クランツ標本(化石)の魅力

矢島道子 (東京成徳学園)

はじめに

 私の勤務校には比較的多くの化石標本や岩石標本がある。創立が古い(70数年目)からか、先人の努力の結果からか理由はわからないが、地学や生物の進化の授業の時に、生徒全員が手にとって見ることができる量はある。生徒に「標本箱から出して、手にとって、裏を見て、重さを感じて、ざらざらかすべすべか触ってから、スケッチをしなさい」と言うと、生徒は大喜びである。日頃、学習意欲のない生徒も静かにスケッチしている。私は「標本とラベルは絶対に一緒にしておいて」とこれだけは強く伝えている。今のところ事故はない。

 生徒は嬉しいはずである。私自身、クランツ標本で十分に楽しんできたからである。いろいろな種類のたくさんの標本があり、どれも触って良かったから、それが当たり前だと思っていた。標本とはガラス箱の中に入っている物ではないのである。クランツ標本は明治初期の先人の先見の明と、その後の多くの人々の努力で守られてきた宝物である。この宝物の魅力を少し述べて、将来的にもこの魅力が続いていくようにしたい。


クランツ標本(化石)の概要

 東京大学総合研究博物館地史古生物部門には、通称クランツ標本と呼ばれている化石標本が約6000点保管されている。これは明治初期、東京大学地質学教室が、ドイツはボンに現在でも営業しているクランツ商会から購入したものである。世界中の大学の古生物学教室は今でもクランツ商会から化石を買っている。それほど有名な化石標本業者である。

 地史古生物部門では、クランツ標本はHistorical Geology とPalaeontological specimens とわけて保管している。Historical Geologyの標本番号は古生代、中生代、新生代がそれぞれ1132、1341、1069まである。Palaeontological specimensは1210まで標本番号が振ってある。標本は同じ番号でも複数以上あるものもあり、全部で6000点をこえることになる。


時を選んで

 過去の生物を研究する学問である古生物学の主な研究対象は化石である。化石ということばは日本で生まれたが、古生物学は明治開化とともに、急激に西洋から入ってきた。古生物学の発展のためというよりも、日本の地下資源を明らかにするためにまず地質学が必要で、化石は地層の時代を決定する地質学の道具として重要であったから、比較標本として大量に購入された。高校生ではないが、化石は絵や写真では絶対にわからないのである。

 日本の古生物の研究は1880年代に急激に始まったのだが、現在見直せば、これはよい時期に始まったと思われる。18世紀では、あるいは19世紀の初頭でも、まだ西洋自身でも学問は揺籃期であった。1840年代ならば、まだ恐竜もわかっていない。クランツ商会の創立は1833年である。西洋で博物学が盛んとなり、イギリス、ドイツ、アメリカ等で化石がどんどん発掘され始め、標本屋が成立した後に、日本の文明開化が始まったといえる。こういった歴史の上にクランツ標本があるから、現在ではなかなか入手できないような、よい標本がたくさん詰まっているのである。


3枚のラベル

 それぞれの標本には基本的に3枚のラベルが付いている。
最初に標本についていたと思われるラベル。オリジナルラベルとも言える。
いかにも紙製の標本箱の1部を切り取ったようなラベル。青い物と灰色の物がある。標本名は手書きであり、青い物にはHistorical Geologyと印刷されている。灰色の物にはPalaeontologyという印刷がされている。
最後は、最も新しい、タイプうちのラベル。ラベルにはすべてUniv. Mus., Univ. Tokyoと小さく印刷されている。

 オリジナルなラベルは長い時間を経ていて読みづらいが、格調の高いものである。多くに、クランツ商会の名前が印刷されており、標本の説明はドイツ語である。いくつか、クランツ商会以外のものもある。まず目を引くのがKaiseigakko, Geological CollectionとTokyo Daigaku Geological & Mineralogical collectionと書いてあるラベルである。清水(1997)によれば、鉱物標本のほうには、開成学校、東京開成学校、東京大学のラベルが残っているものがあるようだが、化石標本では今のところ、東京開成学校のものはない。またC530の標本にはKaiseigakko Geological collectionのラベルが入っており、かつそこにfossil fish presented by Prof. W. T. Parsonと明記されている。

 他のラベルとしては、James R. Gregory, Geologist, & c., 15 Russel Street Covent Garden, LondonとIllinois Geological Survey, A. H. Worthen Director、School of Mines, Columbia CollegeとComptoir Mineralogique & Geologique Suisse 3 Cours des Bastions, Geneveの3カ所の名前が見られる。ロンドンのものは、清水(1997)によれば、
「文部省第三年報(1875)によれば、鉱物学・地質学・採鉱学関係で明治八年に納入されたものはイギリスの化石標本千点、・・・」のものかもしれない。出所はいざ知らず、利用できるすべての標本をきちんと整理して、利用してきたことがよくわかる。

 標本番号は紙製の箱の時代に変更されている。つまり標本に2つの番号がついているものが多い。長い間、キュレーテイングをやってこられた市川健雄氏によれば、昭和初期の地質学教室の教授、小林貞一先生の書かれた数字が多いという。地質学教室卒業者は、明治初期からその多くが外国に留学した。帰国時に持ち帰ってきた化石標本を大学に寄贈し、大学側はクランツ標本として組み入れた。大学としては、番号の変更と番号の後ろにabcの符号を付けることで対応した。ラベルが紙製の箱の1部になっているのは、後で述べるように、第二次世界大戦末期に標本をすべて山形県大石田に疎開させたのであるが、おそらくその時にラベル部分を残して箱は捨てられたと思われる。

 一番新しいラベルは市川健雄氏の労作である。クランツ標本を東京大学博物館で整理したのは、主に花井哲郎先生、速水格先生、市川健雄氏である。標本台帳に細かく書き込みをされたのは市川健雄氏である。しかし、その後、あまりキュレーティングされていない。輪ゴム等の劣化がめだち、紛失標本の整理等幾つかの緊急な課題もある。4枚目のラベルが必要な時代になったといえよう。


標本は何回引っ越ししたか

 東京大学地質学教室は何回も移転している。『東京大学百年史』によれば、
1. 開成学校の時代は(明治10-18年)神田一ツ橋にあった。
明治18-21年は本郷青長屋。
明治21-26年は本郷鉄門付近。
明治26-43年は本郷正門付近にあった。これは2階建てで標本陳列館が完備していた。
明治43-昭和9年安田講堂の北側の3階建て。
昭和9-52年 理学部2号館時代。
昭和20年3月東京大空襲以降に山形県大石田に疎開。
終戦後、理学部2号館に戻る。
昭和41年に資料館(博物館の前身)ができ、そこに安置される。
このリストにもれているものもまだあるかもしれない。これだけの引っ越しを経て、クランツ標本はよくぞ無事であったと思う。


クランツ標本を守った人々

 前述の『東京大学百年史』では「終戦後疎開先から本郷への標本資料の運搬がまた非常な苦労の下に行われた。しかし、散逸した標本はほとんど無かった。戦争末期、戦後の混乱の中にあって、当時輸送に当たった方々の厚い配慮によるものである」と書かれている。花井哲郎先生からは「3月の東京大空襲の時には、通学途中、道に多くの焼死者が転がっていた。大学へ来ると、毎日毎日、大石田への引っ越しの荷作りばかりであった」という話を聞いている。また、標本を実際に扱っていた市川健雄氏からは「引っ越しの時に標本に朱で番号を書いた。戦争で標本もどうなるかわからない、朱で書けば少しでも残るのではないかと考えた」という話を聞いた。外国の博物館に行くと、第2次世界大戦中、どのように標本を守ってきたか、胸を張って説明されることが多い。日本もこのクランツ標本のことは誇りのひとつといえよう。


リストのおもしろさ

 標本台帳は印刷されたものだが、博物館に1冊しかない。このたび、電子化され、誰でも入手できるようになった。嬉しいことである。このリストはよく見ると、いろいろおもしろいことがある。

 まず生物の大分類は明治初期のもので、現在とは大きく異なっている。これを眺めてみるのもおもしろい。次のような大分類が使われている。
Rocks
Plants (植物標本は少ないので、あまり分類していない)
Protozoa Spongida (原生動物に海綿動物だけ入っている)
Coelenterata Hydrozoa
   Actinozoa
Annuloida Echinodermata
Annulosa Arthropoda Crustacea (Annuloida とAnnulosaという分類は現在殆ど知られてない)
Mollusca Molluscoida Bryozoa
   Brachiopoda
(苔虫と腕足動物は分類がまだよくわからなかった。擬軟体動物と言われていた)
Mollusca proper Chonchifera
   Gastropoda
   Pteropoda
   Cephalopoda
(二枚貝のなかまはPelecypodaともBivalviaともいわれていなかった)
Reptilia
Mammalia

 次に種名を見ると、現在はイタリックで書くが、クランツ標本リストでは種名がローマン体、提唱者名がイタリックになっている。属名は大変有名なものばかりである。たとえば、アンモナイト類は現在分類が細分化され、さまざまな属名がついているが、クランツ標本ではすべてアンモナイトである。なんと単純明快な世界ではないか。種小名は形容詞的な働きをし、現在は小文字で始めなければならないが、クランツ標本では人名や地名に基づくものは大文字で始まるている。命名法は1960年代以降、世界的に制限が厳しくなったが、1960年以前の命名はずっと自由でおおらかである。すべての種というわけにはいかにが、種の提唱者名も付記されている。多くが省略形で表されているが、とても有名な研究者が多い。ラマルク、キュヴィエ、ソワビー、オーウエン、ドービニィ、何人知った名前を発見できるであろうか。

 地質時代区分は明治初期であるから、もちろん、先カンブリア紀などない。古生代にはカンブリア紀、シルル紀、デボン紀、石炭紀、二畳紀しかない。中生代は現在と同じように3つにわかれている。新生代は始新世、中新世、鮮新世、そして洪積世、沖積世に区分されている。

 産地はイタリックで書かれている。種名をローマン体にしたためであろう。当時の有名な化石産地はほとんど網羅されている。また、大型爬虫類は各博物館に展示されている標本のレプリカとなっている。クランツ商会の力がよくわかる。


クランツ標本の将来

 私はクランツ標本ををずっと見ていたおかげで、世界各地の博物館に行っても、どうやらあまりびっくりしないですんだ。この宝物は多くの人に知られていいであろう。化石標本はさわらなければ、その価値は半分にもいかないが、それでも電子化されて多くの人が享受できたらいい。そのためにも、将来的にももっとキュレーティングされるべきであろう。そして、1つ1つの標本が、誰によって発掘され、いくらで買い取られ、どのような経緯で東京大学へ入ってきたかを研究することも、将来的に重要と考える。


文献

清水正明. 1997.
日本における鉱物学の夜明け 明治初期の鉱物レファレンス標本とその周辺 in 西野嘉章編『学問のアルケオロジー』東京大学366-380
東京大学百年史編集委員会編集.1987.「東京大学百年史」




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