学 史

日本先史土器の分類学的研究
—山内清男と日本考古学—

− 鈴木 公雄 −



山内先史学の基礎

山内清男の先史学研究の最大の業績は、綿密な観察に裏打ちされた縄文土器の分類にもとづく、日本先史時代の編年体系の設立にあった。考古学・先史学に限らず、時間的経過の中で事象の変化生成を明らかにする学問においては、その時間経過の体系=編年を持つことは必須の要件である。日本考古学においてこのような編年体系確立の必要性が認識されはじめたのは大正末期から昭和の初年にかけてのことであり、この時期はまた日本における科学的考古学の確立をみた時期でもあった。

日本列島に存在する縄文土器が、単一なものではなく、さまざまな変化を有するものであることはすでに明治時代より知られていた。しかしながらそれらの変化がいかなる原因によって生じたのかという点については、年代差、地域差、文化系統ないし部族の差によるとするなど、さまざまな解釈が行われていた。山内はこれら乱立する諸見解の中から、新らしい方法に基く編年体系の確立を指向した。

「縄紋土器一般の無数の変化は、地方及び時代による変化の雑然とした集合である。我々はこのままを縄文土器の姿だとは考え得ない。寧ろ斯くの如き器物の羅列を一旦棄却しよう。そして、地方差、年代差を示す年代学的の単位——我々が型式と云って居る——を制定し、これを地方的年代的に編成して、縄紋土器の形式網を作ろう。この新しい基準によって土器の製作、形態装飾を縦横に比較して土器の変遷史を作ることが出来るであろう。——中略——この基準は単に土器自身の調査に関わるばかりではない。縄紋土器の時代に於ける土器以外の遺物にも幾多の変遷消長があった。——中略——この遺物の変遷は土器の細別を基準として明らかにされ得たのであって、単なる遺物又は遺物の変化の羅列に負うところではない。——中略——縄紋土器の文化の動態は、かくの如くして——土器型式の細別、その年代地方による編成、それに準拠した土器自身の変遷史、これによって排列されたあらゆる文化細目の年代的及び分布的編成、その吟味……等の順序と方面によって解明に赴くであろう」(「日本遠古の文化」I 縄紋土器文化の真相)。


図1 山内清男が終生その完成を目指した縄文式土器形式編年体系最初の試案(1936)

これからもわかるように、土器型式に基く編年体系の確立は、山内の先史学研究の根本に位置するものであったことがわかる。山内はこの編年体系の基礎として、型式と系統という二つの概念を用意する。型式とは「一定の形態と装飾を持つ一群の土器であって、他の型式とは区別される特徴を持つ。型式の内容は始め若干の特徴だけが示されただけで、後に多くの資料を得て全容が充分に指示されることもある」(縄紋式土器・総論I 縄紋土器の年代別と地方別)。従って、「土器型式の鑑定の如きも、分類学者が種名を決定する場合の如く、原標本に当り又は専門家を煩して始めて正確を期し得る」(縄文土器型式の細別と大別)ものである。それ故に、かくして制定された編年体系の基本単位としての型式は、年代的単位を具体的に示す一つの基準標本としての役割りをになうことになるのである。

型式があたかも生物学における「種」に近い一種の類概念を持つのに対して、系統はそれらの諸型式間における時間的、空間的関連をたどるさいの指標として考えられている。この考え方は山内自身が述べているように松本彦七郎の文様帯系統論に端を発するものであったが、型式とならんで山内の土器研究における鍵概念であった。「土器研究は形態学Morphologyに比すべき部分を持っている。いわゆる型式学Typologyは最もよく比較解剖学に比較し得るであろう。相似の形態、相同の形態、その他の概念を導入することもできよう。ここに述べる文様帯系統論も、資料、観察の主眼、理論の建て方において同じ方向を指すものである」(縄紋式土器・総論 V文様帯系統論)。この考え方は山内の研究のかなり初期にまでさかのぼるものであり、1929年(昭和4年)に発表した「関東北の繊維土器」においてすでに明示されている。また1930年(昭和5年)に書かれた「所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄紋式土器の終末」においても、亀ヶ岡式土器の型式的変遷をたどるさい、文様の系統が重視されており、これは縄文時代の終末が全国的に大差ないものとするさいの重要な論拠となっていた。
山内の土器研究の基本には、以上からもわかるように生物学、とくに分類学からの影響が強く認められる。そしてこれは山内の方法にある意味での科学性と体系性を持たせることになったと思われる。その最も良い例が山内の縄文土器型式による編年表および先史土器図譜の作成であろう。山内が全国的な規模での縄文土器型式の編年表(山内は当時年代的組織と呼んでいた)をはじめて公表したのは1936年(昭和11年)に喜田貞吉との間でたたかわされた有名な「ミネルヴァ論争」においてであった(図1)。これによると、全国を約10の地域に分ち、縄文土器を早・前・中・後・晩期の五期に区分し、さらにそれぞれの時期の中を4〜5の土器型式で細分するものであり、今日の縄文土器の型式区分・時期区分はこの時に定まった。そしてこのようにして定められた年代的体系の構成要素たる土器型式の内容を具体的に示そうと試みたものが1939年(昭和14年)から1940年(昭和16年)にかけて出版された「日本先史土器図譜」であった。これは関東地方の縄文土器型式を中心とし、それらに119枚の写真と詳しい解説を付したものであり、今日に至るまで縄文土器型式の基本として利用されている。山内は生物学におけるアトラスと同じ考え方に立って本図譜の作成を考え、縄文土器型式の同定ないし一種の検索に使用できるよう配慮したものであろう(図2)。


山内先史学の成果

前章で述べたような方法にもとづいて山内は日本における考古学的年代組織の綜合を早くも1932〜1933年(昭和7年〜8年)にかけて「日本遠古之文化」と題する論考の中で示している。ここにおいて山内は、縄紋土器の起源、縄紋土器の終末、縄紋式以降と云う三つの区分を設け、それぞれ注目すべき見解を提示した。山内は縄文土器を第一縄紋式から第四縄紋式の四群に区分し、それぞれ時間的に継続したものであるとし、尖底を有する第一縄紋式は最古の土器としておそらく縄文土器の起源にかかわるものであろうが、より古い縄紋土器の存在も考えられるとし、大陸と縄紋土器との関連はなお今後の問題であろうとした。

ここで注目されるのは縄文土器の終末とそれ以降についての見解である。山内は第四縄紋式の中の最も新しい縄紋土器、すなわち東北の亀ヶ岡土器とそれに並行する型式を含味した結果、「縄紋式の終末は地方によって大きな年代差を持たなかったことを悟ることが出来る。与えられた材料の範囲から云っても三河と東北に於ける差は僅々土器一型式、畿内と東北の間にも二三型式の差を超えないと思われる」(日本遠古之文化III 縄紋土器の終末)とした。この考えはすでに1930年(昭和5年)の「所謂亀ヶ岡式土器の分布と縄紋式土器の終末」にその骨子はのべられていたものだが、ここにおいて日本先史文化の年代区分として公に定着することとなった。この見解に対して、縄文土器の終末を鎌倉時代ころまで下降させて考えようとする喜田貞吉との間に、所謂ミネルヴァ論争がひき起されることになった。1936年(昭和11年)に行われたこの論争は日本考古学における数少ない論争であったが、結果は山内の編年体系の持つ科学的合理性を広く再確認させることとなった。「日本考古学の秩序」と題された論争第一回目の論文および論争一年後に書かれた「縄紋土器型式の細別と大別」は山内の土器型式とそれに基く年代組織を知るうえで重要な論文といえる。

「日本遠古之文化」において注目すべきいまひとつの点は北辺の縄文文化に関する山内の見解である。山内は北海道と本州以南とでは縄紋式以後異なった文化圏を形成するに至ったという重要な指摘を行った。

「北海道は内地と同様縄紋式土器の文化圏であった。しかし縄紋式以後、東北で祝部土器の行われた頃から、この地方は内地とは別な変遷を見たのである。内地は完全に鉄器時代であるのに、この地方では石器の使用が続いた。土器は縄紋こそ持たないが、その系統の特有な土器が使用された。内地では農が主要な生活手段であるのに対して、北海道では縄紋式以来の狩猟、漁業の生活が遺存した。


縄紋土器の文化圏は斯くの如くして内地の文化圏と、北海道の文化圏に分裂してしまったのである。この対立した文化圏の間には幾多の交渉があった内地系の文化は部分的に北海道に伝えられた。——中略——

この文化圏の対立は永く続き、北海道には独特の変遷があった。爾後石器土器、竪穴住居は漸次廃止された。そして我々は近世に至ってアイヌがこの文化圏の主人公であることを知ったのである」(日本遠古之文化IV 縄紋式以降)。

山内はこの縄紋式以降の北海道の文化圏を1939年(昭和14年)に至り「続縄文式」と命名し、ここに続縄文文化の概念が設定された。続縄文文化とアイヌ民族との関係は特に山内の注目したところであって、戦後においても続縄文式期を二分し、第一期は内地の弥生式と並行し、第二期は古墳時代に相当するとしたあと、第二期に属する江別式土器が東北地方北半から出土する事実をとらえて、「内地北端の江別式は、北海道とともにおそらくはアイヌ文化勢力の領地であり、北進しつつあった古墳文化の最古、最北の勢力とむきあっていた。また、山形、宮城の例にみるような江別式土器片の混入は、アイヌ文化の一端が南下したことをものがたる。江別式をアイヌとすることには異論もあろう。しかし五世紀前後における日本民族論は、最近の考古学の成果もとりいれて、かつて論議されたよりはるかに明確に、地域や時代について語りうるようになっている。たとえば古墳の北限、アイヌ語地名残存についての問題、考古学的人種論、歴史学の方面からのエゾに関する諸説などからして、この推論を裏づけることはかならずしも困難ではあるまいと考えられるが、ここで詳論しえないのは残念である」(縄紋時代研究の現段階 縄紋時代の生活と文化)と述べている。

慎重な配慮と吟味を重ねたうえで論じられる他の多くの山内の所論とくらべ、上記の見解のみせる積極性は特異な感を抱かせる。とくに、その内容が言語、人種、文献史にまたがって論及されているだけに、その感は一層深まるのである。山内において一貫した関心事は、本来同一の縄文文化圏としてあったものが分裂し、一方から日本の歴史時代文化が育ち、他方からアイヌ民族が出現したという点にあったと思われるが、その根底には縄文時代人の形質に関する山内の考え方が横たわっていたと考えられよう。この点は最近の形質人類学の成果とも関連して注目されるところである。


山内先史学の広がり


図2 山内清男最大の業績に一つ
「日本先史土器図譜」第1輯(1939)

山内の先史学研究の最終目標は編年体系の確立にあったのではなく、それを越え、さらに広範な世界の先史文化との比較研究を究極的にめざすものだった。

「現在では、日本の先史時代、とくに縄紋式土器は多数の細別に分けられ、年代的組織をもつことになったが、ただそれだけでは、積木細工を精密にやっただけである。われわれは、この系列を大陸の年代組織とくらべあわせながら、じっさいの年代を明らかにしなければならない。そしてはじめて、日本の先史時代も世界史の一環を構成することになる。問題は世界史における先史時代の研究に発展するのである。」(縄文時代研究の現段階 縄紋文化の時代区分)。


山内のこの関心は戦前から一貫しており、縄紋文化の始源に関する研究の中ですでにたびたびとりあげられている。また、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ等の先史学の成果についても広く通暁し、これは縄文土器の文様装飾、とくに縄文や施文具の研究において重要な役割をはたしていた。比較民族学、人類学への関心も深く、論文としては未完に終ったものの所謂「サケ・マス論」や「縄文時代の人口論」は北米インデアンの比較民族学的事例から導き出されたきわめてユニークな縄文文化論であり、今日でもきわめて高く評価される。このような山内における先史学的総合への指向はすでに戦前において明確な形で意識されていた。

「縄紋式は長期に亘って自然界から食料を獲得して居った。弥生式に於いて始めて農業が行われたが、これは縄紋式と同様狩猟漁撈又は採集と併び行われた。古墳時代に於いては農業の技術の進展があり、農業が主要な生活手段となった。この点で興味深いことは考古学上の文化の区分に相応して経済関係の差異が結び付いて居ることである。尚これと共に直接遺物によって証明し得ない幾多の社会関係或は精神生活の相異も存在したであろう。この方面に関しては屡々論及されて居るが、自分は今深く論じたくないのである。唯一言述べたいことは、考古学的事実によって各時代と、現在の原始民族の経済形態との同定を行い、当時の生活の全面的考察の根拠を得たいと云うことである。」(日本に於ける農業の起源IV 結尾 傍点は筆者)


ここに見られる山内の先史学は、一国の先史学研究の枠をこえた幅広い総合を目ざすものであり、この見解がすでに1937年(昭和12年)に提示されていたのは驚くべきことといわねばならない。山内先史学における型式学、編年学は今日の日本考古学の中に継承され、われわれは今日きわめて詳細な年代学的組織を保持するに至っている。それに対し、上述したごとき山内の視点は残念ながら今日十分に引きつがれているとは云い難い。これには山内のこの方面に関する研究が多くの場合未完成な形でしか提示されなかったことにも原因がある。しかし、今日の日本考古学の現状を考えるとき、山内が示そうとした先史学研究の持つこの豊かな広がりこそ、引きつぐべき最大のものといわねばならない。