和田鉱物標本展の開催に当たって


 和田維四郎は、驚くほど多才で、驚くほどのコレクターであった。

 若狭小浜藩から14才の若さで貢進生というエリート集団に選ばれたことは、彼が藩内で際立った存在だったではあろうが、明治時代という激動の時代の中で、かくも光り輝くとは予想されなかったに違いない。

 彼は64年間の人生の中で、東京大学教授として日本の鉱物学の基礎を築き、優秀な後継者を育てた。同時に地質調査所を創設し、所長として日本の鉱山開発やその後の地質事業の基盤を確立した。更に、鉱山局長として最初の近代的鉱業法制を整備し、官営八幡製鉄所長官として製鉄所を建設し稼働させた。そして晩年、古書収集に没頭し書誌学者として大家をなした。しかも、これらの仕事を同時並行でこなしている。能力は勿論、その努力は超人的であったと思われる。

 事例を一つ挙げる。和田は14才で貢進生として大学南校に入学し、19才で開成学校退学、開成学校助教となる。その後、20才で「金石学」、21才で「金石識別表」、22才で「本邦金石略誌」、23才で「晶形学」と次々に教科書あるいは研究成果を刊行している。「金石学」の原著はドイツ博物博士Leunis著「博物学(自然史)(Naturgeschichte)」 (1870) であるが、Naumann著「金石学」、Schirling著「博物学」などの書物と当時の開成学校教官Schenkの講義ノートを参考にして著した書であり、「金石識別表」は、ドイツSachsen Freiberg鉱山大学Weissbach教授の物理的性質による鉱物の識別表を基本に、同校Scherel教授の吹管分析書から化学的性質を加え、更にNaumannとKochelの金石学を参考に初学者向けに著された書である。14才で入学してから僅か6年間で、ドイツ語を修得し、ドイツ語で行われた講義を理解し、鉱物学を理解し、そして教科書を著し、国内産鉱物を収集して鉱物誌を著した。類い希な才能と超人的努力との相乗効果でのみ成し遂げられた成果であろう。

 和田維四郎のような人物が、その真価を発揮した東京大学の環境はどうであったであろうか。その答えは、東京大学総合研究博物館が平成9年に立案実行した「東京大学創立120周年記念・東京大学展」にある。記念展の記録である「学問の過去・現在・未来 学問のアルケオロジー」は標本と学問の濃密な関係を余すところ無く伝えている。明治期という学問の黎明期においては、研究・教育と標本は一体であった。学問は標本を評価し、標本が学問を導く。新たな標本は、学問を全く新しい世界に引きずり込み、学問は標本に新たな価値を付与する。この学問と標本のダイナミックな関係は、ともすれば先端を目指す最近の還元的学問体系の中では見失われがちである。本展示では、明治期の学問と標本のダイナミズムを眼前に展開させ、モノこそ研究の基盤であることを示したい。

東京大学総合研究博物館
田賀井篤平
 



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