■デューラー贋作事件
アルブレヒト・デューラーの絵画・素描・銅版画・木版画は生前から賞美され、市場の人気も高かったために多くの模作・贋作がつくられた。デューラーは、1506年にヴェネツィア市会に訴えて彼の署名(モノグラム)の使用禁止を求めたり、1512年にはニュルンベルク市会に贋作禁止を関係者に警告させたりした。死後も贋作は尽きず、困り果てた未亡人は偽の木版画を買い取り、ニュルンベルク市会もその半分を負担した。しかし、16世紀から17世紀にかけて模作・贋作は盛んにつくられた。オーストリアのヴィルヘルム大公は贋作と知らずに68点もの作品を購入している。一方、プラハのルドルフ2世はデューラー風の絵を描いたハンス・ホフマンを招聘している。ホフマンの贋作は近年まで真作とされていたバルベリーニ美術館(ローマ)の《兎》をはじめ多数存在する。また、バイエルン選帝公マクシミリアン1世も宮廷画家にデューラーのコピーを多数制作させた。1799年、ニュルンベルク市会所有のデューラーの自画像がコピー制作のため、アブラハム・ヴォルフガング・キュフナーに貸与された際、彼は原画を板から切り取り、裏表2枚に切り離した板の裏側に偽作して市会に戻した。その後の1805年に本物をミュンヘンの選帝公に売り渡したところ、事実が初めて露見した。そして現在オリジナルは市会ではなく、ミュンヘンの旧絵画館に所蔵されている。
■レンブラント贋作事件
レンブラント《母のいる自画像》(エッチング、大英博物館蔵)には、レンブラントの自画像と彼の母親の像が描かれている。この作品は2つの真作を合成することで、1つの贋作が生まれた例である。レンブラントの自画像は《サスキアのいる自画像》(1636年、エッチング)から取られたものであり、そこでは妻のサスキアがレンブラントの横に配されている。しかしその妻の像は消され、別の作品である《胸に手をあてる母の肖像》(1631年、エッチング)から彼の母親がレンブラントの横に配された。こうして2つの真作から1つの贋作がつくられた。
■モノワイエのパッチワーク画
モノワイエの作品に《花》がある。この作品はすべてモノワイエの手によって描かれたものであり、その点に関して真作であることを疑う余地はない。しかしこの作品は捏造作である、ともいえる。なぜか。それは、この絵はモノワイエのいくつかの作品から切り抜いた部分をつなぎあわせた「パッチワーク画」なのである。どうやら「売る」ために拵えられたものらしい。筆はいずれもモノワイエの真作、しかし一つの作品としていえば「モノワイエの真作」とはいえないのである。
■バスティアニーニ胸像事件
フィレンツェのジョヴァンニ・バスティアニーニは美術品の模造の修業を積み、20代初めから画商ジョバンニ・フレッパのもとで働き始めた。フレッパは、19世紀半ばから収集家の間で人気の高いルネサンス彫刻の模造品を扱っていた。1865年、フレッパはバスティアニーニにフィレンツェの偉大な詩人であり哲学者のジローラモ・ベニヴィエーニの胸像を制作させ、パリの産業館で公開した。的確な人物表現によってルネサンス期の精神を見事に表現したものと絶賛され、美術研究家の間ではドナテッロかヴェロッキオの作と推測された。翌年、所有者であるド・ノリヴォのコレクションの競売で1万3600フランという途方もない額でルーヴル美術館に引き取られた。しかし、ノリヴォと協定を結んでいたフレッパは、ノリヴォから分配金が支払われなかったため、バスティアニーニとともに胸像は贋作であるという暴露記事を雑誌に発表した。ルーヴル美術館はこれを認めず、フランスとイタリアの美術界は激しく論争を繰り返したが、バスティアニーニの持ち出した大量の証拠によって事実関係が実証され、ルーヴル美術館は面目を失ったのである。
■サイタフェルネス王冠事件
1896年、ウィーンの帝室宮廷美術館にロシア人商人ホッホマンが一つの王冠を売り込みに来る。460グラムの純金を装飾模様とレリーフに細工したものであり、買い上げの声が多く上がった。しかし館長が疑問を抱く。当然のように損傷はあるが、その場所がまったくあっても差し障りのない場所だけであり、装飾文様も完全すぎた。このため帝室宮廷美術館は疑いを持ち、王冠の購入を見送った。この話が伏せられたまま、パリのルーヴル美術館に舞台は移される。ルーヴルは鑑定の結果、20万フランでの買い上げを決定する。しかしルーヴルで展観されるやいなや、サイタフェルネスの王冠についての贋作説が発表される。贋作説は、素材である金の調子についての疑問や、後世の図像がそれより前につくられたと思われるサイタフェルネスの王冠に現われている、という矛盾などについてであった。7年後の1903年3月23日付のル・マタン紙に、ロシア人商人からの投書が掲載される。その中で王冠の作者はイズライリ・ルホモフスキイという金細工師であると証言された。ルホモフスキイはそのことを認め、依頼人の注文通りにつくったことや、図像をいくつかの本から抜き出したことを述べる。それに対してルーヴル側は実証制作を要求するが、彼は見事やり遂げた。これによりサイタフェルネスの王冠は贋作であると確定したが、これを贋作としたのは注文主である商人ホッホマンであった。
■ピルトダウン人捏造事件
1912年、イギリスのサセックス州ピルトダウンで人骨化石が発見された。このピルトダウン人こそ、サルとヒトとの間を埋めるミッシング・リンクに違いないと考えられたのである。ピルトダウン人の頭蓋骨はネアンデルタール人などの原人よりも現代人に近く、下顎骨は類人猿的な特徴を持っていた。しかしピルトダウン人は疑われつづける。なぜなら、1940年代になって続々と発見された猿人の化石は、サルの頭骨とヒトの下顎を持っていたからであり、これはピルトダウン人とは逆である。科学鑑定の結果は1953年に発表された。ピルトダウン人は化石ではなく、頭蓋骨は現代人のものであり、下顎骨はオランウータンのものを加工した上に重クロム酸カリで着色したものであるというのである。ピルトダウン人はヒトの頭蓋骨と類人猿の下顎骨を組み合わせた捏造物であった。犯人は、ピルトダウン人の評価を決定づけた研究者であるアーサー・キースその人であることが突き止められたのである。
■ドッセーナの事件
アルチェオ・ドッセーナは、イタリアの小さな町クレモナで職人の家庭に育った。幼い頃から驚くべき芸術的感覚を持ち、古い彫刻に強い関心を抱いていた。職人となった彼は、1916年にローマである金細工兼美術商に大理石レリーフの聖母子像を売り渡したところ、この美術商ともう一人の古美術商はその才能を見込み、共謀して彼に過去の大家の作風を模した注文彫刻を多数制作させて大儲けを始めた。そこには、ジョヴァンニ・ピサーノ、ドナテッロなどの彫刻家だけでなく、シモーネ・マルティーニの画風を模した彫刻までもが存在した。しかし、1921年、ドッセーナの作品を600万リラの高値で購入したニューヨークのエレン・エリック嬢が作品の出所調査をしたことがきっかけとなり、この美術商たちの大胆な謀略は暴かれるに至った。ささやかな報酬しか受け取っていなかったドッセーナは、1927年、亡くなった妻の埋葬費用の援助を拒絶した美術商達に失望、憤慨して事の真相をすべて打ち明けた。
■永仁の壷事件
大正12(1923)年、10年程前に発見されていた、永仁2(1294)年という日本の古陶磁の中で最古の年銘をもつ2つの瓶子が、小山富士夫文部技官によって重要美術品として提案される。小山が永仁銘瓶子を真作であるとする根拠は、瓶子の発見者であり小山に永仁銘瓶子を引き合わせた陶芸家加藤唐九郎が窯跡から発掘した大量の陶片と、永仁銘瓶子の素材の質の一致であった。しかし、国宝保存会議は銘文の記し方などに疑問を持ち、重美指定を否決した。昭和34(1959)年、美術品の海外流出が顕著となっていた時代背景の中、2つの永仁銘瓶子のうち1つの所在が不明となったことを知った小山は、もう1つの永仁銘瓶子の海外流出を懸念して重要文化財の指定を推奨し、永仁銘瓶子は重要文化財に指定された。同年行われた展覧会への重文としての出品が、永仁銘瓶子の疑惑を再び加熱させた。疑う理由は、銘文の不自然さ、形態、重量の不自然さなど数多く上げられた。この瓶子が発見された愛知県の地元研究グループが調査を行い、その結果、小山が根拠とする陶片の真贋も含め、加藤唐九郎に対する贋作疑惑が強まった。昭和35(1960)年、加藤唐九郎の長男が贋作制作に携わっていたことを暴露し、次いでパリにいた唐九郎も永仁銘瓶子は自らの手による贋作であることを告白した。昭和36(1961)年3月、永仁銘瓶子の重要文化財指定が取り消された。
■オットー・ヴァッカーのゴッホ贋作事件
1927年ドイツの画廊でヴァン・ゴッホ展が開かれた。しかし贋作の疑いがかかり、対象は「ヴァッカー画廊」の出品した作品であった。それまで画商オットー・ヴァッカーは35点ほどのゴッホを扱っており、それらには専門家の鑑定書がつけられていた。作品の入手経路は明らかにしていなかったが、当代随一の学者や批評家による鑑定書は充分な説得力を持っていた。しかし取引をした画廊が出所を明らかにするように迫った。それに対してヴァッカーは亡命ロシア人貴族の「スイス・コレクション」からであると説明した。こうした中で鑑定書を発行した美術史家のド・ラ・フィーユは自説を撤回して贋作であることを認める。結局亡命ロシア人貴族は表に出てくることなく期限に至り、画商組合はヴァッカーを告発する。捜査の結果、ヴァッカーの弟の家からは「署名入りの描きかけのゴッホ」が発見された。そして1932年に裁判が開始され、法廷には美術界の重要人物が多数出席した。しかし鑑定をする人物の中には利害の絡む者もおり、「一部は真作、一部は贋作」といった歯切れの悪い鑑定が続いた。ド・ラ・フィーユもまたも自説を変えるなど、専門鑑定家たちの茶番劇に終始した事件といえる。美術鑑定が行き詰まりを見せるなか、科学鑑定からの結論が出される。ヴァッカー扱いのゴッホには乾きを早めるための樹脂が使用されていること、また絵具がたやすくはがれることなど、不審な点が指摘される。これによりヴァッカー事件は解決へと向かった。
■春峯庵肉筆浮世絵贋作事件
昭和9(1934)年4月26日、朝日新聞が写楽はじめ又兵衛、歌麿、北斎など大家の肉筆浮世絵が「春峯庵」という号の旧大名華族のもとから発見され、鑑定した笹川臨風博士が大絶賛したことを報じる。同年5月14日、入札会が行われ、総額20万のうちおよそ9万円が売約済みとなる。このとき、この入札会に先立ち肉筆浮世絵画を取り上げた画集がつくられ、笹川臨風が序文を記す。この直後、作品の真贋に対し疑惑の声が上がり、読売新聞をはじめとする各紙がこぞって疑惑を事件として取り上げたこともあり、売約はほとんどキャンセルされた。同年5月23日、朝日新聞が「春峯庵」なるものは架空の存在で、作品はすべて贋作であり、関係者が取調べを受けていることを報じる。その後裁判が行われ、中心人物と思われる画商金子清次、実際の贋作制作を行った矢田家の長男・三千男、三男・修に実刑が下された。画集に法外な報酬で序文を寄せた笹川臨風がもし贋作と承知していたならば、彼もまた共犯として裁かれねばならない。臨風の心眼を見極めるために、明らかな真作と矢田家に描かせた模写を用いて実験が行われた。彼はまったく反対の結論を出し、法の裁きは免れたが専門家の地位は失った。
■フェルメール贋作事件
オランダの画家ハン・ファン・メーヘレンは、彼の所蔵物で国家的財産に数えられていたフェルメールの宗教画を、ナチスの幹部ゲーリングに高値で売ったという容疑で、1945年オランダ警察に逮捕された。ところが、その後の審理で彼はナチス協力者の疑いを否定し、その証明としてフェルメールとピーテル・デ・ホーホの贋作を長年制作してきたことを自白した。しかし、誰一人としてその発言を信じなかったため、彼は獄中で「新しいフェルメール」を描いて見せた。この結果、メーヘレンが1937年から42年まで9点の贋作作品によって美術界を欺いてきたことが明らかにされたが、すでにそれらは空前の高値で大美術館に収められていた。これほどの技量の持ち主であるメーヘレンは、なぜ贋作画家になってしまったのか。彼は1914年に美術アカデミーで学位を取得し、その後、国内外の上流社会から画壇の寵児としてもてはやされた。しかし、1922年頃からオランダに前衛美術が台頭するようになると、美術評論家たちは彼のロマン主義的リアリズム志向を古臭いものとして冷遇し始めた。こうして屈辱を味わったメーヘレンは、彼らに対する復讐をフェルメールによって果たすことを決意したのだった。
■リューベック聖マリア教会聖堂内陣画事件
1942年、ドイツリューベックの聖マリア教会は連合国軍の空爆を受けた。しかしその時、内陣に1300年頃と思われる古い壁画が発見されたのである。戦後修復によって「元に戻される」ことになり、1951年聖マリア教会開基七百年記念祭に公開された。洗浄、修復の後、聖マリア教会の内陣画は専門家たちの賞賛を受ける。この修復作業を担当したのは、修復専門家のディートリッヒ・ファイ教授と助手の画工であるロータール・マルスカートであった。ところが1952年、マルスカートは聖マリア教会の内陣画は修復されたものではなく、自分が新しく描いたものであり贋作である、と発表するが相手にされなかった。ついにマルスカートは彼自身とファイ教授を告発した。家宅捜索の結果、他の作家の贋作が発見されるに及んで、新たな調査が行われることとなる。またマルスカートは、1937年に始まったシュレスヴィヒ大聖堂の壁画修復などに関しても自作であると供述した。一方で自分は贋作をつくったのではなく、ファイ教授が自分の作品をゴシックの傑作としたことで贋作になったと主張した。裁判の結果はファイ教授、マルスカートともに禁固の実刑。また聖マリア教会の内陣画は上塗りされることとなった。
■滝川製贋作事件
昭和22(1947)年、国内外の外国作品を集めた「泰西名画展」が開かれる。そこに美術評論家久保貞次郎が出品した60点あまりの作品のうち、いずれも滝川太郎という画家から購入した20点ほどの作品に強い疑念が呈された。この頃から滝川製贋作の疑惑が持ち上がる。昭和37(1962)年5月12日、神奈川県川崎のさかい屋で開催中の西洋美術展からルノアールの《少女》が盗まれる。捜査は難行し、《少女》の所蔵者である藤山愛一郎は、絵が戻ってきたら西洋美術館に寄贈する、と公約して絵の返却を訴えた。同年7月2日、《少女》が発見され、翌日、公約どおり西洋美術館に寄贈された。このとき美術館側は「手入れの必要があるので、一般に公開するのは少し遅れる」と発表。しかし、いつまでたっても公開されないことから、以前から囁かれていた《少女》に対する贋作説が強まった。同年9月24日、週刊新潮で、藤山に《少女》を売った画廊主西川武郎、そしてそれを西川の画廊に持ち込んだ久保貞次郎の2人が、《少女》は滝川太郎による贋作であると明言する。それに対して滝川太郎はその事実を否定する。昭和39(1964)年、芸術新潮誌上で、久保が200点を超えるという滝川製ヨーロッパ絵画のすべてを明かす。昭和44(1969)年、滝川がインタビューに応じ、自らの贋作活動を誇らしげに認めた。
■トム・キーティング贋作事件
トム・キーティングはロンドン下町の労働者階級の出身で、幼少の頃から家業のペンキ塗りを手伝うかたわら、絵画に対する技術力と教養も磨いていた。1947年頃から絵画修復家として生計を立てるようになり、エリザベス女王やスコットランド城主たちの前でその技術を披露したほどである。しかし、その一方で25年間に史上最高である二千点以上の贋作を制作した。それはドガ、ルノアール、ゴッホ、ゴヤ、サミュエル・パーカーなどの巨匠から無名画家まで広範囲に渡っており、デッサンなどの小作品も多数あった。彼は後に「巨匠の魂が自らの手に宿った」と語っているが、これは若き日の戦争による精神的ショックが原因であろうか。
■佐野乾山事件
尾形乾山の作品は昔から模造品が多く真贋の見極めが難しいとされるが、なかでも佐野で制作された乾山の作品、いわゆる佐野乾山は10点に満たないとされている。昭和35(1960)年頃から、市場に佐野乾山なるものが出回り、それらの作品について一部では贋作説などが囁かれていた。昭和37(1962)年1月、朝日新聞の小欄の記事で来日中だったバーナード・リーチが、訪れた森川勇宅で80点あまりの佐野乾山を鑑賞し、本物であり素晴らしいと絶賛したことが報じられる。この記事をかわきりに、当時市場に出回っており疑問視されていた作品も含め200余点の佐野乾山の存在が明るみに出て、それらについての真贋論争が繰り広げられる。論争の場は新聞雑誌にとどまらず、テレビの公開討論にまで及んだ。佐野乾山と同時に発見された乾山の覚書の真贋も議論の的となり、発見者であるブローカー斎藤素輝に対する疑惑等、多くの陶芸愛好家や専門家、また、新聞雑誌も真作説、贋作説に分かれて激しいやり取りが行われた。昭和38(1963)年になると、次第に論争が話題となる機会が減っていく。わずかに翌年のバーナード・リーチによる佐野乾山の本物を主張する投稿と、昭和49(1974)年の芸術新潮に載せられた関係者に対し奮起を促した記事がみられる程度であり、論争は風化し、解決をみないまま現在に至っている。
■ルグロ事件
昭和39(1964)年、東京上野の国立西洋美術館はドラン作《ロンドンの橋》を2232万円で、デュフィ作《アンジュ湾》を228万円で購入し、翌年にもモディリアーニ作《女の顔》を129万円で買った。しかし、贋作説が浮上して国会で追及された。昭和46(1971)年、文化庁と同美術館は3点とも「真作とするには疑わしい。今後一切展示しない」と発表した。この事件の加害者はフェルナン・ルグロという画商で、贋作者エミール・ド・ホーリーと共謀して、世界各国の美術館やコレクターに偽の近代絵画を売り飛ばしていた。1967年に国際逮捕状が出されるまで、偽の鑑定書と本物の認定書を巧妙に組み合わせて、少なくとも500点を超える作品を世界中にばらまいたのである。
■北大路魯山人贋作事件
昭和39(1964)年3月、東京日本橋の白木屋で「魯山人陶器書画遺作即売展」が開催された。陶器460余点、書画40余点が出品され、開催当初から大変な盛況で108点が売れた。しかし、その後それらの作品は贋作ではないかという声が高まり始めた。驚いた白木屋は、専門家3人による鑑定会を開いて真贋を明らかにして贋作は買い戻すと公表し、異例の措置に出た。5月12日報道関係者らが取り囲む中開かれた鑑定会で、書画は90パーセント、陶器は20〜30パーセントが贋作であると断定された。
■棟方志功贋作事件
棟方志功の死去から1年も経っていない昭和42(1967)年4月、古美術商福沢石五郎が、次いで古物商一条明が、ある古美術商に大量の贋作棟方志功を持ち込み金品を騙し取ったとして逮捕された。古美術商が福沢から数回に渡って購入した棟方の作品は、あるデパートが企画した棟方志功遺作展への出品が予定された際、鑑定を受けて贋作であることが発覚した。福沢の自宅からほかにも多くの贋作が押収され、背後に組織的な偽造グループが存在するのではないかと考えられた。昭和55(1980)年には群馬県下や名古屋市内で版画の贋作が大量に出回る事件が起こり、一人の古美術商がそれらの制作者として判明した。それから約10年後の平成元(1989)年、版画のほか、棟方志功が倭画と呼んだ肉筆画も含めて大量の贋作が明るみに出たことが報じられる。さらに作品だけでなく、その鑑定証まで贋作が出回っていることが明らかになった。版画の贋作者としては9年前の事件と同一の古美術商、鑑定証の偽造は青森県のある古美術商であることが突き止められた。
■ボッティチェッリ《シモネッタ・ヴェスプッチの肖像》事件
昭和44(1969)年10月6日付の読売新聞に、丸紅アートギャラリーに展観されていたボッティチェッリ作《シモネッタ・ヴェスプッチの肖像》についての疑問が提示された。1938年版のヴェントゥーリの研究書などに載っている写真とは、少なくとも3ヶ所違っているというのである。「写真では右目の下のまつげがないが絵のほうにはある」など、図像に関する細かい点についての指摘であり、また来歴にぼやけた時期があることに関しての言及もみられた。記者会見が開かれ、相違点に関して売り手側のイギリス人関係者は「最近の洗浄や修復の結果である」と説明したが、納得できないという空気が記者の間に流れたようである。しかし現在の研究者の間での評価は、ボッティチェッリの真作で工房の手も加わっている、というところで落ち着いている。そして絵と写真の相違点に関しては、修復や加筆によるものであろうとされている。
■古代ペルシャ秘宝展事件
昭和57(1982)年、東京日本橋の三越で「古代ペルシャ秘宝展」が開かれ、47点が出品されていた。しかし開幕直後から、研究者や古美術商によって「ほとんどが贋作である」という非難の声が上がった。展覧会の実質上の主催者である国際美術社長は、7点については米国の鑑定機関「アメリカン・アカデミー」の鑑定証があり、他のものについても本物であると主張した。それに対して研究者や古美術商から図像的な誤りをはじめ、個々の作品に対して具体的な疑問点が提示された。そして入手ルートが解明されていく中で、イラン人古美術商と日本の古美術商が捜査線上に上る。6点については、古美術商の依頼により日本の工房でつくられたことも判明した。ロウで原形を作成してゴムで鋳型をつくり、それに高熱の銀を流し込んで成形されたという。一つの型から最高10個を制作したケースもあった。本人たちは真作として売買されないように申し込んだが、古美術商側に断られ、またより本物らしく見せるために古美術商側で細工がなされたようである。
■石造弥勒菩薩立像贋作事件
昭和62(1987)年奈良国立博物館特別展「菩薩」に《石造弥勒菩薩立像》が出品され、ガンダーラ仏の最高峰であると絶賛された。しかし古代オリエント博物館研究部長(当時)の田辺勝美は、以前よりその真贋について疑問を持っており、今回のポスターを見て贋作であると確信した。そこで奈良博にその旨を忠告したが奈良博側は取り合わず、田辺は疑問点について公開質問状を提出した。問題点としてあげられたのは、「金箔が全身に残存する片岩製仏像の発掘例はない」ということや、図像学上の誤りについてであった。また所有者の亀廣氏は奈良博の仲介により購入しており、その点でも真贋は重要な問題であった。展覧会後に「ガンダーラ仏研究協議会」が開催され、真贋双方が集まって討論がなされたが、黒白はつかなかった。納得のいかない亀廣氏はさまざまな科学的調査に委ね、また世界各国の専門家の助言を集めた。結局は「贋作」であるということに落ち着かざるを得ない、という。
■石器捏造事件
平成12(2000)年11月5日、毎日新聞が宮城県上高森遺跡で調査団長である東北旧石器文化研究所の藤村新一副理事長が石器を捏造している場面を押え、発見された石器のほとんどと、同じく前期旧石器時代の遺跡とされている北海道新十津川町の総進不動坂遺跡で今年見つかった石器の発掘すべてが、藤村の捏造によるものであることを明らかにした。翌日、藤村は記者会見を行い自らの行為を認め謝罪した。東京国立博物館は翌日すぐさま、藤村が関与した発掘遺跡の発掘品の展示を「確認作業の必要がある」として撤収した。藤村は今までにも多くの遺跡を発掘しており、考古学会の第一人者としての地位にいただけに、この事実の発覚は大きな波紋を呼んだ。日本考古学協会の退会処分や宮城県考古学会の退会勧告など、藤村は考古学会で今まで築き上げてきた地位を一挙に失った。そして彼らが発掘したそれ以前の石器にも疑いの目をむける人々が現れ、再調査が行われている。上高森遺跡は日本に70万年以上前の前期旧石器文化が存在したことを証明したとして注目を集めたもので、高校の日本史の教科書では平成10(1998)年版から日本前期旧石器文化の記述をこの遺跡を根拠として言及していた。そのため、この遺跡について言及している教科書出版会社はその記述を削除することにした。
■ド・ラトゥール事件
17世紀のフランス地方画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、1934年に再発見され注目を浴びた。1960年ニューヨークのメトロポリタン美術館は《女占い師》を、72年にはルーヴル美術館が《いかさま》をそれぞれ購入した。しかし、ラ・トゥールの代表作と考えられていたこれら2点に、イギリスの美術史家クリストファー・ライトは贋作説を突きつけた。他のラ・トゥール作品のほとんどが夜の燭光による情景なのに対して、この二作品は白昼の光景を描き、さらに原色でけばけばしく塗られている点がライトの疑問の出発点だった。その他にも署名や衣装の描写などの問題が挙げられたのだが、いずれも決定的な証拠が提示できないため、二大美術館は作品の展示を現在も続けている。
※今回の事件史作成に関しては、参考文献に挙げた書籍、論文等を参考にさせて頂いた。ここにそれを明記するとともに深く謝するものである。
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