族学関係資料の収集が,やがて世界で最初の民族学博物館であるライデンの国立民族博物館誕生の契機となったことは記憶しておいてよいだろう.

シーボルトの民族学コレクションは,世界で最初の日本の民族学コレクションでもあるが,その価値は単に歴史的な点だけにあるのではなく,生きた学術財としても今日かけがえのない価値をもつものである.その価値は今後ますます増しこそすれ,減じることは決してない.

シーボルトの民族学コレクションのもつ価値について若干述べてみたい.その第一は,収集したものについての,産地,収集日時等が正確に記録されていることを上げなければならない.これはすぐれた自然史標本の収集を行ったシーボルトにとっては常識と考えられたのかもしれない.第二は,単にものを収集するだけでなく,その実際(色や使用の様子など)を画家川原慶賀に描かせ,その用品を取まく人々の日常生活が判るように記録を残したことだろう.写真の未発達な時代である,これは後世,カメラによって記録されることを絵画によって代行していたわけだが,その先見性は賞賛されてよい.第三は,工芸品や民具などについては,それが作られていく工程,それをつくるために用いる道具などと合わせたコレクションとしていることだろう.また,シーボルトは家や船のような大形で,収集困難な物体については正確に縮小した模型を作らせてもいる.

こうしたコレクションがすぐさま展示に利用できることは自明だが,シーボルトの時代こうしたことはまだ発想されたことはなかった.実際,シーボルトのコレクションは1837年に一般公開されたが,これは民族学博物館の幕開けとなったのである.シーボルトこそは民族学博物館の生みの親なのである.事実,彼は後に設立されたデンマークの民族学博物館,フランスの民族学博物館の設立にも協力している.開館後の最初の10年間のシーボルトの民族学博物館を訪れた数百人の訪問者の中には,著名な学者や芸術家,それに後のオランダ国王ウィレム二世をはじめとする王侯貴族などがいた.ヨーロッパだけでなく,アメリカ合衆国やカナダなどからの訪問者もあった.それこそ世界中から多くの人々がシーボルトの民族博物館を訪れ,ここを通じて日本についての理解が深まっていったといえる.

 

浮世絵を世界に開く

シーボルトの民族学コレクションには相当数の浮世絵も含まれていた.シーボルトの浮世絵コレクションはその制作者がまだ存命中に収集された,という大きな特色をもち,その制作された年代も明らかであることも意義深いものがある.

また,これは浮世絵ではないが,シーボルトは葛飾北斎の『北斎漫画』に最初に注目したヨーロッパ人であった.シーボルト自身これを自著の『日本』で利用している.一般にはフランスの印刷商ドゥ・レートル (Delâtre) のエッチング画家,フリックス・ブラクモン (Félix Bracquemond) が『北斎漫画』のヨーロッパでの最初の紹介者とされ,これが日本絵画のフランス美術あるいは印象派への影響の出発点とみなされているが,シーボルトの収集した『北斎漫画』の最初の10巻が,他の浮世絵や画本とともにシーボルト博物館で展示されたのは,ブラクモンに先立つ19年も前のことである.

1845年にはじめてライデンのシーボルト博物館の図録が出版されたが,1837年から少なくとも数年間にわたり,ライデンはヨーロッパ美術界における日本趣味 (Japonaiserie) の発信源として大きな役割をはたしたことはまちがいない.

初の日本領事として日本に駐在したイギリスのラザフォード・オルコック卿 (Sir Rutherford Alcock) が持ち帰った日本の美術品・工芸品が1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に出品されたが,そこで採用されたコレクションの分類法はシーボルトのそれに従ったものであった.オルコックは2度目の来日時にシーボルトと日本で出会っていたと考えられる.

パリで1883年に日本の美術についての2巻本を上梓したルイ・ガンス (Louis Gonse) もライデンを訪れ,シーボルトのコレクションを研究している.彼はシーボルトの頃の日本では,浮世絵も絵画も安い値段で買うことができ,シーボルトは北斎の『写真画譜』の刷上ったばかりのものを手に入れることができたのだと書いている.ライデンに収蔵される一本は,既知の『写真画譜』の中でも最高の仕上りであると彼は言っている.

1896年にパリで刊行されたエドムンド・ドゥ・ゴンクール (Edmond de Goncourt) の北斎についての研究書の中で,ゴンクールは,ガンスがシーボルトからの交換として極めて良質な『写真画譜』を入手していたことを記している.ゴンクールもシーボルト・コレクションを研究した.そしてこの『写真画譜』に強く印象づけられたのである.彼はまたシーボルトが日本から同書を6冊持ち帰ったと書いている.その中からシーボルトはパリとウィーンの図書館に1冊ずつを寄贈し,2冊を自分のもとに置いていたが,その中の1冊をガンスとの交換に用いたということまで明記している.

日本趣味の普及にシーボルトが果たした役割の一端をここに述べたが,加えて北斎のヨーロッパでの紹介と,北斎の作品への高い関心がまだ北斎が存命中に始まっていたことを記しておく.そして,その引き金を引いた人物がシーボルトだったことも忘れてはならないことだろう.

 

日本植物についての関心

シーボルトは日本の自然を織りなす自然物のうち特別な関心を植物に寄せていた.しかもその関心のよってくるところは医師としての必要性からくる薬草を通じてのものでは決してないことに注意しなくてはならない.しかも植物についての関心は来日以降ずっと抱き続けていた.総督府にも研究に必要な人材の派遣を要求している.カメラの未発達な時代である.植物の生きた姿を記録する画家も必要だった.

この目的のためにドゥ・フィレネーフェ(Carl Hubert de Villeneuve)が来日するが,シーボルトは独自に長崎絵師の川原慶賀を見出し,慶賀はシーボルトが要求するレベルに達する植物の素描画を千点近くを描き彼の要求に応えている.シーボルトは慶賀に描かせた日本植物の写生画を最後まで手許に残したが,それは終生変ることなく続いた日本の植物への深い関心からだろうか.

シーボルトが『フロラ・ヤポニカ』中にフランス語で書いた解説は,植物の自生地,分布,生育地の状況,栽培状況,学名の由来,日本名,その由来,利用法,薬理,処方など多岐にわたっている.シーボルトがいかに多種多様の情報を収集していたかを如実に示している.長崎やその近郊で実際に観察し見聞したこと,また江戸参府随行中に道中の至る所で自生あるいは栽培されていた植物に彼の目が注がれていたことが判る.当然といえば当然だが,シーボルトは日本の植物を研究するに先立ち,特にケンペルとツュンベルクの著作は完璧に自分のものとしている.

シーボルトは本草学者の水谷豊文,弟子の伊藤圭介や大河内存真,さらに宇田川榕菴,桂川甫賢などを「日本の植物学者」と記している.日本人学者との接触を通じてシーボルトが得た情報は,彼の日本植物についての理解を深める上で重要だった.中でも宇田川榕菴と桂川甫賢の情報は重要と見なされた.サンクト・ペテルブルクにあるシーボルト植物画コレクションの多くに,宇田川榕菴のイニシャルであるW. J.が残されるが,これは榕菴が認めたことを意味する一種のサインだろう.

シーボルトの「鳴滝塾」に集い来た塾生たちは情報収集に多大な貢献をした.標本を集めるだけでなく,シーボルトが投げた課題についての報告をシーボルトに提出している.シーボルトは居ながらにして,日本の各地の植物に関わる情報を集めることができた.覚え書に四国や九州南部からの情報が多いことに驚かされるが,これらの地方からの入門者が多かったためか.

とくにシーボルトは緯度がオランダやドイツにより近い,本州東北部や北海道の植物にも強い関心を寄せていた.シーボルト事件に発展した蝦夷の地図の収集をその延長線上にあると解することはできないが,ともかく蝦夷地などシーボルトの日本北方に寄せる関心は生半可なものではなかった.この蝦夷地,北方の植物の情報の大半は桂川甫賢を介して最上徳内から得たものである.『フロラ・ヤポニカ』ではウラジロモミのところで最上徳内の名前をあげ,情報と資料提供に謝している.その他にも最上徳内によったと思われる記述は,『フロラ・ヤポニカ』のカラマツやモミなど随所に見られる.

『フロラ・ヤポニカ』のシーボルト自身による覚え書はシーボルトが日々折々のあらゆる機会に書き留めた日本植物についての総決算である.もっとも『フロラ・ヤポニカ』として出版された植物の種数は150に満たない.チャノキなど『日本』に詳細に記載された植物も若干ある.

 

『フロラ・ヤポニカ』出版

『日本』,『ファウナ・ヤポニカ』,『フロラ・ヤポニカ』はシーボルトの3部作とされる.

シーボルトはこれまでに行われてきた日本の植物の研究史を正しく理解していた.つまり,彼自身が日本の植物を最初に研究した学者としての名声を得ることはできないことである.というのも,オランダ商館医としてシーボルト以前に来日したケンペルとツュンベルクは,それぞれの『フロラ・ヤポニカ』を出版していたからだ.だからシーボルトはケンペルやツュンベルクの二番煎じではない,斬新な彼のフロラ・ヤポニカの刊行を目論んだにちがいない.これを達成するため,シーボルトは,前書にはない詳細な研究に加え,図版をもって日本の植物のリアルな姿を伝えることとした.そのために必要なことは,ひとつには国際的にも評価される専門家の助力を得ることであり,その当時の最高水準の植物学的にも質の高い色刷り図版を制作することだと理解した.

また,日本からヨーロッパへ帰国したシーボルトは,彼の来日中に起きた植物学の驚くべき進歩に直面し,彼一人では注目を受ける研究成果を得ることが難しいことを正しく理解した.自分が考えるような画期的なフロラをまとめるために,国際的にも一級の植物分類学者の助力が不可欠であると判断したシーボルトが白羽の矢を当てた人物が,ミュンヘン大学のツッカリーニ (Joseph Gerhard Zuccarini) であった.シーボルトが同郷のツッカリーニに共同研究を託した意図の中には,自分の希望に沿って日本の植物の研究をしてくれることを期待する考えがあったと思う.シーボルトの3部作はいずれもが自費による出版だった.ふつうの印刷さえ高価な当時,シーボルトが考えたような多数の色刷りの豪華な図版を伴う大形本の出版にはばく大な経費が必要となる.その資金集めにシーボルトが考えたのが,見本を持ってヨーロッパの宮廷や貴族,商人の間を廻り,予約を募ることだった.実際シーボルトはサンクト・ペテルブルグ,ベルリン,ウィーンなどを訪問した.

 

ヨーロッパの庭園を変える日本の植物

シーボルトは『日本』とともに,日本の植物についての研究を集大成した『フロラ・ヤポニカ』(Flora Japonica,『日本植物誌』ともいう)の出版にたいへんな努力を払っている.だが,シーボルト自身は帰国後に植物学者として身を固めようと考えたとは思えない.分類学的な研究はほとんど全面的にミュンヘン大学教授のツッカリーニに依頼した.シーボルトはヨーロッパ中の宮廷を廻り出版に要する資金調達にも奔走している.シーボルトにこれほどの情熱を傾けさせた日本の植物の魅力は何だったのか.もちろん植物を調査することも特別な任務のひとつではあったが,シーボルトが植物へ向けた情熱は任務とか義務でする仕事の域をはるかに超えたものであったと私には思われる.

シーボルトを虜にした日本植物の魅力とは,それが園芸植物として役立つという日本植物の資源性ならびに日本植物をもってヨーロッパの園芸植物や庭園の大改良ができるという事業的野心である.

来日中に植物学と園芸が進んだ日本の状況を目の当たりにしたシーボルトは,日本の植物を導入してヨーロッパの園芸を豊かなものにする衝動に駈られていた.園芸的価値のある野生植物が少なかったヨーロッパでは,そもそも露地植えできる園芸植物の数が限られていたためである.

シーボルトは日本の植物を園芸へ導入するためにこれをヨーロッパの環境に馴らす作業を開始する.その作業の場となったのが,ライデン近くのライダードルプに設けた馴化植物園である.また,日本それに中国の植物を導入するために「園芸振興協会」を設立し,さらに種苗輸入のための「シーボルト商会」を設立した.

1844年にやっとシーボルトが日本から持ち帰った植物を掲載した販売用の『有用植物リスト』ができ,球根や苗,種子が販売に供せられた.このリストに載せた多くの日本産植物が単に魅力的であるだけでなく,多くがヨーロッパにも多少とも類似した類縁のある植物があったので,ヨーロッパの人々は大いに驚いた.筆頭はカノコユリで,その球根は同じ重さの銀と取引きされたといわれている.テッポウユリやスカシユリもこのときシーボルトによって初めてヨーロッパに紹介された.また,このときに導入されたギボウシ類などの多数の日本植物が,後にヨーロッパでは欠かせない園芸植物になったのである.

シーボルトが中心となってヨーロッパにもたらされた植物はどのくらいの種数になるのだろう.シーボルトが販売用に作成した『有用植物リスト』を表1に揚げた.このリストをみると日本の園芸界の総移出という感がする.顧客リストを見ると,オランダ国王や皇太子など多くの名士が名を連ねている.シーボルトの努力なくしては日本植物がこれほど速やかにヨーロッパの庭園を席巻することは不可能だったろう.また,こうした園芸への関心が現在のオランダにおける園芸振興にも脈々と受けつがれていることはまちがいない.これほど大きな文化交流をたった一人でしてのけた人は,後にも先にもシーボルト以外にはいない.シーボルトは19世紀,そして20世紀の日欧の文化交流に様々な波紋を投げかけてきた.そして,多様性の維持と持続的共生をかかげる21世紀を迎え,再びシーボルトの足取りを辿り,改めて彼の活動を評価してみることは決して無意味ではないであろう.

『フロラ・ヤポニカ』
シーボルトとツッカリーニによる『フロラ・ヤポニカ』(Flora Japonica )の表紙.
 

あとがき

日本へ行くに当たってシーボルト自身が期待したものは何だったのだろう.このことについては,ひとつは当時のヨーロッパには未知の国に等しい日本を探検することだったと私は思っている.

そこで日本の文化が多様で豊かな植物相に大きく依存していることを知る.それを具体的に示すものは什器などの文明の産物であり,これも文明の産物といえる園芸であった.シーボルトは自然ばかりでなくそれらにも深い関心を示した.これは日本の自然と文化を総合的に調査し研究のための資料を収集するというカペレンから与えられた任務の内といってもよい.繰り返すが植物は特別だった.こうした多様な文明の産物の素材となったのは植物だからである.植物を育む日本の地形,気象,地質などにも関心は広がっていく.シーボルトは一人で日本研究のための博物館を生み出すつもりで,あらゆるモノを集めまくったといえる.

だが,シーボルトは植物への愛情をこめた彼の『フロラ・ヤポニカ』さえ完成させることなく1866年にミュンヘンで亡くなった.70歳であった.彼の手元に残された,慶賀らが描いたおびただしい数の日本植物の素描画が,シーボルトの壮大なフロラの構想を想い起させてくれる.

シーボルトは終生変ることなく日本の植物とそれを基礎におく日本の文化への関心を抱き続けたのである.とくに日本の植物は予想以上に素晴らしいものであり,シーボルトを虜にした.これを研究すること,園芸植物としての資源性を宣伝すること,そしてそれをもってヨーロッパの園芸植物と庭園を大改良するという野心が彼の2つめの期待であり,また,帰国後の心の支えではあった.

これに加えて日本の文化の特徴を具象的に示す浮世絵,漫画,日用品,調度品もヨーロッパにはない独自性と高い芸術性をもつことにシーボルトは気付いた.日本はどこをとっても独自であり,そのすべてを紹介するためには,ひとつの博物館が必要であった.シーボルトはそれも創ろうと考えた.世界に先駆けて誕生したライデンの民族学博物館は,こうしたシーボルトの熱い思いが秘められている.シーボルトそして彼の考えたことは,21世紀においても大きな課題であり続けている.

 
おおば・ひであき 東京大学総合研究博物館教授
(Professor, University Museum, University of Tokyo)

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