西郷星のうわさ
西南戦争でもまた、新聞錦絵は活躍した。なかには新聞号外や後の戦争錦絵に近い印象を与えるものもあった。この戦争の終わり頃、西郷が星となり、あるいはロシアに逃げたといううわさ話が生まれた。ロシアにおける反逆者プガチョフの伝説と同じような英雄生存の流言である。この世間話の生成・流布に、新聞というメディアと錦絵というメディアが果たした役割は小さいものではなかった。
図248 鹿児島新聞
福岡暴行之図東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵福田熊次郎(具足屋)の版。
鹿児島新聞 福岡暴行之図
戦地の物語にハ最あはれなる/事多かり吉松陸軍中佐ハ/田原坂に於て戦死しけるが/細君ハいまだその確報も得ざ/れバ福岡港町なる吉田新市/の宅に宿泊しを福岡暴徒/ハ不意におしよせ吉松の細/君家来島内の両人を見る/よりも追取囲んで斬つけるを/遁るるたけハと島内ハ右に左/に支へるうち細君ハ辛うじて/その場をのがれ島内友治ハ/ふミ止まり暴徒のために斬/ふせられ束敢なく此所に息/たえたり/大田FL1誌
図249 鹿児島紀聞
東京大学法学部附属明治新聞雑誌文庫蔵
辻岡文助(辻文)の版。明治一〇年四月一四日届とある。鹿児島紀聞
西郷隆盛ハ川尻を本陣と/なし日夜軍事を儀し/三月一日に至って官軍大挙/し此所に進撃したりける/が賊軍は之を聞くより一軍/を以て伏兵となし一軍は直/に官軍と激戦し偽り敗し/て散乱し官軍短兵急に攻立しが伏兵一同に起り官兵大■■■一先引上げとなるたり/西郷の寺に女兵隊在といふ。
横山町三丁目二番地/出版人 辻岡文彦/本
所外手町十八番地/画工 村井静馬