関野貞の朝鮮古蹟調査

早乙女 雅博
東京大学文学部




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生い立ち——時代のはざまに生まれる——

 雪深い新潟県上越市で、関野貞は関野峻節とヤエの次男として生まれた。時は、慶応三年一二月一五日(一八六八年一月一〇日)で、日本の政治が徳川幕府から明治政府へと移り変わる真っ只中であった。朝鮮半島では、これまで鎖国政策をとっていた朝鮮王朝が、江華島事件(一八七五年)を契機に、日本の圧力によって釜山、元山、仁川の三カ所を開港させられた。その後、朝鮮をめぐって日本と清国との対立が激化し、ついに一八九四年には日清戦争が勃発した。

 そのころ、一八九二年七月、関野は東京帝国大学工科大学に入学し、造家学(のちの建築学)を専攻し、一八九五年七月に卒業した。一二月には古社寺修理工事監督として、古い歴史のある神社や寺院が多い奈良県に赴任した。そして、一八九七年六月に古社寺保存法が制定されるとともに、奈良県技師に任命され、古社寺などの文化財の指定と保存修復にあたった。一九〇一年に東京帝国大学助教授に任命され、建築学第二講座を担当するまでの五年間にわたる奈良での研究をもとに、「平城京及大内裏考」を著し、一九〇八年に工学博士の学位を授与された。



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第一回朝鮮古蹟調査——漢城・開城・慶州——

 日清戦争後、朝鮮では一八九七年一〇月一二日に国号を「大韓帝国」と改め、朝鮮王朝最後の国王となった高宗は皇帝に即位した。しかし、列強による主権侵害が甚だしくなるとともに、清にかわってロシアの影響力が大きくなり、朝鮮をめぐって日本とロシアの抗争が激しくなっていった。

 関野が東京帝国大学の命令により、はじめて朝鮮に渡ったのは一九〇二年、ロシアと対立していたイギリスと日英同盟を締結した時であった。

 六月二七日に東京を出発し、途中三重県に寄ったのち、三〇日に神戸港から出港した。対馬海峡を横切って釜山港に着いた後、海岸沿いに西周りで航行し、馬山浦、木浦、郡山などに寄港しながら、七月五日に仁川港に到着し、すぐに漢城(ソウル)へ行った。漢城と仁川を結ぶ京仁鉄道は一九〇〇年に開通したものの、漢城と釜山間四五〇キロを結ぶ京釜鉄道は、一九〇五年の完成なので、この時はまだ鉄道がなく、船を利用したのだろう。

 朝鮮王朝時代の都であった漢城では、城郭・北漢山城・昌慶宮・昌徳宮・景福宮などの文化財を調査し、高麗王朝の都であった開城では、羅城・内城・王宮・満月台などを調査した。七月三一日には船で仁川に戻り、いったん漢城に帰着して、今回の調査の前半が終了した。開城や漢城では、個人収集の陶磁器も数百点調査し、この時の報告にその図を載せている。

 後半は、八月九日に仁川を出港し、船で西海岸を南下したのち南海岸を東行して、一一日に釜山港に到着した。東莱・梁山(通度寺・梵魚寺)を調査しながら陸路北上し、一八日に新羅の都であった慶州に到着した。ここでは三日間半という短い調査期間に、邑城・月城・氷庫・芬皇寺・五陵・太宗武烈王陵・仏国寺・栢栗寺などを調査した[関野貞一九〇九]。この時慶州南門外の鳳凰台下の鐘閣内にあった廃奉徳寺梵鐘は、現在、国立慶州博物館の庭に移され、「エミーレの鐘」と愛称され、訪れる人々に遠い昔を偲ばせてくれる。

 慶州からは西に向かい、慶尚北道の永川・大邱を通り、標高一四三〇メートルの伽山に上り、そこから南下して慶尚南道の漆原・馬山浦を通り、三〇日に再び釜山に到着した。九月四日には釜山港を出発し、翌五日長崎に到着している[挿図1]。


[挿図1]朝鮮古墳調査行程図

 全行程六十二日間におよぶ古建築を中心とする調査ではあったが、一つ一つに費やす時間は短いため、記録として写真を数多く撮った。帰国後、「韓国建築調査報告」(『東京帝国大学工科学術報告』第六号、一九一四)を著したが、これが朝鮮の美術工芸を学会に紹介した最初となった。

 日本とロシアの対立が激化し、ついに一九〇四年二月九日、日本はロシアとの戦争を開始した。日本はただちに、首都漢城を制圧し、二月二三日に日韓議定書を押し付け、八月二二日には第一次日韓協約を締結して、日本は朝鮮の内政に干渉した。一九〇五年九月ポーツマス条約(日露講和条約)を結び、日本とロシアとの戦争は終結したが、朝鮮への支配はますます強まり、第二次日韓協約で日本は朝鮮の外交権をにぎり、一九〇七年七月には第三次日韓協約を締結し、朝鮮の内政に関する全権を掌握した。

 この間一九〇五年、関野は大学病院に入院し、腎臓の手術を受けている。また、同年一〇月、日本の遺跡で収集した瓦百九十二個、韓国古瓦および石造物十九個、大仏殿組物雛形二個、彩色組物雛形二個を東京帝国大学に寄贈した。一九〇六年九月から翌一月にかけて第一回の中国建築調査を行い、続いて一九〇七年六月から九月にかけて第二回の中国建築調査に出かけた[関野克一九七八]。

 朝鮮の古蹟関係では、一九〇〇年に八木奘三郎が東京帝国大学人類学教室から派遣され、一九〇五年に鳥居龍蔵が高句麗の都であった奉天省輯安に行き、一九〇六年には今西龍が、関野が一九〇二年に行った慶州・漢城・開城を踏査した。



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第二回朝鮮古蹟調査——平壌・義州・扶餘・慶州——

 一九〇六年二月、漢城に統監府が置かれると種々の調査事業が始まった。統監府度支部(長官荒井賢太郎)は、工事顧問であった妻木頼黄博士の意見により、関野貞に依頼して、一九〇九年から朝鮮半島全土の古建築調査を開始した。以後、毎年朝鮮に行き、殿・宮・院・祠・寺・社・廟・塔・碑・礎・燈・古墳・陵墓などの古建築や古蹟を調査して報告書を出した。

 この年は、一九〇六年に完成した京義鉄道(漢城・新義州)の沿線にそって北上し、漢城・開城・黄海北道の黄州・高句麗の第三の都のあった平壌・平安北道の義州に至り、さらに少しもどって平安南道の安州・平安北道の寧辺・妙香山を調査し、平壌にいったんもどった。帰路には、百済の第二の都であった公州・恩津・百済の第三の都であった扶餘・慶州をまわって日本に戻ったが、扶餘では雪に見舞われている。

 関野は、谷井済一、今泉茂松技師とともに、一〇月一四日から平壌の大同江面石巌里で古墳を発掘した。はじめ外形の残りのよい古墳を選んで発掘したが、既に盗掘にあっていたので、別の大小二基の古墳を発掘した。この古墳も深さ二・七メートルまで掘っても槨に到達しなかったので、大と小ともに発掘を中止した。おそらく内部主体が木槨であったため、達しなかったのだろう。そこで、四基目にあたる近くの小さな古墳を見つけ発掘し、その日の午後五時には室墓の穹窿天井を発見した。今泉技師が現地にとどまり発掘を続け、を積み上げて造られた玄室と前室から、刀、銅鏡、腕輪、指輪、五銖銭、土器などが出土した。この「石巌里古墳」から出土した遺物は、東大建築(東京大学大学院工学研究科建築学専攻を以下東大建築と略す)で保管している。この時が、楽浪古墳の初めての発掘であった。今泉技師は、この古墳の近くで五基目にあたる別の古墳を発掘し、鉄鏡や金銅釦などの遺物を出している。

 帰路の扶餘でも古墳を捜したが、二日間ばかりの短い滞在であったためか、見つけることができなかった。しかし、慶州では府内面西岳里の丘陵端部で横穴式石室の古墳を見つけ調査している。遺骸の頭部の下に石の枕が置いてあったことから石枕塚と名づけられた。なお、ここから出土した高杯の蓋も、東大建築で保管している。また、西岳里の畑中で等身大の弥勒菩薩半伽石像を発見し、頭部と両腕を欠くが、わが国の飛鳥時代の仏像に髣髴していると指摘している。

 この時の調査をもとに「朝鮮文化の遺蹟」(『歴史地理』臨時増刊、一九一〇年)を著している。この著書によれば、慶州には多数の陵墓が分布し、平地に築かれ、外形は小山状で平面が円形のものが最も多いが、まれに瓢形もある。中心に丸石を累積し、その上を薄く粘土で覆い、さらに厚く土を被せる、とあり、木槨には触れていないが、慶州の積石木槨墳と双円墳をほぼ正しく認識しているのがわかる。

 この年、萩野、今西も東京帝国大学の命令により朝鮮に行き、平壌の大同江面古墳(乙)を発掘調査し、室墓であることを確認し、内行花文鏡、金銅釦、金銅耳杯などの遺物が出土した。遺物は東京帝国大学文学部の所蔵となったが、関東大震災の火災で焼失した。



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第三回朝鮮古蹟調査——朝鮮南部——

 一九一〇年八月二二日、「韓国併合ニ関スル条約」が締結され、日本は朝鮮を植民地とした。統治機関として朝鮮総督府がおかれ、寺内正毅が初代の朝鮮総督に就任した。関野の朝鮮古蹟調査は、「史蹟調査」として朝鮮総督府内務部地方局第一課に引き継がれ、さらに強化された。一方、鳥居龍蔵・黒板勝美・今西龍の朝鮮における「史料調査」は、教科書編纂の必要からの調査として、朝鮮総督府学務部編輯課の担当となった。藤田亮策によると、調査には憲兵・通訳・写真師を同行し、史料調査による収集品は朝鮮に残し、史蹟調査による収集品は全部内地にそれぞれ持ち帰ったという[藤田一九三三]。

 一九一〇年一〇月三日、平壌大同江面の古墳群を踏査し、二基を発掘対象として選定し、翌四日より発掘を開始した。東方の古墳は複室室墓で「大同江面東墳」とよばれ、西方の古墳は単室室墓で「大同江面西墳」とよばれる。七日まで掘り続けてもまだ室の床に達しないので、ここの発掘を今泉技師にまかせ、関野と谷井は八日に京城(ソウル)に引き返し、朝鮮南部の調査に出かけた。

 調査地点は多方面にわたり、忠清北道の沃川・俗離山・慶尚北道の星州・伽山・高霊・慶尚南道の昌寧・霊山・咸安・晋州・河東・全羅南道の求禮・全羅北道の南原・全羅南道の谷城・玉果・昌平・光州・羅州・木浦を陸路でまわり、そこから船で全羅北道の郡山にわたり、全州・金溝・益山をまわって、海路で仁川に出て、一二月七日に京城にもどった。京城ではさっそく今泉技師より、大同江面東墳と西墳の報告を受けた。

 今回の調査の特色は、伽耶時代(三国時代)の遺跡を発掘したことである。高霊では、主山城から続く尾根上に五・六基の大きな古墳を確認したがこれは発掘せず、その下にある無数の小さな古墳のうち二・三基を発掘した。昌寧では、発掘こそしなかったものの、盗掘されて露出した古墳を調べ、羨道が付かない長さ六メートルの石槨を確認している。

 晋州では南北に尾根続きとなっている水精峯と玉峯で本格的な発掘を行い、横穴式石室の中からさまざまな遺物を発見した[挿図2]。北の尾根にある水精峯二号墳は、石室の奥左右に二個の木棺を置くための石台が設けられ、その付近から木棺に装着したとみられる鐶座金具が発見されている。ここからは、大刀・刀子・紡錘車・小玉・鉄釘・鉄斧・鐙・蛇行状鉄器[67]・銅鋺のほか、有蓋高杯二点[60]・脚付有蓋長頚壺二点[58、59]・器台[57]などの陶質土器が出土した[挿図3]。その南に位置する水精峯三号墳も、二号墳と同じ構造であるが、石室内には二個の木棺ではなく一個の木棺を想定している。ここからは、大刀二点・鉄鉾三点のほか、有蓋高杯四点・有蓋長頚壺一点・脚付有蓋長頚壺二点・広口壺一点・脚付広口壺一点・器台二点・碗一点などの陶質土器が出土している。南の尾根にある玉峯七号墳は、石室の中から大刀二点・鉄斧二点・石突一点・具一点・釘・鐶座金具(?)蛇行状鉄器・U字形鋤先一点・素質環鏡板付轡・・楕円形鏡板付轡・鉄輪鐙一双のほか、有蓋把手付鉢[61]・有蓋長頚壺[64]・蓋・器台[62]・銅鋺形土器[63上半部]・承盤形土器[63下半部]などの陶質土器が出土している。土器からみて六世紀前半の年代が与えられ、その多くは伽耶の中心に位置する高霊地域からの影響を受けたものである。しかし、水精峯三号墳や水精峯二号墳の器台、玉峯七号墳の有蓋把手付鉢・器台には高霊的ではない百済の影響も認められ、鐶座金具・銅鋺・銅鋺形土器などももとは百済からの影響と考えられる。また、銅鋺や蛇行状鉄器は倭への影響が考えられる遺物であり、六世紀の日韓関係を考える上でも重要な意味をもっている[定森・吉井・内田一九九〇]。


[挿図2]水精峯・玉峯古墳群分布図


[挿図3]水精峯二号墳石室遺物出土状況図

 晋州地域は、これ以降本格的な発掘調査がなされることなく、一九八八年の慶尚大学校による加佐洞古墳群の調査まで待たねばならなかった。

 なお、高霊の古墳や水精峯二号墳・玉峯七号墳の出土遺物は、この時東京帝国大学工科大学に送られ、現在も東大建築が保管している。



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第四回朝鮮古蹟調査——漢王墓——

 一九一一年九月一一日新橋駅を出発し、一三日に京城駅到着。附近を調査したのち、二二日に開城を通って、二四日に平壌に到着した。関野とともに、谷井済一、栗山俊一が同行した。今回の目的は、漢王墓の発掘である。二年前に朝鮮へ調査に来たとき、平壌で白川正治より江東郡馬山面漢坪洞に一つの大きな古墳があることを聞いたが、日程の都合で調査できなかった。その後、萩野・今西が漢坪洞に行って発掘を試みたが、時期が厳寒で土が凍結して作業が困難であったため、ついに玄室に達することができなかった。

 二九日に平壌を出発の予定であったが、降雨のため道路が遮断されて江東方面へ行くことができなかった。そこで、初めの予定を変更して、三和地方の牛山麓へ行くことに決めた。ここに多数の古墳があることは、一九〇九年の調査の時、白川正治氏より聞いていた。二九日、汽車で鎮南浦へ行き、そこからは馬で三和へ出発した。しかし、旅の途中で日没になったため龍岡で一泊を余儀なくさせられた。関野は、宿に来た守田徳龍郡守、粟屋鎌太郎書記より、黄山の麓に多数の古墳があることを聞き、予定をさらに変更して黄山麓に行くことにした。翌三〇日には黄龍山城に上がり、温井里に宿をとり温泉に浴している。一〇月一日には、黄山麓の高句麗時代の古墳を訪れ、『龍岡郡誌』にみえる於乙洞古城の址を探した。

 一〇月に入り、漢王墓の調査を開始しようとしたが、また降雨のため江東方面に行くことはできなかった。この間を利用して江西面遇賢里に行き、かつて地元で古墳の発掘に参加した住民から聞き取り調査を行った。それによれば、古墳の玄室の壁に絵画があったという。この情報は次年度の調査に活かされることになる。

 五日になってようやく、漢王墓の発掘を開始した。しかし、一〇日には古墳の一部が崩壊して、人夫一人が埋没し、二人が膝まで埋まるという事故が起こり、発掘は一時中断せざるを得なくなった。一六日に発掘は再開されたが、その間いったん平壌にもどり、沙里院駅の南約二里半、銀波の西方都墓坪に多数の古墳があることを聞き、ここを訪れ踏査した。その帰り、沙里院駅にもどる途中に線路のそばに大きな古墳(のちに「都塚」と名づけた、鳳山郡嵋山面烏江洞)があるのを見つけ、そこから「漁陽張」という文字が書かれたの破片を拾った。漢王墓の発掘は順調に進み一八日には玄室に達した。持送り天井をもつ石室の天井と壁には漆喰が塗られ、何か描かれていたようであるが、剥落がひどくほとんどわからない。墳丘は二段の方形基壇の上に直径約五四メートルの円形封土をのせた大型古墳で、墳丘上から多くの瓦が出土した[関野貞一九四一]。

 二一日、京城に戻ったのち、谷井済一は再び都塚に行き、発掘を始めた。羨道および左右の耳室を調査し、室を築くのなかに「使君帯方太守張撫夷」という文字が陽刻されたを発見した。玄室は翌一九一二年に調査された。「帯方太守」は、遼東に勢力を張った公孫氏が、二世紀の終わりから三世紀の初めに、楽浪郡の屯有県以南の地に新設した帯方郡と密接な関係があり、この地域を帯方郡治とみなす有力な証拠となっている。

 関野、栗山は、二五日に京城を出発し、二六日に慶州に入り新羅時代以降の史蹟を調査した。一一月二日には大邱に入り桐華寺を調査して五日に出発し、釜山を経て七日に新橋駅に帰ってきた。この年の調査では、百九十枚の写真を撮っている[関野貞他一九一四]。



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第五回朝鮮古蹟調査——遇賢里三墓と朝鮮東部——

 朝鮮総督府より古蹟調査の依頼を受け、一九一二年九月一六日に栗山俊一・谷井済一とともに東京を出発、一八日に京城に到着したのち、二班に分れ、一班は京城から東南東三里にある松坡の古墳を調査し、関野等は二一日に平壌に入った。その後、二三日に江西に入り、今回の目的の一つである遇賢里三墓の発掘に着手した。聞き取り調査によると、大塚と中塚の二基は八年前に郡守が発掘し、大塚から頭骨が出土したので、郡守が持ち帰ったが、悪いことがあったので、もとの場所に埋葬したという。しかし、この頭骨はのちに平壌キリスト教会の学校が持ち帰り、調査時も同校にあるという。骨以外の出土遺物が知られていないことから、郡守の発掘時には、すでに盗掘にあっていたと見てよいだろう。

 遇賢里三墓は江西三墓ともよばれ、大塚は江西大墓、中塚は江西中墓ともいう。

 大塚(乾塚)は発掘開始三日目に、中塚(南塚)は二日目の夕刻に、小塚は五日目の午後になって、横穴式石室の内部に入ることができた。

 大塚は、幅三一二センチ、奥行三一七センチのほぼ正方形の玄室の南壁に羨道がつく横穴式石室で、天井までの高さは三五二センチあり、壁・天井ともに良質の花崗岩を使用する。天井に特徴があり、複雑な構造を持っている。すなわち、壁の上部を二八センチの幅で少し内側に傾け、その上に厚さ二八・三〇センチの平行持送りを二段積み上げ、その上に厚さ二八・二九センチの隅三角持送りを一段積み、その上に平三角持送りを一段積み、最後に一枚の天井石をのせている。ここまではよくみられる構造であるが、壁上部や下段の平行持送りの隅を切ったり、三角持送りが丸く彎曲している点などは穹窿天井を意識したものとみなせる。玄室の内部左右に石床が二つあることから、複数の埋葬が考えられる。盗掘にあっており、副葬品はない。

 壁画は、赤・緑・黄・白などの彩色で、壁面に直接描かれる。北壁に玄武、東壁に青龍、西壁に白虎、南壁は入口周縁に忍冬文、左右に朱雀が描かれる。天井は下段平行持送りの側面に忍冬文、上段平行持送りの側面に天人・飛雲・神仙・山岳を、下面に忍冬文や蓮花文を描く。隅三角持送りの側面には忍冬文と麒麟を、下面に蓮花および忍冬文と双鳳を、平三角持送りの下面には蓮花忍冬文や双鳳を、最上段の一枚石には雲龍文を描いている[挿図4]。


[挿図4]遇賢里大塚玄室(奥から入口をみる)

 中塚は、幅三〇九センチ、奥行三二四センチのほぼ正方形の玄室に、長さ六九二センチの長い羨道がつく横穴式石室であり、壁・天井ともに花崗岩を使用する。天井までの高さは二五八センチと、大塚に比べて低いが、これは天井構造の違いによる。玄室の四壁は、いずれも一枚石よりなり、天井は二段の平行持送りの上にすぐに一枚石をのせる低い構造となっている。床は三枚の大石よりなるが、大塚のような石床はなく、木棺の小さい破片が朱漆の破片とともに散乱していた[挿図5]。


[挿図5]遇賢里中塚石室実測図

 壁画は壁面に直接描かれる。北壁に玄武[53]、東壁に青龍[51]、西壁に白虎[52]、南面入口の左右には向かい合う朱雀[55、56]が描かれる。天井は、下段平行持送りの側面には美しい忍冬文、上段平行持送りの側面には一種の忍冬文、その下面には一種の火炎状の奇なる文様がある。天井の一枚石は中央に蓮花、南北に鳳凰が描かれ、東に太陽、西に太陰の象徴がある[54]。太陽は円内に黒い三足鳥を、太陰は奇妙な蟾蜍を描き、さらに四隅に蓮花および忍冬文を描く。

 小塚は、奥行三三六センチの玄室で大塚と似た天井構造をもつが、壁画はなく、玄室内より人骨、木棺の残片、黒漆片が発見された。

 壁画の存在は前年に知られていたので、あらかじめ李王家博物館と連絡を取り、同館の小場恒吉、太田福三郎に模写してもらった。両氏は、約七十日間をかけて大塚と中塚の壁画を模写した[関野貞一九一三]。この模写は軸装されて、東大建築に大切に保管されている。

 遇賢里での調査の際、江西郡鶴材面肝城里で、すでに発掘されて玄室に出入りできる古墳があることを聞き、現地に行って調査した。天井に大きな蓮花文を描いてあるので肝城里蓮華塚と名づけられた。

 二八日に江西を出発し平壌にもどり、二九日には平壌を発ち京城に着いた。ここでしばらく滞在し、一〇月三日午後、寺内正毅に面会している[山本一九八〇]。四日には総督府専売局長上林敬次郎からの電報で、梅山里狩塚に壁画があることを知る。この壁画の内容については、この年日本に帰ってから壁画の写真と模写の一部を見て、遇賢里より古いことを確かめた。関野の調査は、つねに前年の情報が次年度の調査に活かされ、梅山里狩塚も次年度に調査されることになる。

 五日に京城を発ち、この年はいままで行っていない江原道を中心に、忠清北道や慶尚北道の内陸部をまわった。江原道の春川・金剛山長安寺(淮陽郡)・金剛山表訓寺(淮陽郡)・金剛山正陽寺(淮陽郡)・金剛山楡岾寺(高城郡)・金剛山新渓寺(高城郡)・高城・乾鳳寺(杆城郡)・洛山寺・襄陽を経て、一〇月二八日には江陵に到着した。

 江陵では、客館臨瀛館の正門、中門、烏竹軒、普賢寺、朗圓國師塔碑などの古建築調査のほか、楓湖の東北にある砂丘の上に立地する古墳の調査も行った。古墳は、砂丘という立地条件のため封土はほとんど風で飛ばされ、竪穴式石槨が露出していた。石槨は、大きいもので長さ五・八メートル以上、幅約〇・八メートル以上あり、有蓋高杯・長頚壺・脚付長頚壺などの陶質土器のほか、紡錘車・鉄斧なども出土している。現在、関野の調査した古墳も含めてこの一帯を下詩洞古墳群とよんでいる。この地域は、文献の上では族の居住地とされるが、陶質土器をみると、五世紀の段階で新羅の影響を強く受けているのがわかり、考古学的に重要な地域といえる。その後の下詩洞古墳群に対する調査は、一九七〇年の文化財研究所による調査まで待たねばならなかった[早乙女一九九七]。

 一一月二日に江陵を出発し、五台山月精寺・原州・驪州(京畿道)・忠州(忠清北道)・豊基(慶尚北道)・順興・小白山を経て浮石寺・栄川・太子山・奉化・太白山覚華寺・禮安・安東・醴泉・咸昌・尚州・金泉と調査し、一二月一六日に東京にもどった[挿図1]。



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第六回朝鮮古蹟調査——双楹塚と朝鮮北部——

 一九一三年の調査は、関野貞・栗山俊一、今西龍・谷井済一が、二班に分かれて行った。

 今西・谷井は鳳山郡の調査をした後、九月二三日には、一九一一年の調査時に注目していた平壌の大同江畔の土城を踏査して、城壁を確認し漢式瓦片を採集した。

 関野・栗山は、昨年の情報をもとに鎮南浦府大上面梅山里にまず行き、梅山里狩塚(四神塚)を調査したのち、花上里龕神塚、花上里星塚の古墳および壁画を調査した。いずれも持送り天井を持つ壁画古墳で、壁・天井は漆喰を塗った上に人物や四神像が描かれている。

 二六日には、龍岡郡眞池洞にある双楹塚と安城洞大塚の二基の古墳を発掘した。前室と玄室をもつ複室構造の壁画古墳であり、壁画にも斗・蟇股などの建築部材がみられる。この時とられた梅山里狩塚と双楹塚の壁画模写は、東大建築に保管されている。

 古墳の発掘中、鎮南浦発行の地元新聞に、関野博士が龍岡に行くと誤って載ったため、粟屋鎌太郎書記が親切にも馬で迎えに来た。関野はその好意を断るわけにはいかず、今西を龍岡に派遣した。今西は、於乙洞土城で漢式瓦を探すが、平瓦以外発見できないので、面長に何か情報はないかと尋ねたところ、近くに古碑があるという返事をもらった。すぐに古碑のところに行き、よく観察すると古調を帯びていることを認めたが、夕方になったためいったん宿に帰った。翌日再び現地に行き拓本を採った。関野は平壌の宿舎でこの拓本をみて、書体が漢隷であること、「蝉」の文字が読めることがわかり、他の文字も大半が読むことができた。これが、蝉碑の発見であり、楽浪郡のなかの蝉県の位置を決める重要な役割をはたし、於乙洞土城が蝉縣治址と推定された[挿図6]。なお、白鳥庫吉も一カ月前に、富田儀作の案内でこの碑の拓本を採って帰られたが、多忙のためまだ研究していなかった。


[挿図6]蝉碑

 三〇日に関野等の一行は平壌から大同江を船で下り、今回、今西・谷井が踏査した土城を訪れ、城壁の遺存を確認し、多数の漢式瓦を採集した。そして、ここを楽浪郡治址と推定した[関野貞他一九二七]。一〇月八日には、平安南道大同郡大同江面梧野里で、漢城鉱業会社電力部発電所の煙突基礎工事の際に、地表より三・三メートル掘ったところで、一基の木槨(梧野洞古墳)が発見された。直ちに、平安南道道庁技手深田九馬三が、現地に行き遺物を採取した[朝鮮総督府一九一五]。

 一〇月には安州・煕川・江界をへて鴨緑江を渡り、奉天省の輯安に行き、太王陵・将軍塚・千秋塚・西大塚・臨江塚・広開土王碑・通溝城・山城子山城などを十一日間かけて調査した。広開土王碑に関しては、第III面の第一行目を確認し、現地での聞き取り調査で、十年ほど前から文字の周囲に石灰を塗り、以来毎年石灰で補修したことを聞き出している。また、将軍塚を広開土王の陵墓とみた。太王陵・千秋塚・将軍塚の墳丘から収集された輻線蓮花文軒丸瓦や銘文は、東大建築に保管され、高句麗の王陵を比定する重要な資料となっている[浜田一九八七、谷一九八九]。いったん江界にもどったのち、牙得嶺・黄草嶺をこえて咸興に出て、その後、一一月に咸鏡南道安辺郡衛益面(現・江原道)上細浦洞夫婦塚と上細浦洞西塚を調査した[挿図1]。

 平壌にもどると、一二月六日に蝉碑を訪れ、私費を投じて雨覆を造らせた。梧野洞古墳の調査をした深田技手からは一〇月の調査の詳細を聞き、道庁保管の木槨、木棺の残材や出土品を調査し、楽浪郡時代の古墳に木槨式があることを初めて知った[関野貞他一九二七]。


 四年間にわたる朝鮮での古蹟調査の成果にもとづき、寺内総督は『朝鮮古蹟図譜』の刊行を計画し、関野貞の方針により谷井、栗山が編纂した。一九一五年に刊行をはじめ第一冊から第四冊が一九一六年三月に完成した。この功績により編者である関野貞は、一九一七年にフランス学士院からスタニス・ラス・ジュリアン賞を受けた。『朝鮮古蹟図譜』は一九三五年六月になってようやく最後の第十五冊目が出来上がった。



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第七回朝鮮古蹟調査——扶餘と慶州——

 一九一五年七月、朝鮮総督府の依頼を受け、谷井済一、後藤工学士と扶餘の遺蹟を踏査、ここで六日間を過ごした。黒板勝美は、数日前より扶餘に来ていて、王陵と思われる陵山里の六基の古墳のうち、最も大きな中下塚と最も小さな西下塚を発掘した。中下塚は、蒲鉾天井をもつ横穴式石室で、玄室の壁と天井には漆喰を塗っている。西下塚は、平天井の横穴式石室で、短い羨道をもつ。いずれも盗掘にあっており、遺物はほとんど残っていない。関野は中下塚につぐ大きさの中上塚を発掘した。やはり盗掘されていたが、冠の金具と思われる金銅製透彫金具と八花形の大小の金具十数枚を発見した。玄室は長方形で、左右の壁の上には、斜めに面取りされた持送り石が一段のり、その上に一枚の大きな天井石がのる平天井型式である。残りの三基は一九一七年に谷井済一により発掘され、そのうちの東下塚から四神や蓮花文などの壁画が発見された[谷井一九二〇]。ここから東方に約八町離れた陵山里古墳群の床塚、割石塚、横穴塚の三基も発掘した。横穴塚は、花崗岩の崩壊した山腹にトンネル状に横穴をあけた珍しい型式である。

 忠清道長官小原新三の誘いによって、公州に一泊の予定で行き、公山城を踏査した。長官は部下に命じて古墳を捜させ、いくつか報告されたが、関野は、日程の都合で発掘調査を見あわせた[関野貞一九一五]。

 七月、谷井とともに慶州皇南里の剣塚(一〇〇号墳)を発掘した。直径四四・五メートルの円墳で、掘り下げた床面より一・二メートル上から、鉄剣、鉄矛、陶質土器が出土した。墳丘規模が、王陵と考えられる天馬塚に匹敵するにもかかわらず、金製品が出土していないのは、発掘がまだ木槨の床に達していない可能性がある。


 一九一五年に景福宮で総督府施政五年記念物共進会が催され、その時古美術陳列のために建てた建物を総督府博物館として、この年の末に開館した。歴史博物館として石器時代から朝鮮時代までの発掘品や史料のみを陳列し、美術工芸品はその時代の代表的なものをならべた。博物館設立とともに、内務部第一課の史蹟調査と学務部編輯課の史料調査を総務部総務課に移し、博物館がその事業にあたった。博物館は陳列のほか、古蹟の発掘調査、保存修理、登録指定、埋蔵物の処理などの事務も行い、朝鮮の遺跡・遺物に対する全責任をおうことになった。

 一九一六年七月「古蹟及遺物保存規則」を発布し、古蹟調査委員会、博物館協議会の制度を定めた。最初の古蹟調査委員には総督府の関係官以外に、関野貞、黒板勝美、今西龍、鳥居龍蔵の日本側の学者が依嘱され、朝鮮側では小田省吾、浅見倫太郎、工藤壮平、劉猛、柳正秀、具羲秀がなり、小田幹治郎が幹事となった。古蹟調査も次の三つに分けて整理され、以降毎年『古蹟調査報告』が刊行された。

一般調査-遺跡・遺物の所在を知り、この保存の要否を決める。
特別調査-発掘その他の特殊な調査。
臨時調査-臨時の調査。

 一九三一年には、谷井済一、馬場是一郎が加わり、一九三二年には浜田耕作、原田淑人、池内宏、梅原末治が新たに委員となった。日本国内でも、一九一七年に史蹟名勝天然記念物保存法が制定され、内務省に同保存委員会ができた[藤田一九三三]。



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第八回朝鮮古蹟調査——楽浪と高句麗——

 一九一六年九月、関野を主班として、谷井・栗山、そして新たに木場恒吉・小川敬吉・野守健が加わり、楽浪郡と高句麗の遺蹟、遺物を中心に調査した。二一日に京城を発ち、平安南道に向かい、大同郡、龍岡郡、順川郡を調査して、二二日に平壌に到着した(栗山は一〇月六日に到着)。翌二三日には、大同江面の古墳群を踏査し、貞柏里と石巌里あわせて十基の古墳を発掘することに決めた。

 二四日に発掘を開始し、小場恒吉、小川敬吉、野守健、栗山俊一が分担して発掘主任となった。十基とは、貞柏里一号・二号・三号・一五一号・一五三号、石巌里六号・九九号・一二〇号・九号・二五三号である。一〇月二三日に発掘は終了し、二四日は出土品の整理と荷造りを行い、二八日には貞柏里と石巌里の古墳群の調査を完全に終結させた。

 次に大城山下の高句麗時代の古蹟調査の準備に移った。大城山麓では古墳六基を発掘調査し、大同郡柴足面魯山里鎧馬塚と大同郡柴足面湖南里四神塚の二基が壁画古墳であった。

 一一月に順川郡北倉面松渓洞の天王地神塚を調査した。壁画古墳で、天井は類例のない極めて奇巧な構造をもつ。写真をとったのち直ちに面長に命じて、入り口を閉塞させた。

 一五日からは海雲面葛城里甲古墳の外形測量に着手し、午後からは南方より発掘を開始した。一七日午後三時ころに約二・一メートル下から木材の腐朽した跡を発見し、一八日に壙の範囲を検出し、二〇日に壙床をあきらかにした。二一日には、木棺の痕跡と甕や壺の位置を実測し取り上げた。轡、車軸頭、斧、槍、剣が出土し、二三日に発掘が終了した。

 二三日から龍岡郡龍月面葛里古墳を調査し、室墓の痕跡二基を確認し、二八日に帰任した。今回の調査では、五百四十三点の蒐集品と写真二百四十八枚を撮った[関野貞一九一七]。

 この年、黒板勝美も八月二三日から九月一一日までの間、黄海道・平安南道・平安北道を踏査し、龍岡、安州、殷栗等で新しく古墳を見つけた。また、今西龍、鳥居龍蔵も古墳調査を行った。



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第九回朝鮮古蹟調査——高句麗の積石塚——

 一九一七年六月一一日に京城を発ち、一二日に平安北道雲山郡に到着し、谷井済一と合流した。今回は平安北道の楽浪郡時代と高句麗時代の遺跡、遺物の調査を目的とした。

 平安北道雲山郡東新面の龍湖洞古墳(積石塚・封土墳)、平安北道雲山郡委延面克城洞の萬里城、平安北道渭原郡渭城面の萬戸洞古墳群(積石塚・封土墳)、徳岩洞古墳(積石塚)、平安北道渭原郡密山面旧邑洞の舎長里古墳(積石塚・封土墳)、平安北道渭原郡西泰面の新川洞古墳(三十基あり、第三号墳と第六号墳を発掘、いずれも積石塚)を調査したのち、鴨緑江を渡った。対岸の奉天省輯安県では、融和堡高子墓子東山谷で地形と付近の古墳群などを調査した。再び鴨緑江を渡って、平安北道楚山郡に戻り、郡面雲海川洞古墳群を調査(百五十七基あり積石塚と封土墳が混在するが、ほとんどは積石塚、甲乙丙丁の四基を調査)して、再び鴨緑江をわたり、輯安県の冲和堡外岱溝門子の地形、古馬領高麗墓子の古墳群などを調査して、七月一五日に京城にもどった[関野貞一九二〇]。



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第十回朝鮮古蹟調査——楽浪郡治址と金冠塚の発見——

 一九一八年二月から一九二〇年五月まで、イギリス・フランス・イタリア・支那・印度を外遊している間に、朝鮮では一九一九年三月一日に独立運動がおこった。

 一九二一年九月、慶州で居酒屋の裏庭で増築工事中に、金製品を始めとする遺物が大量に発見された。そこで急遽、関野、浜田耕作、梅原末治が慶州に集まり、対策を検討した。この古墳がのちに金冠塚と名づけられ、黄金の冠が出土したことで有名になった。一〇月になると、関野、小川、野守は楽浪郡治址(一九一三年に調査した大同江畔の土城)を調査し、山田治郎蒐集の楽浪郡時代の遺物を調査した。

 一九二一年の慶州金冠塚の発見は、朝鮮における古蹟調査の体制に見直しを迫るものであった。これをきっかけに同年、以下のような組織変更をおこなった。朝鮮総督府学務局に古蹟調査課を新たに設け(小田省吾課長、以下鑑査官、属、技手)、博物館と古蹟調査をそのもとにおいた。それについて考古学専攻の職員を四名採用した。藤田亮策は博物館主任に、梅原末治は調査担当、小泉顕夫は博物館と古蹟調査を担当した。一方、古蹟調査事業では、小田幹治郎幹事、谷井済一、馬場是一郎委員にかわり朝鮮側では鮎貝房之進、末松熊彦、藤田亮策が委員となった。しかしこの体制は、一九二四年末の行財政整理により消滅した[藤田一九五三]。



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その後の朝鮮古蹟調査

 一九二二年五月に第十一回朝鮮古蹟調査が行われ、咸鏡南道永興の所羅里で土城を発見した。出土した瓦や土器からみて、玄菟郡の時代のものであろうと推定した。

 一九二三年に第十二回朝鮮古蹟調査が行われた。この年の一〇月、京城で公州尋常高等小学校の敷地内から、六月に工事中、地下約一・五メートルのところから多数のが出土したことを聞いた。そこで二九日に京城を出発し、鳥致院駅で下車し、自動車を走らせて道庁に行き、知事の金寛鉉に面会したのちすぐに現地に向った。出土状態は、まず一番下に梯形のを丸く並べ、その上に二重にを敷き並べてあり、円の直径は約一・五メートルで中心には灰黒色の壺が置かれていた。は長方形と梯形の二種類あり、蓮花文、銭文、格子文などの文様と「急使」「中方」の銘があるがみられた[関野貞一九二四]。一九三三年に発掘された公州宋山里六号墳は、これと同様のでもって玄室が築造されており、の文様からみて中国南朝の梁との関係がうかがえる。

 一九二四年一〇月には、第十三回朝鮮古蹟調査を平壌で行い、小場恒吉が発掘している古墳を視察した。一九二五年一〇月には、第十四回朝鮮古蹟調査を平壌で行い、東京帝国大学文学部(黒板勝美、村川堅固、原田淑人)が発掘調査している王肝墓(石巌里二〇五号墳)を見学した。総督府からは、小泉顕夫、田沢金吾が実際の発掘者として参加した。一九二六年一〇月には、第十五回朝鮮古蹟調査を行い、平壌で高句麗遺跡を踏査した。

 関野貞は、一九二八年に東京帝国大学を停年退官し、建築学講座の後任は藤島亥治郎が引き継いだ。

 一九二九年に義和団の賠償金で東方文化学院東京研究所が設立されると、大陸建築の歴史的研究を担当し、一九三〇年の支那(南京)調査、一九三一年の支那(河北、山西、北京)調査、一九三二年一〇月の支那(満洲)調査、一九三三年一〇月の支那(熱河)調査と停年後は精力的に中国関係の仕事をこなした。

 一方、朝鮮では一九三一年総督府の財政緊縮政策により、古蹟調査事業は困難に直面した。そこで、博物館に外郭団体をつくり資金を外部に求めることになり、八月に朝鮮古蹟研究会が生まれた。研究会の理事長には政務総監を推薦し、黒板勝美・小田省吾・浜田耕作・原田淑人・池内宏・梅原末治および学務局長を理事とし、総督府博物館内に事務所を置いた。会の調査活動資金は、岩崎小弥太、細川護立からの寄付金、日本学術振興会補助金、宮内省や李王家からの下賜金のほか、事業家や文化人の援助を受けた。しばらくして慶州の博物館内に慶州研究所(有光教一研究員、助手一人)を置き、平壌には平壌研究所(小場恒吉研究員、小泉顕夫研究員、のちに田沢金吾が加わる)を置いた。一九三五年からは扶餘の陳列館内にも百済研究所を置いた[藤田一九五三]。

 一九三三年八月「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」が発布され、一二月に同保存会官制と施行規則その他が定められた。これによる保存会委員には、日本側から関野貞、黒板勝美、浜田耕作、原田淑人、池内宏、梅原末治のほかに藤島亥治郎、天沼俊一が加わり、朝鮮側では藤田亮策、小田省吾、鮎貝房之進、小場恒吉、崔南善が委員になった。

 一九三五年七月七日、国宝調査のため関西に出張中、一三日に病を得て調査途中で帰宅し、盂蘭盆を済ませてから一五日東京帝国大学附属病院に入院した。そして二九日午後九時二五分、急性骨髄性白血病で永眠された。享年六十八歳であった。翌一九三六年秋には楽浪郡治址の土城の土塁の一角で、関野貞博士記念碑の除幕式が挙行された[関野克一九七八]。

 関野貞が朝鮮・中国の調査に当って収集した瓦、、土器、拓本および乾板は、東大建築で保管されている[稲垣一九八〇]。




【参考文献】

稲垣栄三「関野貞 一八六七−一九三五」『第十七回展示 先駆者の業績』、東京大学総合研究資料館、一九八〇年
早乙女雅博「三国時代・江原道の古墳と土器」『朝鮮文化研究』第四号、一九九七年
定森秀夫・吉井秀夫・内田好昭「韓国慶尚南道晋州水精峯二号墳・玉峯七号墳出土遺物」『京都文化博物館紀要・朱雀・第三集』、一九九〇年
関野貞「韓国・慶州に於ける新羅時代の遺蹟」『東洋協会調査部学術報告』第一冊、一九〇九年
関野貞「朝鮮江西に於ける高句麗時代の古墳」『考古学雑誌』第三巻第八号、一九一三年
関野貞他「朝鮮古蹟調査略報告」『大正三年度古蹟調査略報告』、朝鮮総督府、一九一四年
関野貞「百済の遺蹟」『考古学雑誌』第六巻第三号、一九一五年
関野貞「平安南道大同郡順川郡及龍岡郡古蹟調査報告書」『大正五年度古蹟調査報告』、朝鮮総督府、一九一七年
関野貞「平安南道及満州高句麗古蹟調査畧報告」『大正六年度古蹟調査報告』、朝鮮総督府、一九二〇年
関野貞「公州新出土百済時代の」『建築雑誌』第四五三号、一九二四年
関野貞他『楽浪郡時代の遺蹟』古蹟調査特別報告第四冊、朝鮮総督府、一九二七年
関野貞「平壤付近に於ける高句麗時代の墳墓及び絵画」『朝鮮の建築と芸術』、岩波書店、一九四一年
関野克『建築の歴史学者・関野貞』、上越市立総合博物館、一九七八年
谷豊信「四、五世紀の高句麗の瓦に関する若干の考察」『東洋文化研究所紀要』第一〇八冊、一九八九年
谷井済一「京畿道廣州・高陽・楊州・忠清南道天安・公州・扶餘・青陽・論山・全羅北道益山及全羅南道羅州十郡古蹟調査畧報告」『大正六年度古蹟調査報告』、朝鮮総督府、一九二〇年
朝鮮総督府『朝鮮古蹟図譜』第一冊、一九一五年
浜田耕策「高句麗の故都集安出土の有名」『日本古代中世史論考』、吉川弘文館、一九八七年
藤田亮策「朝鮮考古学略史」『ドルメン』第二巻第四号満鮮特集号、一九三三年
藤田亮策「朝鮮古蹟調査」『古文化の保存と研究』、黒板博士記念会、一九五三年
山本四郎編『寺内正毅日記 一九〇〇−一九一八』、京都女子大学研究叢刊五 同朋舎、一九八〇年



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51-56-遇賢里乾塚壁画、模写、朝鮮民主主義人民共和国、六−七世紀、建築史部門
51-青龍、一八八×三三三cm
52-白虎、一九〇×三二八cm
53-玄武、一八四×三二二cm
54-天井、一八八×一八四cm
55,56-朱雀(左右)、一九六×一〇一cm
石室内部の壁画を展開したもの。上方が石室の入り口に相当する。挿図4を参照

57-器台、土器、大韓民国、慶尚南道晋州水精峯二号墳、六世紀、高さ四六・三cm、建築史部門


61-合子形土器、土器、大韓民国、慶尚南道晋州玉峯七号墳、六世紀、高さ八・六cm、蓋径一五・五cm、建築史部門


63-大形器台、土器、大韓民国、慶尚南道晋州玉峯七号墳、六世紀、高さ三五・〇cm、博物館建築史部門


67-銅鋺形土器、土器、大韓民国、慶尚南道晋州玉峯七号墳、六世紀、高さ七・六cm、建築史部門




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