現在、私たちの生活用具は用途材質とも多種多様で、最近はコンピューターなどの電子機器も生活用具の一つに数えられるようになった。絵画資料、民具資料、伝世品によると江戸時代の生活用具も多種多様であったと考えられるが、江戸の物質文化を研究する近世考古学の研究の中心が陶磁器となっており、近世社会構造を研究する上でも他の遺物の研究も必要である。医学部附属病院病棟建設地点SK〇三遺構では陶磁器類の他に金属遺物、木製品をはじめとする有機質の遺物が大量に出土した。種類と材質において極めて多様性に富み、当時の社会構造を知る上でも貴重な資料である。
図1 病棟建設地点基本層序模式図 |
一六八二年(天和二年)・八百屋お七の火事”の火災を契機に、翌年加賀藩、大聖寺藩、富山藩の屋敷割りが改変される。SK〇三遺構は大聖寺藩邸の東端に位置し、藩邸の盛土造成後掘削された東西二〇m、南北五〇m、深さ五mの巨大遺構である。本郷邸では火災を契機に大規模造成と御殿建築が開始される。SK〇三遺構は造成に必要な土を得るために掘削された遺構である。遺構には水分を多く含んだ黒灰色の泥と共に、御殿造営に伴う鉋屑・工具、陶磁器類、漆器・金属・食物残滓が大量に廃棄されていた。通常の遺跡では有機物、金属は腐食してしまうがSK〇三遺構は覆土が水分を多く含んでいたために遺物の保存状態が良好であった。
近世遺跡の年代指標となる焼塩壺(焼塩壺は土製の容器で塩の精製兼運搬容器として販売されていた)が出土している。資料25の焼塩壺には「天和二年」の墨書と「天下一御壺塩師堺見なと伊織」の刻印が有る。真鍮製の棹秤の錘には「天下一」「正徳」の刻印がある。関東秤座、守随正徳の代に製作されたもので「天下一」の刻印は天和二年以降使用されなくなる。江戸幕府は「天下一」銘の使用を天和二年に禁止している。加賀藩史料に「天下一」銘使用禁止について触れられている。「八月一四日。幕府の令に従ひ、天下一の文字を書し又は看板等に金銀箔及び鍍金の金具を用ふることを禁ず。」(『加賀藩史料』第四編 天和二年)とある。遺構の検出状況、御殿造営年代からSK〇三遺構は一六八三年頃に廃棄されたと考えられる(1)。