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[ニュースという物語]


難儀鳥

大地震後の復興景気により、潤った職人たち。鯰を肴にいっぱいやっていたところ、難儀鳥が鯰をさらっていく。この難儀鳥、よく見ると、地震で損をした色々な職業の人々の商売道具で構成されている。彼らの恨みが集まって、難儀鳥を生んだのだ。
地震で儲けた職人達を風刺すると共に、俄景気の終わりを暗示するものとなっている。

難儀鳥
図206

難儀鳥

大地震の翌晩
西ツ時より郭中の真うへ
並ニ芝居町のほとりへかけて
あやしき鳥あらわれその鳴くこへ甚た哀れなり或時諸織の
ものども嘉肴をととのへ
酒もりしける座中より
太母の肴をつかひとリ最セい
はるかに舞登りけり
まことのふしぎの事共なり
これ定て深き意味のある事
なるへけれともその次第をしれる
もの更ニなけれバ人びと
深くあや
しみ
けりとそのちかならす
おもひあたる
事たるへし
と互いふ

 

幼童遊び子をとろ子をとろ

子供の遊びになぞらえた、政治風刺画。慶応二年二月の検閲印があり、江戸城開城(四月)前の情勢をあらわしている。服の意匠から左側は幕府方であるとわかる。右の子たちは整然と並ぶが、左の子達は足並みがそろわず、何やら相談している。この様子から、新政府有利という情勢が読みとれる。

幼童遊び子をとろ子をとろ
図207

幼童遊び子をとろ子をとろ


「ポラヤアごらんよ
長松とんがおもりさ
もう大丈夫だよ
「サアとつちヤア
ミいさいなミいさいな
「この子を
ミつけ
さあとつちやア
ミいさいなアミいさいなア
「ヲイあいぼうチヤン
しつかりやんなへ
うしろにハおれが
ついているから
大丈夫
「子をとろとろ
チイチイ
えちやツ
あとの子

 

入用御間商売競

安政地震で仕事が上がったりの人は「お間」(おあいだ)といい、地震で一儲けした人は「入用」(いりよう)といわれた。入用の人達は地震鯰に味方し、お間は鹿島大明神に与して争っている。両者が拮抗する姿は、地震の復興景気が広まり、地震が「世直し」だと感じる人が増えてきたことを示している。

入用御間商売競
図208

入用御間商売競

かしま「わがいし
したにすミ
ながらるすを
だしぬき
うらぎり
したる
おお
なまづめ
はやく
あたまを
おさえろおさえろ
ミなミな「いへくにをうごかす
だいざいにん
いまわれわれが
うちとりませう
いづれもここがかん
じんかなめいしだぞへ
ぢしん「いま
たたかいを
くつがへす事
わかひれの
うちにありそれ
しよくにんども
かせげかせげ
むかいのたいしやうハ
大明じんと
あるからハ
ははアわかった
てもかしま
しい事
でハあるぞ
ひやうたん
らしい事を
いふないふな
しよく人「大しやうが
いせいをふる
われたで
こちとら
までが
しあわせしあわせ

 

妖狐伝

囲碁の勝負によって、幕府方と京都方の政争を描いた風刺画。公家風の人間は明らかに天皇を表しているが、徳川慶喜は間の抜けた異国人風に描かれている。外国人に描くことで、「外国かぶれ」という意味を込めたのであろうか。「しろをおわたし申す」とのセリフから、江戸開城に近い時期の作品と推定される。

妖狐伝
図209

妖狐伝

たかミでけんぶつ
してもゐられず
そろそろすけて
やらさア
なるめへ
しよて
から
あとが
じよごんを
するに
エエエエきのいひ
人だなア
是からおれが
引うけて
一トせうぶして
手なミを
ミせう
どちらがかつても
又まけてもほんに
こまつたものだ
うしろに
おれが
ひかへて
ゐる
もう一ト
せうぶ
やんねへやんねへ
おおせの
おもむき
おそれいり
ハイハイ
しろを
おわたし
申す
ここの所ハそつちが
へいこうしろを
わたした
その上で
一ばんくふうを
又しなせへその時
おれもじよごんを
しまさア
此おれを
さしおひてハ
白ハだアれも
もちてハ
あるめへ
せんせいに
なりかハり
おれがせうぶを
してミてへエエ
じれつてへきりきり
しねへき介大しん
そなたに
しろがもち
きれやうか
こつちへわたして
へいこうするか
それがいやなら
しやうぶをするか
二ツに一ツの
へんとうせよそんな
ことでハ
手のろい手のろい
四の五のいハさず
一トうちやんねへ


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