本物・偽物・つくりもの


佐治ゆかり 大学院人文社会系研究科・形態資料学



「つくりもの」とは、とても不思議な言葉だ。文字通り解釈すれば、人がつくったものならば、すべてこう呼ぶこともできるだろう。しかし、私たち日本人は、日常生活の中でこの言葉が使われるとき、おそらくほとんどの人が、その場で何を指すのか理解できるのではないだろうか。この言葉は、具体的な対象や明確な概念を示すわけではなく、曖昧なまま、その実、私たちの心底に潜んでいて、時代や場に応じてある種の共有できるイメージを浮かび上がらせながら、根強く使い続けられてきたように思える。

〈真と贋のはざま〉をテーマとした今回の展覧会で、なぜ「つくりもの」が取り上げられることになったのか。答えは簡単である。私たちが、「つくりもの」を「偽物、まがいもの」という意味で捉えたからだ。

「つくりもの(作物・造物)」は、日本の社会で次のような意味で使われてきた。

① 人間が、材料から道具などを使って作りだしたもの。
② 田畑の作物(さくもつ)。耕作物。農作物。
③ 物の形を模して作った飾り物。賞翫用に種々の物の形に作った物。
④ 種々の人や物などの形を作り飾った、祭礼などの時の出し物。趣向をこらして、人形や物を配置した見せもの。
⑤ (③④から転じて)似せて作ったもの。まがいもの。偽造物。にせもの。
⑥ 事実を記したものでなく、虚構によって作り出した事柄または作品。
⑦ 弓術で、弓の稽古に使用する標的として作られた物。
⑧ 能楽で、舞台に据えておく簡単な道具立。
⑨ 歌舞伎芝居の道具立。
⑩ 生の魚の切り身。刺身。
(『日本国語大辞典』小学館)


 これらの意味のうち、近世以降は、⑤の字義の、本物に対して作為的なもの、本物に対する偽物という意味合いが強くなり、現在では、これが一般化してしまったようである。

 しかし、前述したように、この言葉と私たち日本人の関係はさほど単純ではない。「偽物、まがいもの」という意味を単純に与えて終わらせることができない奧深さが「つくりもの」にはあるようだ。

 私事になるが、この展覧会の構成段階に参加し、多くの人々とまったく異なる立場やテーマをもって、「真とはなにか」「偽とはなにか」について考える機会がもてたことは大変有意義だった。

 カッコウの託卵行動に伴う疑似卵の意味や、鉱物の結晶再生と複製(コピー)の関係、遺伝子情報にみる複製(コピー)と突然変異の意味など、広く自然界にまで及んで「ほんもの」と「にせもの」との関係性を考えながら、地球上に存在するあらゆる生命は、「複製(コピー)」という現象(一定の確率で突然変異を起こすことが前提)によって生まれ、維持され、亡びていくということを初めて意識した。そして、こうした視点で、人間社会を見直してみると、短絡的とのそしりは免れ得ないが、「複製(コピー)」という現象が、生命だけではなく実は創作活動の根源をなすのではないかとさえ思えるようになった。

「複製(コピー)」の意味を分析してみることで、「真・贋」という人間社会の価値基準だけでは論じることのできない現象や、ものの存在が、意味をもって位置づけられることに気づく。こうした視点をもつことは、日本人のものつくり観や、「つくりもの」と呼ばれる創作物を考える上でも大変参考になった。

「本物・偽物・つくりもの」と、まるで三題噺のようだが、この視点に立って改めて「つくりもの」を考えてみたいと思う。


日本文化における「つくりもの」


 従来「つくりもの」については、歴史的な文献や、現代社会に残る「つくりもの」と称されるものの分析からその特徴が考察され、前記のような意味をもつ言葉とみなされてきた。ここでは、展覧会のテーマとからめながら「つくりもの」の特徴を考えてみたいと思っているが、膨大な事象や資料・文献から、その実態を具体的に構成できるだけの力量を私は持ち合わせていないので、これまで、先人たちの論考の中で、「つくりもの」がどのように捉えられ、位置づけられているのかを参考にしながら、自分なりの「つくりもの」像を描いてみたいと思う。

 まず、宗教・芸能史の視点から、能や歌舞伎の舞台上の道具立に端を発して、「つくりもの」の本来について、日本古来にまで溯って言及している折口信夫の考察をみてみたい。

 能楽の舞台上にある家や門、舟などの道具を作りものといい、後には、大道具のように見なされるが、この最初は「山」である。しかもその「山」は、その中に人が入るべき山である。神事にあずかる人が成年戒を受けるまでこもっているものであり、そこへ授戒の者が来ると、中のものは俄然として神なり、神に仕える女なりになる。だからその中にこもっている人はもの忌みをする人である。作りもののもとの形は、何かを蔽う形状をとっていて、それを後に取り払う。
 この、作りもののもとである「やま」には、大きく二つの重要な意味がある。まず、日本の芸能の上で作り山は不可欠な物だが、これは舞台上に神を呼びおろすところである。それで標山(しめやま)と誌され、平安朝には「ひょうのやま」と音読されている。祭りのときに、神の天降(あも)るところとして標の山をつくる。それを曳いて祭場に神を迎えるという考えで、山そのものも青いもので囲んでおくが、避雷針みたいに上を高くする。それが「ほこ」「やま」「だし」「だんじり」などになる。大嘗祭のときも、悠紀、主基両殿に標の山をたてる。このように、神を迎えるための儀式の中で、古代から「山」が作られている。
 もう一つの山の意味は、その中に人がこもり、神が来臨して成年戒を受ける。本来それを何といったかはわからないが、後世では「やま」といった。
 それでは何故、その山の中に人がこもらなければならないのか、何故それを「やま」というのか。今ではわからないが、平安朝の頃の「山ごもり」(修験生活ではない)にみられるように、山の中にこもって物忌みをする行為などに解決の糸口があるだろう。山ごもりの間、生まれ変わりのために、こもり小屋である「うつむろ」(無戸室)にこもる。うつ」とは、「何の技巧も用いないで、用いたと同様な形になる。」というような意味があり、また「むろ」は「建築の土台として存在する地面を、少しでも掘り下げた状態」である。このような性格のものを、舞台や祭礼の場に移したのが「やま」である。
(折口信夫「作り物[1]」より抜粋)


 この、神と人とが接点をもつ場となる「やま」を、人間社会にあまり作為的でなく作ったものが「作りもの」である。

 また、折口は「つくりもの」の性格として、次のように分析している。

 今日(こんにち)こそ練りもの・作りものに莫大な金をかけているから、そうそう毎年新規に作り直すという事は出来ないので、永久的なものを作っているが、古くは一日祭事に用いたものは、焼き棄てるなり、川に流すなりしたものである。
(折口信夫「盆踊りと祭屋台と——祭礼の練りもの[2]」より抜粋)


 次に、芸能興行史の視点にたって、祭礼や神事に伴う風流(ふりゅう)が具体的に造形化されたものを「つくりもの」の源流と捉え、それが日常生活の中でどのような形で定着していったかを追跡している守屋毅の考察を見ておきたい。

 中世の都市祭礼を賑わした風流の「作り物」は、凧揚げの凧や、雛人形、端午の節句の兜などのように、年中行事や商業生産と結びついた遊戯や玩具などとなって、近世以降、庶民生活の中に新たな展開を示した。
 また、一方で、見世物という形態をとって、江戸後期には、都市民俗に異彩を添える存在となっていった。ここでは、「作り物」は「細工」とも呼ばれ、「細工」見世物として人々の前に立ち現れる。細工見世物とは、種々の物品を使って大がかりな造形物を作り、それを見世物とするものである。文政期には、大規模な動員観客数が記録に残るほどの細工見世物が数多く興行され、多くの細工名人が登場した。具体的には、ギヤマン(ガラス細工)で作った巨大な異国船(文政二年・両国橋)や一田正七郎による籠細工の人物・鳥獣・草花の小屋掛けの見世物(文政二・浅草奥山)のように、身近な素材を駆使して、故事・流行にちなんだ「趣向」を凝らした大規模な「細工」であった。中世の祭礼や、寄合の場に端を発した風流の「つくりもの」が、盛り場という近世の雑踏の中に見世物として再生している。さらにこうした細工見世物は、各都市間で見世物師、興行師によって巡業され、日本各地に浸透していった。この細工見世物と同じ軌道上に「作り菊」や「変化朝顔」などもあると思われ、現在までも受け継がれている。
(守屋毅『近世芸能文化史の研究[3]』より抜粋)


 守屋は、中世から近世後期にかけて、「作り物」が、宗教儀式や芸能以外の社会各層に姿を変えて定着していく過程を捉えている。

 また、美術史の視点から、日本美術における創作と「つくりもの」との関わりを、広い視野で捉えた辻惟雄の考察を見ておきたい。

 「つくりもの」は「風流(ふりゅう)」と表裏一体となって、日本の生活文化を彩ってきた。「風流」ははじめ「みやび」の意味で使われていたが、平安後期になると、生活のなかでのハレの場で、会場の調度や参加者の衣裳、乗物などを飾り立てることが風流と呼ばれた。その飾りの中で、人目をひいたのが、贅沢な材料や細かい加工を施された美しい模型すなわち「つくりもの」であった。また、この「つくりもの」自体が風流と呼ばれた。このような「つくりもの」の源流は中国にある。神仙思想から出た蓬莱山や仏教の須弥山の精巧で華麗なミニチュアが、奈良時代に原型として取り入れられた。そこに、日本の山岳信仰が重ね合わされて、後に「州浜」や「山車」の原型となった。平安時代になると、貴族の生活の中に溶け込み、「風流」という言葉で和様化され、独自の造形として発展した。「風流つくりもの」は、贅沢なだけでなく、「趣向」の優劣においても競いあうようになり、その「趣向」は次第に奇抜で多様になっていった。
 このような「風流つくりもの」の流れは、中世の武士にも引き継がれ、彼らの気質を反映してさらに豪快なものとなった。戦場に向かう自らの行列を華やかに飾り立てて人目を引いたり、奇抜な「つくりもの」をかざして様々に扮装した人たちが、囃しに合わせて往来を練り歩くという、生きて動く「つくりもの」が現れる。風流の拍(はやし)物は、十六世紀にはいって「風流踊り」となり京都の町衆を熱狂させ、「つくりもの」は巨大な動く祇園山鉾となった。今でこそ、祇園山鉾は近世初頭の意匠を伝える伝統的造形物と見なされているが、発生当初は、毎年山車の主題や意匠が改められ、「つくりもの」としての一回性が確認できるものであった。「風流踊り」の流行は、近世・桃山期にも引き継がれ、踊りに伴う扮装や衣裳に趣向を凝らした「つくりもの」の存在が広く庶民にも広まっていった。
 徳川幕府の政策は、奢侈を悪徳と見なし、「つくりもの」に象徴されるような浪費文化を敵対視した。「風流つくりもの」の伝統は、歌舞伎と遊郭を拠点として新たな展開を遂げ、一方、都市住民の間に、凧揚げや雛飾り、からくり細工、菊形、花火などという様々な形で展開していった。
 現在の人々の記憶からほとんど消えてしまった「つくりもの」であるが、だがここで消してはならないのは、趣向の一回性にかけた「つくりもの」の精神である。それは「型」による日本文化の継承方式の対極にありながら、特に造形の分野に関する限り、その性格形成に一方で重要な役割をはたしてきた。人間が普遍的に持つ想像力または連想の力に訴えて、斬新奇抜な「見立て」の趣向を生み出すこと‐それは「つくりもの」の作者が絶えず意図し、努力してきた表現の目的であった。
(辻惟雄「『つくりもの』文化と日本[4]」より抜粋)


 辻は、具体的なものとして現れた「つくりもの」の性格を分析し、「つくりもの」が、日本文化の、特に造形分野に於いて果たした役割の大きさを指摘している。

 このように各分野の研究者たちによって提示された「つくりもの」をみると、古代から現代に至るまで、「つくりもの」が日本の社会の中でどのような存在であったのかが浮かび上がってくる。

 そして、自分なりに「つくりもの」について考えてみると、「つくりもの」の重要な要素として「見立て」「趣向」「細工」という3つのキーワードをあげることができるのではないかと思う。

「見立て」の「見る」は、その本質においては神の姿を見ようとする主体的な行為を意味する。また、「立つ」は「起・顕」とも書き、現実には見えないはずのものが、その姿をあらわし、それらのことが意識にはっきりと捉えられるようになることをいう。すなわち「見立て」とは、「主体的な精神の働きによって、現実には見えないものがはっきりと認識され、やがてそれが新しい力をもって人間社会に具現化されることを与祝すること」である。早くから、「見立て」は、ものの捉え方の一つの型という位置づけをなされ「趣向」の中に吸収されてしまったように見えるが、「見立て」は、もっと根元的なものだったのではないだろうか。

「趣向」という言葉は、現在、構想段階の思いつき・工夫という精神の働きを示す意味で使われているが、本来「趣向」にはもっと広い意味があったのではないかと思う。「『見立て』によって認識した新たな視点を、外界に対して、それに最もふさわしい形態で提示するためのあらゆる手段」とでも言えばよいだろうか。他者を意識した、最もふさわしい形態の成就をめざして、遊びの精神も働き、物理的な材料や技術に対する厳格な選択もなされ、造形化するためのさまざまな具体的手段を模索・工夫する。こうした、創造に関わる、精神から現実化する段階までの一連の動きが「趣向」の範囲であったろうと思う。

 確かに辻の言うように、「見立ての趣向」は日本文化のあらゆる局面で、創造の根幹に関わる重要な言葉である。この場合の「見立て」とは「あるものを別のものに置き換えて、そこに新たな意味を見出す手法」とでも言えばよいだろうか。「見立て」を「趣向」のひとつ、創作上の一手段として、日本文化が活性化され続けてきたことは間違いないだろう。

 しかし、「見立て」と「趣向」の関係は、「見立ての趣向」として、「見立て」が「趣向」の中に含まれるという性格のものではなく、本来異なる段階を示すものだったのではないかと思う。

 さらに、「つくりもの」にとって忘れてならないのは、「細工」という段階である。「細工」は「手先を働かせて細かいものを作る」という意味で、「つくりもの」に現実の形態を与える。「見立て」によって精神世界から導き出されたものを、「趣向」によって人間社会に提示するための造形化が志向され、「細工」によって具体的なものとしての形を与えられる。「細工」の段階を経なければ、斬新な精神の働きや視覚化の工夫も無きに等しい。「細工」の巧みさによって、ものの存在感が増し、それ自体の迫力に圧倒された経験は誰にもあることだろう。

「つくりもの」は、「見立て」「趣向」「細工」という、この三段階の創造の「技術」を経ることによって、初めて私たちの目の前に存在してきたのである。


言葉としての「つくる」から辿る「つくりもの」


 柳田国男は、日本という国、日本人について知るために、民俗の詳細なフィールド調査を行ったが、実は、彼が最も重視したのは「言葉」と「文字」であった。「言葉」と「文字」に残された豊かな手がかりを軸に、柳田は日本と日本人を捉えようとした。

 また、白川静は、中国の古代文字の成り立ちを研究し、漢字が生まれる背景やその変遷を捉えることで、古代中国の人々や社会を浮かび上がらせようとした。さらに、漢字と国語(日本の)との接点を詳細に研究することで、日本古来の言葉の問題ひいては日本固有の物事の把握のしかたなどを、「ことば」や「文字」を通して読み取ろうとした。

 このように、「ことば」や「文字」に、民族の価値観や歴史、民俗が反映されている可能性があるとすれば、「つくりもの」についても、改めてその言葉の成り立ちと文字を見ておく必要があるだろう。まずは、白川静の『漢字古訓抄』の導きによって「つくりもの」という言葉の語源を探ってみたい。

 「つくる」という国語の語源は明らかではないが、「つく」という語形には「著く・附く・託く・憑く」「衝く・突く・舂く・築く」「調く・貢く・償ふ」の系統があり、「つく」はおそらく「取る」「散る」などと同様に「手」を語根とする活用語であろう。このように「つくる」という語が、手を語根としていることは、作る技術が、まず手の作業「手工」として出発したことを示している。そして「つくる」とは「附けること」、自然状態に何ものかを附加することによって、従来と異なる新しいものを創造する行為である。
 「つくる」という訓を持つ漢字は、平安後期の『類聚名義抄[5]』によると「修、何、催、作、造、起、為、営、治、詩、陶、経、纂、繕、著、制、製、醸」など五十字以上ある。この中で、特定の行為と対応関係にある「つくる」を除いて、一般的に「ものをつくる」という意味で用いる漢字は、「造」「作」「為」の三字である。
 「造」は、神饌を盛る舟(盤の形)と、神に告げ祈る祝詞の形である告とを組み合わせた文字で、本来「造」は神に祈ることであった。祖霊に祈り、それに応えて祖霊の成し与えたものを「造」と言う。
 「作」は、古くは「乍」と書かれ、もとは木の枝をたわめて束ね、垣根などを作ることを示した文字である。「作る」とは、人間が自然を変更し、手を加えることを目的とする行為である。「造」と「作」は、後には「造作」というように組み合わせて用いられることがあるが、「作」は手の力を加えてその材質や状態に変更を加えること、「造」はそのことの成就を霊に祈り、霊の力によってそのような結果が与えられることをいう。「造」には、超自然的な力が作用する意味がある。
 「為」もまた、「つくる」とよむ。「為」は、象を人間が使役することを示す文字で、人の手による技術以外に、大掛かりな手段や様々な方法を用いてことを為す意味である。「為」は手段を用いる技術的な方法という意味である。
(白川静『漢字古訓抄[6]』より抜粋)


 こうして、日本において、「つくる」と読まれてきた三つの代表的な文字について見ていくと、「作」は直接的な手の技術、「為」は「作」を助ける技術的な手段・方法、さらに人力と技術のほかに神意の協力という要素が重要で、それが「造」であったことがわかる。「造」「作」「為」は、古代のものをつくる「技術」を示す漢字であった。この三技術が一体となって「つくる」という人間の行為は、造化の世界に参加し、創造するという意味を獲得することができるのである。

 これは、「つくりもの」の性格を構成する「見立て」「趣向」「細工」という要素とも重なってくる。すなわち「造‐見立て」、「為‐趣向」、「作‐細工」である。そうすると、「つくりもの」とは、人が「つくる」という創造的な行為によってつくられたものと言うことができるだろう。

 こうして、国語の「つくる」と漢字の「造」「為」「作」の関係を考えるうちに、現在では、直接「つくる」という意味ではほとんど使わない「為」という漢字の存在が、実は「つくりもの」にとって、本質的な意味を表していたのではないかと考えるようになった。

「為」は、「つくる」行為を成就させるために用いられるさまざまな技術・方法を意味する漢字であったが、後に語義を拡大して「つくる」をも含む「為(な)す」「為(な)る」など人間の行為全般に及んで用いられるようになる。「造」や「作」に比べると、守備範囲の広い「為」には、早い段階(紀元前に溯る)から「まねる」という意味があった。ものを「つくる」ということにとって、「まねる」という行為は悪意の有無にかかわらず、当然のことだったのだろう。

「つくりもの」に「物の形をまねる」「まがいもの」転じて「偽物」という意味がつきまとう背景には、表面には表れない「為」の文字としての意味がDNAのように深く関わっているようにも思われる。

 また「為」は、「動く・変化する」「いつわる・あざむく」という意味をもつ「偽」と同音で字形も通じることから、「偽」の「いつわる・あざむく」の意味が一般化していく過程で、「偽」と「為」が同一視され、「いつわる・あざむく」という意味が「為」に付加されていった可能性もある。


本物・偽物・つくりもの


 これまで述べてきたように、「つくりもの」は「本物」「偽物」という価値観では捉えられない、位相の異なる存在であることがわかる。しかし、それでは、なぜ私たちが「つくりもの」を「偽物」と考えたのかの答えにはならない。

「見立て」「趣向」「細工」という、創造の「技術」によって成り立っていた「つくりもの」が、「偽物」というレッテルを貼られるようになった経緯はどこにあり、それは何を意味するのだろうか。

「つくりもの」を「つくる」という行為において三位一体であった「見立て」「趣向」「細工」という要素は、日本社会の変化の中で、互いの関係を微妙にずらしながらも引き継がれてきた。総体としての「つくりもの」はそのずれの上で、時々に姿や性質を変えながら存在し続けてきた。

 まず、「見立て」が「趣向」の一つとして捉えられるようになったことが、大きなずれとして考えられる。「見立て」においては、造化主・神との交流が何よりも重要である。祭礼の山や山車などの「つくりもの」は、神が時節に応じて、人間の間近に降りてくるための場として「見立て」られ、その状態を尊び迎えるための人間の側の心くばりや準備を経てつくられたものである。そのため、「見立て」は常に新しい行為であり、一回性のものであった。折口が「何の技巧も用いないで、用いたと同様な形になる」と指摘したように、「見立て」が生きている「つくりもの」の場合、「趣向」「細工」という要素は二次的な問題であった。

 この動向を歴史的に溯って検証できるだけの用意はないが、例としては祇園祭の山などをあげることができるだろう。祇園山鉾は、その発祥が平安時代にまで溯ると言われる。現在のような山鉾の形が整ったのは室町頃と言われるが、神の憑代(よりしろ)として「見立て」た素朴な形態から始まった鉾に、徐々に人々が神を迎え楽しませるための「趣向」を加え、神の降臨にふさわしい華やかさを備えながら、毎年つくり続けられた。それは、一方で、町衆達が富を誇示する行為でもあり、人間同志の「趣向」「細工」が競われはじめる段階を示すものでもあった。そして十六世紀末頃から、山鉾は祭りの後に分解され、保存されて毎年使われるようになる。これは、経済性というきわめて人間社会的な価値基準が優先されるようになったことを意味している。山鉾の歴史には、「見立て」が「趣向」に吸収され、「趣向」の力が拡大していった経緯が窺える。

 もうひとつ、「つくりもの」の性格に大きく影響を与えたずれは、「細工」の位置の変化である。「細工」は、「つくりもの」を、最終的にこの世に送り出す段階である。守屋毅も指摘したように、江戸後期には「つくりものは細工とも呼ばれ」るようになる。これは、見世物という「場」を抜きにしては語れないが、この頃の「つくりもの」が、素材の特質を熟知した(「趣向」の守備範囲までもカヴァーしていたといえるだろう)表現技術(「細工」)の巧みさによって、その存在が認識されていた事実を表しているのではないだろうか。

「細工」の歴史には、勿論、ものを作る技術の巧拙という問題も含まれる。しかしここで考えなければならないのは、手を使ってものを実際に作る人々(文字通り「細工」と呼ばれることもあった)の社会的立場が、「つくりもの」観に影響を与えた可能性があるということである。ものを作る人たちの、社会的立場の変遷を具体的に辿ることは難しいが、中世以降、非農業民として、彼らの多くは、特殊な技術およびその移動性などに対する畏怖の念から、一種の差別的扱いを受ける場合も多かった。

 江戸時代以降、士農工商という身分制度の枠の中で「細工」に携わる人々の定住生活化が進むに従い、さらに厳しい差別待遇を受ける場合があったことは多くの先人が指摘するところである。

 こうした出自をもつ「つくりもの」に対して、それを受容する人々の中に、ものとしての存在感や技術の高さを評価する気持ちと同時に、畏怖もしくは軽侮の念といった心の動きがあったことは、充分に考えられることである。

 このように、「つくりもの」をその時々に変質させるずれは、「つくりもの」を「つくる」行為の源泉が、対・神ではなく対・人間へと移行した結果、生じたものであった。神に代わって人間が前面に出てくる過程で、「つくりもの」には、経済性や合理性が求められたり、「まがいもの」とか「いかがわしいもの」といった人間の価値基準によって生じる負のイメージがつきまとうようになった。 さらに、近代になって、それが対・人間から対・自己へと移行していく過程で、作り手が複数か個人かという条件も価値基準に加えられた。

 明治になって、日本のものつくりの世界に、「美術」という新しい枠組みが西洋から導入された。さらにそこには、人がつくったものを「『作品』かそうでないものか」と判定する「見方の仕組み」まで付いてきた。この場合の「作品」とは、「作者」という個人の自我や個性と密接に結びついたオリジナル性が強く認められるものをいう。「つくる」ということが、あくまでも個人の自己表現の手段として認識されるようになり、「作者」のオリジナル性を具現したものは「作品」となった。こうして「作品」であると判定されたものは、すべて「本物」となるという仕組みである。

 もちろん、人のものの見方はこれほど単純ではないが、この「仕組み」の中で育てられた人間にとって(私たちのことであるが)、「つくりもの」のほとんどは「作品」ではない、即ち「本物」ではない「偽物」と認識された。こうして、私たちは不覚にも「つくりもの」に対して、簡単に「偽物」のレッテルを貼ってしまったのである。

 近代以降、こうした新たな「仕組み」を日本社会の既存のものに押しあてて、この「仕組み」に当てはまるものが、「美術作品」として判定され、日本美術史上で社会的承認を得てきたように思う。しかし、近年、この「仕組み」に当てはまらないものの存在を認識し、その意味を捉え直すことの必要性が、木下直之らによって提示され、この視点に立った「つくりもの」の意味づけも試みられている[7]。こうした検証作業が進めば、これまでの「美術」や「作品」の枠にとらわれないで、日本人とものづくりとの関係を見直すことができるのではないだろうか。

 冒頭部分でも述べたように、現在でも私たちは、「つくりもの」の存在を感受できる。また、それが本物か偽物かという価値判断を伴わないものであるということも、何となくわかっている。さらに、そうしたものが、「作品」と呼ばれるもの以上に存在感をもち、感動を呼び起こす場合があることも、経験的に知っている。

 世相を敏感に反映した札幌雪祭りの巨大雪像、同一画面で対話するジョン・レノンと永瀬某のテレビ・コマーシャルなど、「つくりもの」の「見立て」「趣向」「細工」は、時代に即応した「趣向」(「見立て」を含む)と最新の「細工」を駆使して、相変わらずずれた関係を維持しながら現代社会にも存在している。

〈真と贋のはざま〉で「つくりもの」を捉えるという試みから、「つくりもの」の「真」の姿がちらりとかいま見えたような気がする。



【註】

[1]折口博士記念古代研究所編、1971、「作りもの」、『折口信夫全集ノート編』第5巻、中央公論社、165〜173頁。[本文へ戻る]

[2]折口博士記念古代研究所編、1965、「盆踊りと祭屋台と——祭礼の練りもの」、『折口信夫全集』第2巻、中央公論社、249頁。[本文へ戻る]

[3]守屋毅、1992、『近世芸能文化史の研究』、弘文堂、160頁以降。[本文へ戻る]

[4]辻惟雄、1997、「『つくりもの』文化と日本」、『PANORAMIC MAGAZINE is』No.78、ポーラ文化研究所。[本文へ戻る]

[5]平安末期に成った漢和辞書。編者未詳。名義抄ともいう。和漢の音義・辞書・訓点本の集成で、全巻を仏・法・僧の三部に分け、偏・旁によって漢字を120部に類別し、標出漢字の字体・字音・和訓を注記し、和訓には声点を付して和語の清濁や当時のアクセントを示す。[本文へ戻る]

[6]白川静、2000、「漢字古訓抄」、『白川静著作集』第3巻、平凡社、94〜100頁。[本文へ戻る]

[7]木下直之、1997、「物産店にて」、『PANORAMIC MAGAZINE is』No.78、ポーラ文化研研究所。[本文へ戻る]



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