3 オホーツク フィールドワーク

トコロにひろがる先住民の集落

武田 修




■遺跡の町「ところ」
  常呂町は森と海と湖に囲まれた町である。北側にオホーツク海、西側にわが国三番目の面積を誇るサロマ湖、東側から南側はなだらかな丘陵地帯と山地が広がる。サロマ湖を含む現在の地形はオホーツク海に沿って発達した砂丘の形成によるところが大きい。サロマ湖の形成は大きく三期に分けられる(図1)。海面上昇期の縄文早期(約九千年前)、海面高頂期の縄文前中期(約六千〜四千年前)まではオホーツク海に連なる内湾地形であったものの、縄文中期頃に東側から延びだした砂丘の発達による変化が起こる。現在の様になったのは新砂丘I形成期の擦文・オホーツク文化期(約千年前)のことである。砂丘の発達が内湾地形を遮断させ湖に変貌させたわけである。砂丘が発達した縄文中期頃から海岸部に多くの遺跡が認められるが、それは海・湖の魚貝類の採取が目的である。砂丘形成が人々の生業活動の場を提供したのである。その結果、海岸砂丘と東部丘陵地帯の海岸部に大規模遺跡が集中する傾向をもたらした。

図1 サロマ湖周辺の古地理図(東京大学文学部1972『常呂』より)

  現在までに一二八箇所の遺跡が発見されており、その分布状況から大きくI〜IV群(図2)に区分できる。遺跡の数こそ少ないものの、一つ一つの遺跡の竪穴の密度は極めて高く、時代も考古学上の旧石器文化から縄文文化(早期・前期・中期・後期・晩期)、続縄文文化、オホーツク文化、擦文文化、アイヌ文化まで幅広い年代・各期にわたっていることも大きな特色である。

図2 常呂町内遺跡分布図

  後期旧石器文化(約二万年前)の石器群(写真109)は岐阜第二遺跡出土。白色珪質頁岩を素材とした彫器、尖頭石器、石刃など約一三〇点出土。道内でこの時期の遺跡は千歳市三角山遺跡、上士幌町嶋木遺跡、帯広市川西C遺跡など数箇所あるだけであり、オホーツク海側では唯一の例である。

  縄文文化中期の北筒式土器(写真110)は朝日トコロ貝塚出土。細長い筒形で、植物繊維を混ぜて製作されたこの土器はトコロ六類とも称されている。東北北部、道南部の円筒土器と対置して北海道東部地域を中心に道央・道北部まで分布する。

  続縄文文化の土器も各期が出土している。岐阜第二遺跡出土の土器は続縄文中期に位置づけられる後北C1式である(写真111)。道央部で成立したこの土器文化は南千島の国後島・択捉島、宮城県・秋田県まで拡大し、本州産の鉄器、ガラス玉などが受容される。

  オホーツク土器は大まかに円形刺突文、刻文、貼付文の三期に区分され、トコロチャシ跡遺跡出土の土器(写真112)はソーメン状の細い粘土紐を貼り付けたもので、この文化の後半期のものである。この前後から擦文文化の影響を受け、オホーツク文化もしだいに変容する。

  擦文文化はアイヌ文化の母胎となった文化である。本州の土師器の影響を受けたもので、続縄文土器まで見られた縄の文様は消滅し、刷毛による擦痕、沈線のある擦文土器(写真113)が製作される。

  ライトコロ川口遺跡のアイヌ期の「物送り場」(約五百年前)から出土した内耳土器(写真114)は本州の鉄鍋を模倣したものである。内側に吊り耳をもつことから名付けられた。縄文文化から伝統的に続けられてきた土器製作もこの内耳土器で最後となる。

  以上が各期展示土器の概要であるが、各群の中で発掘調査された遺跡からは考古学上貴重な遺物があり、大陸諸文化との関連を解明する上でも重要な資料も少 なくない。ここでは発掘調査の成果と代表的な遺構・遺物を紹介する。


■I群(オホーツク海に面する遺跡群)
  栄浦第二遺跡、常呂竪穴群の二遺跡に代表され、一九七四年三月十二日に史跡常呂遺跡として指定された。両遺跡はオホーツク海に沿う延長約四・五キロメートル、幅約二〇〇メートルの砂丘上にある。カシワ・ナラ主体の樹林内には約二五〇〇軒に及ぶ大小の竪穴住居跡が残っている(図3)。しかもそれらの竪穴住居跡は完全に埋まりきらずに窪みのままであり、春の雪融け時には窪みに残雪が見られる(図4)。東京大学文学部の調査では方形竪穴一二八軒、六角形竪穴四七軒、円形竪穴一〇八一軒、有舌竪穴四五軒、不明三八軒の合計二四九九軒に及ぶ大規模集落遺跡であることが明らかになった。史跡地の竪穴で最も多いのは擦文期であり、藤本強氏は「あきらかに前代に住居があった凹地を避ける」と指摘し、先住権の規制を説いている。この規制が海岸部、河口部など生活適地の竪穴の増加を生み、大集落となったのである。

図3 史跡常呂遺跡の竪穴群(部分図)
図4 史跡常呂遺跡竪穴住居群内の残雪

  史跡常呂遺跡は竪穴数が多いということの他に、異質な文化であるオホーツク文化と擦文文化が同一地域に混在していることも指定された理由にあげられる。その後、一九八七年八月二一日に地続きの地域が追加指定を受けた。

栄浦第二遺跡
  一九六二年、一九六七〜一九六九年に東京大学文学部による学術調査、一九九〇〜一九九三年に常呂町による緊急発掘調査が実施されている。東京大学文学部は主にオホーツク文化期五軒、擦文期五軒、続縄文期一軒、縄文晩期一軒、縄文中期一軒の竪穴を調査した。

  東京大学文学部の一三軒の竪穴調査から注目されるのは、みかけの窪みの状態から竪穴の時期を推測できることが明らかとなったことである。北海道東部地域の同種の竪穴も同じ様相をもつものであり発掘しなくてもある程度の時期判断が可能となった意義は大きい。また、行政に先駆けて実施された一般分布調査と主要遺跡竪穴群の地形測量も個々としての遺跡・竪穴を面的・空間的に捉える方法論が後の研究に果たした役割は高く評価されている。

  常呂町の調査では擦文期一〇軒、オホーツク文化期八軒、土壙墓一一基、続縄文期六軒、土壙墓四基、縄文晩期一〇軒、土壙墓一基の他、時期不明の竪穴二五軒、ピット一一〇基が発見された。

  特筆される遺物に擦文後期の四五号竪穴から出土した炭化木製品のオサがある。織物具であるオサ三本と経巻具、布巻具など道具類がある。この内一本は長さ約六三センチメートル、幅六センチメートル、厚さ一・八センチメートル(図5)。両端部にはアイヌ文様に類似する曲線文様、直線文様の彫刻が施され、アイヌ期のイトッパ(所有印)に類似する刻線もある。穴には糸ズレ痕がある。アイヌ文化にあるウォサとどのように関連するのか、擦文晩期の釧路市北斗遺跡二一号竪穴例とともに織物具の変遷を解く貴重な資料である。

図5 擦文文化期のオサ

  オホーツク文化期の土壙墓も注目される。一一基を調査した。ソーメン状貼付文、擬縄貼付文、擬縄貼付文+刻文土器の三時期に分かれる。いずれも頭部に土器を被せるオホーツク文化独特の埋葬方法である被甕葬(屈葬)である。頭部は歯骨の位置から西−北の方向にあることが確認できた。幼児の土壙墓八三号(三歳前後)、八八号(四〜六歳)は大型の石を上部に置く配石墓(図6)である。これらの土壙墓には副葬品として鉄製刀子があるが、土壙墓二号、八八号からは靺鞨・女真文化のものに類似する銀製の耳飾りが出土。

図6オホーツク文化期の墓

栄浦第一遺跡
  一九五七年、一九七八〜一九八二年に東京大学文学部、一九九三年に常呂町による緊急発掘調査が実施された。東京大学の文学部の調査では発掘区域八〇〇平方メートルの狭い範囲に続縄文期を主体とする住居跡三三軒、土壙墓一八八基が調査された。住居と墓がある程度区分された墓域が明らかになった。

  常呂町の調査ではアイヌ墓一基、擦文期二軒、続縄文期のピット三基、縄文晩期三軒、縄文中期一軒。縄文前期末葉の円形配置炉群がある。

  縄文前期末葉の円形配置炉群(図7)は標高約二〜三メートルの砂地に直径約一〇メートル、厚さ約一〇センチメートルの黄褐色粘土を円形に貼り、大型石囲み炉を中心に小型石囲み炉を円形に配置するものである。同様の例は常呂川河口遺跡にもあり、一二種に及ぶ魚骨が認められた。魚類などの加工場的役割をもったものと理解される。極めて特殊なこの遺構は回転押形文手法、円形刺突文、櫛目文の文様をもつ土器群(図8)の人々が遺したものである。回転押型文土器は道北、道東部に広がりをもつが中国東北部、シベリア地方の影響も考えられる。

図7 縄文前期石囲み炉群
図8 常呂川河口遺跡押型文II群土器

ライトコロ川口遺跡
  この遺跡はライトコロ川口の西側の標高約二メートルの低位面にある。一九七四年から一九七七年に東京大学文学部により学術調査された。一四軒の擦文期の竪穴とアイヌ期の物送り場、墓が発見された。約十五世紀頃のアイヌ墓からは短刀一、刀の鐔一、コイル状垂飾品一二、ガラス玉七〇が出土し頭位を南西に向けた被葬者はシャーマンと想定されている。

  アイヌ期の物送り場は一号、一一号竪穴の窪みを利用している。中でも一一号竪穴上層からはニシン、ウグイ、サケ、ボラ、コマイなどの魚骨が検出され、内耳土器一、骨角製銛先一七、骨鏃一、マレック一、小札三、石製模造品二などがある。

  十四世紀から十五世紀前後の物送り場、墓の調査例は少なくアイヌ文化成立を研究する上で重要な遺跡である。

■II群(常呂川河口周辺の遺跡群)
  この周辺の代表的な遺跡に常呂川河口遺跡、トコロチャシ跡遺跡、朝日トコロ貝塚などがある。中でも常呂川の右岸台地にあるトコロチャシ跡遺跡、トコロ貝塚などは最大である。

常呂川河口遺跡
  この遺跡は常呂川護岸工事に伴い昭和六三年度から本年まで緊急発掘調査が行われた(図8、9)。遺跡は常呂川が大きく蛇行した標高四〜五メートル程の低地に位置する。これまで最下層の縄文前期(第十六層)、同中期(第十二層、八層)、同後期(第四層)、同晩期・続縄文・擦文・オホーツク・アイヌ文化期(二層)の各期にわたって層位的に調査されており、土器型式の編年を確立する上で貴重な情報を提供した。

図9 常呂川河口遺跡発掘全景

  発掘された遺構は擦文期八二軒、オホーツク文化期五軒、続縄文期八九軒、縄文晩期六軒、時期不明四六軒の竪穴の他、縄文晩期、続縄文期の墓など一、五〇〇基が調査されている。特に続縄文初頭の墓には多量の號珀玉、後葉の墓にはガラス玉、鉄器も副葬されており他の同一時期の遺跡と比較しても質量ともに際だっている。平成一三年度の調査では低湿地帯から擦文期と判断される弓、箆状、ヤス、杭などの木製品も出土。

トコロチャシ跡遺跡
  一九六〇年・一九六三年、一九九四年から二〇〇一年に東京大学文学部による学術調査が実施され、近世アイヌのチャシとオホーツク文化期の竪穴の内容が明らかになった。

  アイヌ期のチャシは台地の北東隅にL字状に掘られている(図10)。上部の幅は約八〜一〇メートル、深さ二〜三メートル。断面はV字状である。新旧二本の濠が確認され、柵列が等間隔に配置される。チャシの入口と考えられる「狭まり」(類ルイカ構造)も確認された。柵の内側にはオホーツク文化期の竪穴の窪みを利用した物送り場と思われる遺構、墓も発見され、チャシの構造・機能を解明する上で重要である。

図10 トロコチャシ跡遺跡の発掘

  オホーツク文化期の竪穴の調査成果は本展示に示される通りであるが、一九九九年から二〇〇一年に行われた地域連携推進研究に伴う確認調査ではオホーツク文化期の墓が発見された。集落と墓域が明確に分離されることが判明した点も、オホーツク人の社会構造を研究する上で貴重な成果である。


朝日トコロ貝塚
  一九五八年から一九六一年に東京大学文学部が発掘調査。長さ約二〇〇メートル、幅約九〇メートルのカキ貝を主体とした貝塚でありベンケイガイ、タマキガイ、ホタテガイの他に現在生息しないハマグリもある。哺乳類ではアシカ、トド、ヒグマ、クジラ。鳥類ではカラス、マガモ。魚類ではヒラメ、ボラ、サケ、スズキなどがある。縄文中期(北筒式)の貝塚で北海道でも最大規模を誇る。また、石刃鏃に伴うトコロ十四類土器の発掘など特筆される調査である。

■III群(岐阜台地の遺跡群)
  第Iグループの南側に面する「岐阜台地」と通称する標高約一〇〜二〇メートルの地域である。遺跡は台地に入り込む数多い樹枝状谷の周辺に遺されている。第Iグループと比較すると中小規模程度である。大部分が畑地であるため遺跡の保存状況は良くないが現在までに五五箇所に及ぶ遺跡が確認されている。

  これまでに東京大学文学部により一九五九年に岐阜第一遺跡で擦文期の竪穴二軒、一九六五年、一九六六年に同第二遺跡で擦文、続縄文、縄文期の竪穴など二三軒、一九七一年から一九七四年に同第三遺跡で擦文、続縄文、縄文期の竪穴など二八軒が調査されている。岐阜第二遺跡はその後、一九七六年、一九八一年に常呂町により緊急発掘調査が実施され擦文、続縄文、縄文期の竪穴三六軒を調査している。一九九二年には史跡整備に伴いST08、09遺跡の擦文、続縄文、縄文期の竪穴など一二軒とトイカウシチャシ跡濠のトレンチ調査を常呂町が実施している。

岐阜第二遺跡
  この遺跡からは旧石器文化の石器群のほか各時期の竪穴が三六軒調査されている他、特筆される遺構に埋甕がある。竪穴からやや離れた場所から出土した続縄文(宇津内式)の埋甕で、内部から胎児か新生児の骨が検出された。土器を棺の替わりに利用したものである。町内の遺跡では史跡常呂遺跡、栄浦第一遺跡で各一基、常呂川河口遺跡では五基の埋甕が発見されている。縄文晩期後葉から続縄文初頭の一時期に大型土器を埋める特殊な風習があったのである。


岐阜第三遺跡
  この遺跡は一九七一年から一九七四年に東京大学文学部による学術調査が行われている。擦文期一一軒、続縄文期八軒、縄文中期九軒の竪穴が調査され擦文期の集落の変遷、続縄文期の竪穴の台地における占地の方法が明らかになるとともに、縄文中期(北筒式)の竪穴が多角形で、床に段をもつ特徴が明らかになった。
■IV群(岩岸山麓の遺跡群)
  常呂市街地から離れたイワケシ山麓周辺にある地域。遺跡数は十四箇所を数えるものの、他群と比較すると極端に少ない。畑地化されており保存状況は悪い。発掘調査された遺跡は無いものの、表面採取の土器は縄文前期・中期など古い時期が多く、続縄文・擦文期の遺物は見られないことも特色である。




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