3 オホーツク フィールドワーク

ところの民族考古学

トンコリと常呂

宇田川 洋




  常呂町は不思議な町で、樺太アイヌの人たちが第二次大戦後に第二のふる里として永住を決めたところである。戦争という悲劇に翻弄された人たちであるが、樺太アイヌの故藤山ハルさん(註一)が語ってくれたのは、オホーツク海がふる里の樺太につながっており、なおかつサロマ湖は樺太西海岸の来知志(ライチシカ)湖とよく似ているから常呂に永住を決めたとのこと。

  その藤山ハルさんが、娘の故金谷フサさん(註二)とご主人の故金谷栄二郎さん(註三)に伝えたものの一つに樺太アイヌの人たちに伝わってきたトンコリという楽器がある。五弦琴と呼ばれるもので、文字通り五本の弦をもつ弦楽器といえるものである。「弦楽器といえるもの」と表現したのは、実は本来は楽器ではなく、シャーマンが所有する祭具であったからである。そのことは久保寺逸彦氏が指摘していることである(久保寺、一九三九)。すなわち「本来、この楽器が、シャーマニズム(巫女教)とともに、大陸からもたらされた祭具であり、これによって、巫女(シャーマン)が異常意識に入って神がかりするために使われたことを思わせる」と。そして知里真志保氏は「トンコリやムツクリ(註四)はシャーマニズムの祭具としての本来の意味と用途から解放され、純然たる楽器として、トンコリは樺太に、ムツクリは北海道および樺太に、老婆たちの管理のもとに、はかない存在を保っているにすぎない」と述べている(知里、一九四八)。図1はかなり古い写真と思われるもので、女性がトンコリを演奏している様子である。この女性が巫女であることは腰に巻いたベルトから分かる。つまりシャーマンの腰帯を身につけているのである(河野、一九五六)。

図1 トンコリを演奏するシャーマン
(河野、一九五六より)

  以上をまとめた形で、谷本一之氏は述べている。「楽器の表面、鏡板の真中に星形の孔(トンコリ・ベソ)があり、ここからガラス玉(トンコリ・ラマトフ)を入れる。これによってトンコリに生命が宿ると信じられて」いるとされる。さらに「近年は娯楽用の楽器としておもに婦人に用いられているが、古くはもっぱら年寄りの男性が使用していたもののようで、このことから巫術の補助具であったのではないかと考えられている」(谷本、一九八五)という。

  トンコリに魂が宿っていることは藤山ハルさんも伝えているが、その形は人間を模しており、人体名称をもっているのである。頭、首、耳、耳の穴、肩、胸、背中、腹、腰、下腹部、足、へそ穴、陰部、陰毛、陰門、膣口などである。そして前述のように、へそ穴から魂(心臓)を入れているのである(金谷・宇田川、一九八六)。

  このような本来のシャーマニズムと結びつくような演奏は現在では聞くことはできないが、曲名として残っているものがある。つまり、「カチョ・タータ・イレッテ」であるが、その意味は巫者の太鼓(カチョ)(註五)の音をまねたものといわれる。この他にいくつかの曲名が記録されているが、富田歌萌氏によると、
一、 スマリ・プー・コサン(狐が山から下りてきて倉に忍び寄り倉の中の食べ物をつつく様子をまねた曲)
二、 スマ・カ・ペ・トゥセ・イレッテ(干潮の時の磯辺の水の上に顔を出した岩の上を足が濡れないようにピョンピョンと飛び回っている曲)
三、 カチョ・タータ・イレッテ(前出)
四、 レタッチカ(たくさんの鶴の鳴き声をまねた曲)
五、 イソ・カーリ・イレッテ(熊が艦の中をくるくる歩き回る音をまねた曲)
六、 ウチャウレ(二人で議論しているうちに口喧嘩になってしまう様子を表した曲)
七、 チポー・イレッテ(丸木舟に乗っていく時にこぐ擢を押す音を表した曲)
八、 トー・キト・ランラン(キトビル=ギョウジャニンニクを食べたいのか小鳥がだんだん下に降りてくる様子をうたった曲)
九、 イケレ・ソッテ(化け物の足音をまねたもので魔除けの呪いに奏するもの)
十、 ケント・ハッカ・トゥセ(ケントという人が帽子を飛ばして手探りで探して歩くところをうたった曲)
十一、 ホリピ・イコス・イレッテ(飛び跳ねる踊りの曲)
十二、 ホスヤスヤ・イコス・イレツテ(お尻をふれふれの踊りの曲)
十三、 ヘカチ・ヘチリ(子供の踊りの曲)
十四、 トンコリ・ヘチリ(トンコリの踊りの曲)
十五、 ケッケ・ヘタニ・パイアン(「さあ手を取り合って崖の向こうへ行こう」とトンコリで誘いかける男女の恋歌をうたった曲)
十六、 ヤイカテカラ・イレッテ(恋歌をうたう曲)
十七、 エトゥフカ・マー・イレッテ(カラスが湖辺で水浴びをしているところの曲)
十八、 スマリ・チシ(狐の鳴き声をまねた曲)
十九、 オパシ・カリ・アッカシ(人が雪の上を歩く音をまねた曲)
二十、 ヤヤン・イレッテ(年寄りたちが集まって昔話をする時に弾く曲)
二十一、 レタラチリ・チシ(白鳥の鳴き声をまねた曲)他


図2 アイヌのトンコリ演奏の絵図
(村上貞助の画。文化年間(1804〜1817)と思われる。
(金谷・宇田川1998より。原図は北海道大学北方資料室蔵)

が紹介されているが、自然の情景や動物や人の様などが曲として表現されているようである。

  ところでこのような楽器はいつの頃から制作・演奏されたのであろうか。

  トンコリそのものはまだ考古学的には発見例がない。しかし、北千島の占守(しゅむしゅ)島潮見川墳墓遺跡から出土した骨製品の楽器の一部と思われるものは、五個の糸巻きをもつ弦楽器で胴部も一部のこっているトンコリに類する資料である(馬場、一九三六)。時代はアイヌ文化期(内耳土器期)と考えられている。これに類する考古資料が写真105-107に示したようなものである。常呂町トコロチャシ跡遺跡二号竪穴床面出土の105は四本の糸巻きをもつ長さ七・八センチのもので、鹿角製である。オホーツク文化期(駒井編、一九六四)。106は常呂町栄浦第二遺跡七号竪穴出土でおそらくオホーツク文化に属する資料である。鹿角製で、四本の糸巻き孔が残っている。長さ八・四センチ(東京大学文学部考古学研究室編、一九七二)。107は106とともに出土したもので、鹿角製。四本の糸巻き孔を残す長さ九・〇センチのものである。以上の他にも、擦文文化期の資料やアイヌ文化期の発掘例がある。これらはおそらくトンコリのミニチュア品と考えられるものである。他に陸別町ユクエ。ビラチャシ跡遺跡からは木製のトンコリの糸巻きが一本出土しているが、アイヌ文化期としてよいであろう(石橋・大鳥居編、二〇〇一)。

  宇田川は栄浦第二遺跡出土の写真106の資料をモデルにして木製品のトンコリを復元してみたことがある(宇田川、一九八九)。写真108に示したものがそれであるが、糸倉部の長さは三一・五センチで、全体の長さは一一〇センチである。トンコリと同様の演奏が可能であり、出土資料がトンコリのミニチュアである可能性が指摘できたのである。今後、期待されるのはオホーツク文化期の竪穴住居祉からの実物の出土であるが、炭化材が残っている焼失住居の発掘調査によってオホーツク人の音楽を復元できれば幸いである。



【註】

一 恵須取(えすとる)出身。アイヌ名エソホランケマハ。一九〇〇年四月二十日生まれ。一九五四年常呂町に移住。一九七四年三月十九日逝去。[本文へ戻る]

二 一九二一年三月三日、来知志生まれ。一九五二年常呂町に移住。一九八六年十二月十六日逝去。[本文へ戻る]

三 一九二四年秋田県生まれ。二〇〇一年九月二六日、七十七歳で常呂で逝去。[本文へ戻る]

四 ムツクリは口琴(Jew's Harp)と呼ばれる楽器で、樺太ではムフクンと称される。北海道や樺太のものは竹製が基本であるが、世界各地に広がる口琴は金属製のものが多い。[本文へ戻る]

五 カチョ(太鼓)も北海道アイヌには見られない樺太アイヌおよび北方語族の楽器である。[本文へ戻る]

【参考文献】


宇田川洋、一九八九、「北方地域の古代弦楽器試論」、『考古学と民族誌』、六興出版、一九八〜二一四頁
金谷栄二郎・宇田川洋、一九八六、『樺太アイヌのトンコリ』、ところ文庫二、常呂町郷土研究同好会
久保寺逸彦、一九三九、「アイヌの音楽と歌謡」、『民族学研究』五−五・六、五〇七−五四九頁
河野広道、一九五六、『アイヌの生活』、楡書房
駒井和愛編、一九六四、『オホーツク海沿岸・知床半島の遺跡(下巻)』、東京大学文学部
谷本一之、一九八五、「トンコリ」、『大百科事典』、平凡社、一一二八頁
知里真志保、一九四八、『アイヌの歌謡−第一集−』、日本放送協会
東京大学文学部考古学研究室編、一九七二、『常呂』、東京大学文学部
富田歌萌、一九六六、「アイヌの弦楽器“トンコリ”」、『北海道の文化』一〇、一〜二四頁
馬場 脩、一九三六、「北千島占守島の第二回考古学的調査報告」、『人類学雑誌』五一-三、九一〜一一五頁
石橋次雄・大鳥居仁編、二〇〇一、『史跡ユクエピラチャシ跡−平成十一・十二年度試掘調査報告書−』、陸別町教育委員会




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