クランツ標本田賀井篤平(東京大学総合研究博物館) |
東京大学総合研究博物館には「クランツ(Krantz)標本」と呼ばれている標本群(鉱物標本約3000点、岩石標本約2000点、鉱石標本約1000点、化石標本約6000点)が収蔵されている。これらの標本は、東京大学が開成学校、東京開成学校と呼ばれていた明治初期に、当時から世界的に著名なドイツの標本商であったKrantz商会から購入されたものとされている。 あらゆる分野において欧米諸国との差を痛感していた明治政府は、急速な近代化を推し進めた。明治政府は、近代化の基盤には、それを担う優秀な人材の必要性を強く認識しており、その可能性を持った人物の発掘と育成に全力を注いだ。先ず、幕末に定められた人材発掘の制度である貢進生制度を利用して各藩から選び抜かれた貢進生をそのまま引き継いで学制に組み込み、彼らを中心に近代的なエリート教育を施し、そのために必要な教育・研究制度を一気に整備していった。東京大学を中心に多額の援助を行い、必要とあらば教育制度の変革をも行ったのである。 明治6年4月10日、第一大学区第一番中学が開成学校と改称された。これは、専門学校のようなもので、法学校、化学校、工学校、諸芸学校(フランス語)及び鉱山学校(ドイツ語)からなっていた。近代化の推進に必要なあらゆる分野で第一線に立つ専門家を育成しようとするものであった。政府が国家事業として認識するほどに期待が高かったことは、その開業式に明治天皇が御臨幸され、大政大臣三条実美、参議後藤象二郎、板垣退助、大木喬任、江藤新平、工部大輔伊藤博文をはじめ、各国公使、文部省諸官が参列したことからもわかる。 明治7年5月、開成学校を東京開成学校と改称し、政府は引き続き多額の予算を重点的に配分している。そして、明治10年4月12日、東京開成学校と東京医学校が合併し、法理文医の4学部からなる東京大学が創立される。教育・研究の国家的な制度の具現化としての大学であるが、この時点では別に工部省に所属する工部大学校があった。法理文の3学部は現在の神田一ツ橋の学士会館及びその周辺にあった。清水(1997)によれば、理学部は東京開成学校の校舎を利用し、化学科、工学科、地質学及び採鉱学科、生物学科、数学、物理学及び星学科の5学科からなり、地質学及び採鉱学科のスタッフとしてナウマン(Heinrich Edmund Naumann、鉱物学・地質学)、ネットー(Kurt A. Netto、採鉱学・冶金学)、アトキンソン(Robert William Atkinson、化学)、ジュエット(化学)、チャプリン(測量学)、モース(Edward S. Morse、動物学)、ホートン(英語)、谷田部良吉(植物学)、今井 巖(ドイツ語)、松本荘一郎(機器図)などの名があがっているが、鉱物学・地質学は実際にはナウマン教授(最初の地質学教授)と和田維四郎助教授の2名が担当した。4年制で、地質学科の学科課程は以下の通りである(坪井、1953)。ただし、第一年の課程は理学部全学科に共通で、第二年より第四年の課程は地質学及び採鉱学科の地質学専攻の生徒に対するものである。
明治10年、11年の卒業生に対して卒業証書授与式という形で卒業式が行われたが、明治12年7月10日に行われた卒業式からは学位授与式という名称に変わっている。この時に文部大臣をはじめ、アメリカ合衆国の前大統領グラント将軍等が列席した。それでは、教育研究の遂行に必須である研究器材や標本の整備という点は、どうのような状況にあったであろうか。 開成学校における鉱物学や地質学に関しては、ドイツ部(鉱山の学科を主眼とする)に外国から購入した約150点の鉱物標本と教科書としてドイツのヨハンネス・ロイニース著「博物学」(Leunis’ Naturgeschichte, 1870) が一冊しか備え付けられていなかったと伝えられている。これらを用い、ドイツの鉱山技師でドイツ語教師のカール・シェンク(Karl Schenk)が鉱物学の講義を行ったのが、我が国における近代的な鉱物学の起こりと言われている。日本の鉱物学の先達である和田維四郎は、当時ドイツ部に入学し、シェンクの鉱物学の講義を受けた。ヨハンネス・ロイニース(Johannes Leunis, 1802-1873)は神学者・博物学者として知られ、多くの博物学の教科書を著した。彼の主たる研究分野は植物学と動物学であった。彼の著した最も著名な教科書が「博物学」である。初版は1848年に発行され、その後1900年代まで版を重ねている。その正式なタイトルは また、東京開成学校では、明治7年だけでも博物学用品4種、英語の博物学書73冊、フランス語の博物学書67冊、ドイツ語の書籍多数が購入され、翌年には鉱物標本75点が購入されている(武村、1965)。購入は横浜在留のアメリカ人ウエットモール、ハルトリー、イギリス人コッキング、ドイツ人ハーレンスらを介して、各国に注文したらしい。鉱物標本等はハーレンスを通じ、ドイツ、ボンにあるクランツ商店(Dr. A. KRANTZ)等に直接注文したものと思われる。また、文部省第三年報(1875)によれば、鉱物学・地質学・採鉱学関係で明治8年に納入されたものはイギリスの化石標本1000点、岩石標本200点、フランスの鉱物標本400点、イギリスのガラス製結晶模型6点、地質図5枚、ドイツの鉱物分析器械及び薬品一式、アメリカの採鉱鑑定用具一式のほか、国内からも南九州の地質標本200箱、日本の有用鉱物600点、鉱物鑑定用具26箱がある。なお、神保(1903)によれば、この頃にドイツのクランツ商店より鉱物標本1000点、結晶模型数100点、石版摺りの結晶図が納品されたらしい。 また、他機関から移管されたものもあることがわかっている。明治元年大坂舎密局が設置され、明治2年に大阪理学校と改称され、主として製錬を教育した。その後、大阪開成学校と改称され、明治7年に閉校となるが、その時に外国の鉱物標本600点、結晶模型120点、ナウマン(K. F. Naumann)の「金石学」等の書籍多数が東京開成学校に移管されている。 モース(東京大学理学部動物学教室の初代教授)は博物館の重要性を大学当局に説き、明治12年9月、神田一ツ橋のキャンパス内に東京大学理学部博物場(Scientific Museum, Department of Science, University of Tokio)が完成する。二階建ての建物に動物学、植物学、人類学、地質学、鉱物学、考古学等の標本・資料が展示され、一般にも公開されたという。しかし、理学部の本郷移転とともに博物場はなくなり、展示されていた標本・資料は各教室の標本室に分散され保存されるようになったらしい。 上に述べたことからも明らかのように、開成学校及び東京開成学校の頃に数多くの鉱物・岩石・鉱石・化石標本がドイツ等から購入され、その中核をなしていたのがKrantz商会から購入した「クランツ(Krantz)標本」であった。 現在、総合研究博物館には当時の様子を伝える4冊の標本台帳が残されている。
残されている標本台帳の一冊は、背表紙に印刷されている「CATALOGUE OF GEOLOGICAL, PALAEONTOLOGICAL, LITHOLOGICAL AND MINERALOGICAL SPECIMENS. Geological Institute.」と記された1881年から1884年に出版された8種類の台帳の合本で印刷物である。
その内訳は、 また、「MINERALS. COLLECTION A. 博物場」と記された651ページの鉱物標本台帳も存在する。これは上記の4.の手書きのオリジナル台帳である。外国産鉱物標本3132点に対して2種類の標本番号、鉱物名、学名(英名)、産地、購入元などがドイツ語・フランス語・英語で書かれている。筆跡から判断すると少なくとも2〜3人の手になるもので、綴りや文法上の誤りが散見されることから日本人によるものと考えてよい。ここに書かれている内容は、クランツ鉱物標本に添付されているオリジナルの標本ラベルの内容と完全に一致している。上記の4.に記されている記載は、鉱物名と産地(省略多し)のみであり、しかも誤って転記されたものも多い。「MINERALS. COLLECTION A. 博物場」台帳はドイツ人も感心するほどの美しい筆記体で書かれており、相当にトレーニングを経た人間(多分研究者)によって標本ラベルから筆写されたものであると考えられる。またここに記載された鉱物標本番号には2種類あるが、1つは開成学校で付けられた標本番号、他の1つは、Krantz商会のオリジナル番号と思われる。残念ながらKrantz商会のオリジナル番号はKrantz商会の台帳にも残されておらず、出荷台帳との照合はできなかった。しかし、Krantz商会に残されている数少ない当時の標本に付属するラベルと比較することによって、標本番号がオリジナルなものばかりでなく、標本に添付されているラベル自身もオリジナルであることが確認できた。 もう1冊は、「Rocks 博物場」と書かれた手書きの台帳で、1252点の岩石標本が上記の鉱物標本台帳と同様に記載されている。筆跡から判断して上記の鉱物標本台帳と同一人物によるものと思われる。その内容は、合本台帳の中の台帳1.で、その中のドイツ標本を記載したオリジナル台帳である。 また、他の1冊は「Minerals Physical Properties 博物場」と書かれた手書きの台帳で、上記の7のオリジナル台帳である。7にあっては、1)鉱物を結晶系(立方晶系、正方晶系、六方晶系、斜方晶系、単斜晶系、三斜晶系)、2)組織(集合の形態)、3)仮晶、4)断口、5)硬度、6)耐性、7)密度、8)劈開、9)磁性、10)光軸、11)光沢・色、12)透明度・蛍光、13)焦電性・圧電性、14)味、15)臭い、などで分類記載している。しかし、オリジナルの台帳では、このような分類はなされておらず、「MINERALS. COLLECTION A. 博物場」と全く同様な記述がなされている。 化石標本を記載したものは、上の2. Catalogue of Specimens of Historical Geology. Scientific Museum, Department of Science, University of Tokio. 1882.、3. Catalogue of Palaeontological Specimens. Middle Case. Department of Science, Tokio-Daigaku. 1881. のみであり、残念ながら、化石標本の手書きの台帳は残されていない。 今回、鉱物標本と岩石標本を詳細に調査した結果、興味ある知見が得られた。清水(1997)が調査・報告した「開成学校標本」以外に多くの「開成学校標本」を新たに発見した。今回発見した「開成学校標本」(開成学校標本であることを示すラベルが残されている)の中に「クランツ標本」であることを示す「クランツ標本ラベル」を持つ標本は1点もない。(清水が報告した開成学校標本の中にも数点しかない)岩石標本にあっては、「開成学校標本」の多くは「James R. Gregory, Geologist, &c., 15 Russell Street, Covent Garden, London」のラベルと共にある。また鉱物標本にあっては、標本商の名前が無いことが多いが、稀に「Dr.L. Eger’s Mineralien Comptoir J. Giselastrasse 1」の名前が記されている。また、鉱物標本の収められている紙箱には、標本番号、鉱物名、産地が記入されているが、その多くの産地はドイツ(旧ドイツ帝国)で、次いでイギリス、アメリカである。さらに、鉱物名は英語表記であるが、付属するラベル類にはドイツ語表記が多い。その状況は岩石標本でも同じである。但し、収められている紙箱には標本番号、鉱物名、産地が記されているが、その番号は標本に朱で入れられている。筆者の聞いた話であるが、標本は太平洋戦争の末期に戦火を避けるために東京から疎開した。その時に標本に朱で番号を振ったようであるが、その番号と箱の番号は完全に一致する。しかし、振られた番号は、オリジナルの番号とは全く関係ない。このような朱による番号は化石標本にも見られる。このことを総合してみると、開成学校の初期の段階では、イギリスやドイツから色々な業者を通じて標本が持ち込まれたと思われる。おそらく、クランツ商会からも多くの標本が購入されたであろうが、未だシステマティックな収集ではなかっただろうし、ラベルの重要性が意識されなかったのかも知れない。台帳に記載し、古いラベルは別にしまわれ、新たな「開成学校」のラベルを作成して終わったのかも知れない。現存する多くのクランツ標本のラベルにも種々あり、例えば、A. Krantz in Berlin, A. Krantz in Bonn, Dr. A Krantz in Bonn、後期の標本群にはDr. F. Krantzなど、また紙型もさまざまであるが、基本的には記述されている内容や表記は統一的であり、そのコレクションは網羅的である。多分、開成学校の最初期には、教育研究上に必要最小限の標本のみが色々な業者を通じて輸入され、しばらく後に、体系的で総覧的で網羅的な購入がクランツ商会を通じて行われたのではないだろうか。 また岩石標本には、極めて特徴的な点がある。それは、岩石標本の大きさがおよそ2種類と揃っており、いずれも、既成の紙製標本箱に収まっている点である。しかも、その標本はカッターなどで整形されたのではなく、岩石ハンマーによる手作業で整形されている。筆者が学部の学生時代、当時の岩石学の教授であった久野久教授が岩石ハンマーによる標本整形を指導してくださったことを思い出す。現在、博物館に残されている久野教授の標本は見事に整形され、統一的な形で収蔵されている。クランツ商会の話では、もう岩石ハンマーによる標本整形を伝える技術は絶えてしまって、カッターで整形した標本しか手に入れることはできないそうである。博物館の標本室を飾っているクランツ岩石標本や久野教授の手整形による標本群は、それだけで芸術品の様に光り輝いている。 最後に、東京大学総合研究博物館に残された標本で、どこにも記載が残されていないいくつかの標本群について述べる。 その1つは、石膏モデルである。Krantz商会の1880年頃のカタログによると、学問的に重要であるが、標本自身が貴重で入手困難である大型化石については、オリジナルの形と色を忠実に再現した石膏モデルといて販売していた。これは、同一の化石モデルが、プラスチックに素材を変えて、現在でも作成・販売されている。総合研究博物館には十数個の大型で教育研究上に重要な石膏標本が収蔵されている。その内容は、恐竜、始祖鳥、植物化石などのほか、当時世界最大の金や白金の標本、また隕石の標本などがある。隕石の標本は多くの場合、切断されて分析に使用されたり交換標本として扱われるため、隕石の原型は失われる傾向にある。総合研究博物館が所有する4個の隕石石膏標本は、いずれも歴史的な隕石であり、勿論現存するものも、既に原型は失われている。 また、金の標本は、1842年10月26日Ural地方のMiaskで発見された43.5kgの塊で、オリジナルはSt. PetersburgのBergkorpコレクションに収蔵されていたと記載がある。当時の価格で100万帝国マルクであったという。また白金は1843年に Ural地方のTagilskで発見された9.623kgの塊で、当時の価格で100万帝国マルクであったという。オリジナルは、St. PetersburgのDemidoffコレクションに収蔵されていたと記述されている。 他の1つは、鉱物(結晶)形態を対称性で分類した木製の模型である。本館所蔵品は675点からなるセットであるが、詳しくは、別項を参照して欲しい。 また、東京大学理学部植物学教室の小倉謙教授が昭和初期にクランツ社を通じて購入して研究したと伝えられているLOMAX社の植物化石の薄片標本が140枚残されている。この標本には小倉教授の手書きのメモやスケッチが残されているが、詳しくは、大場秀章教授による解説をお読み戴きたい。 |
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