近世の金属遺物 |
原 祐一 |
近世に限らず、遺跡から出土する金属遺物は錆に覆われている。金属遺物の分類・分析を行うには、まず錆の除去を行わなければ全く意味をなさない。江戸遺跡の報告書では金属遺物の材質についてほとんどの場合表面の酸化物の色調から材質が記載されており、銅合金は銅と記載される場合が多い。考古資料は、材質分析を基に生産・加工といった近世技術史の研究の基本資料となりうる観点から、東京大学埋蔵文化財調査室ではすべて錆の除去を行い金属遺物の分類・材質分析を行っている。展示資料はすべて錆の除去を行った。前近代の銅合金の種類と製作技法は以下に分類される(1)。
金属遺物のうち、真鍮製品について分類、材質分析、文献の検討を行った。真鍮とは銅・亜鉛合金からなる合金で日本の古代、中世においては中国での名称に習い「鍮石」と呼ばれ珍重された。正倉院御物の中に鍮石製品があり、日本へ輸入されていた真鍮は、現代の技術用語では黄銅(BRASS)であり現在は広く一般に用いられている。日本において真鍮の名称が定着したのは江戸時代中期以降と考えられる。また田沼意次が老中となった明和年間に寛永通宝真鍮四文銭の鋳造が開始され、真鍮はより身近な金属となったと考えられる。真鍮製造に必要な亜鉛の精錬が開始されるのは明治二〇年以降で(2)、日本における亜鉛・銅による真鍮製造開始の明確な記録は確認できない。中国では明末の技術書等に真鍮製造、亜鉛精錬に関する記述があり古くから真鍮製造が行われていた(3)。近世の遺跡から出土する真鍮製品は、海外から真鍮材を輸入し加工したか、亜鉛を海外から輸入し真鍮材を製造加工したかのどちらかである。近世の真鍮製品として最もポピュラーなキセルの分析を行った結果、一六〇〇年代真鍮板材の製造、加工技術が確立されていることが確認できた。分析結果をもとに、亜鉛輸入と真鍮製造に関するオランダ貿易文書、国内文書の検討を行った結果、江戸時代初期の亜鉛輸入を確認した。亜鉛は合金材料が主な用途であり、日本における真鍮製造が江戸時代の初期に行われていたことは間違いない(4)。
一六八三年以前に製作されたキセルが廃棄された病棟地点SK〇三遺構出土一三〇点、御殿下記念館地点出土四〇〇点のキセルの分類を行った。キセルの基本的な器種は三種類で、SK〇三遺構で二器種、一九世紀代に廃棄された御殿下記念館地点は一器種が出土した。 病棟地点SK〇三遺構のキセル七三点、グラウンド地点のキセル四点の材質分析を行った。試料はすべて錆を除去し金属組織を確認して分析を行った。分析方法はAm-241(60kbV)γ線を用いた蛍光X線分析、一部の資料と溶接部はPIXE分析(荷電粒子励起X線分析)を行った。分析の結果、キセルの材質はほとんどが真鍮(銅—亜鉛合金)で(図1-1・2)、亜鉛10〜30wt%、銅90〜70wt%の濃度範囲となった(図1—3)。出土したキセルは鋳造品が一例もなく、すべて鍛造により製作されたものであった。キセル雁首部の断面を観察すると、たたき、延ばし、絞りによって肉厚が変化している。溶接材には銅、亜鉛、錫が検出されたことから、鑞材は真鍮蝋であった。
「亜鉛」は当時のオランダ語で「Spiaulter」と記載されている。日本語訳には「亜鉛」と「白鑞」の二つの解釈が存在する。本文では、日蘭学会イザベラ・ファンダーレン氏に教授いただいた「Spiaulter」の解釈、江戸時代の「亜鉛」(真鍮材料・薬)、「白鑞」(はんだ)・「白鑞」(はくろう 鋳造時添加される一種の合金)(5)の解釈、「Spiaulter」、錫、鉛の年別輸入量、オランダ語辞書の解釈(6)から総合的に判断し、「Spiaulter」を「亜鉛」と解釈した。一六〇〇年代の海外の交易記録と国内の真鍮製造に関係する検討を行った結果、以下の記録が確認できた。江戸時代のオランダ商館の記録である『平戸オランダ商館仕訳帳』に亜鉛輸入の記録がある(史料1)(7)。一六三六年一二月五日一、〇六五斤(六三九kg)、一六四〇年七月五日、一二月二一・三一日に総量四〇、六〇二斤(二四、三六一・二kg)がオランダ船によって日本へ輸入されている。唐船の輸出入記録をオランダが入手記録した文書を日本語に翻訳しデータベース化した『唐船輸出入品数量一覧 一六三七〜一八三三年』(8)によれば、一六四一年に安海・福州・広南・広東船などによって三七、五〇〇斤(二二、五〇〇kg)の亜鉛が輸入されている(図2)。一六〇〇年代の初期からオランダ船、唐船により亜鉛が輸入されていたことが確認できた。唐通事仲間の日誌である『唐通事會所日録』(9)によれば、亜鉛は「」「亜鉛」「とたん」と記載され、国内で取引が行われていたことが確認できた。
一方、この年代では、真鍮の国内製造に関する具体的な文書は禁令、真鍮座関連文書以外見出せなかったが、正徳年間(一七一一〜一七一六)の大坂の問屋数・職人数をまとめた『奉行引継 正徳年間大坂市中各種営業表』「職工之部」に「真鍮吹屋 四人」、『大阪商家数』に「真鍮吹屋 四軒」と真鍮製造所に関係した記載があり(10)、国内で真鍮製造が行われていたことが確認できた。
キセルの分析結果、亜鉛輸入、真鍮吹屋の記録により、江戸時代初期、亜鉛が唐船、オランダ船から輸入され、真鍮材の国内製造が開始されたと考えられる。一八世紀には亜鉛輸入が急増し、一七六八年(明和五年)には真鍮四文銭の鋳造が開始されている(11)。幕府は各地で行われた真鍮製造を統制するため真鍮座を設置する(12)。このことからも真鍮製品が各地に普及し需要があったことを伺わせる。真鍮製品が近世の遺跡から数多く出土することからもこれは明らかである。 |
【註】1 伊藤博之・小泉好延・原祐一、一九九九、『日本における真鍮の歴史』[本文へ戻る]2 鉱山懇話会、一九三二、『日本鉱業発達史』[本文へ戻る] 3 人民衛生出版、一九八二、『明・李珍著 本草目(校点本)』 潘吉星、一九八九、『天工開物校注及研究』、巴蜀書社[本文へ戻る] 4 原祐一・小泉好延・伊藤博之・寺島孝一、一九九九、「東京大学本郷構内遺跡(旧加賀藩邸)から出土したキセルの材質分析」『日本文化財科学会 第一六回大会研究発表要旨』日本文化財科学会、一一八-一一九頁 原祐一、一九九九、「東大本郷構内のキセル材質および亜鉛輸入」『第一回考古科学シンポジウム発表要旨』、三九-四六頁[本文へ戻る] 5 小泉好延・伊藤博之・原祐一、二〇〇〇、「江戸期四文銭の科学的研究」産業考古学会第24回総会発表予定[本文へ戻る] 6 Pieter van Dam 1929『OOSTINDISCHE COMPAGNIE EERSTE BOEK, DEEL II』 『Het Woordenbuek der Nederlandsche Taal 1851-1995』[本文へ戻る] 7 加藤栄一、一九六九、「平戸オランダ商館の商業帳簿に見られる日蘭貿易の一断面—平戸オランダ商館「仕訳帳」の分析を中心に—」『東京大学史料編纂所報』第三号、二三-六三頁 一六三六年度『仕訳帳』Journal 1636 (Archief Ned. factorij in Japan. No.11827)、『元帳』Groot boeck vant' Compter. Firanndo Ao. 1636 (Archief Ned. factorij in Japan. No.11842)東京大学史料編纂所蔵 平戸市、一九九八、『平戸市史 海外資料編III』、一六、八六、一一二頁 一六四〇年度『仕訳帳』Journal van de negotie des Comptoirs Firando anno 1640 (an 1. Jonuari tot 31. December 1641)[本文へ戻る] 8 永積洋子編、一九八七、『唐船輸出入品数量一覧一六三七〜一八三三年』、創文社[本文へ戻る] 9 東京大学出版会、一九五五、『大日本近世史料 唐通事會所日録一』、九頁 東京大学出版会、一九五八、『大日本近世史料 唐通事會所日録二』、一三九頁[本文へ戻る] 10 大阪商業会議所、一九六四、『大阪商業史資料 十三巻 統計に関するもの』、一三-四三、六三頁[本文へ戻る] 11 原祐一・小泉好延・伊藤博之、二〇〇〇、「近世真鍮四文銭における亜鉛の研究—製造および亜鉛輸入文献による考察—」産業考古学会第24回総会発表予定[本文へ戻る] 12 高橋真三・石井良助編、一九三六、『御触書天明集成』、八二六、八二七頁[本文へ戻る] |
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