[The University Museum]

契丹文字


中国は漢代以来東アジア文化の中心であった。 その文化を移植した重要な媒体が漢字である。 唐代は漢字文化圏の中で新しい文字が生まれる時期でもある。 ツングース系の契丹人が一国家を建てて漢字に対応しつつ、 しかも漢字に似せた契丹文字を作り、 日本では仮名文字が編み出された。 宗代になると、ウィグルの国家によって西夏文字が作られ、 後にベトナムではチュノムが作られ、 明代には東北の女真人が女真文字を作った。 しかし、これらの使用時期は短く、日本の仮名文字以外は永続しなかった。

遼の太祖は、漢文化に対する民族的自覚の上から、 自国の文字を作ることを考えた。 「遼史」本紀によると920年にまず大字を作り、 ついで、その弟がウィグル人からその言語文字を集得して、 924〜925年頃に小字を作ったという。 これが契丹文字の起こりだった。 この契丹文字の解読の研究は行われてはいるが、 未だ完全な解読には成功していない。

[道宗皇帝哀冊 (契丹文) の画像]
道宗皇帝哀冊 (契丹文)

展示品名 道宗皇帝哀冊 (契丹文)
大きさ 1550×1800mm
所蔵 東京大学東洋文化研究所

上の画像は、道宗皇帝の哀冊の文章で、契丹文漢文とで 全く同様の内容が書かれていると思われる拓である。

[道宗皇帝哀冊 (漢文) の画像]
道宗皇帝哀冊 (漢文)

展示品名 道宗皇帝哀冊 (漢文)
大きさ 1550×1800mm
所蔵 東京大学東洋文化研究所

契丹文字とは契丹語 (死語) を表記した遼王朝の文字である。 表意文字である契丹大字と、 表意字形と表音字形を混用する契丹小字がある。 大字は920年前の創案であり、小字は924年か925年の創作と推定されている。 小字の解読は比較的進んだものの、 なお音価の不明な字形が多く全体は依然として未解読のままである。 上の画像に示された拓本は墓誌の一種で、 遼の第8代皇帝であった道宗のもの (1101年) である。 契丹小字漢字で同じ内容が記されている。

その他にも、本学東洋文化研究所には、 道宗皇帝篆蓋の漢契両文の対応したもの、 宣い皇后哀冊の漢契両文の対応したものなど、 漢文契丹文字と対をなす資料が複数存在する。


[編者注] この展示内容に関する最新情報や関連資料等は、随時、 東京大学総合研究博物館のインターネットサーバ上の以下のアドレスで 公開、提供していきます。

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